紅月忌憚

    作者:佐伯都

     血を凝らせたような、赤い月が中天に掛かっていた。
     ふらりと高層ビルの屋上に白い人影が揺れて、真夏の夜の人波を睥睨する。
     色素が抜け落ちたような銀の髪、血色の感じられない白い肌、氷雪じみた冷たい瞳。
     体温、色彩、それらを全て失ったかのような白い人影は、裸足のままぺたりぺたりと広い屋上をめぐる。時刻はちょうどサラリーマンの退勤が重なる時間帯、近くで冷えたビールを一杯やった後で駅に向かうつもりなのか、居酒屋や飲食店が入ったビルへ消えてゆく背中も多い。
     真夏の夜の熱帯夜だと言うのに、白い人影は黒地に白のラインが特徴的な学生服、しかも冬服を着込んでいた。見る者が見れば、その学生服が一体どこの学校のものなのかは一目瞭然だっただろう。
     破れやほつれが目立つ服の裾を、吹き上がってくる夜風になびかせて『彼』は少しだけ目を細めた。獲物を値踏みする視線。
     遙か下、交差点を埋める人の群れを、どこまでも冷たい目で見下ろしていた。
     
    ●紅月忌憚
     真っ赤な斜陽がさしこむ教室の窓際で、成宮・樹(高校生エクスブレイン・dn0159)は力任せにカーテンを引いた。薄墨を流したような淡い影の中、教室に集まった灼滅者達を見回してからルーズリーフを開く。
    「先日の依頼で闇堕ちした、科戸・日方(高校生自転車乗り・d00353)の足取りが掴めた」
     今や六六六人衆と化した彼はある熱帯夜の夜、高層ビルが建ち並ぶオフィス街で虐殺事件を起こそうとする。このまま放置すれば、会社帰りのサラリーマンやOLが多数犠牲になるのは免れない。
    「どうやら、日方が灼滅者として覚醒するきっかけになったダークネスを探しているらしい」
     奇しくも同じ、紅く染まった月の夜。
     紅き月の晩、凄惨な殺人現場に居たダークネス。あの時自分を見逃した理由を問いたいのか、日方を押しのけ目覚めさせてくれたお礼参りがしたいのか、あるいはただ日方が探していたから、というごく単純な好奇心かもしれない。真相は闇の中だ。
     どうやら『あのダークネスと同じように凄惨な殺人を起こし続ければ、探し人が現れるかもしれず、同時に日方の人格の消滅をも狙える』、と考えているようだ。
    「灼滅者が凶行を阻止に来ることも想定しているようで、奇襲をかけられる隙もない。『日方を見捨てるわけにはいかない』とこっちが考えることも見透かされてるし、あえて戦闘を長引かせて知人を痛めつける事で日方の消滅を図ろうともする」
     とことんこちらの心情を知り尽くし足元を見てくる、やりにくい相手だ。そのため、虚勢は恐らく意味がない。
    「日方当人への言葉は別として、口でどうにかできる相手じゃない。正真正銘、真っ向で叩き伏せる、そのくらいのつもりでいてほしい」
     彼は日方への当てつけか、『ならい』……冬の北風、を意味する名を自称している。からりと明るい日方とは正反対の、どこまでも無表情で冷徹なダークネス人格にふさわしいと言えるかもしれない。
     余計な事を喋ることはなく、目は口ほどに物を言う、を地で行くタイプのようだ。
     真夏の熱帯夜だが、破れやほつれが目立つ武蔵坂の高校男子冬服を着込み、氷のように透き通った材質の解体ナイフを所持している。吹雪じみた外観の影業とバトルオーラを周囲に展開している事からも、まさしく名の通りだ。
     使用するサイキックの詳細は掴めていないが、高い精度を誇る後衛ポジションであることはわかっている。
    「今から向かえば、会社帰りのサラリーマンやOLで混雑している交差点を、ならいが高層ビルの屋上から眺めている所で接触できる。ビルの中から屋上に上がってもいいし、隣接するビルから飛び移ってもいい」
     接触した後はすぐに戦闘になるはずだが、ならいは灼滅者の邪魔が入ることを充分予測している。どうにか屋上でならいを食い止め、ビル下の交差点へ降りさせない事が重要だ。
    「屋上自体は割と広いから戦闘をする分には困らないと思う。フェンスを乗り越える事自体は簡単だから、もし包囲を突破されたらそのまま交差点までは一直線、と思ったほうがいい」
     万が一短時間でならいに屋上を突破された場合、虐殺を阻止する事はできない。しかしビルの並ぶ一角であり逃げ込める屋内や地下街には事欠かないため、一般人の退避は10分あればいいだろう。
     だが、あえて戦闘を長引かせ日方と縁のある者をいたぶる可能性がある事も忘れてはいけない。ならいは日方が、誰の命もこぼしたくないという願いのもと、闇堕ちを選んだ事を知っているのだ。
     誰も欠けずに、全員生きて帰る。
     そんな覚悟が最後には鍵を握るのかもしれない。
    「最後にもうひとつ。今回救出できなければ、恐らく二度と日方は帰ってこない。もし救出不可能と判断したら、その時は――」
     その時、選択すべき行動を、樹は明言しなかった。できなかった、のかもしれない。


    参加者
    アナスタシア・ケレンスキー(チェレステの瞳・d00044)
    奇白・烏芥(ガラクタ・d01148)
    西・辰彦(ひとでなし・d01544)
    住矢・慧樹(クロスファイア・d04132)
    長沼・兼弘(キャプテンジンギス・d04811)
    嶌森・イコ(セイリオスの眸・d05432)
    柊・司(灰青の月・d12782)
    平戸・梵我(蘇芳の祭鬼・d18177)

    ■リプレイ

    ●下弦
     紅い月が地上を見下ろす熱帯夜。
     昼間の暑気と独特の閉めきった臭いがこごった、非常階段の小さな踊り場。
     そこから屋上へ向かって最後の階段を駆けあがる住矢・慧樹(クロスファイア・d04132)の右手、ぼわりと携帯電話のディスプレイが光った。中央に、突撃、の文字が明滅している。苦い焦燥感を、アナスタシア・ケレンスキー(チェレステの瞳・d00044)は生ぬるい空気と一緒に無理矢理呑みこんだ。
     その後に続く西・辰彦(ひとでなし・d01544)と奇白・烏芥(ガラクタ・d01148)。階段を駆け上がる勢いのまま、慧樹が屋上への重いドアを蹴破る。
    「迎えに来たぜ、日方サンっ!」
    「……よお、日方」
     バトルオーラか何かだろうか、隣接するビルから淡い燐光をひいて落下防止フェンスの内側へと着地してきた長沼・兼弘(キャプテンジンギス・d04811)と平戸・梵我(蘇芳の祭鬼・d18177)が、ゆらりと半身を起こした。烏芥のサーヴァント、揺籃が前に出て包囲網は妙ににあっけなく完成する。
     何もない、だだっ広い高層ビルの屋上。
     そのほぼ中央で白い人影は待っていた。薄気味悪いほど紅い月を見上げ、灼滅者から顔を背けるように。
     人好きのする笑顔を浮かべた柊・司(灰青の月・d12782)の目が、今夜は微塵も笑っていなかった。
    「帰る時間ですよ、日方君。学園祭が終わらない方が、沢山いらっしゃるのです」
    「はじめまして、ならいさん。けれど二度とはお逢いしないでしょう」
     嶌森・イコ(セイリオスの眸・d05432)の双眸が、ならい――かつて日方であったはずのダークネスを射る。全天で最も輝かしい冬の星の瞳で、冷徹な北風の存在を否定するように。
     いっそ不吉なほど白い足で屋上に立つならいは、兼弘を一瞥し地上から吹き上がる風の匂いを嗅ぐかのように目を細めた。
     首にかけたヘアバンドをぐいと上げて前髪を後ろへ流し、梵我は剛槍『示一口田』をならいへ突きつける。まさか飛び移る直前、思わぬビルの高さに怖じ気づいていたことなどその様子からは想像もつかない。
    「テメェの中で寝っこけてるヤツを返してもらいに来たぜ。さあ、血祭(まつり)の時間だ」
    「日方君、お迎えに参りました」
     大きく広げられた烏芥の両手。ならいを迎え入れるのではなく、目に入るものすべてを守り通す意志を乗せて障壁が屹立する。ゆっくりと、風雪に似た白のオーラがならいの周囲で渦を作りはじめた。
    「まだ乗り方を教えて頂いている途中ですから。一緒に練習する、そのお言葉果たして頂きますよ」 
     どの言葉にも、返る台詞はない。
     素直でまっすぐな、意地の悪い言い方をすれば非常にわかりやすいタイプの日方とは、何から何まで正反対。握る得物こそ解体ナイフという共通点はあっても、姿形がよく似ただけの別物。
     屋上の攻防はすぐさま、熾烈を極めるものとなった。

    ●朔月
     一方、松浦・イリス(ヴァンピーアイェーガー・dn0184)の携帯へ慧樹からのメールが届くと同時に、ビル街へ散った灼滅者達は行動を開始した。竜鬼はイリスに不測の事態が起こった時のため、避難誘導に加わりつつも傍を離れない。
     信号が青になり、吐き出される人波。それぞれ先頭に近い位置にいた紋次郎と純也、さらにミィナと亜理沙、そしてミィナが殺界形成を発動させた。霧栖がやや自嘲気味に呟く。
    「アタシもあの子に助けられた側……きっちり借りは返さないとね」
     そしてそれだけではスムーズに移動ができそうにない、または既にアルコールが入っているような相手へは士騎とオリシア、リィザが王者の風を使って誘導していた。
    「北風が、嵐が来るのでね」
    「ここに居ると危険です! そちらへ!」
     横断歩道が交わった交差点の真ん中、そこを中心にして引きはじめる人の波。その波を後押しするように、理利が近くの屋内に入り、入ったあとは外へ出ないよう言い含めて回る。彼もまた、日方とは多少なりとも縁のある身だった。
    「大丈夫ですか、動けますか? 落ち着いて」
     里桜と協力して一般人を避難させながら、灯倭ははるか高みを仰ぎ見る。彼と直接の面識はないが、里桜が以前同じ依頼に関わっており、放ってはおけないとの気持ちに動かされた形だ。
     絶望なんかしてやらない、俺は諦めが悪いんだ――里桜は、日方がゆるぎなく言い放ったその言葉を信じている。
    「何が何でも諦めるな」
     戻ってこい。ここに、人の立つ側に。
     アイドルグループを見るように相好を崩した一般人の一団へ、玉緒はあくまで親切な忠告というスタンスを崩さずに告げた。
    「そこのアナタ。不発弾だとかで、立ち入り禁止になりつつあるらしいわ。早くここから離れた方がいいと思うわよ」
     その言葉を裏付けるように丁と三月、そして月夜、恋が可能なかぎり退避を急がせている。混雑する地下街や駅へ続く階段の周りを避け、ひとまず飲食店やビルテナントのたぐいへ逃げ込んでいく者も多い。
    「大丈夫、落ち着いて。ここにいて、絶対に動かないで!」
    「あーごめんなさいねー、ちょっと今ここ危ないから近づいちゃダメよー」
     時生とウツロギが、屋内に逃がした一般人たちをなだめすかしてその場に留まらせていた。
     逃げ遅れた者がいないか歩き回りつつ、ビル街をかすめた中空に掛かる赤い月をふと見上げた有無が呟く。
    「……少し隠れたまえよ」
     同じ赤い月が見下ろす高層ビル屋上では、鮮血の花がいくつも咲いていた。
    「『ならい』か。流石にチョイと時期外れ過ぎンでしょう」
     熱帯夜にはちょうどいいと云えばそうなのかもしれないが。辰彦は半ば痺れかけた左手の指で、血でずり下がってしまった眼鏡のブリッジを押し上げる。

    ●上弦
     氷片をそのまま切りだしたようなフォルムの解体ナイフを握り、ならいは辰彦を肩越しに振り返る。
     殺人の手練手管を一種の『芸』と考えている辰彦にとって、ならいはあまり良い師とは思えなかった。格上の殺人鬼の『芸』を見、受け、自分の『芸』の肥やしに、という目算は外れたらしい。
     ならいに、ある種の殺しの美意識のようなものは欠片もない。それもそのはずで、日方を弄び彼に関係する人間を絶望の底に叩き落としたくてたまらないのだから、殺人技巧など今はどうでもよかったのだ。
     屋上の真ん中で吹き荒れる風雪は、血風を呼ぶ。アナスタシアと慧樹を狙いに来ることは予測していたが、それを食い止めるという事が実際にはどういう事かを、イコは身をもって知らされた。一撃一撃が凄まじく重く、戦闘開始から何分過ぎたかさえ、もうよくわからない。灼滅者達は瞬く間に朱に濡れた。
     優しい、仲間想いの日方。その彼が愛する人間を、日々を過ごす大切な仲間を傷つけさせはしない、その覚悟をもってならいの前に立ちはだかる。
     白い吹雪に似たバトルオーラと影業で襲いかかってくるダークネスの前へ、イコはソーサルガーダーによる障壁を張った。
    「仲間も、日方くんの心も、必ず護り通してみせます……!」
    「日方ァ! みんなが待ってるんだぞ、いつまでそこに居るんだ!」
    「日方がいない間、ずっと寂しかったんだよ。そんなところにいないで、みんなのために、アナのために帰って来てよ!」
     兼広とアナスタシアの悲痛な声が交錯するも、ならいに変化は見られない。
     来る、と直感したイコが衝撃に備えて盾と武器を掲げる。その前へと割り込んでくる揺籃。叩き下ろされた解体ナイフは、既にここまでの戦闘でダメージを蓄積していた揺籃を易々と吹き飛ばした。
     イコの脱落は避けなければならないと考えた烏芥がならいの注意を引こうとするが、わずかに遅い。
     大きく振りぬかれたバトルオーラにつかまったイコが吹き飛び、やや離れた給水塔伝いに崩れ落ちるのとほぼ同時、兼広の耳元にエリザベスの声が届いた。
    『一般人の避難は完了した、後はそちらの役割だ。……幸運を』
     エリザベスからの連絡を受けた兼広は、無線機の音量を最大にしてから床へ置く。
     そこから流れ出した声にならいは目を細めた。五月蠅いとでも言いたかったのかもしれないが、その顔には徹頭徹尾、表情というものがない。
     わずかに眉を揺らしたならいは、そのまま灼滅者の間を縫って梵我へ迫る。速い。そして一体どの瞬間で死角に潜り込まれたのかわからぬまま、梵我の背中へ解体ナイフが突き立った。
     一瞬、ぶるりと梵我の全身が震える。司の回復が届いているのはわかっているが、底が抜けたみたいに素通りしていくようで。
    「……こんなツバ付けときゃ治るような傷、全ッ然痛くねぇ!」
     思わず見ている側が青ざめるような被弾すら、一声で切って捨てた。司が見るかぎり、あともう一撃でも食らえば昏倒は免れないだろう。
    「俺もテメェと一緒さ、誰の命もこぼさず皆で笑って帰る。いいか、皆で笑って帰んだ……テメェも頭数に入ってんだからな!」
     木刀『粗削りの信念』を振りかざし、梵我は揺るがぬ確信と覚悟でもって吠えた。足止めを狙った一撃がならいへ入り、その衝撃を散らすように銀髪の頭を振って梵我を睨みつけてくる。
     アナスタシアと慧樹が攻勢に転じたその一瞬、兼広が梵我の援護に入るが、度重なる被弾で梵我がほんの少しよろめいたのをならいは見逃さない。冷徹に、確実に黙らせうる一撃で、一人、もう一人、と正確に沈めにくるならいに兼広が呻く。
    「お前がなりたいのはこんな夜に吹く北風か、違うだろう?」
    「さあ」
    「人から生まれたものに人は負けない、前に言ったよな?」
     倒れた梵我には目もくれず、迎え撃つ兼広へならいが歩を進めてきた。兼広が繰り出した戦艦斬りを左腕で受け、身体を沈める。
     アナスタシアが目を瞠った。
     回避困難な死角から兼広を襲った斬撃。がらあきになった前方から、スローモーションのように白い風雪が近づく。
     紅い月の真下、ならいの解体ナイフが深々とアナスタシアの胸に突き立っていた。
     倒れたままだった梵我、そして給水塔の傍らにうずくまったままのイコが事態を知ってコンクリートに爪を立てるが、限界までダメージが積み上がった身体はまるで言う事をきいてくれない。
     司や烏芥、兼広はもちろん、辰彦もすぐには動けなかった。
     ごく浅い息をこぼしたアナスタシアは、解体ナイフを支えるならいの手を両手で掴む。喉の奥からおそろしく濃い血臭が湧いてきた。
    「かえして……」
     ならいの冷たい色の目は口ほどに物を言う――憎悪厭悪嫌悪、殺意悪意害意、こんなに白いのに何もかも昏く黒く醜悪な怨念しか宿さない目など、アナスタシアは知らない。
     知らない。こんな日方など知らない!
    「日方を、かえして」
     足元に落ちるおびただしい量の血痕。
     凄まじい勢いで自分の身体から生命がこぼれおちていく感覚に、アナスタシアは喘いだ。闇に引きずり落とされたあの感触とも全く違う、吐き気を覚えるような生々しさ。
     急速に視界がモノクロへ薄らいで、膝が砕けそうになる。ならいの右手を掴んだ手だけは離さない。
    「返してよ……」
     目の前のならいの顔すら見えていないチェレステブルーの目を瞠り息を継いで、それでも、声限りに叫んだ。
    「アナに日方を返してよ! ここで! 今すぐに!!」
    「……!!」
     胸元に柄まで埋め込まれたままだった解体ナイフを、ならいは足蹴にするようにして力任せに引きはがした。大量の鮮血をふりまいて倒れたアナスタシアを一顧だにせず、血走った目で、次の標的はお前だとばかりに慧樹を睨んでくる。
     なぜか、大きく肩で息をしているならいの顔が苦痛に歪んでいた。烏芥は指先すら動かさないアナスタシアを、ならいの視線から遮るように立つ。
     司が懸命に回復をまわしてくれているので、すぐには動けないだろうが命の危険まではないだろう。灼滅者は非常識なくらい丈夫にできている。
    (「自分の命も、誰の命もこぼさない」)
    (「絶望なんかしてやらない」)
     こんな風にアナやイコや兼広、梵我を地に這わせて。
    「日方サン聞こえてるよな、聞こえてんだろ!」
    「いつまで無駄な説得を――」
    「お前にゃ話してねーよっ!! ちょっと黙ってろっ!!」
     断ち切るように慧樹は傷だらけの全身で一喝した。

    ●望月
    「今は休憩してるだけだ、そうだろ?」
     いや休憩は終わっているかも、と慧樹は【明慧黒曜】を正眼へ据える。
     人から生まれたものに人は負けない。兼弘の言ったことは、正しく真理だ。
     そんな事で簡単に絶望してしまうほど安くない。日方も、皆も。代償がとんでもなく高くついたことを今ここで北風に思い知らせてやる。
     屋上の事態が動いたことを察したのか、矢継ぎ早にビル下からの声がスピーカーから流れ出した。
    「聞こえるか科戸・日方、一度決めた道ならば最後まで自分の意志で歩め。帰り道はもうそこにある」
    「科戸さん、待ってる人の所に、早くお帰り下さい。……貴方がくれたその言葉、そっくりそのままお返しいたします」
     士騎と百合亞のそれに重なって、またみんな一緒に自転車さんで遠出するですよー、と月夜の明るい声音が聞こえる。さくらえの声も。
    「あの時はワタシが『選んだ』けれど……護りたい人の未来を護ったんだろう? 今度は大切な人達の為に、キミ自身の未来を護らなくちゃ!」
    「せっかくクラスメイトになれたのに、ダークネスになってハイさよならなんて絶対認めないからな!」
    「学園祭もお前の誕生日も終わっちまったけど、まだ馬鹿騒ぎできる事は色々あるだろうからさ。帰ってこいよ、科戸」
    「……そー言うこった! それに、夏休みもまだ終わっちゃいねーよ!」
     葉月と暦生の後ろから、錠が何か無理矢理まとめた感有り有りではあるが、武蔵野中央高校3年4組らしいと言えば、そうなのかも知れない。
    「言いたい事は沢山あります、が……必ず帰って来て、アナさんに、皆に、本当の笑顔を取り戻してくれると信じてます。皆が、その力になることも」
     ゆまは、アナスタシアや慧樹がどれだけ気を揉んだか知っている。でもそれは彼が帰ってきてから、さんざん聞かせてやればいい事だ。
    「夢色万華鏡のみんなも、帰りを待っているんだ。君を想っている人は大勢いる。だから本当の君を思い出すんだ――」
     ヘルマイの声にならいが身を震わせる。
    「ずいぶん厚着だなー?」
     笑顔の下へ覆い隠された、慧樹の本心を具現化したような業火が長槍を彩った。アナスタシアを離れた場所へ運んだ烏芥と辰彦が、イコと兼広、梵我の不在を埋めるようにならいの背後へまわる。
    「もういいんじゃね? そろそろ返してやンなよ、『夏』を待ってる連中にサ」
    「……わたしの矜持は、護ること」
     それは日方くんもよくご存じの筈、とイコは給水塔に背を預け、傷の残る頬で笑ってみせた。そう、こうして身は砕かれようとも、魂までは砕かれない。諦めない。
    「そう簡単には、折れないわ」
    「なーに、僕がいる限り倒れさせやしませんよ日方君、任せてください。絶対に守ります」
     ならいの中、きっとその枷を破ろうとしているはずの日方へ司はあかるく言いきった。二重の意味で、守りきると。
     ならいから皆を、そしてならいの中の日方を守ると、断言したのだ。
     白すぎる裸足の足元から暴風じみたオーラが沸き上がり、短い銀髪を狂おしく踊らせる。吹雪のように広がるオーラをまとい、ならいは氷片の刃を振りかざした。
     避けきれなかった烏芥の肩口を鮮血が濡らすが、一歩も退かない。
    「退きなさい」
     用があるのは貴方ではない、と烏芥はいっそ冷徹なほど静かに告げる。
     辰彦が至近距離から撃ち込んだ魔法矢、そして司が下した審判の光がならいを撃ちすえた。びしゃん、とアナスタシアの血だまりを踏んでならいは辰彦へナイフを突き立てようと迫る。
     その凶行を遮るように。
    「俺の炎で焼かれてみるか!」
     白いダークネスを、一瞬で飲み下した慧樹の業火。力を失ったならいの腕をバベルブレイカーで払った烏芥は、返す動作で高速回転する杭をその胴へと叩き込んだ。
     一瞬の間のあと、どこまでも白かった顔や手足に無数の亀裂が入る。
     髪や頬から、薄い氷片じみたものが剥がれ落ち、その下から見慣れた黒髪と日焼けした肌が現れた。
     その場へ崩れ落ちた日方の肩に学園祭で作ったタオルをかけてやり、烏芥はほっと息をつく。言いたいことは数あれど、今は日方が目を覚ますまでそっとしておいた方がよいだろう。兼広は億劫そうに梵我を助け起こし、エリザベスに無線で撤収を告げてから、屋上にボトルと氷を残して去ってゆく。
     皆の手当を済ませたイコは、日方へ靴を。仕事も済んだしお先です、と辰彦はひらひら手を振って非常階段へ消えた。
     慧樹と司、そして烏芥も去っていった屋上にはアナスタシアと日方だけが残される。
     胸が痛むものの、意識が戻ったアナスタシアはよく眠っているとしか思えない日方を大切に大切に抱きしめた。雪の匂いではなく、夏の日向のいい匂いがする。
     目が覚めたら、何と言ってやろうか。過ぎてしまった誕生日を祝うのは外せない。他にも部長不在になってしまった学園祭の企画のことや、残りの夏休みの過ごし方、積もる話は山ほどある。
     でも最初の言葉は決まっている。ずっと前から。
    「おかえり、日方」
     そう、とびきりの、最高の笑顔で言ってやるのだ。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年8月18日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 3/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 15
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