兄さまと夢物語

    作者:鏑木凛

     軽やかな足音が縁側を駆け抜けていく。
     そして閉ざされていた襖のひとつを迷わず滑らせ、足音の主が畳を踏む。
    「兄さま!」
     足音の主である少女が、敷かれていた布団の脇へ腰を下ろす。
     布団に入ったまま座っていた青年は、少女に向かって薄らと微笑んだ。
    「叶恵、襖を閉めてくれないか」
     慌てて襖を閉めた叶恵は、頬を上気させて青年の傍へ戻ると、嬉しそうに身を乗り出した。
    「聞いて兄さま! 今日、体育の授業中に野犬が乱入してきたのよ」
     興奮冷めやらない様子で、少女が言葉を紡ぐ。
    「皆怯えるから、私が追い払ってやったわ!」
     鼻息荒く話す少女の頭に、ぽん、と青年の掌が乗る。
    「……強くなったね、叶恵」
     一瞬瞳を揺らした少女は、すぐに口を尖らせた。
    「私もう子どもじゃないわっ」
     そうだったね、と手が離れると、叶恵に笑顔が戻る。
    「ねえ、兄さま。兄さまが見た夢の続きを聞かせて」
    「お城に閉じこもったお姫様が、泣いてばかりいるところまで話したんだよね」
    「ええ。……そのお姫様はまだ泣いてるの?」
     好奇心に満ちた少女の問いに、青年が頷く。ゆっくりと語られる夢物語に、幼い子どものように少女は釘づけになった。
     そして話が一区切りしたところで、続きはまた今度、と青年に告げられる。
    「また明日も、武勇伝を聞かせにくるわ、兄さま」
    「うん、待ってるよ」
     静かに襖を滑らせ、空間を区切る。兄の部屋から離れ、縁側から空を仰ぎ見た。晴れ渡る青空に、白い息が立ち昇る。
    「そうよ……もう守られてばかりの、弱い妹じゃないんだから」
     か細い呟きを自身へ聞かせて、叶恵は踵を返した。

     翌日、叶恵はいつものように兄の部屋を訪れた。母親から頼まれた薬と水を持って。
    「今日は、外での話を聞かせてくれないのかい?」
     薬を置いて出て行こうとした叶恵に、青年が首を傾ぐ。
     しかし叶恵は、お勉強の時間があるから、とすげなく襖に手をかけた。
    「……夢の続き、聞いていかないのかな」
    「要らないわ」
     きっぱり断り、襖を閉める。
     毎日楽しみだったひととき。けれど叶恵の胸が高鳴ることは無かった。兄の姿を早く見たくて、出先でそわそわすることも、まったく。理由を知ろうとも思わなかった。だから黙って縁側を歩いていく。
     少女は知らない。
     昨晩、枕元に宇宙服のような格好の少年が現れたことを。
    「君の絆を僕にちょうだいね」
     少女は知らない。
     奇妙な卵が、頭に産みつけられたことを。
     
    「ベヘリタスの卵が、一般人の頭の上に産み付けられたんだよ」
     狩谷・睦(中学生エクスブレイン・dn0106)が、集まった灼滅者たちへ説明を始める。
     卵を産みつけたのは、一般人から絆を奪った謎の人物。絆のベヘリタスと関係が深いようだが、詳細はわからない。
     問題は産み付けられた卵だ。
    「宿主の絆を栄養に成長して、やがて孵化するよ。厄介なことに割ることができなくて」
     ダークネスや灼滅者には、卵が見える。しかし触れることはできない。
     強力なシャドウであるベヘリタスが孵化することを考えると、恐ろしいことこの上ない。
     だが孵化直後であれば、弱体化が叶う。
    「宿主と絆を結んだ相手に対してのみ、ベヘリタスの力が衰えるんだよ」
     つまり、宿主との絆をうまく結べば、ベヘリタスの灼滅も可能となる。もちろん絆が強ければ強いほど、灼滅者側が有利になる。
     絆といっても善良なものに限らない。たとえ憎しみや侮蔑であっても良いのだ。
    「でも、倒すのに時間をかけすぎないでね。ソウルボードへ逃げられたら灼滅できない」
     ベヘリタスの逃走を許すことは即ち、ベヘリタスの勢力の強大化を意味する。極力避けたいところだろう。
     
     一度深呼吸をしてから、睦の話は宿主の情報へ移行した。
     叶恵には、弥彦という兄がいる。身体が弱いため殆ど部屋から出られず、叶恵はそんな兄の元を訪れては、外での話を聞かせ、そして兄の話を聞くのが日々の楽しみとなっていた。
     弥彦は読書と空想が趣味だ。だから夢で見た物語として、叶恵に様々な話を聞かせる。
     叶恵は叶恵で、学校での出来事を紡ぐのだが。
    「嘘……らしいんだ。彼女の話は」
     たとえば、授業中に野犬が乱入したから追い払ったと彼女が言っても、学校に野犬が入った事実は無い。
     たとえば、学食のメニューに嫌いなピーマン入りの料理があったから、気合いで克服したと彼女が言っても、ピーマン入りのメニューは存在するが、それを注文した形跡はない。
     何がしかの話を作っては、弥彦の前で偽って胸を張る。その度に弥彦は成長を喜ぶ素振りを見せる。
    「皆には、叶恵さんの友だちか、その知り合いとしてお屋敷へ向かってもらうよ」
     随分と大胆な作戦に、灼滅者の内数名が目を丸くさせた。
     すると睦は、その作戦を採った事情を説明し出す。
    「庭に美しい花壇があってね。遊びに行きたいと、前からいろんな人に言われてたみたい」
     言われる度に、いつでもいらして、と返答してきた叶恵だ。遊びに行きたいと言った友人に扮しても良いし、その知人として向かうのも良い。
     また、今は冬休み中でもある。よほど妙な行動をとらない限り、疑われはしない。
    「お兄さんとの絆を奪われたからか、積極的にお兄さんへ近寄ることは無いようだね」
     用件があれば部屋にも行くが、基本的に自室で過ごす。日中は家の人も留守なため、ある程度自由に動けるだろう。
    「絆を築けるのは、その日の夜までだよ。夜に卵が孵化するからね」
     現れるベヘリタスは、仮面をつけた闇の塊だ。
     絆を結ぶことなく正面から戦えば、まず勝ち目はない。
    「ベヘリタスが仕掛けてくる攻撃も、油断したら駄目だよ」
     からだから飛び出してくるのは、重量のある黒い矢弾。無数の矢弾は、距離を問わず狙い定めた一人を射抜く。追撃により、あっという間に体力を削られてしまうだろう。
     矢弾は、からだから出るものだけではない。ベヘリタスの尾だ。トランプのクラブを模った影が蠢く、その尾からもクラブ型の矢弾が放たれる。尾から飛んだ矢弾は、近接した一人を貫く。
     また、仮面の下から噴きだされる黒い霧は近い一列に襲い掛かる。体力を削るだけでなく、ドレインで回復されてしまうため、侮れない。
    「ベヘリタスを倒せば、失われた絆も戻るよ。その後のフォローも、できたらいいね」
     もちろん絆の結び方によっては、フォローするのも難しくなるだろう。
    「いってらっしゃい。彼女たちの絆を……頼んだよ」
     睦は柔らかい笑顔で、赴く灼滅者たちを見送った。


    参加者
    佐々・名草(無個性派男子(希望)・d01385)
    九井・円蔵(墨の叢・d02629)
    椙杜・奏(翡翠玉ロウェル・d02815)
    嶌森・イコ(セイリオスの眸・d05432)
    鈍・脇差(ある雨の日の暗殺者・d17382)
    花衆・七音(デモンズソード・d23621)
    鳥屋野・弥彦(中学生人狼・d27493)
    戸地田・愛子(とじこもりまなこ・d28461)

    ■リプレイ


     広大な屋敷の門をくぐった灼滅者たちを出迎えたのは、他でもない鈴城・叶恵だ。
     突然堪忍な叶恵ちゃん、と気さくに接する花衆・七音(デモンズソード・d23621)を、叶恵は不思議そうに見つめる。
    「……どちらさま?」
    「大学、同じ科目とっとるやろ、ほら、前から遊び行きたい言うとった」
    「まあ、そうだったの。うっかりしていたわ」
     椙杜・奏(翡翠玉ロウェル・d02815)も頬を搔きながら振り返り、大人数であることを懸念して、叶恵に確認をとる。すると叶恵は、むしろ賑やかでいいわ、と抵抗なく受け入れた。
     嶌森・イコ(セイリオスの眸・d05432)と九井・円蔵(墨の叢・d02629)が挨拶を終えるたところで、その隠れている子は、と覗き込むように叶恵が尋ねる。
     鈍・脇差(ある雨の日の暗殺者・d17382)の背にいたのは鳥屋野・弥彦(中学生人狼・d27493)だ。恥ずかしくて落ち着かない様子のまま、自己紹介をする。
    「あなたも弥彦というのね」
    「あなた、も……?」
    「私の兄も同じ名前ですのよ」
     戸地田・愛子(とじこもりまなこ・d28461)が羨望の眼差しを向ける。
    「鈴城さんは大好きなお兄さんと一緒に暮らしているのね、羨ましいわ」
     そうかしら、と叶恵が首を傾いだ。
    「私にも兄がいるの。一緒には暮らしていないけど」
     絆を失くした少女にとって、愛子の胸中を理解することは難しいのだろう。ますます羨ましさが募り、愛子は息を吐く。
     開けた庭から望む花壇は、幾つもの部屋から眺められる位置にあった。
     植えた花の種類や、映える構図について尋ねる奏の一方で、七音のように眺めて回る者もいた。
     弥彦もその一人だ。色とりどりの花は艶を帯び、背を張るように伸ばしていて、弥彦は嬉しくなった。そんな彼の眼差しは、徐に叶恵を捉える。
    「ここの花、大事にされてる」
     澄ませた感覚から伝わってくる花への愛情を、弥彦は素直に言葉へ換えた。褒められて嬉しかったのだろう。叶恵も、少しばかり頬を上気させている。
     次に叶恵へ声をかけたのは佐々・名草(無個性派男子(希望)・d01385)だ。園芸同好会の一員として、丁寧な世話が要ることを名草は身をもって理解している。だから名草は、叶恵へこう告げた。
    「僕、思うんです。これって絆みたいだって」
    「……そうかもしれないわね」
     風に遊ばれた花弁に、叶恵が触れる。優しい仕草を横目で見て、名草は口端をひっそりと上げた。
     花を見せてもらったお礼にと、弥彦が叶恵の手へ転がしてみせたのは、おやつとして持ち歩いているおかきだった。
    「おかき、嫌い? オレ、ピーマンは嫌だけど」
    「私も嫌い。苦いんですもの。でもおかきは好きよ、ありがとう」
     ピーマン談義が始まると、ピーマン嫌いなんだって、と脇差がすかさず首を突っ込む。
    「分かるぜ、俺も人参ダメだ。でも兄貴が食えって煩くてよ」
     ぶつぶつと不平を零して口を尖らせる脇差とは反対に、笑い声を零すのは叶恵だった。
    「ふふ、なんでかしら。とても、素敵な話ね」
     彼女の言葉に、灼滅者たちは息を呑む。
     絆が奪われていなければ、彼女はもっと兄の話に乗ってきたのだろうか。今となっては知る由もないが、改めて奪われた存在の大きさを目の当たりにし、灼滅者たちは決意を秘める。
    「……ひとつ相談なんだが、俺と協定を結ばないか?」
     協定という響きに好奇心でも疼いたのか、叶恵が身を乗り出してきた。
     脇差の言う協定とは、今度一緒にいるとき、メニューで叶恵の嫌いなピーマンが、脇差の嫌いな人参が出たら、交換して事なきを得ようというものだった。好き嫌いがある者同士の、ささやかな反抗である。
    「な。悪い話じゃないだろう?」
    「名案だわ!」
    「脇差。妙なことを吹き込んでいるんじゃないだろうね?」
     腕を組んで飽きれたような息を吐きながら、奏が二人の後ろから声をかける。
     ぎくりと音が聞こえてきそうなほど、固まったのは脇差だ。
    「何でもないって兄貴! なっ!」
    「ええ、そうよ、なんでもないのっ」
     ふうん、と奏の返事は納得したのかしていないのか、微妙なところだ。
     兄に悪戯を見咎められたのような素振りをし、脇差は叶恵と顔を見合わせて、小さく笑った。
    「花壇のお世話は何方が?」
     円蔵の腕に確りしがみつきながら、イコが問いを重ねる。
    「私と兄よ。兄の具合が優れないときは、私が世話することが多いわね」
    「そっか、叶恵ちゃん、病気のお兄さんがいるんやっけ」
     折りを見て、七音が兄の話しを切り出した。すると叶恵はすぐさま頷き、兄なら自室よ、と応じる。
    「医学部生としては、臥せっている人の話も聞いてみたいところですねえ」
     円蔵に続いて、外出れへんのは退屈やしなあ、と七音が病人の心情に同調する。
    「ほら、うち薄幸の美少女やろ? 入院してたりもしたんやで……あ、今笑ったやろ!」
     薄幸の美少女、のところで噴きだした叶恵に、七音が逃さず突っ込んだ直後、叶恵は彼らに背を向けた。
    「さ、兄はこっちよ」
     大好きな兄のことだというのに、調子は淡泊だ。
     すべては絆が奪われた所為なのだろうかと、灼滅者たちは彼女の頭上へ意識を向けた。
     不気味な紫と黒の模様が描かれたベヘリタスの卵が、産み付けられていたのだから。


     突然の来客に驚きながらも、何ももてなせず申し訳ありません、と青年は頭を下げる。
     彼の隣へ膝をついたのは奏だ。医学を学んでいる身としては気にかかると前置きして、弥彦の病について話し始めた。
    「治せるアテがないか、調べておくよ。だから聞かせてほしいんだ」
     勉強熱心ですね、と青年が微笑む。症状などを奏が聞いている間、やはり絆を奪われているからか、冷徹というわけではないが、叶恵はうさほど関心を露わにしない。
    「自分にも妹がいるんですよぉ。これがまた愛らしいことこの上なくて」
    「へえ、それはきょうだい話に花が咲きそうですね」
     円蔵と弥彦の妹自慢が綴られていく。
     話が終わらないうちにと、イコが叶恵を見遣る。そして兄に聞こえないようこっそりと彼女へ囁いた。
    「素敵なお兄さん。……ね、だからほんとうを取り戻して」
     祈るように、イコは両手の指を畳む。本当、と同じ単語を叶恵は疑問形で返した。イコはゆっくり頷き、それ以上は告げなかった。
     奏も、叶恵へ言葉を寄せる。独り言のような小ささで。
    「家族には、真実の姿を見せても許されるんじゃないかな」
     お兄さんは昔から君を見ているんだから、と。そう付け足した瞬間、叶恵が目を見開く。何事か言いたげに開きかけた口を、しかし彼女は再び唇を噤む。
     円蔵と交わしていた妹自慢から飛び火したのか、城に閉じこもっていたお姫様の話を、せっかくだからと青年は口にし始めていた。妹にしか聞かせていなかった、夢物語を。妙に親身になってくれる来客へ。
     ――お城に閉じこもったお姫様、叶恵さんのことなんだろうか。
     物語の登場人物について考え、名草は首を傾ぐ。
     脇差は黙したまま、兄である弥彦の顔を見て、曖昧に燈していた予測を、脇差は確信へ傾けた。
     ――嘘のこと、弥彦は気づいてるのかもな。

     襖が閉ざされる。縁側から覗いた空は、すっかり朱に染まっていた。
     部屋から離れたところで、口火を切ったのは円蔵だ。
    「お兄さんを想う気持ちから、そうせざるを得なかった行動もあるんでしょうねえ」
     前を歩いていた叶恵の足が止まる。問い詰める形にならないよう、至って穏やかに円蔵は続きを話す。
    「嘘を吐かねばならなかった理由。そこにあるんじゃないですか?」
     顔を逸らしたままの叶恵の傍に、弥彦が寄る。
    「……心配、かけたくない?」
     微かに叶恵の瞳が震えた。
    「すごいこと、なくたって、喜んでくれる」
     弥彦は、学園へ来てから体験したことを、覚えた感情をたどたどしく口にする。
    「話を聞いてくれる人、あったかい、のも、それで知った」
     すてきね、と弱々しく叶恵が返す。声に含まれていた想いを察し、イコもまた胸の内に抱いていたものを晒す。
    「叶恵さん、忘れないで。あなたがそうしてまで元気づけたかったひとのこと」
     とうとう叶恵は黙り込んでしまった。迷っているような視線の震え方で。
     別れ際、七音は僅かに目を細めて叶恵を振り返る。
    「臥せってる時は気も落ち込みやすいから、お兄さんを大事にしたってな」
     言うまでもないか、と頭を搔いて、彼女もまた叶恵に背を向けた。
     叶恵は、訪問者の姿から目を逸らさずにいた。彼らの姿が消えるまで。
     ずっと。縁側に立ち尽くしたまま。

     夜が訪れた。孵化すると言われていた時刻が。
     闇を纏い、敷地内に潜入していた七音が、再度集結した仲間たちを招き入れた。
     叶恵は自室の襖を開けたまま、月明かりを受ける庭先の花壇を眺めている。
     異変が起きたのは、そのときだ。
     卵の殻に、ひびが入る。待つまでもなく割れた卵から産み落とされたのは、間違いなくベヘリタスの新たな個体。深い深い闇を纏ったシャドウだ。
     突然現れた異形の存在に、茫然とする叶恵。状況を把握できるはずもない少女の前へ、灼滅者たちが飛び出した。奏の腕時計が機械音を発する。アラームを起動したのだ。
     叶恵を背にした名草が、真っ先に戦場内の音を遮断し、ライドキャリバーの轟天に騎乗する。
     挨拶とばかりに踏み込んだ七音が、螺旋のごとき捻りを加えた突きでベヘリタスを穿つ。だが相手はびくともしない。
    「な、何なの……これ」
     未だ困惑している叶恵へ一声かけて、イコは癒しの力を込めた矢を、奏へ向けて放つ。
    「人の絆は奪っちゃ駄目ですねぇ、ヒヒヒ」
     円蔵は槍の妖気を氷柱へと変化させ、尖った先端でベヘリタスに刺突するが、尾に阻まれ力を損なう。
     前触れもなく、ベヘリタスの仮面の下から噴きだされた黒い霧が、前衛陣に襲い掛かる。照明も灯されて明るい部屋なのに、黒霧で視界が霞む。
     吸い込まないよう一度息を止め、奏は肌の下から噴出した炎を得物へ宿し、突撃した。叶恵とその兄の仲の良さを想起する。仲が良い家族。ごく普通の光景だ。だから。
    「……こっちの世界に介入し過ぎじゃないかな、さすがに」
     苦笑しながら奏はベヘリタスを見上げた。返る言葉など無いと解りながら。
     その間にも、脇差は死角から与えた斬撃で、ベヘリタスの足取りを鈍らせていた。
     間髪入れずに、愛子も殴りつけながら霊力を放出する。
    「兄妹の絆を消してしまうだなんて……絶対に許せないわっ!」
     だが一撃は難なく防がれ、威力も減退してしまう。愛子に続いたのは霊犬のドリィだ。斬魔刀を振るう。
     影を裂く猛攻に、弥彦も加わった。体内から噴出する炎を武器に這わせ、煌々と滾る炎越しに敵を見据える。
     学園へ来て、知ったことが弥彦にはありすぎた。繋いだ手の温かさ、同じぐらい温まる心――無くならないように、そのために来たのだと決意を武器へ乗せ、叩き込んだ。


     ゆらり。広い一室に佇む巨躯が揺れた。クラブの存在感を主張する尾から撃ちだされた矢弾が、乾いた音と共に眼前の七音を貫く。
     痛みを打ち払うように頬のマークを撫でた七音は、精密な斬撃で影の一部を切断する。
     すかさずイコが矢を番えた。
     ――お兄ちゃん。懐かしい響きだわ。
     兄と呼び慕う者がいた時期に想いを馳せ、抓んでいて白い指を放す。宙をゆく癒しの矢は、七音から痛みを押し出した。
     拳に集束する気の力が、円蔵に百裂の技を与える。ヒヒヒと転がる笑い声が、衝撃音を搔き消した。
     裂いた奏の背に顕現した炎の翼。攻撃の手数は減らしたくない。だからこそ彼の翼は、静かに湛える翡翠の瞳からは想像もつかない熱で、仲間たちを癒した。
     降り注ぐ光の隙間を縫うよう、接近したのは脇差だ。疾駆する姿は敵の目にも触れず、死角から一撃を見舞う。ずぶりと、ベヘリタスの身に沈んだ攻撃の音が、戦場に零れ落ちる。
     一部始終を捉えた名草は、跨る鋼の肌をそっと叩き、貪欲な影を伸ばした。
    「君らの、宿敵。……轟天!」
     掛け声と重なり凄まじい駆動音が鳴り響く。硬度のある突撃にベヘリタスがよろめいた。
     一瞬の揺らぎは、絶好の機会でもある。
     エアシューズで駆けだしたのは愛子だ。ローラーの摩擦から生まれた炎を纏い、蹴り上げる。確実な一手を収めた愛子が、相棒の名を呼ぶ。耳をぴくりと動かしたドリィは、六文銭による射撃で援護するが、ベヘリタスは微動だにしない。
     大地に眠る有形無形の畏れを、弥彦が纏った。脳裏に過ぎるのは、話をして、話を聞く叶恵とその兄がいる光景。
     ――聞いてくれて、笑顔があるのは、あったかいから。
     それを奪うシャドウを、鬼気迫る斬撃で断つ。顔色の一切を変えずに。
     直後。ベヘリタスから放たれた黒い矢弾。無数の矢弾はイコに降り注ぐ。
     流れを持っていかれないよう連打を繰り出した七音だが、拳はベヘリタスの尾に遮られた。優雅にも思える動きで、ベヘリタスは尾を遊ばせる。
     矢弾を受けながらもイコは立った。守るべきひとがいるのだと己を奮い立たせる。すると想いに応えたのか、噴きだす焔が武器に重なり熱を増した。好機と見てイコが取った手段は、その得物で戦うこと。
     矢継ぎ早、脇差が影を招いた。飛ばした影は、標的を丸呑みする。
     影の苦しみからベヘリタスが逃れ出るまでの僅かな隙に、奏は護符を飛ばしてイコを応援した。
     影から脱したベヘリタスへ仕掛けたのは、名草だ。宿した影を握りしめ飛びかかる。名草は哀れに感じた。絆を奪う形でしか得られない、目の前のシャドウが。
    「絆、返してもらいますよぉ!」
     続けざま円蔵が重ねる。影を喰らう影を生んで。
     胸懐に秘めた情を蓄えた影により、影を冠するシャドウ、ベヘリタスは生後間もなく潰えることとなった。


     静寂を孕んだ風が、縁側から抜けていく。畳の軋む音さえ心地好い部屋の中を、終わりを告げるように。
     腰を抜かしたままの叶恵を、七音が引っ張り起こした。まだ呆けているらしい少女へ、脇差が声をかける。
    「兄貴のこと大事にな」
     背を向ける際に脇差は、視界の隅で小さく頷く姿を見た。
    「素敵な香りがするわ」
     頻りに鼻を動かしていた愛子が、仄かに漂う香りを一つ捉える。
     香りの持ち主である名草は、荷物の中から花を取り出した。彼が差し出した花の名を、叶恵はぽつりと呟く。
    「サルビア……どうして」
    「良ければ、二人で育ててください」
     名草が目を細めて告げた言葉に、彼女は感極まったように息をのみこむ。喜びが溢れださないよう、しっかりと唇を噛んで。
     そんな叶恵の様子を眺めていた円蔵とイコは、顔を見合わせて微笑む。もうあの二人は大丈夫だという確信が、彼らの胸に芽生えていく。
     花を持つ叶恵の指先は、心なしか震えていた。けれども顔に浮かぶ色は、たっぷりの愛情に満ちていて。
     叶恵の兄と同じ名を持つ少年は、その表情を知って、ただただ静かに瞳を揺らした。

    作者:鏑木凛 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年1月17日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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