ディアマント・ギフト

    作者:佐伯都

     冴え凍るような真冬の月の下、白壁が寒々しい廃墟が横たわる。
     もう顧みられなくなって長いのだろう、曇りの目立つ破れたガラス窓、注射器、雨風に汚れたベッド。手術室の床に散乱するカルテ。
    「自軍の消耗と戦力差を省みず、単独で突出――状況を打開するには闇堕ちしかなかったが」
     そのカルテの中、インクも流れて容易には判読できない一枚を拾い上げる異形の美貌の女。
    「獲物は逃げた。……『お前の闇堕ち』に意味はあったか?」
     美女の足元をずるりと竜頭がうごめいた。結晶化した銀のドレスの腰のあたりから、スカートのように薔薇の花弁が折り重なる。
    「お前が躊躇せず即堕ちていれば、被害は減らせたろうがね」
     竜頭はその薔薇の花の下から目を光らせていた。
     何か申し開きは? と尋ねつつ、唇の端をつりあげるように女は嗤う。彼女が見据える闇の先には誰一人、語りかけるべき相手はいない。
     ただ埃に汚れた、斜めにヒビの入った大きな鏡があるばかり。
     しかし女、『ハートレイ』の目には、力なくうなだれる銀髪の少女の影があった。

     ――何もありません。何も。
     すべては私の判断ミス。
     灼滅者の、ニンゲンとしての矜持を捨ててまで闇堕ちにすがった結果。それがこれでは、あまりに無様すぎる。
     ですが、すべてを失ってもなお生き恥を晒し続けたガラクタの末路には、いっそふさわしい――。
     
    ●ディアマント・ギフト
    「先日のカンナビス灼滅に大いに貢献したものの、闇堕ちし姿を消したシャノン・リュミエール(石英のアルラウネ・d28186)の行方が掴めた」
     成宮・樹(高校生エクスブレイン・dn0159)は手元のルーズリーフに視線を落とし、小さく息を吐く。
    「ただ、あまり状況がよくない。場所は崩壊した病院の廃墟、一番奥にある手術室跡」
    「……狭い、ってことでしょうか」
     緊張した表情でそう呟いた松浦・イリス(ヴァンピーアイェーガー・dn0184)に、樹はすぐには否とも応とも言わなかった。
    「主力が立ち回る分には問題ない。ただ、それ以上は厳しい。場所以外の理由もあるけど、それは後で説明する」
     闇堕ち人格はハートレイと名乗っており、外見は能力開放時のシャノンと酷似している。
     しかし上半身は18歳ほどの美女。水晶化した銀色のドレスを纏っており、ちょうど腰のあたりから薔薇の花に変化している。そしてスカートのように広がる花弁の中は、脚ではなく竜の首。
     戦闘となれば両腕から水晶の剣を生やし、竜の口から光線を吐いたり、薔薇から伸びる触手での吸血などを行ってくるはずだ。
    「性格は完璧主義者で効率優先だから、弱った者から確実に血祭りに上げようとするだろう。広さも限られている以上、8人でどうカバーしあうかが重要になる」
     そしてハートレイは『怒りにまかせて無謀な突撃をしたあげく取り逃がし、無益な闇堕ちをした』シャノンを責め立てており、 彼女もそれを認め殻に閉じこもっている。
    「あの、ちょっといいですか。それ、違ってますよね?」
     唇に指を当てて一瞬考え込み、イリスは慎重に言葉を選んだ。
    「一連の報告書は読みましたけど、シャノンさんの班が四人闇堕ちしてまでカンナビスを追いこんだからこそ、灼滅という結果に繋がったはずです……よね」
     確かに引き金は怒りだったかもしれない。
     確かにその場は今一歩足らずカンナビスに逃げられただろう、でも。
     カンナビスを追い詰めたシャノン達の班はむしろ灼滅という最良の結果を引き寄せる、最善の行動をしたと言っていい。
     決してハートレイの主張通り、シャノンの選択は無益ではなかったのだ。
    「松浦が言ってくれたけど、広さ以外のよくない状況ってのは、その事。シャノンの選択は無益ではない――問題はそこを当人が思い違いしてる、って点」
     それをシャノンに理解させられれば、ハートレイの術中から逃れる助けになるだろう。
    「救出するにしろ、それが無理で灼滅するにしろ、一度ハートレイを倒す必要はある。でもそれ以上に、どうシャノンの心を救うかが問われると思ってほしい」


    参加者
    長沼・兼弘(キャプテンジンギス・d04811)
    斎藤・斎(夜の虹・d04820)
    村本・寛子(可憐なる桜の舞姫・d12998)
    分福茶・猯(不思議系ぽこにゃん・d13504)
    カンナ・プティブラン(小学生サウンドソルジャー・d24729)
    タロス・ハンマー(ブログネームは早食い太郎・d24738)
    アンゼリカ・アーベントロート(黄金奔放ガール・d28566)
    牧原・みんと(象牙の塔の戒律眼鏡・d31313)

    ■リプレイ

    ●ディアマント・ギフト
     闇の深淵に堕ちて何もかも失った、そう認識する自我の消失さえ時間の問題。
     身体はとっくに別のどこかの誰かのもの。獲物を取り逃がしたあげく行方は知れず、二度と取り返しのつかない事をしてしまった。こんな失態、決して赦されない。
     赦されようはずもない。ありえない。決して。絶対に。――
    「赦されるか赦されないかはさておき……はてさて、わしらの勘定はどこに行ったのかの」
     かしかしと頭を掻き、分福茶・猯(不思議系ぽこにゃん・d13504)は廃墟を前にして嘆息する。
     山中の奥深くで忘れ去られ、雨風に打たれ朽ちるにまかされた廃病院。灼滅者達はトタン板が打ち付けられた入り口をこじあけ、内部へ入る。
     世の中、死んでも決して赦されないだなんて事はそう考える当人が思うほど多くはない。彼女が生きてきた世界は厳しかったのかもしれないが、世界には暖かい側面だってたくさんある。
     選択を後悔することなんて、誰しもよくある事だ。そして選択の誤りが理由で本当に取り返しがつかなくなる、ということは実は存外少ない。
    「そうやって冷静に、順序立てた思考をさせないのがこのダークネスのもくろみなのでしょうか」
    「難しい話はよくわからん。でも私はシャノンの友達だ、私達がいる以上は『すべて失った』なんて絶対言わせない」
     牧原・みんと(象牙の塔の戒律眼鏡・d31313)を肩越しに振り返り、アンゼリカ・アーベントロート(黄金奔放ガール・d28566)は勢いよく右手の拳を突き上げた。
    「ま、よく分からないがとにかくダークネスはぶっとばーす!」
    「いつまでもダークネスに好き勝手させるわけには行かないしな。俺でさえ戻って来られたんだ、シャノンにだってできるさ」
     タロス・ハンマー(ブログネームは早食い太郎・d24738)には、自己を形作るような幼少の記憶がない。大切な思い出や両親の面影、故郷の風景すらわからなかった。
     ごく限られた量の記憶は、そんな身元もいまいち判然としないタロスを保護してくれた、老夫婦の暖かい笑顔で彩られている。それまで生きてきた世界を何一つ覚えていなくたって、戻ってくることはできた。
    「シャノン殿のおかげで妾も、義父上と再び会う事ができたのだからな」
    「うんうん、シャノンちゃんの戦いは無駄じゃなかったの!」
     カンナ・プティブラン(小学生サウンドソルジャー・d24729)の呟きに村本・寛子(可憐なる桜の舞姫・d12998)が力強く首肯する。
     実のところ、個人的な接点のない斎藤・斎(夜の虹・d04820)はシャノンの事はよく知らなかった。しかし彼女の選択と行動が決して無意味ではなく、カンナビス灼滅という大きな益をもたらすきっかけになったことは、純然たる事実として知っている。
     カンナビスを追い詰めた四つの矛、そのうちの一人がシャノンだ。もし彼女が覚悟を決めて挑まなかったとしたら、哀れな、病院出身の灼滅者たちは今もなお死して辱めを受ける立場だっただろう。
    「己れ自身にメスを入れた人造灼滅者の魂が、ガラクタなはずはない」 
     がつり、と長沼・兼弘(キャプテンジンギス・d04811)が己が拳を打ち合わせた。一行の行く手がよく見えるよう、携行ランタンを高く掲げた松浦・イリス(ヴァンピーアイェーガー・dn0184)の前方。
    「それは塵芥ではなく、黄金の心か、金剛石の魂だろう。違うか? 『ハートレイ』」
     特徴のある入り口がくろぐろと口を開けている。そしてその最奥、背中を向けるように異形の女は待っていた。

    ●ダイヤモンドの賜死
     斎のライトで照らされた半人半竜の女が、ゆっくりと振り返る。
     能力を開放したシャノンに酷似していて、それでいて決定的に違っている、矛盾した違和感と奇妙な一致。砂が薄く積もった硬質の床を滑るように動き、シャノン――いや、ハートレイは唇の端を軽く上げた。
    「ガラクタがガラクタを呼んだか」
    「カンナビスは倒されました」
     開口一番、みんとは強い視線と口調で言いきる。
     恐らくハートレイは知らないだろうと予想していたものの、やはりカンナビス灼滅の事実は知らなかったようだ。ほんのわずか、不快そうに彼女は眉根を寄せる。
    「シャノンさんをはじめ闇堕ちした方はいるとは言え、死亡した学園生はいません。あなたの主張は何の根拠もない、真っ赤なウソばかりです」
    「そうか。ならばカンナビスを灼滅した証拠はどこにある? こちらに根拠がないと言うのなら、そちらには根拠があるのだろう?」
     そんな証拠、示せるはずがない。ダークネスは遺体が残らぬ事もざらにある事を知っての上での上げ足取りだ。
    「証拠はありません。ですがカンナビス灼滅の証拠なんて、必要ですか? そもそも怒りに任せたからと言って、それが何でしょう。不利益があるとして……仲間で補えるなら、その時点でマイナスにはなりません」
     たった一人でシャノンを罵倒することしかできぬダークネスと、武蔵坂は違う。
     しゃあ、とかさついた声音で竜頭が牙を剥いてくるが、みんとは完全に無視しきった。
    「それに証拠を示されたら困るのはそちらじゃありませんか。良かったですね証拠がなくて。それともそれは、自分の主張に証拠がないことの裏返しですか?」
    「よく回る口だ」
     暗い手術室の奥から、ハートレイが進み出てくる。みんとの後を引き取るように、タロスが前へ出た。回復を担う予定の彼女をこのまま矢面に立たせておくのは得策ではない。
    「牧原の言う通りだ。怒りが引き金だろうと闇堕ちは依頼遂行への覚悟の表れ、実際にシャノンの行動はカンナビス灼滅に繋がっている。個人で最良の結果を残せなくとも、仲間が補えばそれでいい」
    「ガラクタ以外に三人も堕ちてよく言える」
    「逆に訊きたいが、カンナビスはそんなに弱い敵だったんかね?」
     くるくると獣耳のように見える部分の下の髪を指へ巻き取りながら、猯は胡乱な目でハートレイを見やる。
    「さっさと一人堕ちていればどうとでもなったと、つまりそういう事を言いたいのであろ? そこも矛盾しておる」
     逆じゃ、と猯はさらに言いつのった。
    「四人闇堕ちしてそこで初めて、カンナビスは退け得た。ならばシャノンに限らず、灼滅者は覚悟を決めんといかん場面だろう。それは作戦始める前から、皆がわかっていた筈じゃ」
     言外に、最良の結果を引き寄せるためには必要な覚悟であったことをにじませて、猯は息をついた。
     今はハートレイの殻の中にいるシャノンが聞いてくれていればいい。
     失態の代償であるという、偽りで塗り固めた毒。それを仰がせ賜死を与えようとするダークネスの奸計は、こんなにも張りぼてだったのだと気付いてくれればいい。
     そして思い出してくれればいい。
     闇堕ちというパンドラの匣。その底にあるはずのものを。

    ●金剛石の賜り物
     この世の厄災すべてが地上にあふれてしまったあと、匣の底にたったひとつ残っていたものは何だったのか。
    「そなた等によってチームが全滅することなく、妾の義父上を始めとした4人は生きて帰る事ができたし、あの外道を討ち果す事ができたのじゃぞ?」
     あとはそなたが帰ってくるだけなのじゃ、とカンナは息苦しくなるような思いをこめる。そして着物に似た外観の民族衣装の腰から解体ナイフを抜いた。
    「義父上と妾が再び会う事ができた恩、そしてそなたに託されたそなたの師と仲間の命を、本当の意味で無駄にしないためにものう!」
    「……目先の結果だけで知ったような事を語るなよ、ハートレイとやら。その姿で喋る事自体、胸糞悪い」
     タロスの周囲へぶわりとバトルオーラが広がり、ハートレイは頬をゆがめるようにして笑う。
    「取り返したくば力で奪うがいい、ガラクタはガラクタでしかないのだからな!」
    「黙って聞いてりゃ、奪うとか力とか……こんなダークネスにいつまでも喋らせるな、シャノン!」
     我慢の限界が来たらしく、アンゼリカの踵から強い摩擦での火花が迸った。半月の軌跡を描くあざやかな蹴りで、ハートレイの身体が炎に包まれる。
    「私が聞きたいのは、『お前』の声だ! ライブハウスでも、これからの戦いでも、私の学校生活でも!」
    「こ、のッ……!!」
    「私には、お前が必要なんだよ!!」
    「うるさい、黙れ!!」
     スカートのように広がる薔薇の花弁の中から、触手が伸びた。手近な、あるいは体力が低そうな者から生き血を啜ろうと鎌首をもたげるも、見るからに頑健そうな兼弘に阻まれる。
     異形の美女の攻撃は苛烈だったが、絶えずその背後を取るように立ち位置を変える斎を警戒してか、いまいち痛打を与えるには至らない。
     しかし兼弘よりかは与しやすしと考えたのだろう、ハートレイは小柄な猯めがけ触手を伸ばした。蛇のように迫るそれを小さく笑ってながめ、猯は左腕へ不可視のシールドを展開する。
    「わしの硬さはお前さんがよく知っておるだろうに」
     あえて避けず、猯はシールドバッシュであぶなげなく触手を弾ききった。いや、弾ききったと表現するよりも盾で叩き落としたと表現したほうが近い。
     そして兼弘が何気なく背後のスチールラックへ置いた無線機のスピーカーから、ルチルやなゆたをはじめとした、【赤松式】の面々の声が流れ出す。
    『ねえ、聞こえる、シャノンちゃん! 私はキミを凄いと思ってる! ライブハウスじゃ格上との戦いにいつも作戦を練ってたよね……シャノンちゃん達の勇気がカンナビスを追い詰め、灼滅に繋げた。それは誇れることであっても、落ち込むことは何もないんだよ!』
    『結果、責任、知らない。けど……シャノンは、帰ってきたくない? ルチルは、……居なくなる、ヤダ』
     切なげに、しかし訥々としたルチルの声に、ハートレイの目元が歪む。華奢なその両腕に水晶の剣が次々と生え、苛立ちをぶちまけるように雄叫びをあげた。
     なりふりかまわず襲いかかってきたノーライフキングを、今や武器まるごと飲み込み、青い寄生体を全身へ纏った巨人へと変じたタロスが兼弘と共に堂々と迎え撃つ。
    「シャノン、お前を迎えに仲間が来てくれたぜ! お前の居場所と帰るべき場所はこんな場所じゃない、武蔵坂にこそある!」
    「仲間だと……? 笑わせるな!! 存在すること自体おこがましい、塵芥の分際で!」
     ハートレイの苛立ちへシンクロするように咆哮した竜頭。その口から光線が吐き出されタロスを襲った。すかさず寛子がカバーに入り事なきを得るが、しかし、無線機からの声はやまない。
    『ねえ、私はやっぱりキミと、シャノンちゃんと同じチームがいいよ! 戻っておいでよ!』
    『多くを失ってなお、戦えたシャノン殿だ。その強さでもって何度でも立ち上がれるはず! そうであろう! まだ成功していないとするなら、それは他でもないそなたがまだ戻っていないため、喜びきれないのでござる』
    「……闇堕ちの意味は、十分ありました。決して無益ではありません。仮に失敗だとしても、まだ取り返しはつくでしょう」
     エイジの声にふと目元を和ませ、斎は油断なくクルセイドソードを構えたまま問うた。
     ハートレイの中のシャノンへ、ひんやりした冷静な声で。
    「それともそのまま本物の闇へ堕ちて、あなたを助けに来たご友人の行動を無為にしてしまう事を、あなたはお望みですか?」
     ややノイズ混じりのスピーカーからは有無の声が聞こえてくる。
    『やあやあ麗しきかなアルラウネの君……聴こえるだろう彼らの声が』
     決して人が一人では得られない、絆という価値ある賜り物を、大切な誰かを救いたいと願う心を。
    『耳を澄ませ、闇は払拭し光を求め給え!』
     それを無碍にするとでも、言うのだろうか。

    ●ダイヤモンド・ギフト
    『……シャノンさん、聞こえますか? 私は貴女を部に迎えられて本当に嬉しく思っているのです。ライブハウスの勝率もさりながら、貴女の存在で小学生の子達も明るくなってましてね……』
     それに、どうにも奔放な子が多いようで、貴女のようなしっかりやさんが必要なのですよ、と鶉の語尾が軽く苦笑を含んだ。
    『そら、友達を泣かせないうちに戻ってきなさい、な』
    『拙者達がエールを送るでござる。そのダークネスの中より出でて、仲間達を安心させてやるでござるよ!』
     突然、がくんと操糸が切れたようにハートレイの上半身がくずおれる。置き去りにされたままの手術台へすがるようにして地を這う無様な真似は避けたものの、様子がおかしかった。
    「『赤松式地下リング』の勝率が上がってきているのは、シャノンちゃんのおかげなの」
     寛子はちょうど札幌時計台キックで引導を渡さんとしていた所だったが、すんでの所で蹴りのモーションから脚を引き戻す。
    「シャノンちゃんは失敗なんかしてないの……お願い、戻ってきて!」
    「……」
     ぐったりと竜頭も床へ横たわり、異形の美女の顔色は青い。
    「それがお前達の答えか」
    「悪いが俺はただのメッセンジャーでね」
     兼弘の人を食ったような返答に、ハートレイは心底口惜しげに顔を歪めた。
    「俺はみんなの声をシャノンへ伝えに来た、それだけだ」
    「もうよい」
     随分捨て鉢な声音でハートレイは吐き捨て、片頬で嗤う。
    「所詮、人の絆などいくらでも簡単に壊れるもの。私はここで高見の見物といかせてもらおう」
     一瞬、アンゼリカをはじめ寛子や他の者も、何も反論できなかった。
     受け取りようによっては、自らこの場での敗北を認めたように聞こえたその言葉。そんなハートレイへ一体何を言えばよいのかなど、誰にもわからなかったのだ。
     ならば望み通り、とちょうど彼女の正面に立っていた兼弘がゆっくりと正拳突きの構えに入る。ひとつ息をつき、大きく右拳を引いた。
    「……ワンインチパンチ!」
     ほぼ零距離での殴打。
     その衝撃に従って仰向けに倒れていくハートレイは、手術室の天井を見上げたまま淡く笑ったようだった。
     ぬらりと床へ首をのべていた竜頭がかき消え、かわりに華奢な脚が出現したことにアンゼリカは驚く。あわててハートレイであったはずの人影へ走り寄ると、そこには年齢相応の穏やかさで目を閉じたシャノンの顔があった。
    「シャノン」
     アンゼリカが肩を揺らすも、シャノンは目を開けない。
    「なぁ、……戻って来いよぉ……私、いい子になるから、もうイタズラしないから。おやつも取ったりしないから……お願いだから帰ってきて」
     ただ眠っているのなら目を覚ましてもよさそうなものなのに、シャノンの瞼はおろされたまま、ぴくりとも動かなかった。
    「戻ってったらぁ!!」
     声が涙で曇りはじめ、ついに悲鳴に似た叫びがあがる。
     ――と、ぷす、と空気が抜けるように、誰かが吹きだした音。
    「……」
     何も言えないまま、アンゼリカが唖然と見守る目の前。
     その身も世もないあまりの必死さに、ついに笑いをこらえきれなくなったシャノンが目を開けた。耳まで真っ赤になってアンゼリカがシャノンの肩を揺らす。
    「なっ……起きてたのかよ、ひどい!! 今のなし!」
    「もう聞いてしまいました」
     そんな様子を眺めつつ、やれやれ元気な事よの、と猯が苦笑まじりに肩をすくめた。無線機の向こうからはシャノンの帰還を喜ぶ声が聞こえる。
     パンドラの匣の底にたったひとつ残っていたもの。
     どんな厄災が待ち受けようとも、前へ進む覚悟を決めた者は等しくその魂を持っている。
     ダイヤモンドのように輝く希望をその胸に、必ず一粒、抱いている。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年2月4日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 3/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 6
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