ビスク・ドールにはなむけを

    作者:菖蒲

    ●situation
     カツン、と厚底靴の爪先がアスファルトを蹴る音が聞こえる。
     こんなにも美しい月が見下ろしているのに今日の夜は何時もよりも不気味で仕方がない。
     静謐溢れる月の美しさに虜になったかのように男が上空を見上げたその刹那、彼の隣に黒いゴシックロリータドレスを纏った少女が立っていた。
    「――オ父様……」
     鈴の音が鳴る様な囁き声。日本人のそれとは違う発音は耳朶を滑り落ちることなく、鼓膜を叩く。
     ゆっくりと、振り仰いだ男の目の前に赤薔薇を思わせるロングヘアーにちょこりと猫の耳を生やした少女が立っていた。くりくりとした鮮やかな瞳は今日の月の色の様に美しい。
     幼さを残す少女でありながら淫魔であるからだろうか、崇高なる主人であるかのようにも思える彼女は表情の余りか笑い瞳に幾許か幸福のいろを乗せている。
    「君……」
    「サァ、私ト踊ッテクダサル……?」
     こてん、と。
     首を傾げた少女は露出の高いゴシックロリータのドレスを揺らす。黒いフリルに覆われていたスカートが舞い上がり、覗いた髪色と同じ尻尾がタシンとアスファルトを撃つ。
     男の身体に感じられたのは絶対零度の痛み。心の底から凍てつかせる様に――まるでその姿をコレクションするかの様に。
     彼女は幸せそうに「マァ、素敵。コレカラハズット一緒ネ?」と両手を合わせて唇を吊り上げた。
     
    ●introduction
     羅刹の少女の言葉に憤懣を破裂させ闇堕ちしたアイナ・ロザリア(白薔薇纏う純愛人形・d18748)が発見されたのだと五十嵐・姫子(高校生エクスブレイン・dn0001)は灼滅者達を見回しながら告げる。
    「彼女は『人形』であると言う事に誇りを持っているのでしょうか――いいえ、彼女のお父様が愛した人形である事を侮蔑された事が何よりも許せなかったのかもしれません」
     指先をすり合わせ、肩を竦めた姫子はアイナが力を得た切欠も『お父様』――愛玩人形の作者にあるのだと告げた。
    「羅刹『うたひめ』との戦闘場所から立ち去った後のアイナさんの足取りが漸く掴めました。淫魔として堕ちた先――彼女は己の欲望を満たすが為に街で凶行に及んでいます……います、が、その凶行の標的になるのはどうやら決まった人間の様ですね」
     犠牲者は全てが同一犯(アイナ)による行いである事を加味すれば、3パターンに分けられるようだ。
    「パターン1、アイナさんのお父様に似ている風貌の方。パターン2と3はアイナさんの執事さんや相棒さんというごく親しくしている人間に似た女性を狙っている――ということですね。しかし、深層意識にはアイナさんが存在しています、まだ人を殺す事はしていませんが――今後は……」
     ふるふると姫子は最悪のケースを思い浮かべて首を振る。なにはともあれ、急がれる事件であることは明白だ。現在、彼女に襲われた一般人達の中でも、彼女が力を分け与えた人間は強化一般人として動いているらしい。
    「彼女はお父様を護りたい一心で灼滅者の道を選んだのでしょう。大事な作者(ちちおや)を羅刹に侮辱された事が――作者に自分を拒絶された事とイコールされてしまったのかもしれませんね。ドールケースは氷の様に冷たかった……父親や親愛なる友人達に似た相手を狙うのは心を許せる相手を求めての事でしょうか? 心落ち着く場所を――安寧なる場所を作り出す為に『変わり』を探してのことなのかもしれませんね……?」
     闇に堕ちるというのは人の深層心理を映しだしてのことなのかもしれない。ちょっとした、予想ですが、と唇に指先を上げた姫子は困った様に小さく笑みを浮かべた。
    「なんとしてでも救出して頂きたいのです。無理ならば灼滅する事を選択しなくてはなりません。アイナさんはこの学園の生徒――ですが、いまはダークネスです。一つの迷いが大きな過ちを招く可能性があるのです」
     ですから、どうか、と姫子は灼滅者達を見つめる。
     今回助ける事が重要なのだ、と。完全に闇堕ちしてしまい助ける事が出来なくなる前に、と。彼女は真摯な瞳を揺らがせる。力強く、姫子は元気づける様に灼滅者を見回した。
    「どうか、アイナさんと共に皆さん全員で帰ってきて下さい。
     ……私は、皆さん『全員』のお帰りをここ、学園で待っていますね」


    参加者
    両角・式夜(黒猫ラプソディ・d00319)
    喜屋武・波琉那(淫魔の踊り子・d01788)
    聖刀・凛凛虎(野良猫大帝マンチカン・d02654)
    深廻・和夜(闇纏う双銃の執事・d09481)
    志那都・達人(菊理の風・d10457)
    草薙・結(安寧を抱く守人・d17306)
    シュウ・サイカ(蒼紅の薔薇を司る者・d18126)
    水霧・青羽(絆を築いて其の瑕も抱きしめて・d25156)

    ■リプレイ


     この月を人はどの様に称するだろうか。
     美しい、と絶賛するだろうか。その静謐さに目を奪われるのだろうか。それとも、寂しげだ、と心を痛めるのだろうか――

    「寂しいのは誰だろう?」
     冗句めかして告げた志那都・達人(菊理の風・d10457)の髪を夏風が弄ぶ。
     彼の手にした携帯電話は常時通話状況を作り出していた。ノイズに混じり『皆揃ったよ』とフランクに語り掛ける両角・式夜(黒猫ラプソディ・d00319)の声に達人は軽い了承の意味を込めてマイクをトン、トンと叩く。
     繁華街の一角に当たるこの場所は騒がしいネオンもなければ、人々の姿が決して多い訳ではない。世界中に――否、この場所に居るこんなにちっぽけな人数でさえも待ち望む人の影を一目で見つけられない事を深廻・和夜(闇纏う双銃の執事・d09481)は嘆いた。
     執事服を身に纏った和夜の伸びた襟足を揺らす風は何処か生温かい。
     カツン、と。
     それがヒールの音だと気付いた時、電話口の式夜が小さく息を飲む。
    『――マァ、アナタ……一緒ニ踊ッテクダサル?』
     日本語の発音よりも何処かたどたどしい声に和夜は聞き覚えがあった。否、『知らない訳がなかった』。
     振り仰いだ二人の背後に存在していた黒いゴシック・ロリータの少女。黒いフリルに覆われたスカートがふわふわと揺れている。
    『フフ、素敵ナ夜ネ?』
     ダークネスと化してその身を『人形』に明け渡したであろうアイナ・ロザリアは一礼する様にスカートを摘まみ上げて、口角だけで笑った。


     袋小路で猫が一匹座っている。にゃあん、と甘ったるい声を発する赤茶色の毛並みの猫は周囲の様子を確認する様にピンッと耳を立てて居る。
    「コッチに来るみたいだな?」
     月明かりの下、影に紛れる様に立っていた聖刀・凛凛虎(野良猫大帝マンチカン・d02654)は袋小路の外でぼんやりと月を見上げて居る。
     闇堕ちしたダークネスを誘き寄せる作戦に出た灼滅者達のうち、ターゲット――アイナが狙うとされていた対象である『執事』和夜とその友人である達人――以外の全員はこの袋小路で息を潜めている。
     生温い風に尻尾の揺らぎをのせていた猫――喜屋武・波琉那(淫魔の踊り子・d01788)にぎこちない笑みを零した草薙・結(安寧を抱く守人・d17306)は不安げに晴天色の瞳を揺らしている。
    「師匠……大丈夫、ですかね」
     きゅ、と胸の前で組み合わせた掌。彼女を横顔に視線を配り、小さな溜め息を吐き出したシュウ・サイカ(蒼紅の薔薇を司る者・d18126)とて、通常のダークネスとの戦闘でない事を知っている。
    「救出か。……少し、緊張するな」
    「そうだな。しかし、全力を出すだけだ」
     普段の明るい表情を曇らせた水霧・青羽(絆を築いて其の瑕も抱きしめて・d25156)にシュウはしっかりとした声音で告げた。
     聞こえる車輪の音に身を固くした青羽は何時もならば面白可笑しく場を盛り上げることに徹するその意識全てを車輪の音へと集中させた。
    (「コトがコトなのでフザケはなしで――今は彼女を救う事を考えようっ」)
     頷き、意志を固くした彼の瞳に差し込んだ光は眩い月光だった。

     猫の耳がゆらゆらと揺れる。柔らかな紅色の髪を靡かせたアイナは今は『人形』その物だ。
     カツン、とヒールがアスファルトを蹴り上げる。ふんわりと広がったフリルに包まれたほっそりとした脚は器用に着地し、スカートを持ち上げる。
    『何故、逃ゲルノ? 踊リマショウ……』
     ほら、と誘う様に伸ばされた指先に、伸びた襟足を掠めた冷気を避ける様に体を捻った和夜が勢いよく袋小路へと転がりこむ。
     ライドキャリバーの空我から手を離し、振り仰いだ達人へとダークネスは愛らしく礼をして見せる。
    「アイナ……」
     一つ、目配せを送った式夜の足元でお藤と呼ばれた霊犬が和夜へと癒しの補助を与える。
     袋小路へ向けてダークネスと化したビスク・ドールは首をこてんと傾げて見せる。冷気を生み出した指先は未だに標的へと向けられていた。
     意識は全て目の前の標的に向けられている。それを好機と取ったのは波琉那。靱やかに走り抜け、猫の姿から人間へと戻った彼女はエアシューズでアスファルトの上を走る。
    「初めまして、だね? アイナちゃん。わたしは波琉那。一つ、よろしくね?」
     ウインク一つ。愛らしく微笑んだ波琉那はダークネスが配下として連れて居た男の顔面を一気に蹴り上げる。
     流星の煌めきとその重みを加えた攻撃に強化一般人が呻くのが戦闘開始の合図。
    『邪魔、シナイデ……?』
     少女のポケットから薔薇と杯の彫刻が施された懐中時計が静かに毀れ落ちた。


     繁華街より幾分か闘いやすいその場所は伽藍とし、寂しささえも感じさせる。
     殺気を放ち、周囲の人払いを済ませたシュウはスレイヤーカードを器用に指先で持ち上げ静かに囁く。
    「舞い散る蒼紅。祝福されし情熱の薔薇――」
     故に、己が咲き誇るか。鮮やかな赤い瞳に宿したのは赤薔薇の意思だろうか。巨大な鉄塊が如き刃を大きく振り翳したシュウは一般人の身体を薙ぎ倒す。
     その視線が映したのは、やはり闇に堕ちた少女の姿だった。
     教室で聞かされたのは彼女が闇に堕ちた瞬間の話し。ダークネスに『人形』を莫迦にされた事が己が親愛なる父親に不要だと扱われた様な気がしたからではないか、とエクスブレインは語っていた。
     その言葉を思い出しシュウは尖った八重歯で唇を噛み締める。愛する人を喪う辛さを己は良く知っている。
    「……お父様のことを大切に思っていた事は知っている。知っているからこそ、自分は……」
     彼女の想いを護る事が、彼女を闇から救いだす事になると知っている。
    「たつまき、お願いします……ッ」
     囮役として先にアイナと接敵していた二人の前へと庇う様に立った結は連れて居たナノナノのましゅまろへと礼儀正しく告げる。明朗快活な結の瞳に浮かんだのは時折見せる寂しげな表情。髪を飾った母の形見の形をそっと指先でなぞり、結は唇を噛み締めた。
    (「おかえりなさい、っていって、師匠のケーキ出して、皆でお茶会、がしたいんです。
     一人でも、欠けちゃ、駄目なんです……。寂しいのは、もう、嫌なんです……っ」)
     手にした解体ナイフ。ナイフに蓄積された犠牲者たちの呪いが作り出す毒の風が強化一般人の身体を包み込む。
     焔が如き赤い瞳は魔的な光りを宿した侭にしかと少女と強化された一般人を見据えている。青羽の手に握りしめられた祭礼剣・ネプトゥナリアは青く澄んだ液体を凝固させた刃をくねらせて、蠢く。
    「まぁ、君がどうしてそういう行動に出てるか……面識のない俺は何も知らないけれどもね。安寧の場所を求めて作ろうと、って姫子の推測が正解ならその気持ちは解るよ」
     流した瞳の先に居た少女は何処か、艶やかにルージュを引いた唇を歪める。それは無表情な人形のような少女の一寸した感情を映しだしたようにも思えた。
    『何ガ分カルノ?』
     伸びあがった影が作り出すマリオネット。牙を向く獣を象るソレが青羽の心に与える心的外傷は彼の記憶を揺さぶり掛ける。
    「ッ――!」
     幼少期の小鳥を猫に食われたトラウマに、アイナの影が作り出す虎の姿が重なった。恐怖に引き攣った口角を何とか戻さんとする青羽の前を行く凛凛虎が暴君の名を冠した深紅の大剣を振り翳し、その恐怖の影を一気に断ち切った。
    「本当は俺じゃなくって、他の奴がいたけど、俺が代わりにお前を連れて帰る! 待ってたぜ、お嬢さんよ」
    『『舞』ッテクダサル?』
     冗句を重ねる様に告げた淫魔の艶やかな笑みに凛凛虎は肩を竦める。
     彼女の周囲に存在する強化一般人を見据え、凛凛虎の纏う破壊と殺戮の使命が作り上げたのは、彼を戦闘へと赴かせる力と義務感だろうか。
    「わたし、迷う人をほっとくのは性に合わないんだよね」
     長い髪を揺らした波琉那の隣を霊犬のピースが走り抜ける。強化一般人を蹴り付け動きを止める波琉那が体を逸らしたその場所へと、ピースの六文銭射撃が飛び込んだ。
    「わたしとイイことしない?」
     誘う様に、柔らかに笑みを浮かべる波琉那の頬を掠める一般人の腕。ふわりと避けたソレを掴んだ式夜の爆ぜるオーラが春の花を思わせるが如く荒々しく顕現する。
    「愛玩物の誇りとか意地とか、俺そういう禁断めいたの結構好きよ?」
     飄々とした笑みを浮かべた式夜の視線の先では舞う様に踊るアイナの姿がある。
     愛玩物であった少女の『誇り(あいじょう)』はどれ程深いものだったのか。女の子に優しい式夜のサポートは前線での戦いに挑む波琉那にも向いている。
    「まぁ、今回は俺は王子様役じゃないからちょっと残念だけど、従者気分も結構好きだから、しっかりと働かせて貰いますかね!」


     滑り落ちた懐中時計の秒針は止まっていた。大事に持っていた筈のソレに気を配る事もせず、少女は月に照らされるその場所さえもダンスホールに見立て、踊(たたか)い続ける。
     彼女の周りで必死に声を掛け続ける仲間達へと視線を向け、青羽は溜め息を付いた。
    「仕方ない事なんだけども……こう、女性を攻撃するのって凄く、罪悪感だ。
     そろそろ判ってくれてもいいだろ? 作るまでもなく、アンタの居場所はある様に思えるけどな」
    『オ父様ガ愛シテクレナイト……』
     いやいやと首を振る様に、その愛情を疑わぬ様にダークネスは己の居場所を探す様に膝をついた和夜へと狙いを定める。
     アイナの狙いは、彼女の標的として掲げられていた人物像に合致する。つまりは、彼女の親愛なる執事こそが、此度の戦闘の要なのだろうか。
     強化一般人を薙ぎ倒し、シュウは己へと絶対不敗の暗示をかけて立ち回る。柔らかに髪を揺らした彼の眸もまた、大きく揺らいだ。
    「一般人を襲ってまで『変わり』の仲間を作る必要はない。
     何故ならば、貴女にはたくさんの素敵な仲間が――居場所が学園にあるだろう?」
    『学園ナンテ……』
     いつかは、愛は崩れるもの。ダークネスの言葉に迷いが生じた事に気付き、静謐溢るる瞳に涙をためた結がナイフを手にアイナへと切りかかる。
    「いてほしい、なら、そんな武器はいらない、です。まっすぐに手を伸ばすだけ、でいいんです。いらない、なんてそんなこと、ないんです!」
     寂しい事は嫌だとその感情を押しだした結の決意は固い。唇を噛み締めた少女がふるりと首を振る。
    『ソレジャ、手ニ入ラナイ。奪ワナクッチャ』
    「愛ってのはそう強制するものでいいのか? 俺が知ってる愛ってのはな、互いのここが通じあってこそなんだ」
     とん、と胸を叩いた凛凛虎が大きく吼える。そのオーラを纏った侭に、彼女の腹を殴りつければ、ダークネスは咽喉から大きく息を漏らす。
     ひゅう、と鳴った喉元にぎこちなく首をかげたアイナの目の前で凛凛虎は怒りを瞳に宿したように、声を荒げる。
    「良く見ろ! お前を思って、集まった皆を、お前を愛してくれる奴らを!
     何が不安なんだ? もう冷たくないだろ? 皆揃って帰るぞ! アイナ!」
     大きく吠えた青年に同調する様にシュウが攻撃を繰り出した。
     アイナが放つ氷に巻かれ、身体を固まらせるましゅまろに「冷やしましゅまろっ!?」と瞬く結の瞳にも明るい色が宿されている。
     周辺の排除にあたった青羽はアイナを逃がさぬ様に気を配り、波琉那はしかと、少女の顔を見詰めていた。
    「皆で帰るんでしょ?」
    「勿論、お姫様を連れて帰るのが従者の役目だよ。お城から抜け出すなんてワルイ子だ」
     冗句めかして告げた式夜が大きく礼をする。一期一会の縁を大事にする様に、彼が捉えたアイナの想いを逃がさぬ様に影を伸ばす。
     真っ直ぐ、前線へと走り抜けた影は、「アイナお嬢様」と小さく呼んだ。
    「お迎えに上がりました。さあ、帰りましょうか、お嬢様」
     それは、式夜が『王子様』と例えた存在か。
     頬から流れた血を拭い、和夜は黒い瞳を瞬かせる。
     護る事が出来るから。救うことだって出来るから。望むなら、傍に居ると、誓うから。
     アイナの放つ氷の痛みを受けとめて、和夜は唇を噛み締める。
    「私は貴女の執事です。貴女の望みなら何でも叶えましょう。
     私は貴女の為に執事としてここにいる。
     貴女を――アイナを愛する一人として、ここにいるのです」
     共に過ごす事の楽しみがあるのだから――彼女を愛する者として。 
     自分の愛した彼女は、きっとそうではない。
     否定された事に怯えているのだろう。手を伸ばし、優しい笑みを浮かべた和夜の手から武器が滑り落ちる。
     くちびるは、ゆっくりと『それ』を吐き出した。
    「愛してます――臆病者」

     ぽた、と。
     それはこの月夜に似合わぬ通り雨の様に。陶器の様な肌を滑り落ちた『アイナ』という少女の欠片。
     ほっそりとした指先が、ふるりと震えた。

    『ワ……タシ――』
     その声音は、壊れそうな程に震えて、
    『ダッテ……オ父――サマ……?』
     柔らかな、月には余りにも似合わない冷徹な響きが薄れて行く。
     達人は肩を竦め困った様に小さく笑みを浮かべる。きっと、皆心配しているよ、と彼の浮かべた笑みは何処までも優しい。
    「臆病者はもう眠る時間だ。
     ねえ、君の居場所はさ、君が思ってるより沢山あるんだ。
     学園が、俺の店が、君が訪れたすべての場所が、居場所なんだ。
     だから……戻って来てよ、アイナさん」

     ぽた、と。もう一つ。雫が落ちた事を見逃さぬ様に和夜は目を伏せた。
     月の光りに融け込んでしまったかのように、彼女の体から黒き想いの気配が抜けて行く。
     とん、と膝をついた少女は毒気が抜かれたかのように呆然と眼を見開いている。
    「……おかえりなさい」
     そこにあったのは獣の気配でも憎悪を宿した人形(ぬけがら)でもなく、一人の少女。
     おずおずと笑みを浮かべる結に、ましゅまろは嬉しそうにアイナの頬へと擦り寄った。
    「えと、おかえりなさい、のお茶会、したいです……」
     気付いた様に慌てて結の許へと戻ってくる恥ずかしがり屋のナノナノに平穏を感じ、ふっと息を吐いた青羽へと波琉那は柔らかく笑みを浮かべる。
    「そうだね、店でお茶会をしようか。弟子の腕前、見て行ってくれよ?」
    「はい! 師匠直伝、の腕前みせるのです!」
     友人たちの顔を見詰め、ぼんやりとした少女の瞳には次第に光が宿り出す。
     わたし、と彼女が告げる前に唇へと指先を上げた和夜はアイナの身体をそっと抱き上げた。得た傷が痛むという様に顰めた表情に結は心配そうにおずおずと見上げるが、彼女は笑みを浮かべたままだ。
    「……お嬢様の痛みですから。さて、帰りましょうか」
     茫と照らす月光の眩しさに少女がそっと瞳を開く。
     視界いっぱいの月と、笑みを浮かべた執事の姿がそこにはある。
    「……帰りましょう」
     今日の月は何かしら、とぼんやりと瞬いた彼女の手にはしっかりと秒針の動きだした懐中時計が握りしめられていた。

    作者:菖蒲 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年8月10日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 5/感動した 3/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 2
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