武蔵坂学園内掃討戦~月華

    作者:西宮チヒロ

    ●acciaccato
     ――撤退しろ!!
     その誰かの叫びは、まるで雷であった。
     鼓膜を抜けた言葉が、全身を駆け巡る。
     言葉の意味を解したのではなく、反射的に飛び出していた。
     帰る場所なぞ唯一つ。奴隷化の中に在っても片時も忘れることのなかった姿が、まだ少年とも呼べるであろう見目の、その男の脳裏を占める。誰よりも愛おしい、透き通るほどの肌。緩く波打つ銀髪。そして、月を思わせる金色の瞳。
     駆けながら首許に触れる。もうあの忌まわしい奴隷の首輪はない。それは紛れもなく自由を意味していた。
     だが、その高揚感も忽ち現実に塗り潰される。
     物陰に隠れながら漸く見つけた退路の先には、悉く灼滅者がいた。力を取り戻した今であれば倒すのも容易いだろうが、ここは敵の本拠地。騒ぎを聞きつけた他の灼滅者たちが百、千と襲いかかってきては、さすがに勝機はない。彼の絞首卿ボスコウも、それ故に討たれたのだから。
     男は再び駆け出した。校舎外にはもう逃げられない。ならば、せめて人のいない方へと思うも、それも終ぞ路を断たれてしまう。
    「ここまで、か」
     眼前には鍵の掛かった洋風門。周囲には灼滅者らの気配。すぐ向こうは、もう街だというのに。
     苦々しく柳眉を寄せるも、優しく過ぎった夜気に男は弾かれたように顔を上げた。
    「……月下美人」
     宵の風に揺らぐ、一筋の大輪。彼女の愛した花。久しく忘れていた香りに惹かれるように近づくと、男は寄り添うように腰を下ろした。細やかな彫細工の美しいナイフを胸に抱き、思い直す。
     嗚呼、そうだ。
     薙ぎ払えばいい。障害など、すべて屠ればいい。今はもう、何の枷もないのだから。
    「ねえ、そうでしょう? 姉さん」
     
    ●alzando
    「良かった……! 皆さん、ご無事ですね。今回は本当にありがとうございました」
     そう安堵に顔を緩ませると、「サイキックアブソーバーもちゃーんとぴんぴんしてますよ」と、小桜・エマ(高校生エクスブレイン・dn0080)は笑みを深める。
    「向こうも、作戦が失敗したことで、爵位級吸血鬼やその配下にあった戦力の多くが撤退していきました。けど……全部ではないんです」
     うまく路を見つけられず、撤退しそびれてしまったダークネスたち。
     校舎内や校内の施設に篭城する者、潜伏する者。いずれにしても、学園内に取り残された彼らをこのまま野放しにしておくわけにはいかない。
    「お疲れなのにすみません。今日最後の掃討作戦……お願いできますか」
     娘は申し訳なさそうに言うと、そう頭を垂れる。
     
    「今回の相手は、奴隷級ヴァンパイアひとり。名前までは解りませんが、銀髪で金の瞳の、高校生くらいの男の子です」
     攻撃手段は、ダンピール、そして解体ナイフのサイキックと似たもの。
     ひとりとは言えども、絞首卿ボスコウの拘束から開放された彼は、本来のヴァンパイアとしての力を取り戻している。戦闘で疲弊はしているがその体力は未だ高く、一撃も重い。強敵、そう呼んでしかるべき相手だ。
    「裏門のそばに、月下美人が咲いてるのご存知ですか? ……彼は今、そのあたりに潜んでいます」
     丁度今宵咲き頃を迎える白い花の、その香が彼の居場所を教えてくれる。
     追われる身である彼は、極限まで五感を張り巡らせている。近づけば気配や足音で事前に気づかれるだろう。
     故に、不意打ちは望めない。
     だからこそ唯、追い詰めて討つ。
     自由を渇望する者と、それを赦さぬ者。これはその闘いに他ならない。
     もしもの話ですけれど、と言いづらそうに断ってから、エクスブレインの娘が最後に言う。
    「勝利が見えないときは……どうか無理はしないでください。学園外へ逃走できる路を開ければ、彼は逃走を優先するかもしれません。……いえ、きっとします」
     辿り着いたその先に、焦がれる場所があるならば。


    参加者
    加藤・蝶胡蘭(ラヴファイター・d00151)
    東当・悟(紅蓮の翼・d00662)
    神薙・弥影(月喰み・d00714)
    色射・緋頼(兵器として育てられた少女・d01617)
    黒鐘・蓮司(狂冥縛鎖・d02213)
    室本・香乃果(ネモフィラの憧憬・d03135)
    硲・響斗(波風を立てない蒼水・d03343)
    関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)

    ■リプレイ


     甘い香りが、微かに揺れた。
     ひとけのない校舎の隅。淡く辺りを照らす月光に変わりはなくも、ヴァンパイアの男は立ち上がりざま大地を蹴った。
     気配を断とうとも解る。姉の愛した花が教えてくれる。
     灼滅者が、己を狩りに来たのだと。

     包囲されていることを識りながらも、男は月華の中を早駆けた。眼前で闇が、否、闇に尚栄えるドレスが柔らかに舞った。歳の近しい見知らぬ少女。けれど内を巡る血がそぞろに騒ぐ。嗚呼、お前は――。
     瞬間、間近に感じた気配に、男は片足をついて加速を殺すと、振り向きざまにナイフを繰り出した。
     空を切る感触。同時に、足から這い上がるような激痛が男を襲う。
     断ち切られた腱の痛みを強引にねじ伏せ、崩れかけた身体を起こした先には、黒髪の少年、東当・悟(紅蓮の翼・d00662)の姿があった。どこか憂いを滲ませた双眸でただ、真っ直ぐに睨め付ける。
     意図的か。それとも宿命か。
     いずれにせよ、包囲陣の、男の正面に位置する場所に宿敵たるダンピールの少女、色射・緋頼(兵器として育てられた少女・d01617)がいたのは、灼滅者たちにとっては好機であり、そして男にとっては不運に他ならなかった。
     まるで人形のように可憐な娘が、未だ闇を識らぬ同胞が真っ向切って向かってくる様は、ほんの一瞬だがヴァンパイアの気を留めた。そして死角からの一撃に揺らいだ身体へ、螺旋を纏う緋頼の槍が穿たれる。
    「……ッ、灼滅者なんぞにしておくには惜しいですね」
    「あなたは敵。なら、わたしは灼滅者の役割を果たすまでです」
     容赦なく、ただ屠るだけ。
     そう語る無感情な瞳を受け止める間すら赦されず、関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)の獲物が振り下ろされ、加藤・蝶胡蘭(ラヴファイター・d00151)の雷を纏った左手が男の顎へと放たれる。
     花に惹かれる心を持つ者を倒すのは忍びないが、それでもダークネスを野放しにするわけにはいかない。
     だからせめて、その月下美人が咲いている間に。
     その覚悟は、室本・香乃果(ネモフィラの憧憬・d03135)もまた同じであった。
     逢瀬を望む気持ちは解るけれど、決してそれを赦すわけにはいかない。彼はダークネスで、そして己は灼滅者なのだから。
     硲・響斗(波風を立てない蒼水・d03343)からは狙いの加護を、神薙・弥影(月喰み・d00714)からは耐えうる力を受けて、香乃果は月に滲む灰白の髪を靡かせながら男に肉薄すると、流星を宿した重い一撃を男へと見舞った。片足で着地し身を屈めたところに、黒鐘・蓮司(狂冥縛鎖・d02213)の鋭利な刃が繰り出される。
     脇腹を抉った切っ先を、一気に引き抜く。獲物を伝い、アスファルトへと描かれた緋花を一瞥すると、蓮司はその気怠げな視線を男へ向けた。
    「自由の身になったトコすんませんけど……逃がすわけにはいかないんで。……ボスコウの元奴隷なら、尚更ね」
    「その『ボスコウの元奴隷』に対して、たった8人とは甘く見られたものです」
     ボスコウの元奴隷。
     その言葉に自嘲を孕ませながら、銀髪の男はその端正な口端を歪ませた。秀麗な彫細工の施されたナイフを構え直す様に、蓮司もまた、獲物を持つ手に力を込める。
    「……それじゃ。覚悟、してくださいよ?」
     抉って、挽き潰して、切り裂いて、蝕んで。
     ――アンタを、殺します。


     男の咆吼が戦場をふるわせた。
     華奢な見目からは想像もつかぬほどのそれとともに、ナイフから湧き上がった闇は瞬く間に巨大な竜巻となって蝶胡蘭や悟たち前衛を飲み込んだ。
     皮膚を割き、身体中を這いずり蝕む痛みは、これまで男に奪われた幾多もの命の呪詛。噎ぶ嵐はまるで断末魔のようで、峻はただ歯を食い縛りすべてを堪えた。
     防御する余裕すらなかった。
     その聞くに違わぬ強さに高揚しながらも、男の境遇に僅かながら同情の念を抱く己はやはり甘いのだろう。
     それでも、この手で屠った全てを背負っていく。それはとうに決めたこと。
     だからこそ、決して攻める手を止めはしない。
    (「共感出来る所もあるけど、今は集中……っと」)
     似たような想いを抱く響斗は、そう心中で思考を切り替えると、手早く愛弓に矢を番えた。
     相手が誰であっても、掃討戦というものはいつの時もあまり後味が良いものではない。
     ただ、だからこそ、誰かがやらねばならないのなら喜んでこの手を汚そう。僕らにだって、大事なものはあるのだから。
     何かが起こってしまう前に、一刻も早く討つ。
    「護りの札よ、受け取って。バックアップは任せて」
    「回復は気にせず、皆頑張ってねーっ」
     手早く、無駄なく治癒を施す弥影と響斗に支えられ、地面に叩きつけられるように解放されるや否や、攻撃へと転じる緋頼たちに続き、峻もまた、皆を護るべく巨大なシールドを展開した。
     甘く花の香る戦場に、灼滅者たちの動きにあわせて幾つもの灯りが踊る。
    「みんなおおきに! ぎょうさん元気もろたでー!」
     いつもの笑顔を見せて飛び出した悟の、その横顔からはもう笑みは消えていた。
     愛しい片割れの眼鏡を懐に抱き、抜刀とともに刀へと変化させた影翼で風を切りながら、金目のヴァンパイア目掛けて戦場を駆け抜ける。
     胸を過ぎるのは、唯ひとりのダンピール。眼鏡の奥、金の双眸を柔らかに緩ませ微笑むその姿が、対峙している男と重なる。
     ――エマはなんでこいつ見つけてしもたんやろな。
     けれど、これが果たさねばならぬ勤めであることは悟も十分に理解していた。唇を強く結び、炎を帯びた刃を己の脇から一気に薙ぎ払う。
     炎に塗れ堪えきれず呻く男は、続く香乃果と蓮司の氷柱に叫びをあげた。
     視界の端で揺れる、白い大輪。
     そこから放たれる闘いの場には不釣り合いな芳香が、獲物を交えるたびに匂い立つ。
    「待ち構えるなら、他にいい場所幾らでもあったでしょーに。……ここじゃなきゃダメな理由でもあったんですか」
    「……焦がれていた、ものが……そこに、在ったなら……留まらない理由など、ないでしょう!?」
     蓮司が問えば、足止めされ、手足を封じられ、熱と冷気に灼かれた男が悲痛な叫びをあげた。
     やらねばならないと解っていても、男の悲鳴は香乃果の胸を締め付けた。それでも耐えながら見つめていた先、その金の眼がぎろりと動く。
     男が与えた傷の分だけ、たちどころに治癒してしまう癒し手たち。
    「まずは、邪魔なモノからひとつずつ……消していきましょうか……!」
     内に湧き上がる怒りを抑え込んだ男の、その双眸が弥影のそれと交じる。
     治癒者潰し――。弥影の瞳が見開かれると同時、動いたのは蝶胡蘭であった。
     射線に割り込み咄嗟にシールドを構えるも、一歩遅かった。男のふるったナイフの切っ先は、忽ち蝶胡蘭へと血の逆十字を刻み込み、娘の服を鮮血で染め上げる。
    「加藤さん!」
     衝撃と、喰らった痛みのままに前のめりになりかけた身体を、どうにか両足で踏み留まる。娘は上半身を起こすと、案じて名を呼ぶ弥影へ背中で笑った。
    「だ、いじょうぶだ……! このくらい、ボスコウに比べたら――」
    「ッ……お前は、あの時の……!?」
     途端、ヴァンパイアは顔を強張らせ――そしてすぐに笑みを浮かべた。そうか、そうか。そう独りごちながらくつくつと笑う。
    「まさか……」
    「ええ、いましたよ。ボスコウが、討たれた……ハハ、まさに、あの場にね」
     響斗の問いに、男は一層自嘲気味に笑みを深めた。
    「ククク……嗚呼、ならば……それは、丁度良いお礼になりますね」
     男の双眸に映った蝶胡蘭が、ぐらりと歪んだ。


    「しっかりして! 惑わされちゃ駄目よ」
     癒しの風に乗って届いた凛とした声に意識が引き戻されると同時、一筋の閃光が眼前で弾けた。
     振り下ろした獲物の先には、変わらず無表情な緋頼が、闇に煌めく鋼糸でそれを受け止めていた。更にふたりを護るように敵と対峙している悟や峻の姿に、惑わされていたのだと瞬時に察した娘は、緋頼へと詫びながらヴァンパイアに視線を移す。
    「ご大層なお礼じゃないか」
    「おや、お気に召しませんでしたか? ククク……それは残念です」
     小馬鹿にしたように肩を竦めた男にひとつ嘆息すると、蝶胡蘭は向き直って静かに問う。
    「……一つ聞くが、自由を手にしてこれから何をするつもりだ?」
    「何故、あなたは生きたいのですか?」
     訊ねながら、緋頼もまた答えを探す。
     吸血か、殺戮か、悦楽か。
     ダークネスとはそういうものだ。
     これらの理由ならいつものこと。答えたくないのなら、それでもいい。
     どれにも当てはまらぬ答えなら――それはとても、とても、楽しいこと。
     花ひとつに執着してるーな感じもするし。なーんか、妙に人間くせぇ奴ですね、こいつ。そう思い続けていた蓮司も、淡々とした眼差しで男を見つめる。
    「姉さんといつまでも一緒にいたい……僕の望みは、生きる意味は、それだけですよ」
     だから、そのために死んでください。
     そう言って、その秀麗な顔を歪ませ笑う男に、香乃果はただ瞳を伏せ、蝶胡蘭は嬉しそうに口端を上げた。
    「……それを聞いて安心した。これで心置きなくお前を倒す事が出来る!」

     治癒者を先に落とせなかった時点で、男は己に勝機がないことを悟っていたのかもしれない。
     事実それは確かであったし、だからこそ気休め程度の治癒は棄てたのだろう。なお嵩む痛みを、拘束を振り切って、男は言葉にならぬ声をあげながら、唯がむしゃらにナイフを振う。
    「絶対に、誰も倒させない……っ!」
     何度目かの呪詛の嵐は、漸く動きを追える程度で、未だ回避には至らない。それでもまだ両の足で立っていられるのは、響斗と弥影という、二層の回復のお陰に他ならなかった。
    「いい加減、もう降伏せー!」
     信頼を得るには足りない。
     かといって男が従うような状況でもない。
     解っていても、口をついて出そうになる。
     ――助けたい。ほんまは。
     己の傷も大概だったが、それ以上に傷を重ねたヴァンパイアへ悟はたまらず叫んだ。男はちいさく驚くと、肩で息をしながら困ったように笑う。
    「降伏……しても、殺すんでしょう……?」
     けれど、灼滅者とダークネス。
     その関係である以上、それが逃れられぬ答えだ。
    (「……まぁ、根っこはダークネスのそれか」)
     相容れないなら、互いに殺り合うだけ。
     今までも、そしてこれからも。
     ならばと一気に懐へと飛び込んだ蓮司は、気を宿した拳で男の顔を、身体を、四肢を連殴した。幾つか骨をやられたのだろう。内からは身体が悲鳴を上げ、意識が揺らぐ。
    「月の下で一緒に踊りましょう」
     吸血、殺戮、悦楽。そのどれにも類さぬ答え、その純粋な強さに、緋頼は敬意を持って応じた。悟の動きを追い、間合いが空くごとにそれを詰め、技を叩き込む。
     彼とわたしは、敵。
     良い相手。良い闘い。
     緋頼にとってはそれがすべてであり、そして感情の絡まぬ応酬はある種、男にとっても気が楽だったのかもしれない。
     お前が一番厄介だから。そう零すと、瞬時に歪めた刃でその胸を抉り、血肉を荒々しく掻き出した。片膝をつきかけたところへ、弥影が再び治癒の風で包み込む。
    「俺のことは好きなだけ恨めば良い。お前のこともその想いも、全てを俺は背負っていく」
     救うことも出来ず、ただ刃を突き立てるしかない俺に出来るのはそれだけだから。
    「まだ、だ……まだ、終わって……ない……!」
    「お前の体に愛を教えてやる!」
     怒りのままに峻へとナイフを突き出した男の、その背後に回り込んだ蝶胡蘭が強烈な一打を見舞い、高く跳躍した峻が振り上げた紅刃を叩き込んだ。
     後ろへの攻撃はすべて防ぐ。それが己の役目。必ず護るのだと芯を貫くその背を、香乃果は案じながらも心強く思う。
     傷つき流れる血を見るのは辛い。
     けれど、決して眼を逸らしはしまい。終わらせねばならない。
    「ねえ……さん……。今、帰る、よ……僕、もう、すぐ……」
     息を継ぎながら蹌踉めくと、男は背から仰向けに崩れ落ちた。既に視界も朧なのだろうか。焦点の定まらぬ金の双眸に、淡く零れる月影が滲む。
     ごめんなさい。
     ごめんね。離れ離れにさせて。
     そう弥影と香乃果、そして響斗が零せば、何故謝るんですか、と辿々しい声が返ってきた。
    「私たちは、人間を守る立場。人間に悪さをする人は見過ごせないわ」
    「たとえそれが、貴方を追い詰め、その想いを引き裂くことになっても。貴方が薙ぎ払うと決めたように、私達もそうしなければならないの」
    「僕にも、守りたいものがあるんだ。だから」
    「……なら、何を、詫びる……必要が、あるん……です、か?」
     男の言葉に、誰も反すことはできなかった。代わりに、弥影が静かに問う。
    「……貴方の名前を教えて?」
    「名無しのヴァンパイアでは寂しいからな」
     そう、口端を緩めて顔を覗き込む蝶胡蘭。
    「私は香乃果。……貴方のことを、ずっと覚えておきたいから」
    「せや、俺は東当・悟や。俺にもな、ここに帰る約束して戦に行った奴がおるねん」
     言いながら、指輪を包み込むように握りしめる。
    「……フェ……リ、クス」
     ――フェリックス。
     消え入りそうな声でそう名乗った途端、男は喉に溜まっていた血溜まりを吐き出した。口の周りを血で汚しながらも、幼さを残す笑みを浮かべる。
     もう、これ以上は。
     皆が皆へと視線を向ける中、蓮司が音も無く立ち上がった。獲物を両の手で逆手に持ち、血塗れのままの切っ先を、ヴァンパイアの胸の上へと翳した。

    「何か言い残すことは?」
    「せや、待ち人に伝えたる。約束や」

     緋頼と悟のその声が、男に聞こえていたかどうかは解らない。


     珍しい花故、学園外ですぐ同じ花を見つけることはできないけれど。
     ならば此処が一番近しいからと、響斗の提案で、フェリクスの行く手を阻んでいた洋風門の鍵を開けた先で亡骸を焼いた。
     欠片も残さず焼き尽くした悟の炎は、せめてもの浄化。
    「なあ、隷属してでも再会狙ったんとちゃうんか。やったら、もう一度――」
     言いかけた言葉は、酷すぎる話だと唇を噤む。砂塵に塗れて唯ひとつ残されたナイフは、月の光を浴びて仄かに煌めいていた。
    「なんで見つかったんや……あんじょう逃げんか!」
     人もダークネスも、想いは同じだろーが!
     骸の砂を爪を立てて握りしめ、悟はやり場のない心のまま拳を地へと叩きつけた。
    「『ただ一度だけ逢いたくて』……か。あの少年にも、逢いたい人がいたんだろうか」
     それが誰なのか。どこにいるのか。今の蝶胡蘭に識る術はない。
     どうか今夜は、彼を愛した人のように、彼の魂をずっと見守っていてあげて。そう願う香乃果の傍ら、峻もまた冥福を祈ると立ち上がった。
    「俺達も帰るぞ、香乃果」
     帰る場所があるのは幸せなことだよな、と柔らかく笑む青年に、娘もまた、ちいさく頷く。
     せめて、心は還ることができますように。
     あの人が戻りたかった、戻るべき場所へ。

    作者:西宮チヒロ 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年9月16日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 2/感動した 4/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 1
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