くれないに沈む

    作者:菖蒲

    ●diary
    『今日はいい天気だった。家族でバーベキューに行く約束をしたので、準備をするためにホームセンターで買い物をした。母さんは一生懸命炭を抱えていたけど直ぐにギブアップ。父さんは手際よく準備を進めてる。
     やっぱり父さんは凄い。尊敬する。俺も、父さんみたいになろうと決めた』

    『今日は雨が降って居た。父さんの会社の経営がうまくいかないらしい。酔った父さんが母さんに掴みかかっていた。どうすればいいと父さんが泣いていた。俺は、何も言えなくて、只、見てるだけだった』

    『今日は星が綺麗だった。父さんが、母さんを――』

     父さんが、居なくなってしまった。母さんを殺して、何処かに行ってしまった。その時の水溜りの様子を今だって覚えている。ぴちょん、と。雫が落ちる音がして、優しい父さんが母さんの血を啜る様子がとても、『羨ましかった』。
     学校に行くのは控えるようにした。学校の友達が怪我をして流した血が美味しそうに見える。彼等を殺せば心の中に渦巻いた衝動を抑えられるのかと悩ましくて、仕方がない。
     あれ? 何で、俺。どうして、どうして、どうして――?
     血なんて美味しくない筈なのに。自分に何が起きたか分からない事が怖くて堪らない。
     何時まで怯え続ければいいのだろう。怯える必要なんて、ないかもしれない。
     そうだ、外には人がたくさんいるのだろうか。美味しそうな、人が。殺しても良い、餌が。
     唇の端から牙を零した少年は咽喉で嗤って、囁いた。
    「――そうだ、父さんに憧れてたんだ……俺は、父さんみたいに、ならなくっちゃ」
     
    ●introduction
    「欲望とは底なし沼、と定義される事があるようですが、その沼からはどうすれば抜けだせるのでしょうか?」
     冗句めかして五十嵐・姫子(高校生エクスブレイン・dn0001)は小さく笑みを浮かべる。ふんわりとした髪を揺らした彼女は「そんな青年のお話です」と付け加え、夕暮れ時の教室で灼滅者達を見回した。
    「家族三人――父と母と三人暮らしをしていた織部・樹さん。高校1年生ですね。
     高校では野球部に所属、明るく気さくな方だったと聞いていますが……最近は不登校気味の様です」
     調査の結果をつらつらと告げる姫子の瞳が細められる。外聞は非常によく、明るい少年を思い浮かべるのだが、不登校気味となってはひっかかりを感じてしまう。
    「単刀直入に申し上げますと、彼は闇堕ちしました。ですが、『まだ』人間です」
     通常の闇堕ちはダークネスとしての意識を持ち、人間の意識を掻き消してしまうのだが、樹は違う。織部・樹としての意識をダークネスの力を保有しながら持っている。
    「彼はヴァンパイアです。吸血衝動に怯え、現在は家族三人暮らしを『していた』家に引きこもっている様ですが――その衝動を抑えきるのも時間の問題かと……」
     まだ外へ出ていない今がチャンスだ、と姫子は言う。放置しておけば樹はヴァンパイアに成り果て人を襲う事だろう。しかし、まだ人間の意識を持つならば『救い出せる』選択肢だって存在していた。彼に灼滅者の素養があるのならば救いだす事が出来る筈だ、と姫子は力強く言う。
    「織部・樹さんの身に起こったちょっとした事件を聞いては頂けませんか?」
     ヴァンパイアは誰かに引き摺られ闇堕ちすると言われている。樹は実父――彼が大好きだった父親が闇堕ちした事に引き摺られたのだろう。
    「一つ、樹さんの父親は思い悩んでいました。会社の操業が上手く行かず、お母さまに当たられる事が多かったそうです。樹さんは父親を何とかして支えようとしたのですが、方法が思い当たらず自己嫌悪に陥って居た。
     二つ、そんな彼の目の前で闇堕ちした父親が母親を惨殺し、吸血衝動のままに貪り始めました。その恐怖心と――己の中に宿った『同じ衝動』に怯える事しか出来なかったのでしょう。しかし、彼だってダークネスに堕ち掛ける者、怯えながらもその様子を羨ましい……と感じてしまった。学校に行ってだって、その気持ちは彼の心に渦巻き続けているのです」
     どうして、と。
     声を吐き出す事が出来ない彼は音もなく叫んだ事だろう。

     ――父さん、どうして!
     ――俺の、父さんは、こんな……っ!

     父親を支える事の出来ない無力さと自分に宿った力に怯えるだけ。家族の絆に罅が入った気がしたのかもしれない。
    「彼が気に病んでいるのは、父親の『もうだめだ』の言葉に何も返せなかった事……そして、やり直せない過去に囚われ、自己嫌悪を続けている。救えたかも、しれないのに、と。
     そして皆さんの持つその力――殺戮衝動や吸血衝動、そんな『あたりまえ』でも彼にとっては恐怖でしかなかったのでしょう」
     彼の家は今は荒れ果てた状況であるのだという。夜の人目に付かないときであれば出入りも楽だろうと姫子は言った。
    「リビングに彼は居ます。家の構造は簡単ですからあまり気にしなくても良いかと……力技であれば、リビングの窓ガラスを割れば庭から潜入することも可能です。音には、お気を付けて」
     そこまで続けた姫子は大きな瞳を伏せって、困った様に笑った。
    「思い出が崩れて行く事が怖くて、思い出を振り返る様に日記帳を読み続ける。
     一人取り残されるのは、きっと――辛い事ですね。救える人がいるならば……どうぞ、よろしくお願いしますね」


    参加者
    花檻・伊織(六つのエフ・d01455)
    蓬莱・烏衣(スワロー・d07027)
    布都・迦月(幽界の神名火・d07478)
    琴葉・いろは(とかなくて・d11000)
    鈴木・昭子(かごめ鬼・d17176)
    ヴォルペ・コーダ(宝物庫の番犬・d22289)
    縹・三義(残夜・d24952)
    ルチノーイ・プラチヴァタミヨト(バーストブルーライトニング・d28514)

    ■リプレイ


     今日と言う日を何て書こう?
     今日は、少し雨が降っていた――。

     そんな書き出しから始まりそうな曇天の日、灯りが点かない住宅が一軒。夏の湿った暑さを更に倍増させた気候にふるふると首を振った柴犬『ひとつ』は尻尾を揺らし、気だるげな主人――縹・三義(残夜・d24952)を見上げた。
    「こんな暗い所じゃ確かに気が滅入るよね」
     三義の言葉に肩を竦めた布都・迦月(幽界の神名火・d07478)は暑さに溶けてしまいそうだと独りごちた。
    「ここが……?」
     瞬いて、大きな青色の瞳に薄らと涙を浮かべたルチノーイ・プラチヴァタミヨト(バーストブルーライトニング・d28514)は雲の様にふんわりと膨らんだ髪を夏風に揺らしながら何処か不安げに塀に囲まれた家を眺めている。
     この家には少年が一人。それも、恐怖に囚われたヴァンパイアが居る。
     そんな家の事など素知らぬふりをして周囲の家に灯った明かりは、曇天の空を気にしてはいない。周囲から隔絶された様な空間は闇の中に溶け込んだしまった様だと琴葉・いろは(とかなくて・d11000)は茫と考える。体にライトを固定し、光源を確保したいろはの心が痛むのは彼女が寂しがり屋であるからだろうか。
     勝手口へと歩を進めながら、ちりんと鈴を鳴らした鈴木・昭子(かごめ鬼・d17176)は猫の様に靱やかに中へと滑り込む。
     し、と彼女が唇にあてた指先。手にしていたランタンが淡い光を灯して小さく揺れていた。
     音を遮断する三義の隣をすり抜ける様に歩きながら蓬莱・烏衣(スワロー・d07027)は何処か緊張した様に、己の掌を見詰める。
     自分の掌には、人を殺める力がある。この先のリビングに座りこんでいる少年と同じ様に、人を欲する自分が居るのだから――
     紫苑の瞳を細めた烏衣がわずかに唇を吊り上げた。明朗快活、楽観的。それが己の持ち味なのだから。
     荒れた廊下をゆっくりと歩みながら、リビングへと通じる扉が開かれている事に花檻・伊織(六つのエフ・d01455)は気付く。足元の花瓶の破片を踏まぬ様にそっと足を上げた伊織の腰にしっかりと固定された幕府御用達【特性ハンズフリーライト】がのっぺりと廊下の先を照らしていた。
     ふと、ヴォルペ・コーダ(宝物庫の番犬・d22289)が顔を上げたのは何故だろうか。
     リビングの人影は未だに動かずに座り込んでいる。薄暗い室内で怯えた表情で座り込んだ人影を見つけてしまったからか。
    「こんばんは」
     静かに、囁きかけたルチノーイの声に室内の少年――織部・樹は怯えた様に顔を上げる。恐怖心を露わにした少年は唇を噛み締めて、侵入者たちの顔を見詰めていた。
    「勝手に入ってごめん。俺は花檻・伊織。君と話をしに来たんだ」


     割れた皿を蹴散らして、歩み寄った烏衣に怯えながらもズルズルと立ち上がった樹が転がっていた棒を武器に見立て威嚇する様に睨みつけている。
    「な、何だよ……ッ、来るなよ……!?」
    「怪しい人に見えるかもしれないが、俺達は怪しい人間じゃない」
     肩を竦め、あからさまに恐怖心を抱いた樹へと迦月は肩を竦めて告げる。彼の手首で揺れた揚羽蝶の銀の飾り。灼滅者達の手にしたライトが照らしたブレスレットの光りにさえも樹は過敏に反応していた。
    「血が欲しい――ってか?」
     樹の目の前に立ち、唇の端から牙を見せた烏衣の言葉に少年はギョッとした様に身を固くする。
     ぐるりと取り囲むように立った灼滅者達に机に凭れかかる様に立ち上がった少年は唇を噛み締めた。彼の唇の端から零れる牙がヴァンパイアのそれである事に気付き、ヴォルペは紅色の瞳を細める。
    「前に進めなくなった可哀想な坊や。助けて欲しいと素直に手を伸ばすならおにーさんが抱き締めてあげよう」
    「助けて欲しいって願って、どうにかなるのかよ!? 血が、欲しいって――」
     願う自分を、信じられなくて。
     吼える様に告げた樹が真っ直ぐに棒を振り下ろす。槍の要領で使われたソレは鮮血の如き緋色のオーラを纏い、前線に立っている伊織へ向けて振り下ろされた。
    「……怖いよね。奈落に引き摺られる様な、闇に塗り潰される感覚。
     俺も嘗て何かを殺すのが堪らなく快感だったよ。君が吸血衝動というなら俺は殺戮衝動かな?」
     クルセイドソードがぶつかり、ぎりぎりと音が鳴る。澄んだ薄氷の瞳はまだあどけない少年である様に思わせた。
     ぽたり、と樹の頬から雫が零れる。「どうして」と、怯えた彼の瞳に映った三義の瞳はやや気だるげに見える。
    「あんたは何を探してるの? 自分らしい生き方? 『オトーサン』とおんなじ生き方?」
     奈落へ引き摺られた、父親と同じ生き方。そんな言葉に樹の頬には更に雫が、澄んだ――三義の瞳の様ないろが、一つ。
    「樹くん……『変わる』ことは、怖いことですか?」
     ちりん、と。軽やかに鈴が鳴る。まるで昭子が其処に居る証の様に。茫とした灰色の瞳は虚を眺めているだけではないと言う様に細められる。
    「父さんが……ッ、俺は――何もできなくてッ!」
     少年は不安をぶつける様に大きく吼える。その声に反応した霊犬『若紫』は微かに警戒した様に主人たるいろはの前へとゆっくりと歩み出した。
     切り揃えた黒髪を揺らし、いろはは樹のかんばせを見詰める。酷く怯えた少年の顔は喪う辛さを体現している様で――彼が飲みこまれたのは恐怖と言う底なし沼だろうか。
     闇は深い。けれど、その闇に飲まれた切欠となった『愛情』とて深いのだから。
    「織部さんはおとーさんのことが、大好きなのですね。
     その日記帳のお話しは、おとーさんとおかーさんとの思い出ですよね」
     片手にしかと握りしめていた日記帳。樹と、家族の思い出が記されたソレを見詰めながらルチノーイは空色の瞳を細める。
     彼女の言葉に、樹は茫と視線を日記へと下ろした。思い出を描いた日記帳。父の闇堕ちに引きづられ、堕ちたという樹の事を迦月は心配そうに見守っていた。
    (「微力でも役に立てないだろうか。俺だって、父を尊敬してる。……ヴァンパイアの感染ってのは酷なもんだよな……」)
     大切な人だったからこそ、堕ちた衝撃が大きかったのだろう――少年の瞳からまた一つ、雫が落ちた。


     少年が振るった棒を避け、伊織はクルセイドソードを大きく振るう。剣の切っ先を受けとめる様に、しかして牙を大きく出した少年は恐怖に溺れる様に棒を握り込む。
    「まー、余り人に話す事ではないのだけどさ。俺も昔、好きだった母さんが死んだんだ」
    「……え?」
    「まあ、それで、父さんが再婚したけど新しい家族って奴に馴染めず逃げだした。色々あって、人を殺しちゃって、逃げながら繰り返すうちに楽しくなっちゃって――最後は何も感じなくなった、かな」
     樹の瞳を覗きこみ、伊織は語る。思わず身震いした彼は困った様に鮮やかな晴天色の瞳を細めて笑った。
    「だから、判るよ。自分が破綻していく感覚って、今思い出しても戦慄する」
     飄々とした笑みを浮かべる伊織の表情に浮かんだ憂い。ごく一般の家庭に生まれ、何処にでもいる少年になり切れなかった『灰色』の少年の言葉に惑いを抱いた樹は首を大きく振る。
    「でも……っ!」
    「でも――じゃない」
     頬を掠めた焔。背後から飛び出す様に与えられた攻撃に、瞬時に反応する事が出来ずに樹は尻持ちをつく。震える指先に力を込めて、それでもと言う様に棒を握りしめる彼を見下ろし、ヴォルペは燃える様な赤でしかと樹を見下ろした。
    「大好きで、尊敬していて、力になりたかったなら、本当はもっと方法があったはずだ。
     母親を助ける事も、父親を止める事もしなかった――することが出来なかった君が、これ以上楽な方へ逃げて何になる?」
     ヴォルペの瞳の中に、確かに見えた。
     赤い雫が滴り落ちる瞬間を、

     ――父さん、何でっ……! 何でだよっ!

     滑り落ちて行く肢体を。雫の中、噎び笑った男の顔を。
    「……ッ」
    「『たった一歩』それだけでいい。踏み出せば、また別の道があったのかもしれない」
     強く、揺さぶる言葉に駄々っ子の様に首を振る樹へと、星の煌めきと重力を宿した蹴りを炸裂させながらルチノーイが唇を尖らす。
    「いつまでも過去に囚われていたら、今のおとーさんが本当に手の届かない所に行ってしまうです。それで本当に納得できるです? おとーさんの想い……真意を確かめたいと思わないのです?」
     ピコピコハンマーを握りしめ、大きなソレを振り翳すルチノーイ。鮮やかな髪を揺らし、人間を象った彼女は幾許か眉を寄せる。
    「ちょっと痛いかもしれないのですが、我慢の子なのです!」
     彼女の小さな肢体目掛けて跳び出す冷気のつららを受けとめたひとつが大きく吼える。心優しき柴犬の声にやれやれと言う様に肩を竦めた三義はしかと樹の顔を見詰めた。
    「あんたがさ、自分らしい生き方をするなら、自分らしい生き方を探せばいい。
     そんなの姿も過去も衝動も関係なく見つけられるよ。誰だって、心ひとつでね」
     呼ばれたかと嬉しそうに尻尾を振ってくるりと回るひとつに「お前じゃない」と笑みを零す三義に気のおける友人である迦月もひとつは可愛いなと淡く笑みを浮かべて見せる。
    「君達、友達同士で……怖くないのかよ……殺しちゃうかもとか、変な衝動が襲うかもって……!」
    「抗うんだ。そのまま待っていても、お前は親父さんの様になるだけだ。でもさ、お前がみた親父さんはもう人間じゃなかった……お前はまだ、『人間』なんだよ」
     人の心を以って、その衝動に耐えうるだけの人間だと。迦月は異形化した腕を大きく振り上げた。
     食器棚にぶつかった樹が大きく咳込む。浅い息を漏らす様子を見詰めながら、彼が衝撃を受けながらも振るった攻撃から仲間をかばった若紫が尻尾を振る。
    「……ねえ、樹さんはお父様のどういう所に憧れたのですか?
     それは殺戮や吸血衝動に負けてしまうお父様じゃない、筈――抗って下さい、お父さんの分まで。あなたの憧れた『お父様』の様に……」
     静謐を宿す瞳が揺らぐ。いろはの言葉に樹はどうすれば、と涙を零した。
     前を向く事が怖くて、辛くて。穏やかないろはの言葉に応える言葉が見つからなくて。
    「お父様を支えられなかった……そう思ってらっしゃるのでしょう? とんだ思い違いですね」
     困った様に、柔らかに告げるいろはに樹が棒を握りしめたまま信じられないと、瞬いた。

     俺が、父さんを――。

     支えきれなかったから、と零れた言葉にいろはは肩を竦めた。
    「いつも明るく元気な樹さんの姿は、きっとお父様の心を励ましたでしょうね。直接的に助けるだけが方法ではないのですよ」


     彼の手から日記帳が滑り落ちた事に気付き、拾い上げた昭子は瞬いて、日記帳を開く。
    「ねぇ、樹くん。日記に書かれてる事も、書かれていない感情も……楽しかった事も、憧れた事も、哀しかった事も、辛かった事も、その過去のぜんぶが、『織部樹』をつくるものです、よね」
     ゆっくりと。淡々としながらも真摯な昭子の言葉に樹は目を見開く。
     日記帳に綴られた楽しそうな自分の姿。只、それに溺れて居たいだけだった。
     溺れて居るだけでは、意味が無いのだと灼滅者達は樹へ告げている。どうしようもなくて、立ち上がる事の出来ない少年にSmash!を向けたまま烏衣は樹を見下ろしている。
    「お前のさ、衝動ってのは壊すだけじゃねぇんだよ。大事な父親を今度こそ助ける為に得られた力じゃねぇかってオレ、思うんだ。
     お前が立ち止まってて何になるんだよ。大切な父親助けられねぇし、思い出だって消えちまうだろ」
     吼える様に、烏衣は樹へと詰め寄った。
     立ち上がる事が出来ないのは彼が意気地無しだから。出来る筈の事が出来ないのか、自分が弱虫だからだと、過去の自分を思い出す様に追い詰める。
     その言葉に樹は首を振った。
     一度膝をついてしまっては、もう立てる気がしないから、と。
    「ほら、俺も同じ歯があるんだぜ。仲間が此処に居る。独りじゃねぇんだよ」
     烏衣の言葉に大きく涙が落ち続ける。
     叫ぶ様に、振り翳した棒から放たれるつららを避けて、ルチノーイは少年の瞳を覗きこんだ。
    「諦めるのです?」
     幼さを滲ませたあどけない表情は一心に語りかけてくるように。丸い瞳は、少年の顔を覗きこむ。
     臆病な少女は無口ながらも、懸命に言葉を紡いでいた。ふんわりとした髪が、彼女の動きに合わせて揺れている。
    「全てを諦めたら、君は本当に全てを喪うだろうね。怖いなら手を貸そう。
     ここに来た俺達は少なからず、君を救いたい……そう思ってるよ。話し位ならおにーさんが聞いてあげる」
     人の心の美しさを賛美する事が出来るとするなれば、宝石の色の様に褒め称える事も出来るだろう。
     ヴォルペは愛する美術品を思い浮かべ、樹の曇った心の硝子を拭く様に一つ一つ、言葉を彼へと与えていく。
     ルチノーイはそんな樹の様子を見詰めながらも最後だと言う様に攻撃を与える。心の硝子を割る様に、ピコピコハンマーを大きく振り翳して。
    「もう、起きましょう?」
     言葉少なに、少女は瞳に涙を溜めて、武器を振るい上げる。
     言葉で、変わってくれるなら。「樹くん」と昭子は絶えず繰り返した。声を聞いてくれるなら。

     闇に飲みこまれる前に――織部樹が織部樹であってくれるなら。

    「どんな過去だって、肯定しましょう? 選べたことも、選べなかった事も。間違いなんてないんです。樹くんが、樹くんであるなら、きっと過去も絆も壊れない。皆でこたえを見つけましょうよ」
     怖い事なんて、何もない。世界の事をお話ししようと伊織は樹へとそっと近寄った。
     気付けばとまった彼の攻撃は、彼の戸惑いを顕す様でやっとかと言う様に迦月は頬を掻く。
    「こたえは、簡単に見つかるでしょうね? 御一人ではありませんから」
     緩やかに告げたいろはの言葉に、昭子は小さく頷いた。
     気付けば、彼は先程までの怯えは無い。
     涙に濡れた『臆病だった少年』が独り泣いていた。
    「おやすみ……そしておはよう、坊や」
     差し伸べたヴォルぺの手をとって、ぎゅっと握りしめた樹に彼は柔らかく微笑んだ。
     座り込んだ少年の目の前へと勢い良く走り寄るひとつ。尻尾を大きく振って涙に濡れた頬を舐めとった彼女は小さく「くうん」と鳴いてみせた。
    「……俺は、独りじゃないのかな」
    「独りじゃないよ。少なくとも、ひとつはあんたと友達になりたいみたいだ」
    「縹の言う通りだ。織部、よければ学園に来ないか?」
     どうだろうと膝を付き樹の顔を覗き込んだ迦月の背後でちりんと一つ鈴が鳴る。
     擦り寄った柴犬の頭を震える手で撫でた樹へと昭子はゆっくりと手を差し伸べて。
    「樹くん――おかえりなさい」

     今日という日を何て書こう?
     曇天の空から、晴れ間が見えた様な――そんな日だった、と書いてみようか。

    作者:菖蒲 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年8月4日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 3/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 8
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