●scene
ものは試しと男と結婚したが、駄目だった。体温のある動物なんて、最後にはどうしたって煩わしくなる。
私の名前を呼びつける口が嫌い。私を縛り付ける眼が嫌い。どこにでもいける足が嫌い、お前だってきっとそうでしょう。水槽の表面をなぞる女の指先を見ようともせず、魚たちはすうと奥へ逃げていく。透明な硝子の仕切りが、女と己を隔てていることだって、彼らは正しく知っている筈もない。
女が耽溺のまなざしを向ける先は、いつだって綺麗な水の世界だった。狭いアパートの部屋。壁一面をぐるりと覆う水槽は、檻のよう。無色透明の檻を静かに漂う、ネオンカラーの熱帯魚たち。それさえあれば、女は幸せだった。
ひとの世界は苦手。
不自由な身体。私を気にも留めない虚ろな眼、好きよ。
ある日、買い物から帰ってきた女は、耐え難い光景を目にした。
水槽の水がすべて抜かれ、魚が一匹残らずいなくなっていたのだ。呆然自失の女は、震える手で携帯の留守電を確認する。
『保奈美? お前の熱帯魚、全部業者に買い取ってもらったから。……なあ、熱帯魚の世話する前にやる事あるよな。家事してくれ。夕飯作れとは言わないけど、皿洗いはしてって俺、昨日も言ったよな。服も脱ぎ散らかすなよ。せめて、ゴミぐらいちゃんと捨てよう。な? ……今会社だけど、もうすぐ帰るから。一緒に片付けよう、な、保奈美』
女はそのとき、強く感じた。二人を隔てる硝子は、けして砕けないのだと。
悲しみと憤りの末、女は人の姿を捨てた。魚にはなれなかった。闇を知るものたちがブエル兵と呼ぶ、醜い怪物に成り果てた。
馬鹿なひと。貴方がどんなに頑張ったって、私やっぱり駄目なのよ。
そして魔物は、無色透明の檻を出る。彼女の世界を奪った夫を討ち果たすために。
●warning
近頃頻発している、一般人がブエル兵と化す事件。今回鷹神・豊(エクスブレイン・dn0052)が持ってきたのもその情報だった。
眷属化する一般人は、保奈美という熱帯魚マニアの主婦だ。大切にしていた熱帯魚を勝手に処分した夫の亮一を恨んでおり、帰宅途中の彼を殺害しようと狙っている。
「……それってさ。結婚相手より熱帯魚のほうが大事だった……ってこと?」
「元々、生活能力の無い彼女をなんとか支えたいという、亮一さんの熱意に負けての結婚だったようだからな。だが保奈美も本当は……」
いや、どうでもいい話だったなと、鷹神は冷えた笑みを浮かべて続く言葉を伏せた。哀川・龍(エクソシスト・dn0196)も彼の面倒な気質には慣れたのか、特に口を挟むようなことはしない。
「保奈美は住居のアパートを出て、亮一さんの利用している最寄りの駅へ向かう。君達はアパートの駐車場で待ち構えるのがいいだろう。問題は、駅から帰宅してくる亮一さんだな……」
敵はブエル兵となった保奈美のみだが、その力は通常の眷属よりも数段強い。灼滅者たちから逃げることはないが、亮一の殺害を完了したら、すぐにいずこかへ去ってしまうという。
この日の亮一は、強い意志と目的を持って自宅へ向かってくる。彼に対しては、集中的な足止めを行った方がいいだろう。
「とはいえ、戦場を離れる人間は少ないに越したことは……ん、どうした哀川」
「亮一さんの足止め、おれやる」
「…………おーおー珍しく能動的ではないか。大丈夫か?」
「なんだよ、そのニヤニヤ顔……。まあいいや。大丈夫、手伝ってくれそうな人探してみるし。……なんとかなる……いや、なんとか。する」
龍の言葉を聞くと、エクスブレインは一瞬ふっと笑みを浮かべ、頷いた。勝気な飴色の双眸は、そのまま集まった灼滅者達へと向けられる。
「君達も思うことは様々あろうが、恐らく事件の背後にいるだろう悪魔『ブエル』の思惑通りに事を運ばせる訳にはいかん。よって、このブエル兵を速やかに灼滅せよ。以上だ」
参加者 | |
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室本・香乃果(ネモフィラの憧憬・d03135) |
三影・幽(知識の探求者・d05436) |
神西・煌希(戴天の煌・d16768) |
御印・裏ツ花(望郷・d16914) |
朝川・穂純(瑞穂詠・d17898) |
安楽・刻(ワースレスファンタジー・d18614) |
佐見島・允(フライター・d22179) |
神子塚・湊詩(藍歌・d23507) |
●5
「……ブエル兵……またも、悪魔の仕業、ですか……」
三影・幽(知識の探求者・d05436)は、上空から遥か天を仰いだ。
『熱帯魚のすすめ』――そう表紙に書かれた本を、箒に乗ったまま器用に閉じる。今夜は曇り空だ。夜の街に溢れる冷たい灯りは、紙の上を泳ぐ魚たちの色彩を塗り潰してしまう。
幽が地上へ降りると、霊犬のケイが主人にすりよってきた。人避けと防音の魔力が巡り、戦場一帯は静まり返っている。……19時。そろそろ時間だ。
室本・香乃果(ネモフィラの憧憬・d03135)はポケットに携帯をしまい、祈るようにぎゅっと握る。妹にも近い存在の小さな友達が、仲間と共に亮一の足止めに向かっている。香乃果の足元には、彼女から預かった霊犬・かのこが大人しく伏せていた。あまり細かな指示まで聞くのは難しそうだが、確りと役目を果たすはずだ。
灼滅者達は車の影に身を潜め、アパートの二階部分を注視する。
扉は突如として開いた。例の魔物は部屋を出ると、ゆっくりと階段を転がり落ちる。生物らしからぬ動作も、混沌を極めた造形もどうにも不快だ。
……っつーか、怖ェ!
佐見島・允(フライター・d22179)が車の影で震えているとは知らず、駐車場を進むブエル兵――保奈美。仲間が通路へ飛び出したのを見て、允も慌てて続き、瞳に魔力を集める。己を包囲する人間を見て、保奈美らしきものは足を止めた。
「誰?」
「灼滅者です。言ってもわからないだろうけど……悪いけど、倒させてもらいます。保奈美さん」
幼さの残る顔から一切の感情を追いだし、安楽・刻(ワースレスファンタジー・d18614)が強く地を蹴る。その言葉に偽りなく、彼の靴底はいきなり保奈美の鼻骨を叩き割った。幽も呪文を詠唱しながらエナジーを脚に集め、のけぞる保奈美へと駆けだす。
「砕星の天撃……!」
軸足に水面蹴りをかけると、保奈美はバランスを崩し仰向けに転がった。更にケイの刀を受け、醜い叫び声をあげる保奈美を、幽は静かに見下ろす。
「……悪逆の術は、魔女として……許すわけにはいきません……枝葉も一つとして、逃しはしません……」
そう。生きる、生かすという点で、彼女を救えはしない。
けれど生かすことは『彼女にとって』果たして救いたりえるか。御印・裏ツ花(望郷・d16914)が踏みつけようとすると、保奈美は魚が逃げるような速さで身をかわした。
「どいて。あの男を殺すの。水を失った魚みたいに。殺すの……」
「……本当に、厄介な方ですこと。他人も自分もいい加減に扱って、未来も描かなかったのでしょう」
「……そうよ。こんな子供にまで見下されて。惨めな女」
宝石のような瞳に複雑な感傷を宿した裏ツ花から、保奈美は眼を背けた。その先には、後方で回復を担う神西・煌希(戴天の煌・d16768)の姿がある。注意深く戦場を見据える天藍の双眸は、怪物の狙いが自分である事にすぐ気付いた。にまりと口元を緩め、彼は鷹揚に言う。
「悪ぃなあ、あんたの思い通りにはやらせねーよ」
煌希が長い腕をすっと伸ばすと、ライドキャリバーが真っ直ぐに走りだした。大人びた彼の見目に似合う、無駄なく洗練されたフォルムのキャリバーは、しかし激しい推進力をもって煌希に向かってきた闘魚ベタを蹴散らす。本物より遥かに大きな魚はタイヤを食い破ったが、煌希の振り抜いた破邪の聖剣もまた敵を捉えた。
続く香乃果の槍先をかわした保奈美へ、神子塚・湊詩(藍歌・d23507)が跳びかかる。羽に潜ませた小さな槍は、またぎりぎりでかわされる。見かけによらず、素早い。そう感じるのはやはり能力差のせいか。保奈美は忌々しげに吐き捨てる。
「化け物」
それは灼滅者全員に向けられた言葉だったが、湊詩には一際刺さる言葉だ。
人は時に欲張りで、時に誰かを傷付ける。彼女の悲しみはどこへ漂着するのだろう。
●4
その頃、亮一は駅前で妙な人だかりに出くわしていた。
尋常ではない数の小銭が駅前に落ちているらしい。物珍しさに写真を撮る人々を避け、亮一は帰路を急ぐ。人混みがはけたお陰で亮一を見つけるのはたやすい。
「ここら辺には疎くてさ。もう遅いのに申し訳ねーけど、案内して貰うことは出来ねーだろうか」
「ああ、その店、家に帰る途中にありますよ。美味しいんですけど、路地裏のほうだしちょっと見つけにくいですよねえ」
途中、燃えるような髪の女が亮一に声をかけた。目ざす店の周辺には、仲間の灼滅者が待機している。到着間近という時、死角から急に自転車が飛びだしてきた。
危うく轢かれかけた亮一を、通りすがりの青年――哀川・龍(エクソシスト・dn0196)が間一髪助けた。一緒にいた朝川・穂純(瑞穂詠・d17898)は、転倒した亮一に駆け寄る。
「大丈夫ですか? あれ? 自転車のお兄さんもすごく痛そう……」
彼も灼滅者だ、本当は怪我などない。しかし穂純がそう呟くと、亮一は肩を貸そうと立ち上がった。亮一の注意がそれている隙に、魂鎮めの風を使う。これで自転車事故の衝撃で倒れたのだと誤魔化せる。
「ごめんね。こうするしかなくてごめんね……」
力を失う亮一の体を、穂純は背中から支えた。小さな掌で、背伸びをして、懸命に。友人達が役を引き継ぎ、地面に寝かせると、穂純は肩を撫で下ろした。けれど、まだ何か抱えきれないものを必死に我慢しているようだ。
「穂純ちゃん、どうした。言ってみ」
「哀川さん……。結婚した相手をこんなに憎んじゃうの? 大人って分かんない……」
「おれも分かんないし、みんなたぶん分かってないよ。でも、よくわかんなくても優しくできるのは、えらいよ」
「ああ、こっちは任せろ。香乃果も皆も待ってるぞ、頑張って来い」
「……うん、頑張る! 関島さん、それに式守さん達も、有難う。亮一さんの事よろしくね!」
「はい。俺達のベストを尽くしましょう、龍先輩」
走るの、得意だよ――!
大切なものを守るため、少女は夜の街を駆ける。全てを救うことはできない。大人の気持ちが、全部わかるわけでもない。それでも戦わねばならないと知っているから。
●3
その名の通り円盤状の体をもつディスカスが、前衛をまとめて蹴散らそうと向かってくる。刻が捨身の体当たりで勢いを削いだ。攻撃は外れがちで、敵の一撃は重い。だが想定内だ。
「繋縛の魔手……!」
幽の動きは直感的だ。今だと見るや距離を詰めながら呪文を詠唱し、叩きつけるように縛霊手を振るう。濃密な魔力の網が指先から放たれ、敵の自由を奪う。一行は執拗に足止めを狙って攻撃を加え続けた。そのため、保奈美から俊敏さが失われつつある。
「旦那のやった事は正直ひでーよ。やっぱし許せねースか?」
允がおっかなびっくり尋ねると、保奈美は彼を睨んだ。刻が死角から放った強酸性の液体を熱帯魚に相殺させ、濁った声で言う。
「熱帯魚ッて環境変化に弱イの。買い取り? 殺人とおなジダわ」
「そうだね。生き物を勝手に処理したのは……やり過ぎかな」
どちらにも非はあると思うけど――刻はそこはあえて言葉にしなかった。黒いドレスの女が刻の背からふわりと離れ、保奈美を攻撃する。ビハインド、黒鉄の処女は返り血を浴び、顔の包帯を赤く染めていた。この哀れな女をいたぶれる事がさぞ愉しいのだろう。
刻はそこで思考を断った。女達からするりと目を離し、負傷で上がった呼吸を整える。
「恨んだっていいと思うぜ、俺は。けど悪魔の力の言いなりになんのはダメだ」
バベルブレイカーの照準を合わせながら、允は保奈美の意思を保たせる言葉を探し続ける。ヤベェ。マジでヤベェ。魔法陣はふらふら動き、冷や汗ばかり出る。その時、海を愛する悪友の言葉を思い出した。
――アンタが体温失くしてどーすんだよ。硝子越しに何見てんのか知らねーけど、とっとと目ェ醒ましやがれ。
出来ることなら自分で殴りたい、とまで言っていた彼女。
地を蹴った。だから、これは代わりの一発。
「スンマセン!」
照準はフェイントだ。渾身の空中踵落としが眼窩に入り、保奈美は痛手を受けた。隙が生じたと見るや、煌希は負傷の深い前衛に向かって叫ぶ。
「お疲れさん、回復するぜ。纏めてか、誰か一人かどっちがイイ」
「間に合っておりますわ」
「私もまだ大丈夫です。刻さんが危険です、お願いします」
「返事サンキュ。回復はお任せあれってな」
「ええ。こちらは攻撃あるのみですわ」
裏ツ花と香乃果の要請に応え、煌希は癒しの矢を放つ。回復は不足気味だが、灼滅者達は攻勢を崩さない。悪魔の狙い通りにさせるものか。負傷を押し、戦い続ける。
やがて盾役を担っていたかのこが消滅した。敵も疲れているのか、とぼけた顏のコリドラスが保奈美の傷を食べている。
「先程刻が仰ったこと、一理ありますわね」
裏ツ花は、雪の意匠が施された杖に魔力を集めた。
「彼は奪うのではなく、与えること、見守ることを行うべきでしたわね。けれど、愛は一方的ではありえませんのよ。受け止める気も無い貴女には無理な話ですわね」
夫婦どちらにも非はあったと裏ツ花も考えている。保奈美へ手向ける言葉は、不器用な同情か。誇りゆえの軽蔑か。想いを巻き上げ、爆炎は全てを包みこむ。
「貴女はどうありたかったのです?」
仰向けに倒れた保奈美へ、裏ツ花は杖を突きつけた。
「私ダッテ生キタカッタ。人ノ海ヲ、普通ニ。ケド私……生キルノガ苦手ナノ」
湊詩は一瞬、攻撃の手を止める。その時、穂純が走ってくるのが遠くに見えた。
「僕も、僕と人は違うんだって、昔思ってた。世界が違うんだって、思ってた」
翼と化した両腕に、鳥の足。『ひと』とは違うこの姿でも、優しく受け入れてくれる人がいる。元気よく手を振る穂純に緩く笑みを返すと、湊詩は保奈美へ向き直る。
「……世界は、そんなに寂しいものじゃなかった。それを教えてくれたのも、人。僕はその真実を、手放したくない」
白と金の翼を広げ、鳥は夜空を跳ぶ。湊詩は魚を捕えるように急降下し、蒼い鉤爪で保奈美の体を押えつけた。ごめんなさい。湊詩に押えられ動けない彼女を、香乃果は一思いに蹴り飛ばす。鬣に引火した炎が、一層激しく燃えた。
水槽のぬるま湯で辛うじて生きていた魚は、水を抜かれて今、あらぬ方へと泳いでいる。
それでも。
「貴女は、ひとなの」
香乃果は強く首を振るう。
「貴女を想う人と同じ、脚も、体温もあるひと。煩わしくてもそれ以外にはなれないから」
人が世話しないと水槽の魚は生きられない。けれど、魚は人に触れたら火傷してしまう。そのジレンマを、保奈美はずっと抱えていたのだろう。
魚に焦がれる妻と、魚のような妻を支えながら追い詰めた夫。生きる世界が違い過ぎたのだ。すれ違いも、助けられない事も、全てが哀しい。
炎に包まれた怪物が答えた。
「そうよね」
諦めと、安堵の混じった、ひどく安らかな声だった。
裏ツ花は黙って彼女を眺める。
朽ちること自体が救いになるのなら――それは、なんて救いようの無い話。
「……納得できねーよ、こんなん……あんたの世界の事も、旦那に貰ったモンも、全部忘れんなよ!!」
こんなのアリかよ、神様。
思わずバベルブレイカーで地面を殴った。一瞬、怖さも忘れていた。胸元のタリスマンを力一杯握り、允は叫ぶ。彼の祈りも今日ばかりは届かない。
『保奈美』という女は、その時死んだ。
●2
人気のない路地裏で亮一は目覚めた。ここは何処だろう。全く現実感がない。
「悪いけど、ここから先は通さない」
誰かが道を塞いでいる。二人の少女と、三人の青年だ。
「保奈美さんに会わせるわけにはいかない。貴方が彼女に何をしたか思い当たるだろう」
保奈美。そうだ、早く家へ帰らなければ。しかし青年の一人は首を振る。
「何をさせたかった。夫婦という関係の水槽で彼女を飼うつもりだったのか」
「ッ……違う! 俺は保奈美のためを思って……!!」
彼に殴りかからん剣幕で立ち上がった亮一の首筋を、吸血の牙が這う。力を失った身体を誰かが支えた。
「気持ちはわかりますが、少々やり過ぎでしたね。奥様のことはご自身で知って頂くのが一番でしょう」
生温い風が吹く。意識が遠のいていく。保奈美? どうしたんだ。一体、お前に何が起こってるんだ。
「……コイツは一生、保奈美っていう女を抱えて生きてくんだろうな」
『抱える』って何だよ。彼女は俺の重石なんかじゃない。
俺が『支える』んだ。
絶対に。
絶対に――。
●1
「保奈美さん……どうしたの?」
今にも泣きそうな声だった。
「……大切な物を奪われちゃうのは嫌だよね。でも好きな事ばかりして、やるべき事をやらないのは駄目なんだよ。お手伝いとか大事だもん……」
伝えたかった、あまりにまっすぐなその言葉。
俯く穂純の前にはブエル兵がいる。もう声が届かない事を、穂純も本当は知っているのだ。
「誰だって他人には譲れねえ趣味があるもんだ。けどな、自分の為を想って向けられた想いに気付けなくなったら、それはもう戻れなくなってるってことなんだろーな」
流れる雲のように飄々と、煌希は遠まわしな答えを紡ぐ。
こんな時でも変わらぬ笑みをたたえ、穏やかな声音を保つ煌希の言葉は労りにも聞こえた。祝福の風に翻る彼の服も、キャリバーの機体も、血と砂埃で曇っている。中でも傷の深い刻を庇い、黙って癒しの矢を放つ穂純の健気な背中が悲しい。
裏ツ花が杖を振りかざす。香乃果も辛さを堪え、ブエル兵に蹴りを放つ。救う事が出来ないなら、せめてこうなる前に眠ってほしかった。悪魔がいなければ未来は違っただろうか。いつか透明な檻を越え、二人は触れ合えただろうか。ブエル兵はただ老獪な笑みをたたえ、魚の幻影を放ち続ける。
動きの鈍りきった魔物は、狙撃手達にとっては半ば的と化した。幽は指輪を撫でながら、呪文を詠唱し制約の魔弾を作りだす。
「冒涜の約定………」
鋭く夜を裂いて飛んだ魔弾は、ブエル兵の眉間を撃ち抜いた。間髪入れずに允の蹴りが側頭部を襲う。骨が折れ、血塗れの顔は醜く、見るに堪えない。
――人の心の世界は、脆くて。一度壊れたら、元通りになんて、とても。
傷だらけの少年は深く瞑目する。刻の隣で、黒いドレスの女はただ愉しげに舞い続ける。
大事なものを失った気持ち。誰も自分の居場所をわかってくれない。その寂しさは、もういない彼女の悲しみは、湊詩も痛いほどわかる。
だけど。
「それでも……捨てちゃ、いけなかったんだよ。自分を、自分を想ってくれた人のことを」
こうだったかもしれない未来に、さよなら。
人の暖かさをもつ異形の爪が、哀しき怪物を両断する。ブエル兵は泡となり、夜に沈んだ。
幽は駐車場の隅に福寿草の押し花を供えた。永久の幸福、思い出……そんな花言葉をもつ花だ。死体すら残らなかった女に、せめて小さな墓標くらいは。人々の幸福を願う白魔女として、幽が彼女に使える最後の善い魔法だ。
「……貴方達は……生を受けて良かったと……そう思える記憶に、出会えましたか……?」
答えは返ってこない。香乃果と穂純も、その隣に青い花束とシーグラスを供えた。これからは、ずっと大切なものと一緒に、笑っていられますように。
「私達、亮一さんの大切な人を奪っちゃって……奪われるとすごく哀しいって分かってるのにね」
「穂純ちゃん……。でも亮一さんを救えた。保奈美さんも本当は殺める事を望んでなかったと思うの……」
今は傍らにいないかのこの代わりに、香乃果が穂純を優しく抱きしめた。震えが伝わってくる。涙も、一緒に我慢する。悲しみに沈む二人を一歩ひいて見守りながら、裏ツ花はそっと胸元で手を組んだ。
最期、保奈美が吐露した言葉を思いだす。
「生きることは苦しいですわよ。それでも、死んだように生きているより、足掻く方がずっとまし」
勝気な双眸を緩やかに閉じ、裏ツ花は残された男の行く末を憂う。
愚かな女と、哀れな男。硝子のように隔てているのは、果してどちらだったのか。
「……愚かな人。冥福は祈って差し上げます」
そんな中、允は一人夫婦の部屋から出た。中では仲間がまだ工作をしているが、允はこれ以上あの場にいられなかった。冥福を祈る皆が遠くに見える。
迷った。けれど、結局見てしまった。保奈美が残したもの――買い物袋の中身を。彼の予想は概ね当たっていた。
「あんたの作った世界、俺も一目見てみたかったわ……」
手すりにもたれ、允は項垂れる。思い出すのは空の水槽ばかりだ。ブエル兵にされるより何倍もマシな未来は、案外すぐそばにあったのかもしれない。
●0
嫌な夢を見ていた気がする。
自転車と接触してからの記憶がひどく曖昧だが、倦怠感で最早どうでも良い。亮一はやっとの思いで自宅の扉を開く。
「保奈美……?」
暗い部屋。誰もいない。電気をつけると、割られた写真立て――結婚式の写真が入っている――と、床に捨てられた買い物袋の中身が目についた。
熱帯魚の餌。飼育用品。いつも通り。それから、何故か醤油と塩。そういえば今朝、買い置きがもうないとぼやいたことを思い出す。
血の気がひいた。
ぐしゃぐしゃのレシート。殴り書きで『さよなら』と記されている。
全ては灼滅者達が作った、真実よりは少し優しい偽りの終焉だ。ただ一点を除いては。
とるにたらない彼女の話は、これで終わりだ。
作者:日暮ひかり |
重傷:なし 死亡:なし 闇堕ち:なし |
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種類:
公開:2014年11月14日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 0/感動した 15/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 3
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