午前三時の終末論

    作者:菖蒲

    ●situation
     星空と言う名前のヴェールが被さった世界がそこにはある。浅い眠りの中で見続ける夢は何時だって幸福なものだった。眉根を寄せ、唇を戦慄かせる。只、静かに眠りへと落ちて行く感覚は青年にとって心地よいものだ。
     傍らに立つ少年にも気付かずに深い眠りについた青年は規則正しい寝息を立てて居る。宇宙服の少年は青年の頭の傍にしゃがみ込み唇をゆっくりと釣り上げた。

     ――君の絆を、僕に頂戴ね。

     朝の時間は、柔らかに訪れる。瞬きを何度か繰り返し、欠伸を噛み殺した青年は傾いだ扉に手を掛ける。
    「あ、おはよ。拓くん、お休みだからってお寝坊さんだねえ」
     扉の向こう側、整頓されたリビングに置かれたソファに腰かけて居た婚約者が顔だけで此方を振り仰ぐ。よく見れば時計の針は十時を示しているではないか。普段ならば愛おしい気持ちが溢れる筈なのに、随分な寝坊だなとだけ、只、茫と考えた。
    「拓くん、式場の件だけど――……聞いてる?」
    「ああ、……なんだっけ」
    「んーん……気分じゃないならいいけど、来週までには決めようね?」
     肩を竦めた婚約者の彼女の横顔が何処か寂しげに見えて。そうだ、今日は彼女――美雪と式場を選びに行くはずだったのに。如何してだろうか、気乗りしない。まるで、昨日まで愛しかった恋人が他人になったかのような、そんな気がした。

     ああ、如何してだろうね? 君が居ないと、世界が終わってしまうとも感じて居たのに。
     今は、そんな風には思えないんだ――……。
     

     柔らかに差し込んだ残暑の日差しは生温さを感じさせる。カーテン越しの陽に目を細めた五十嵐・姫子(高校生エクスブレイン・dn0001)は「絆、ですか」と小さな声で囁いた。
    「絆という言葉は神秘的でもありますね。まるでその言葉自体が秘め事の様な――……少し、ロマンチストの様で気恥ずかしいですね。
     お集まりいただいた理由は『絆のベヘリタス』の動きが見られたからなのです。絆のベヘリタスと関係が深いだろう謎の人物が、一般人から絆を奪っている事はご存知でしょうか?」
     照れ臭そうに肩を竦めることから一転し、真摯ないろを瞳に宿した姫子は灼滅者を見回し言葉を選ぶ様に唇を震えさせる。エクスブレインという立場から情報を正しく伝えねばならないのだろうが――少々ショッキングな出来事である事には違いないのだろう。
    「『絆』を奪う……というのはその関係性を忘れてしまうと言う事と同義ですね。
     絆を奪われた人間は『絆のベヘリタス』の卵を産みつけられるのです。卵は宿主が最も深い関係性を持つ人間との絆を養分に成長していきます。
     その卵が孵ってしまったその時は……言わずとも、お分かり頂けるかとは思いますが、強力なダークネスが生まれると言う事ですね」
     その眸は何処か恐怖を感じさせた。怯えの色を映した姫子の瞳は何としても防いで欲しい、と只その意味が一心に籠められている。しかし、かの恐怖の大王の予言に怯えるが如く、身体を震わせているだけではない。これには解決策が一つ存在しているのだ。孵化した直後であれば『条件次第』で弱体化させられる。
    「孵化した直後に『条件』を満たせれば大丈夫なのです。その条件と言うのが――」
     黒板に条件、と美しい字で書きだした姫語が一呼吸置き、しかと前を見据える。
    「27時間……午前3時までに、ターゲットと絆を結んで頂きたいのです。
     絆、とは様々な意味合いがあります。恋情、慕情、感謝、侮蔑、憎悪……。その種類は問いません。ターゲットとの間に何らかの関係性があること。
    『絆』がある人間に対して孵化したベヘリタスは攻撃力を減少させます。そして、且つ、此方から攻撃するダメージも入り易くなる。戦闘効率をぐっと上げる事ができるのです」
     しかし、10分以上の時間経過によって孵化した絆のベヘリタスはソウルボードを通じ逃走してしまう。それは灼滅が不可能になるということだ。逃がしてしまうとベヘリタスの勢力が増すのは目に見えて居る為に何としても避けたい所だ。
    「ターゲットについてご説明しますね。後藤 拓也。年は26歳の会社員の方です。現在は婚約者である香川 美雪さんと同居し、結婚の準備をしている所――ですが、美雪さんとの『絆』を盗まれた状態になっています」
     拓也にとって美雪は大事な婚約者であっただろう。しかし、絆を盗まれた今では彼女のことを愛おしいと思えず、それに違和感を感じているのだそうだ。
    「式場選びに向かう筈だった二人の絆は盗まれてしまっている。彼が乗り気しないのだとその期間を延ばした美雪さんですが、ベヘリタスの卵は孵化に一週間を要しています。日に日に両者共に感じる違和感で、すれ違いが大きくなりつつあるのでしょう……このままでは」
     破綻しかねない、と姫子は静謐溢るる瞳を揺らがした。

     君と、ずっと一緒に居よう……なんて、可笑しいかな。
     青年はそう言って笑った事だろう。愛しい恋人が婚約者に変わった日、その日を忘れないと誓った彼の心には今、どんな思いが浮かんでいるのだろう?

    「休日の拓也さんは朝から図書館に出かけるそうです。
     昼過ぎにゲームセンターへと移動しアーケードゲームをプレイした後、借りた本を以って行きつけの喫茶店へと向かうそうです。最近は美雪さんとのぎこちなさに公園で夜を過ごしているようですね。彼を見分けるにはベヘリタスの卵が頭の上に植えつけられていますから……ああ、これは一般人には見えないものですよ。これを確認して頂ければ一発です」
     接触するならば図書館やゲームセンター、喫茶店がいいのではないか、と姫子は言う。孵化は午前三時。草木も眠る丑三つ時だ。その時刻までに絆を深める事が出来れば、ベヘリタスの弱体化が見込めると言う事だろう。
    「絆のベヘリタスを倒せば、失われた絆は取り戻せます。彼が絆を失くしていた時よりも、彼が彼女を愛おしいと思った時間の方が長かった筈――それでも、戻ってきた絆にどう対応すればいいのかと、不安を感じる彼のフォローも必要になるかと思います。
     ……大丈夫。皆さんなら彼らの絆を取り持つ事がきっとできます。頑張ってきて下さいね」


    参加者
    森野・逢紗(万華鏡・d00135)
    不動・祐一(代魂灼者・d00978)
    樹・咲桜(蒼風を舞う子猫・d02110)
    丹生・蓮二(エングロウスエッジ・d03879)
    霧凪・玖韻(刻異・d05318)
    神乃夜・柚羽(燭紅蓮・d13017)
    塵屑・芥汰(お口にチャック・d13981)
    朝霧・瑠理香(彷徨える戦いの亡者・d24668)

    ■リプレイ


     静謐溢るる知識の空間は荘厳なる気配を感じさせる。後藤拓也はハードカバーを何冊か抱え、悩ましげに棚を見上げて居た。
    「あの、」
     ふと、読書青年へと声をかけたのは黒猫の髪飾りが印象的な小学生の少女だ。申し訳なさそうにうろうろとする新緑の瞳が何とも愛らしく拓也は「どうしたの」と彼女が――樹・咲桜(蒼風を舞う子猫・d02110)が怯えない様にゆっくりと声をかけた。
    「本を取って貰えますか?」
     本棚の上段、咲桜が指差した本は拓也も何度か目を通した事のある本格ミステリーだ。埋れてしまった作品だがその空気感と風変わりなトリックに心惹かれる読者はそう少なくない――と青年は心の中で頷きながら咲桜へと手渡した。
    「有難うございます。あ、お兄さんもその小説が好きなんですね?」
    「知ってるの?」
     はい、と明るい笑みを見せる咲桜が頷く。世間ではマイナーでありながらも独特な文体で奇妙な世界観を演出する作家の事を『偶然出会った』少女が知って居ると言うだけで胸も踊る物だ。
    「良ければお勧めの本を教えようか?」
     目を輝かせた咲桜にこっちだよ、と手招きし、歩きだした拓也の目の前で、何処か悩ましげに眉根を寄せた少女が彼の目的地である棚の前に立ち止まって居る。
    「ええと、君……?」
     犬の耳の様にも見える緩く跳ねた髪。伺う様に見上げた森野・逢紗(万華鏡・d00135)の様子は普段の感情の稀薄さを感じさせない。この場所も舞台の一つかの様に演者に成り切り、肩を竦める逢紗に青年は小さく首を捻った。
    「あ……その、この作家さん、お好きなのですか」
     ふと、拓也の手に抱えられていた作家の名を見詰め、逢紗がおずおずと問い掛ける。
    「最近、興味を持ったのですけど、どれから読めばいいか分からなくて……よろしければ、お勧めはありますか?」
    「じゃあ、俺の趣味だけど……このシリーズとか」

     一方で、図書館の関係者を装った霧凪・玖韻(刻異・d05318)はすいすいと受付の中の端末を弄る。ずらりと並んだ読書記録。該当者の名前は後藤拓也で間違いは無い。無言の侭、玖韻は返却された棚の本を幾つか抜き出し、机へと積み上げる。
     淡々と読み続ける彼の様子は周囲から見ると何処か異質だ。しかし、不思議な位に冷静な彼は気を止めず、頁を捲る指先がワンテンポで続いていく。
    「それで――……」
     少女達との談笑を楽しんでいた青年が受付フロアの前の机にやけに積み上げられた自分が返却した本の数々に興味を引かれたかのように伺う視線を向ける。
     ふ、と顔を上げた玖韻の怜悧な藍の瞳と交わった視線に身体を硬直させた拓也は「お好きですか」とおずおずと声をかけた。
    「ああ、適当に選んだんだが、中々面白い。
     本の価値は、読み手が面白いと思うなら知名度など関係ないと、俺は思いますよ」
     本当ですか、と驚くぐらいに前のめりに飛び込む拓也に無表情ながらも落ち着いた雰囲気で頷く玖韻。
     喜ばしいとでも言うかのように、良ければ皆でお話ししませんか、と傍らの少女達を呼び寄せ、彼は玖韻をカフェスペースへと誘った。


     暇潰しと逃避行動の傍ら、喧しい位に反響するゲームミュージックを耳に音楽ゲームを没頭する拓也の背後で携帯音楽プレーヤーの電源をOffにした神乃夜・柚羽(燭紅蓮・d13017)は順番待ちをする様にぼんやりと立っている。
    「次、どうぞ」
     立っていた少女を振り仰ぎ、荷物を手に取った拓也に柚羽は柔らかに笑みを浮かべ「あの」とコインを手にした指先をひらひらと振った。
    「もしよければ私とプレイしてくれませんか? 誰かと対戦ってやってみたかったんですが、なかなか……」
     丁度、昼間。店内は混みあって居ない事だし、と肩を竦めた柚羽は目の前のダンスゲームを指差す。音楽ゲームを愛好する同好の士なればその誘いにNOとは中々言い辛い。柚羽の笑みに頷き、拓也が手摺に手を掛けた所で、彼女は彼を見上げて瞳を煌々とさせる。
    「音ゲーは誰かとプレイすると楽しいだろうなって思う事があるんです。お兄さんはそう思う事はありませんか?」
    「同感だ。それじゃ、お手合わせ願えるかな?」

     据え置かれたギターの演奏ゲームの音色が響き渡る。がやがやと集まり出す人々の真ん中で朝霧・瑠理香(彷徨える戦いの亡者・d24668)は手慣れた手つきでギターを掻き鳴らして居た。
     ふと、視線を向ければオーディエンスの片隅に拓也の姿が在る。柚羽との対戦を終え、集まる人々に興味を持ったのだろう。魅せる様にプレイする瑠理香に「凄い」と囃したてる人達の中、興味深そうに見つめる拓也に瑠理香はぎこちない笑みを浮かべる。
    「こんにちは、よければセッションでもするかい?」
     頷いた拓也が緊張した様に隣のドラムゲームにゆっくりと座る。音楽ゲームのセッションは稀に行われる事が在るだろうが、オーディエンスに囲まれてというのは緊張するのだろう。流れだした音楽に瑠理香が弾く手を眺め、拓也は凄いなぁ、とのんびりと呟いた。


     日が傾き、ゲームセンターでの一時を過ごし終わった彼は行き付けのカフェへと足を踏み入れる。のんびりとした音楽の流れるこの空間は彼が尤も好ましいと感じる場所だった。
    「うちのは犬でツンデレっていうハイブリッド仕様でさー、愛してるよね!」
    「にゃんこ、ホント可愛いよなー……ふわふわな手触りとか、綺麗な瞳とか、あと靱やかなシルエット。たまんないもん」
    「この猫ちゃんの猫種は? 超美人じゃん!」
     席に着く拓也の隣で笑い合う青年が二人いる。蜜柑色の髪に何処となく感じる異国の気配がやけに目を引く青年――丹生・蓮二(エングロウスエッジ・d03879)の隣で三白眼に濡羽色の髪が印象的な塵屑・芥汰(お口にチャック・d13981)が顔を上げると同時――蓮二の手から携帯電話が滑り落ち、拓也の足元へと転がって行く。
    「あ、」
     人好きする笑みを浮かべた拓也が拾い上げ、画面に映されていた黄茶毛の猫と白猫を見詰め、「可愛いですね」と微笑んだ。
    「あっ、これは、こいつの猫で! すっごい可愛い……って、違うんです!」
     慌てた様に立ち上がり、恥ずかしさを隠す様に頬を紅潮させた蓮二は元からの涙脆さからか微妙に涙を浮かべていた。
    「この人、こんなこと言って凄く動物好きで……うちの子可愛いでしょ、お兄サンは? 飼ってないの?」
    「俺も動物好きですよ。ああ、うちは……アパートなんで」
     困った顔で笑った拓也に「キナコとシラタマっていうんだ」と猫をご紹介。一期一会、それでも好きなモノを好きだと言えるのは拓也の素直さからだろうか。
    「もしかしてお兄さんも猫好き?」
    「あ、はい。好きなんです。犬飼ってらっしゃるって――聞き耳ですけど、聞いて……。可愛いですか?」
    「勿論。動物っていいですよね、心が洗われるっていうか……」
     うんうんと頷く蓮二に芥汰が「やっぱりにゃんこでしょ」とぐいぐいと推し続ける。へら、と笑った拓也に蓮二は気付いた様に唇に手を当てて「秘密にしてくださいね、恥ずかしいから!」と微笑んだ。
     人好きする笑みを浮かべた不動・祐一(代魂灼者・d00978)が纏ったのは夏だと言うのに何処か重たげなローブだった。
    「ちょっと手を貸してくれませんか、私は占い師の見習いでして……」
     祐一の声だと気付いた二人が「どうぞ」と手を差し出す。当たり障りない答えを告げる占い師に面白可笑しく二人は頷きあう。だが、拓也の番になった時、祐一の表情がころりと変わった。
    「な、なんですか……」
     絆を結ぶ為の接触でも、祐一は他の仲間達の様に上向きの感情を狙っていなかった。寧ろ此処で得るならば、もっとも得やすい絆を狙ったのだろう。
    「んー、あなたは今、人生の分岐点に立っていますね」
     口をあんぐりと開けた拓也の瞳を祐一が覗きこむ。その瞳が赤くぎらりと輝いた。獲物を見据える瞳に、笑顔と言う仮面は似合わない。
    「自分の選択に自信が持てない……成程、これは、結婚、かな?」
    「な、何だよッ!」
     立ち上がり、顔を紅潮させた拓也の表情から笑みが消えるが、祐一はその焔を思わす瞳に自信を湛えて、只、笑う。
    「結論から言うと、自分の伴侶選びにも自信が持てないクズ野郎って手相って事だよ。男としてどうかと思うよ、これ」
     からん、と。汗を掻いたアイスティを眺めながら祐一は唇を歪めた。

     なぁ、知ってるか? 人に最も嫌われる方法って、正論を言い続けることらしいぜ――?


     カフェから走って公園へと青年は逃げる。毎日逢った可愛い猫たちが彼の足元に擦り寄るがそれどころじゃないと言う様に小石を蹴飛ばして彼は座り込んだ。
     据えられた巨大な時計の針が進むのをずっと眺めている。ポケットに仕舞いこんだ携帯の着信はこれで何回目だろう。美雪と出た着信先の名前に沸き上がる気持ち悪さに、この感情の意味はどうなのか――祐一の告げた言葉の意味を探る様に悶々と考え込む。
     三時を示する時計の針。そろそろ帰るかと立ち上がろうとした拓也が目を見開いた。何かが、いる。

    「咲けよ血桜……凄絶に!」

     異形の存在に青年が気付いたのと瑠理香の芯の通った声が響き渡るのは同時。現れた風船の様な存在へとバベルブレイカーを振り翳し、瞳をぎらつかせる瑠理香に拓也が後方へと座り込む。
    「結婚する人の絆を壊すなんて絶対に許せない!」
     足元から伸び上がる影の気配を感じ咲桜が草むらから飛び出した。髪を飾る黒猫の髪飾り。公園で出あった少女なのだと拓也が「君」と呼ぶと同時、彼の頭上から生み出されたベヘリタスが下卑た笑みを零す。
    「大事な絆をまた結ぶのはとても大変。全く同じに失くす前の過程は歩けないのですから」
     伸びる影の隙を突く様に、怜悧な刃を握りしめ闇色の髪を揺らした柚羽は地面を踏みしめる。立ち昇る砂埃の中、靴の爪先がキュ、と鈍い音を立てた。
     続く様に、鐘楼の如き祭壇に緋色を散らした巨大な腕を身に付けた逢紗が髪を揺らし、隣のナノナノの頭を撫でる。
    「『絆』を糧とする……か。美味しく頂いた心算でしょうけど。随分とタチの悪い相手ね?」
    「き、絆? ど、どういう……」
    「つまり、まあ、そう言う事だ。さっき喫茶店で手を借りた分、利子付けて今度は俺が手を貸してやるよ」
     なんてな、と笑った祐一が不動・祐一(d00978)への18歳の誕生日プレゼントと名付けられた奇怪な盾を手に前線へと躍り出る。彼の隣、顔を出した迦楼羅の喉がぐるると鳴った。
     悪戯にしては性質が悪く、かといって好感を抱いていた少女達が一同に会している。奇妙な生物を相手に戦っている様子に拓也は口を手で覆い、見守る事しか出来ない。
     応戦するベヘリタスの攻撃を受けとめ、槍を器用に掌でくるりと回した芥汰の隣、金鳳花を纏うラナが手を組み合わせ、攻勢へと徹した。
    「君が居ないと世界が終わってしまう、か……」
     チャックの付いたマスクに触れた指先が、記憶の中の少女のものと重なった。言葉を漏らさぬ様、域を漏らさぬ様に唇を引き結んでから芥汰が前進する。
    「息も出来ない、なら。分かんなくもねェかな。なんて」

     君が居ないと、息の仕方も解らない位――変な事を言う人、でも、好きよ?

    『彼女』の言葉が、胸の奥深くで疼く。それでも、その感情の『意味』が分からないと拓也は俯いた。
    「絆……か。本来は束縛に類する負の意味の言葉だが……枷であれど、所有者の許可なく強奪するのは頂けない」
     何か、怖れを纏うかのようにEdge of Abyssの車輪が駆動する。枷は誰かを繋ぎとめる物なのだと分かってはいるが、玖韻は極めてドライな性質だからか、その感情を『感情的』に求めてはいない。
     花壇の端を走り、ローラーが火花を散らす。手を軸に風船の様にぶよぶよと太った孵化したベヘリタスを蹴り飛ばせば、その隙間を縫う様に苛烈にバベルブレイカーが音を立てた。
    「絆か……取られたら、やだな。ふざけるな」
     暗く沈む夢と同じ様に、彼の心の泥が消え去らないのと同じように、拓也だってそうなのだと蓮二は感じとる。沈まぬ花を揺蕩わせ、Lotusを纏う彼の深海を思わせる瞳が夜に煌々と輝いた。
     蓮二の隣、ベヘリタスによる応酬を受け流す様につん様が与えた回復に合わせ、逢紗が舞い踊る。中性的なデザインラインを思わす服の裾がゆるりと舞い上がり、彼女は怜悧な瞳をベヘリタスへと向けた。
    「私の風が吹く限り、倒れる事はないわ」
    「勿論。目玉焼きかオムレツか、……でもな、孵化したらがっかりも通り越して残念だわ!」
     冗句めいて告げた祐一の瞳が爛と輝く。感情を物質として視認できるならやってみたいものだ、と告げる祐一に柚羽は小さく頷いた。何かを思えるのは絆があるから。目に見える『感情』がそこにあると実感出来るのは、誰かに何かを思えるから。無関心こそが最大の毒なのだと柚羽は知って居た。
     曖昧に笑った彼女の手にしたタイマーが音を立てる。しかして、取り逃がさぬ様にと留意する事は灼滅者達は全員で示し合せて居た。瑠理香はクルセイドソードを握りしめ、額に伝った汗を拭い、地面を蹴る。
    「目の前にいる奴の幸せってのは守ってやらなきゃな……例え、僕にそれを言う資格がなくとも」
    「大丈夫、ボク達が勝つから――SHOOT!」
     狙いを定め、撃ち出したそれが、貫通する。
     怒濤の勢いで、畳みかける灼滅者の目の前でぶよぶよとした身体を揺らし、腕を振るったベヘリタスに蓮二が「つん様」と呼んだ。
    「OK! あと少しだ!」
    「これで、終わりにしよう。勝手に他人の手で制限付きにされた終末論とか、冗談じゃない、ね」
     冷静に状況分析を行う蓮二の言葉に頷いて芥汰は槍を手に地面を蹴った。切っ先が、ベヘリタスの身体を掠め――傾いだ体を破裂させるかのように祐一の焔が包み込む。
     震え、座り込んだ青年へと手を伸ばし「大丈夫ですか」と柔らかく笑った咲桜に拓也は小さく頷いた。
    「これ、は……」
    「悪い夢よ。悪い魔女の一寸した悪戯……大丈夫? 誰か、待ってる人がいるんじゃない?」
     怜悧な瞳を向ける逢紗に手を取られ、待っている人――婚約者の顔が浮かび青年は「でも、彼女に酷い事をしたんだ」と呟いた。
    「好きなら……そうはっきりと自分に素直になればいい。それが一番だろうさ」
     怜悧な赤い瞳が青年を見下ろした。星空と言う名のヴェールが被さった世界の中で、ヘッドフォンで閉じた世界から抜け出す様に、足元で泣き濡れた青年へと芥汰はゆっくりと口を開く。
    「ま、深く考えずに。好きだったんでしょ。何とかなるだろ、此処まで来たら」
     きっと、それは、「マリッジブルーだよ」と茶化す蓮二の言葉に青年は小さく頷いた。
     励ましの言葉に、鳴り響く携帯の通話ボタンへと指を掛け、拓也は小さな声で「ごめん」と告げた。
     それは、迷いが終わる午前三時の終末論。

    作者:菖蒲 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年9月17日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 3/感動した 0/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 4
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