遠き背中

    作者:佐伯都

     近寄るな、触るな。
     誰も。誰もそばに来ないでほしい。気が狂いそうだ。いやとっくに狂っているのかもしれない。
    「……ァ、は……は、ははは……!!」
     目眩がして、喉が渇いて、もう目の前がまともに見えやしない。どっかのホラーだかオカルトだか何だかの、吸血鬼じゃあるまいし!
     春休みを目前にしたいつもの部活帰り。突然目の前の世界が派手に二つにブレた、そんな錯覚のあとに押し寄せてきた人血への渇望。
     竹刀を収めた袋が手の中からすべりおち、その場へへたりこむ。
     どこをどう走ってきたのかも覚えていなかった。頭がぐらぐらする。春の新芽が吹きはじめている木立から、斜めに差し込んでいる黄金色の光。もう時刻が夕方になっていることを和泉・邦直(いずみ・くになお)知った。
     
    ●遠き背中
     ある一般人がヴァンパイアに堕ちかけている、と成宮・樹(高校生エクスブレイン・dn0159)はいつもの調子で話を切りだした。
    「知っている通り、普通は闇堕ちが始まればそのままダークネスまで一直線、なんだけど。件の一般人はまだ首の皮一枚分、人間の意識が残っている」
     もし問題の人物が灼滅者の素養を持っているなら、絶望するには早い。武蔵坂に所属する灼滅者の多くが似たプロセスを辿ったことを思えば、この段階で救出できさえすれば、人間として生きることができる。
    「名前は和泉・邦直。ある私立中学の二年生で、春休みが明けて新学期になれば、剣道部の主将になることが決まっている」
     この中学、剣道部が全国レベルの強豪として知られている。その主将に内定しているという以上、邦直の剣の実力に関しては推して知るべし、だろう。
     ヴァンパイアは近親者1人も同時に闇堕ちすることで知られているが、どうやら今回は邦直の従兄が闇堕ちしたようだ。
    「これまた強豪剣道部で知られてる大学に通っていて、この従兄に憧れたのが邦直が剣道を始める切欠だったらしい。周囲の評判としては実の兄弟みたいに仲が良かったそうだよ」
     邦直は元来あまり身体が丈夫ではなかった。面倒見のよい従兄がよく遊び相手になっていたようで、そのうち『従兄のようになりたい』と思いはじめたのだろう。
     幼少のころからずっと憧れの、強い従兄。
     そして自分の背中をひたむきに追いかけてきた従弟。
     闇堕ちが起こってしまった以上もう仕方ない事とは言え、分かたれるのはやるせない話だ、と樹は溜息をついた。
     ヴァンパイアに闇堕ちした従兄はかなり離れた場所におり邪魔や加勢という心配は一切ないので、目の前の邦直の救出に集中していい。
    「邦直は吸血衝動に無意識に抵抗しようとしていたようで、ある自然公園の中をふらふら歩いてる。時期的に桜はまだだし、夕方でひとけもないからそのあたりは心配いらない」
     救うにしろそれが無理で灼滅するにしろ倒す必要があるが、邦直はダンピールのものに酷似したサイキックに加え、雲耀剣と月光衝に似た攻撃も行う。
     また、もし効果的な説得ができれば戦闘を有利に進めることができるだろう。
    「完全に闇堕ちしていないとは言っても相手はヴァンパイアだからね、油断だけはしないように」


    参加者
    若宮・想希(希望を想う・d01722)
    槌屋・康也(荒野の獣は内に在り・d02877)
    リヒト・シュテルンヒンメル(星空のミンストレル・d07590)
    神音・葎(月黄泉の姫君・d16902)
    ホテルス・アムレティア(斬神騎士・d20988)
    七篠・零(旅人・d23315)
    氷室・侑紀(ファシキュリン・d23485)
    セティエ・ミラルヴァ(ブローディア・d33668)

    ■リプレイ

    ●渇く
    「闇堕ち、ね。私達にも関係のない話ではないし、助けてあげたいね」
    「ええ、ですが本当に吸血鬼の闇堕ちは……元となった方を助けられないのがきついですね」
     相棒の霊犬を伴ったセティエ・ミラルヴァ(ブローディア・d33668)の呟きに同意するものの、ホテルス・アムレティア(斬神騎士・d20988)は一瞬表情を曇らせる。脳裏に去来するものは父の闇堕ちの、ひどく陰惨な記憶だ。
     リヒト・シュテルンヒンメル(星空のミンストレル・d07590)の足元には、霊犬エアレーズング、もといエアがぴたりと追いついてきている。
     少し深い笹藪を墨色の疾風のように駆け抜ける神音・葎(月黄泉の姫君・d16902)にとって、吸血の衝動は日常の中で当たり前に存在する、その程度のものだった。そんな自分にはきっと邦直の恐怖を本当の意味では理解できない、そんな気がする。
     決して表情には出さないものの、自分に対してのほんのわずかに暗い思いが葎の胸の底にわだかまった。ひとくちにダンピールとは言っても彼女のように吸血衝動をなんとも思わない者もいれば、どうにもならぬとわかっていても忌まわしく思う者もいる。
     何か思うところがあるのか、すでに封印解除した若宮・想希(希望を想う・d01722)が襟元の首飾りを握りしめるのを槌屋・康也(荒野の獣は内に在り・d02877)は横目に見た。康也にとっても闇堕ちの記憶はいまだ鮮烈なままで、堕ちる恐怖はまだ覚えているし、それゆえに助けたいという気持ちは強い。
     どうかまだ、その橋を渡ってくれるなと康也は思う。
     絶望に背中を押されていようと、あるいはただ暴力的な衝動に呑み込まれて手を引かれているとしても。その橋はどうしようもなく一方通行で、こちら側に戻る術はない。
     何かを感じたのだろうか、氷室・侑紀(ファシキュリン・d23485)の首元からするりと細身の蛇が鎌首をもたげた。斜陽の、強い金色が目を灼く。
     藪を斜めにショートカットした灼滅者達の目の前、すり鉢状の斜面の底。そこに目指す人物は蹲っていた。
     笹藪を派手に削りながら疾走のスピードを殺し、七篠・零(旅人・d23315)はほとんど滑り込むようにして邦直の目の前へたどりつく。
    「……やあ?」
     ひどい顔色をしている、と他人ごとのように零は冷静に考えた。視線はこちらを向いてはいるが、きちんと見えていない。目の焦点が少しおかしかった。
    「初めまして、俺は七篠零。君の名は?」
     だらだらと汗を流して座り込んでいた邦直が、零の低い誰何の問いに瞠目する。視線は外さない。
    「な、……なま、え……?」
    「そう、名前。君の名前だよ。俺は七篠零、君の名前は?」

    ●流れる
     人にとって名とは特別なものだ。
     それは人間の、ひいては個としての証明だ。零は絆や名を、その人間を形作るものと考え、そして尊ぶ。重ねて名を尋ねた零に、邦直は熱にうかされたような目を何度も瞬かせ、空気を食むように喘いだ。
    「い……み、――い、ずみ、くに、な、お」
     まるで自分自身に言い聞かせるように、邦直が呟く。
     そして、はああ、と盛大に息を吐いてそのまま突っ伏するように上半身を伏せてしまった。しかし地面に爪を立てていた両手の指がゆるんでいるのを見るかぎり、零の狙いは吉と出たようだった。
    「わけのわからない衝動に混乱しているだろうが、今は落ち着いて僕たちの話を聞いてほしい。僕たちは君を止めに来た。君はその衝動を制御することができる」
     ともかく今は抗ってくれ、と端的に述べた侑紀に邦直が顔を上げた。
     ふうふうと荒い息を吐いて眉をゆがめている。灼滅者を疑う表情なのか、あるいは苦痛をやりすごしているのかどうかは、見た限りではよくわからなかった。
    「……あんたら……なに、もの」
    「僕らはあなたの味方です、安心してください。今はつらくて戸惑っていると思いますが、すぐに助けますから」
     リヒトの後を継いだ想希が、邦直と目線の高さを合わせるように膝で前で進み出る。
    「若宮・想希と言います。俺は邦直さん、あなたと同じ能力を持っている。神音・葎、彼女もそうです」
     理性と冷静さを保っている自分を、同じ能力を持つ者として自己紹介することが全ての答えになるはず、と想希は考えた。そして運良くもうひとり、ダンピールである葎がこの依頼に参加している。
    「今その衝動に敗れては、闇に呑まれその体を奪われてしまいます。けれどその闇とは戦う事ができます、そしてあなたは強い」
     なにより、強くあろうと努力し、今もこうして抗っている。
     女性である葎に、強くあれ、と言われた事実に邦直は息を呑んでいた。
    「私達は……私は、その助けに、なりたい」
    「我輩の父は多くの者をその手にかけました。我輩も師に救われなければ同じ末路を辿ったでしょう。和泉殿、今、貴方が陥りかけているのはそういう状態なのです」
     吸血衝動だけでは飽き足らず、やがて死と破滅を愛するようになるだろう、とホテルスは静かに続ける。
    「貴方は父のようにならずに済む可能性が高い。だから、負けないでください。その衝動に」
     ざり、と地面にうずくまったまま邦直が身じろぐ。そのまま後ろへ身体全体でいざるように、拒むように。
    「……だ……」 
     かすれた声が想希の耳に届く。
    「だめ、だ」
    「……」
     制御のきかぬ力に巻き込むわけにはいかない、といかにもひとつの道を極めんとする人間らしい台詞に、想希は少し笑った。
    「従兄さんに憧れて始めたんですよね、剣道。実は俺も剣道やってたんですよ、手合せ願えませんか?」
     片手で器用に眼鏡を外して襟元にテンプルを挿し、想希は笑みを強める。
    「あなたは強い。――だって自分が変わりそうになってることに気付きながら、誰も巻き込みたくなくて、ひとりでここまで来たんでしょう?」
     でも俺たちはあなたに負けませんから、と想希は明快すぎるほどはっきりと言い切る。彼が恐れる、荒ぶる力で誰かを害する未来は今、ここにはない。
    「だからもうひとりで頑張らなくてもいいんです。あなたも負けないで下さい、あなたを支配しようとしている闇に」
     抗うならその手を取るから、助けるから。
     邦直の顔がゆがむ。本当に大丈夫なのかどうか迷っているのだと、すぐに知れた。
    「だから、仕合いましょう」
     『来い』と。その一念を乗せた台詞は、爆発的にひろがった暗紫色のオーラで肯定された。

    ●欲する
     オーラの向こうから襲いかかってきた衝突音と、横なぐりの斬撃を康也は耐えきった。
     見れば、細く軽く湾曲した、日本刀のようにも見える何かを邦直は手にしている。事前に判明していたサイキックの種類からして、康也にとってその得物は十分に予測済みだった。
     鍔迫り合いで【Tieren der Wildnis】が悲鳴を上げているが無視する。
    「自分を手放しちゃダメだぜ、ソコで踏み止まっていられるだけ、お前は強いんだ」
     その至近距離から、ぐらぐら揺れている目を覗きこんで康也は言った。彼の中で何が起こっているかは知っている。凄まじい形相でクルセイドソードごと叩き切ろうとしてくる邦直を、一度渾身で突き放して仕切り直した。
    「さあかかって来いよ、お前の中の闇をぶっ飛ばす!」
     単純に力負けしたのが信じられなかったのか、数歩たたらを踏んだ邦直が表情を険しくする。しかしなぜだかすぐ反撃に転じることはできず、不自然な間があった。
    『誰に向かって口をきいている……!!』
     苛立つように頭を大きく振り、邦直は灼滅者を睨みあげる。ダークネスの貴族と称されるヴァンパイア。気位の高さをにじませるその声に反し、目の奥には迷いがにじんでいた。
    「剣道のことは良く知りませんが、あなたが努力を重ねてきたことは動きで分かります。その意志の強さがあれば、乗っ取られることはないはずですよ!」
     エアを積極的に前へ出しつつ、リヒトは笹藪の斜面の底の戦場をざっと見回す。たしか葎や侑紀が人払いの必要性を考えていたようだが、元々ひとけはないので心配いらないと明言されていたことを考えれば、杞憂だったようだ。
     白衣の裾を翻して、侑紀は点滴台じみた妖の槍を振るう。白い蛇が絡みつく、見るからにまともなたぐいの人間ではないとわかる身体ではあるが、化け物と罵られても構わない、と思っていた。
     たとえ嘲られ罵られようとも、やりたいようにさせてもらうだけ。
    「戻れる可能性があるならば、こんなナリではあるが僕も助力しよう」
     セティエの霊犬に執拗にまとわりつかれ、侑紀がたて続けに繰り出してきた一撃を避けそこねた邦直が数歩後退した。
     セティエが見るかぎり、邦直の様子は本調子ではないらしい。有効な説得ができれば本来のそれよりも力を削ぐことができるはずだが、一体何の、そして誰のキーワードが奏功したかまではわからなかった。
     わかるのはただ、邦直の意志がヴァンパイアの支配を前に抗い続けているであろうこと、ただそれだけ。
    「もう少しだけ頑張ってもらえないかな? その間に私達がキミを助けてみせるから……」
     言いながら、流れるように一息で弓を引き絞る。光矢は忠実にセティエの意図通り、ホテルスに力を与えた。
     尋常ならざる膂力で振るわれる鬼の、ひいては異形の腕をことさら誇示するようにホテルスは邦直へ殴りかかる。
    「我輩の腕をどう思われますか」
     ヴァンパイアになどホテルスは尋ねていない。がつり、と上段からの叩き下ろしをなんとか防いだ邦直が大きく喘いだ。
    「我輩が正気を失っているように思われますか」
    『……答える義務はないな……!』
    「そうですね。我輩も貴方に答えてほしいとは思わない。答えてほしいのは和泉殿のほう」
     リヒトとセティエからの援護射撃が、ホテルスをはじめとした前衛と対峙したままの邦直を容赦なく削りにくる。星あかりのように輝くリングスラッシャーの軌跡と、やや重くなってきたように見える脚を地面へと縫いつける影色の触手。
     正眼に刀を据えた想希、そして霊犬エアがダークネスを攻めたてるのを横目に、ホテルスはもう一度大きく横薙ぎに異形の腕を払った。
     がん、と重い衝撃で邦直が受け損ねたことをホテルスは知る。刀を立てて自分の身体を護らせようとした姿勢のまま、まだ成長期の身体が笹藪の中へ軽々と吹き飛んだ。
     その着地点を完全に予測していたように零が現れる。攪乱するように、トリッキーに立ち回ることを零は好む。
    「俺達も、ただの人じゃなくなった存在なんだよ」
    『だから、何だと言うのだ! 正攻法で破ることもできぬ腰抜けが!』
    「ケンカは弱いけど、こういうのは慣れてるからね」
     色々な、本当に色々な意味をこめて零は笑顔で言いきった。ただし目だけは笑っていない。
     ……今回、彼が彼のままでいられたとしても、その先にはつらく過酷な現実が待っている。もう戻らない従兄、そして、ただの人間ではなくなってしまった自分。でもそれらを乗り越えるのは邦直自身だ。誰にも肩代わりはできない。縛霊撃とスターゲイザーを織り交ぜ確実に追い詰めながら、零は胸の内で願う。
     邦直のようにひたむきな人物は割と好きなのだ。だから手をさしのべる。たとえそれが、ただひたすらに自分のためだとわかってはいても。エゴであっても。
     侑紀か葎に向けられようとしていた凶刃の前へ身をさらし、康也が吼える。
    「シッカリ守りきる、邦直、お前のことも。誰もやらせねー……そんなツライこと、させるもんか!」
     息を飲んだ邦直の目の前、まるで恐れる様子もなく大きく一歩を踏み込んでくる黒髪の人影。
    「忘れないで」
     ただ今は強くあれ、と邦直に説いた葎が影の刃を従えて。夜のように。
    「あなたの剣は、人を傷つけるために学んだものではないことを」
     するりと静かに影色の刃が凝る。鋭く音もなく、ただ一点を狙って貫かれた一撃に邦直の身体を借りたヴァンパイアは絶叫した。
     貫かれた手から刀の姿がかき消える。それとほぼ同時に、邦直を覆っていた暗紫色の気がはじけるように霧散していった。

    ●満ちる
    「ホラ、腹減ってないか」
     康也が差し出したおでん缶を、邦直は物珍しそうな顔で受け取る。どうやらおでん缶そのものの存在を知らなかったらしい。
    「すみません、ありがとうございます。……助けてもらって、食べるものまで」
     意識を取り戻した邦直は取り乱す様子もなく、意外に落ち着いている、そのように見えた。まだ従兄のことについては康也も、その後ろでなりゆきを見守るリヒトも切り出せていない。
     どうしたものかと考えあぐねているうちに、邦直の手当てを終えた侑紀がよく頑張ってくれた、お疲れ様、と言いおいて立ち上がってしまった。
     しばらく地面に座り込んだまま自分の手を見下ろしていた邦直に、セティエが明るく話しかける。
    「ねえ、どうかな。もしキミにその気があるなら、の話だけど」
    「……ああ、その事をまだお話ししてませんでしたね」
     自分たちと一緒に来ないか、とリヒトはエアを撫でてやりながら邦直を見る。
    「そうだな、学園に来れば皆一緒の仲間だ。今日お前に起こったような事から、誰かを救い出すこともできるようになる」
     康也が請け負うように言うと、邦直は明らかに表情を曇らせた。
    「気持ちはとても嬉しいのですが……申し訳ありません、今からすぐというわけには」
    「? ……考えてくれる、という事でいいのかな」
     断り方のニュアンスが想定していたものと微妙に違うことを感じた想希が尋ねると、邦直は数メートル先に放り出されたままの鞄を見やった。
    「それはもう。家族にも説明しないといけないし、それに学校の手続きとか。明日からすぐ、というのはさすがに」
     一瞬しんと静まりかえったあと、誰からともなく8人、いや9人となった灼滅者達が笑いあった。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年3月31日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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