夢見草のかんざしに

    作者:鏑木凛

     机上に置かれたかんざしが、窓から零れる月明かりを受けて煌めく。
     段ボールだらけで色味も無い部屋の中、かんざしに飾られた硝子の桜だけが艶やかさを放っていた。
    「気味悪がられないかな。……や、まあ、今更か」
     頬を搔いた青年の、かんざしを見つめる瞳は穏やかだ。
    「……でも渡そう。田舎へ帰る前に」
     落ちた声は微塵も揺れず、青年はそのまま布団へ潜り込んだ。
     彼が眠りに就いた頃、枕元に現れたのは、宇宙服のような格好の少年で。
    「君の絆を僕にちょうだいね」
     少年は、青年にとって一番大事なものを奪っていった。 

     爪先にサンダルを引っかけて、ひとりの女性が庭へ飛び出した。
     彼女が向かったのは、庭を囲う生垣の前。
     背丈よりも高く密生した生垣は、一カ所だけ穴が開いていた。拳ぐらいの大きさで、屈まないと気づきにくい位置にある。
     生垣の前で座り込んだ女性は、桜の歌を紡ぎ出す。
     いつもなら途中で生垣越しに気配を感じ、歌い終わると控えめな拍手がもらえた。そして穴からくたびれたスーツの袖を覗かせて、武骨な手が小さな花や菓子などの、ささやかな物を置いていってくれた。
     相手の声どころか顔も知らないが、それが彼女にとって日々の楽しみだ。
     しかし――いつもの時間を過ぎても、生垣の向こうを通る人影は無かった。

     青年の足が、分かれ道でぴたりと止まる。
     ちらりと視線を投げたのは、いつも出勤前に通る方の道。住宅街の一角へ寄り道するのが日課だった。
     けれど今日は気分が優れない。憂鬱な日々を過ごしていた自分を、この世に引き留めてくれた歌声にも、まったく惹かれなかった。
     ――そうだ、帰りに屋上へまた行こう。一度踏みかけた過ちを見送りに。
     どうしてその過ちに身を委ねなかったのか、知っているはずなのに解らないけれど。
     屋上で黄昏ている人がいたら、自分と同じ目に遭わせないよう声をかけよう。
     だから青年の爪先は、真っ直ぐ駅へ向かう。
     頭に、奇妙な卵を乗せたまま。
     
     絆のベヘリタスの卵が、一般人に産み付けられた。
     狩谷・睦(中学生エクスブレイン・dn0106)は開口一番、灼滅者たちへそう報せた。
    「……卵を直接割ることができないのは、本当に残念だよ。手っ取り早いのに」
     灼滅者たちには見える卵だが、割る以前に触れることも侭ならない。
     そのため、孵化した直後を狙って叩くことになる。
    「宿主と絆を結んだ相手に対して、ベヘリタスの力は衰えるからね」
     卵が孵るまでに宿主との絆を結べば、ベヘリタスの灼滅も可能となる。結んだ絆が強いほど有利に運び、絆を結ばずに挑めば、勝てる見込みは無い。
     もちろん、絆といっても善良なものに限定しない。怒りや侮蔑でも構わなかった。
    「ただ、倒すのに時間をかけすぎないでね。ソウルボードへ逃げてしまうから」
     一度言葉を切った後、睦は宿主について話を始めた。
    「……卵の宿主はサラリーマンの結木・史郎さん。就職してからずっと一人暮らしみたい」
     地方から出てきた彼は、都会の生活に慣れないまま働き続けていた。
     過労や相談できる相手が近くにいなかったことなど、あらゆることが起因したのだろう。
     数年間で精神的に追い込まれていった史郎が、通勤に使う道を逸れたのは約半年前。
     その寄り道こそが、変化のきっかけだった。
    「きっかけを作ったのは、畑中・えみりさん。地元で育った女子大生だよ」
     寄り道した際、庭先から溢れてきた彼女の歌声に、史郎は心が安らぐのを感じたのだ。生気の無い日常を送っていた彼を、奮い立たせたのは間違いなく彼女だ。誰もが耳にする歌の数々で。
     以来、史郎は出勤前に歌を聞くため通い続けていた。卵を産み付けられてからの数日は、訪れていないようだが。
    「……結木さん、退職するんだ。実家の和雑貨屋を手伝うらしくて」
     睦は静かに説明を続ける。
    「接触してもらうのは、最後の出勤日だよ。翌日には田舎へ帰ってしまうから」
     最終出勤日ということもあってか、史郎は夕方に帰らせてもらえる。しかし彼はすぐ帰路には着かず、会社が入ったビルの屋上で一時間ほどぼーっと過ごす。
     様々なオフィスや事務所が入ったビルだ。関係者やその身内を装えば、潜入も容易い。
    「絆を結べるのは、その屋上か、結木さんの自宅周辺だね」
     街灯と住宅街の灯りだけが照らす道。だが退職祝いに貰ったチューリップの花束と紙袋を持っているため、見間違えることはない。
     道中には、おでんの屋台も出ている。夕飯時なので上手く利用しても良いし、別の方法を採るのも良い。
    「肝心の卵が孵る時間は、翌朝。それも早朝だよ」
     空が白んできた頃、史郎は最後の新聞を取りに、マンションの玄関ロビーへ下りて来るのだ。卵はポストの前で孵化する。
    「玄関ロビーは施錠されていないから、普通に入れるよ。安心して」
     ロビーというだけあってそこそこ広い。戦闘への支障は、そこまで気にしなくて良い。
    「ベヘリタスはシャドウハンターに酷似したサイキックと、濃い毒霧を使うよ」
     毒霧は距離を問わずに隊列へ吹きかけられる。
     生まれたばかりとはいえシャドウに変わりはない。油断は禁物だ。
     ベヘリタスを倒せば奪われた絆も戻る。その後のフォローをしてあげるのも良いだろう。
    「やっと暖かくなってきたところだから……」
     睦の笑みが綻ぶ。
    「温かい絆を返してあげてね。いってらっしゃい」


    参加者
    稲垣・晴香(伝説の後継者・d00450)
    紫月・灯夜(煉獄の殺人鬼・d00666)
    アシュ・ウィズダムボール(ディープダイバー・d01681)
    歌枕・めろ(迦陵頻伽・d03254)
    冴凪・翼(猛虎添翼・d05699)
    汐崎・和泉(碧嵐・d09685)
    七六名・鞠音(戦闘妖精・d10504)
    杠・嵐(花に嵐・d15801)

    ■リプレイ


     結木・史郎はその日、ビルの屋上に居た。
     出勤最終日ということもあり、夕方に帰らせてもらえたは良いが、どうにも行き場が無い。だから屋上を訪れた。
     いつもなら誰もいない場所で、史郎は人を見つける。夕陽の朱に溶け込むような、薄い赤のスーツを着た人物だ。柵に身を預ける後ろ姿を見て、史郎は足早に近寄った。
    「あ、あの、どうかしたのかい?」
     やや遠慮気味の声を聞き、稲垣・晴香(伝説の後継者・d00450)は空を仰いだ。
    「なかなかうまくいきませんねー、人生」
     ため息交じりの発言に、全くだね、と史郎の返事が届く。
    「私、プロレスラーの卵だったんですよ!」
    「だった?」
     静かに始まった晴香の話を、史郎は真剣な面持ちで聞いている。
    「怪我でクビに。で、やむなく就職活動中ってわけです」
     だからこんなところに居たのか、と呟いた史郎を振り向く。陽射しの柔らかさの中で、晴香は微笑んだ。
     そんな二人の背中に、靴音と共にかかる声があった。
    「……もしかして黄昏るお仲間さんか?」
     夕焼けの淡さに透ける髪を揺らして、汐崎・和泉(碧嵐・d09685)が二人へ会釈する。和泉へ視線を投げて、晴香は首を傾ぐ。
    「貴方も?」
    「ああ。ぼーっと生きてるだけだとむなしいんだよな」
     前はやりたいことがあったけど、と呟く和泉に、今度は史郎が首を傾げた。
    「やりたいことって?」
     質問で返した彼に、和泉も深くは語らず踵を返した。
    「でも楽しいこと、心安らぐことを見つけると、人生って花咲くように明るくなるぜ」
     ひらりと振られた片手を、二人で見送る。突然の出来事にきょとんとしている史郎の近くで、晴香は拳を握り気合いを示した。
    「膝が治ったら、またやりますよ! その時は、観に来てくれますか?」
     驚く史郎を前に、晴香は就職活動用の名刺を差し出して名乗る。
    「そして、私のファンになってくれるかもしれない、貴方のお名前は?」
     勢いに呑まれたのか、史郎は名刺を受け取った姿勢のまま、迷わず名乗りを返した。その様子を見届けて、晴香は別れの挨拶を向けた。屋上に響き渡る大声で、はきはきと。見違えるほどの元気さを有り余らせて立ち去った少女を、史郎はしばらく呆然と眺めていた。
     やがて、彼の意識は渡された名刺へ落ちる。
    「声をかけるまでもなかったのかな。でも……」
     人気のない屋上で、史郎はくすくすと笑う。
    「……いつかの自分を見ているようだ」


     鈍色の薄雲が、深い夜に包まれ羽を広げている。
     花冷えは夜だろうと構わず訪れる。足早に家路を急ぐ史郎を引き留めたのは、冴凪・翼(猛虎添翼・d05699)だった。
    「なぁ兄ちゃん、その花どこで買った!?」
     史郎が下げている荷物を見つけて、慌てた素振りで接する。目を丸くしながらも、史郎はすぐに貰い物だと答えた。
    「いや、ちと花屋探してんだけど、これっていう店が見つかんなくてさ」
     開けっ広げに事情を話して肩を落とした翼を見て、力になれなくて悪いね、と史郎も申し訳なさそうに告げる。
    「本当は、桜の花束があればいいんだけどなー」
    「それはまた難しい要望だね」
     わかってるんだけどさ、と翼は頬を搔く。
    「ほら、花びら掴めると幸せになれるって言うし、花束ならもっと幸せになれそうじゃん?」
     わかりやすい理由に、史郎もなるほどと唸った。
    「感謝とか、幸せになってほしいって気持ち込めるなら、いいかなって」
    「そうか、見つかるといいな」
     史郎は慌ただしげな翼に背を向け、今日は妙な日だな、と不思議そうに帰路に着く。
     住宅街が立ち並ぶ静かな一角、よく店を広げているおでんの屋台を通り過ぎようとして、史郎は零れてくる賑やかさへ顔を向けた。
    「たまには外で食べるのも、悪く無いですねっ」
     やや大きめに発した七六名・鞠音(戦闘妖精・d10504)の声は、屋台の前を歩いていれば、すぐに気づくものだ。そして屋台から転がり落ちてきた輝きにも。
     近くまで来た輝きを拾い上げた史郎に、屋台から声がかかる。席を立とうとした杠・嵐(花に嵐・d15801)に、落し物を笑顔で返す。すぐ傍に座っていたアシュ・ウィズダムボール(ディープダイバー・d01681)が、史郎の持つ花束を見下ろして、空いている椅子をぽんぽんと叩く。
    「お祝いごとですか? 良ければご馳走しますよ」
     遠慮しかけた史郎へ、初めてバイト代が入ったのが嬉しくて、と更に勧める。ピアスを拾って貰ったお礼もしたいと嵐が続けると、無下にするのも躊躇われたのか、史郎は席へ着いた。
    「お勤め……ご苦労様でした」
     ぺこりと会釈した鞠音に、史郎も会釈で返す。
    「好きな具は? 卵とかお薦めですよ」
    「じゃあ卵と、あと大根を貰おうかな」
    「おじさん、一番美味しいの頂戴!」
     声を弾ませるアシュの姿に小さく笑った史郎は、ふと視線を外した先で飴色の瞳と目が合う。
    「お花、綺麗ね!」
     屋台の灯りを瞳に映して、歌枕・めろ(迦陵頻伽・d03254)が話し掛けた。
    「誰かへのプレゼント?」
     続いた質問に、貰ったものなんだよ、と照れを含んで史郎は笑う。その笑みに、めろが吐息だけでふんわりと笑った。
    「めろも、いつか好きな人からお花をもらいたいわ」
     めろがあまりにもうっとりと話すものだから、君ならきっと貰えるよ、と史郎も柔らかく返す。
     おでんの香りが胃を刺激する中で、めろは尋ねた。
    「お兄さんは、お花を渡したい人、いないのかしら?」
     却ってきたのは、残念ながらいないんだ、という淡泊な答え。
    「さっきは、ピアス拾ってくれてありがと」
     すかさず嵐が話題を変えに入った。
     大事な物だと話す嵐の掌には、先ほど転がってきたピアスが包まれている。彼女の話には続きがあった。将来の夢を忘れないため、その誓いであるという続きが。
    「自分も、この街で頑張れるヤツになりたいんだ」
    「若いのにすごいな。俺も負けていられない」
     嵐が映した、将来に対する具体的な展望は、会社を辞めて実家を継ぐ彼にとって、他人事のように思えなかったのだろう。励みにもなったのかもしれない。
     夢の内容を聞いてもいいのかな、と興味を示した史郎へ、嵐はゆっくり頷く。
    「……花を作るコトだよ。いつか、あたしだけの綺麗な花を作って、皆に喜んでもらうんだ」
     まだ小さな花しか作れないケドね、と唇に笑みと微かな照れを刷いて。
     ひと段落した空気が消えてしまう前に、鞠音も口を開く。
    「貴方は、恋をしたこと、ありますか」
     唐突な質問に、昔はあったけどなあ、と遠い記憶を掘り起こすかのように、史郎は斜め上へ視線をやる。
    「私は、知らないこと、だらけです」
     伏せた睫毛を、店の灯りが照らして揺れる。
     我に返ったかのように、史郎がそこで席を立った。明日は早いから帰らないと、と鞄を持ち上げた史郎に、つられる素振りで皆も時計を見始める。
     そしておずおずと史郎へ声をかけたのは、アシュだ。
    「ごめんなさいお兄さん……財布忘れたので貸して下さい……」
     一瞬呆気にとられた史郎だが、次の瞬間には笑いを噴きだしていた。
    「あはははっ、面白い子だなあ! いいよ、元気貰えたお礼に奢らせてくれ」
     迷わず告げて会計を済ませた史郎へ、もうひと押しと言わんばかりに嵐が言葉を投げる。
    「お兄さんは忘れもの、ないの?」
    「えっ? 大丈夫、何も忘れてないよ」
     灼滅者たちは改めて、絆が奪われることの意味を肌身で感じ取った。


     淀んだ夜の空気を、風が拭い始めた。白む空から降り注いだ光が、冷え切ったマンションのロビーに広がっていく。
     史郎は大欠伸をしながら、新聞を取るため集合ポストへ手を伸ばす。いつもの朝だった。頭に乗った不気味な卵と周囲の空気が微動するまでは。
     微動は明らかな鳴動へと変わった。絆を奪った根源が、何の変哲も無いマンションのロビーに姿を現したのだ。仮面をつけた、黒き異形が。
     潜んでいた灼滅者たちが、一気に駆け寄る。呆然と立ち尽くす卵の宿主だった男を、ベヘリタスがぬっと振り返った。ヒッと史郎の喉から悲鳴があがる。
     翼は迷わず史郎を背に庇い、眼の前の巨体を睨みつける。しかし威嚇されてもベヘリタスは動じない。翼が殺界を形成し、史郎も転がるようにマンションを飛び出した。
     嵐もサウンドシャッターで戦場を整え、ベヘリタスへ交通標識の先端を突きつける。
    「アイツらの絆、返せよ」
     ベヘリタスはやはり動じない。その姿勢を崩そうと、拳に雷を宿した晴香が殴りかかる。深い影のような胴体が抉れ、晴香の闘気が拳から尾を引く。
     ――生まれたばかりなのに、堂々としてるじゃないの……!
     拳で、蹴りで、全身でもって対峙する格闘家だからこそ晴香は感じた。
     彼女が肌身で感じたものを、紫月・灯夜(煉獄の殺人鬼・d00666)もすぐに察することとなる。槍を回転させて突撃した灯夜の一手を、ベヘリタスの足らしき影が難なく払った。
     払ったベヘリタスの足が元の位置へ戻るより早く、和泉が炎を武器へ纏わせる。地を蹴り、巨躯へ飛びかかった和泉の腕が、硬いものに阻まれ勢いを失くす。
    「な……っ!?」
     ベヘリタスを成す影によって、彼の一撃は炎ごと防がれてしまった。たたらを踏んだ和泉が振り返り、霊犬の名を叫ぶ。
    「ハル!」
     チョコレート色の耳で主の声を捉え、斬魔刀でベヘリタスへ傷を生んだハルが唸る。ハルの様子に和泉も勘付く。傷は確かに与えたが、敵は微塵も狼狽えていない。
     黄色へスタイルチェンジした交通標識を掲げ、前衛へ耐性をもたらしながら、翼は桜が紡いだ絆を脳裏へ過ぎらせ、目を細める。
     ――辛かった時に支えてくれたものは、思い出になるしな。
     得物を握る指に力を込めた。頑張らねぇとな、と気合を呑み込んで。
     後衛に構えていた鞠音が、帯を射出する。
     ――恋、というのは、どんな感覚、なのでしょうか。
     覚えたことの無い感情は鞠音の思考から遠く、だからこそ冷静に見ていられた。そんな鞠音の帯が異形を貫く。
     貫通の衝撃に震えたベヘリタスが、毒霧を撒布する。濃い霧は前衛に降りかかり、鼻孔の奥まで一瞬で毒を滲ませた。毒に煽られた呼吸音が、そこかしこから零れる。
     仲間を見回したアシュは嫌な予感を抱きながら、武器に影を宿して殴りかかった。抉られた痛みにか、ベヘリタスが漸く呻いた。そしてベヘリタスの仮面が振り向いたのを見て、アシュは笑い声を吐いた。
    「……奪うなんて許さない。絶対にな」
     その笑い声に、怒りを乗せて。
     毒霧の悪影響を軽減するため、嵐が交通標識を黄色へ変化させる。
    「簡単には散らせやしないよ」
     美しい絆を。力強く意志を感じさせるアルトボイスに、ベヘリタスの仮面が視線を投げた。
     意識が嵐へ逸れた瞬間を狙い、めろが敵の元へ飛び込む。
     ――返してもらうわ。絆は、手に入れた人だけの宝物だもの。
     巨大化した片腕を振るい、轟音を響かせた。憤りを集わせた拳が、ベヘリタスに食い込む。しかし腕を引いても揺るがない姿を目の当たりにし、めろから血の気が引く。
     めろだけではない。戦場にいる誰もが痛感していた。
     思った以上に、ベヘリタスへの攻撃が通じていないことを。
     そしてベヘリタスの技が、思いのほか自分たちに効いていることを。


     ベヘリタスの霧が、漆黒の弾丸が、影が、灼滅者たちへ容赦なく襲い掛かる。
     流星の煌めきが宙を舞った。得意の飛び蹴りに重みを乗せたのは晴香だ。
    「反吐が出るわよ、アンタらにはっ!!」
     睨みを利かせた晴香に、ベヘリタスが巨体を揺らす。そこにはまだ余裕すら感じられ、倒れた灯夜を担いで、晴香は後ろへ下がる。
     どれほどの時間が経ったのだろう。ロビーへ入る光も、徐々に鋭さを増してきている。
     時間を気にしていたアシュが、一刻の猶予も無いと察し、ガンナイフを零距離で振るった。
    「覚悟しろよ。ベヘリタス!」
     冷静さを欠くことなど滅多に無いアシュの瞳が、怒りに揺れる。与えた傷も深く、体力を削れてきているはずだが。
     霊犬のハルが浄霊眼で癒して回る間、和泉は影の先端を鋭い刃に変えた。
     ――お帰り願わなきゃな。
     絆を奪う存在を翡翠の双眸に捉えて、和泉が斬りこむ。
    「オレらにも譲れねぇものがあるんでなぁ!」
     ベヘリタスに刻み付けた傷は、まだ浅い。
     攻撃の波を止めてはならない。そう察した翼が、全方位に放った帯で捕縛を試みた。
    「絆ってのはてめぇらの餌じゃねぇんだよ!」
     縛られた巨躯が、帯から逃れようと軋む。
     ――絆、どうして欲しいのでしょうか。
     ベヘリタスの思考が読めるはずもなく、けれど考えずにはいられなくて、鞠音が再び帯を解き放つ。
    「……寂しい?」
     貫いた帯から痛みを覚えたのか、ベヘリタスが身を捩る。
     何度目になるのかもわからない弾丸が、黒く染まったままベヘリタスより放たれる。撃ちぬかれたのは和泉だ。霊犬のハルが頽れた彼の前に飛び出す。めろの風が皆の背を支える中で、嵐もまた、翼へ飛ばした帯で鎧を紡ぎあげる。
     結んだ絆が強いほど有利に運び、絆を結ばずに挑めば勝てる見込みは無い――それが絆のベヘリタス。絆の数が足りなかったのか、絆の強さが緩かったのか、灼滅者たちも今となっては知る由も無く。
     不意に、ベヘリタスの仮面が虚空を見遣った。そして灼滅者がまばたきをした一瞬のうちに、異形の姿は跡形も無く消えていた。
     静まり返ったロビーで、灼滅者たちは緊張の糸が切れたかのように、膝を折る。
     アシュが床を叩いた。遠ざかっていた日常の音に気付いて、めろはマンションの玄関口を振り返る。
    「き、君たち、座り込んでどうしたんだ?」
     空気を真っ先に動かしたのは、戻ってきた史郎だ。同時に、朝陽の鋭さが灼滅者たちの瞳に刺さる。
     ベヘリタスは撃退した。戦いは終わったのだ。
     憔悴しきった心身を動かそうと、ゆっくり灼滅者たちは立ち上がる。具合が悪いのではないと解り、ホッとしたのだろう。史郎はポストから新聞を抜きとった。
     平然と日常に戻っている史郎へ、アシュが掠れた声で呼びかける。
    「史郎さん……最後に会いたい人はいないの?」
    「きっと、あなたは覚えているはずよ」
     あの優しい時間を。心を癒してくれた歌を。
     めろも想いを繋ぐ。桜のかんざしを渡して欲しい。そう願っていたからこその言葉だった。
     伝わると信じて、和泉も初夏の太陽のように朗らかな笑みを浮かべている。史郎は心当たりを求め唸った。
    「やり残したこと、ありますね?」
     鞠音の言葉を最後に、沈黙が走る。
     思い出して。気づいて。祈るような灼滅者たちの眼差しが、ひとりの青年へ集っている。
     重なる想いの真意を知らない史郎が、漸く声をあげた。恥ずかしそうに笑って。
    「ああ、そっか。お隣に挨拶するのを忘れてたよ」
     結木・史郎はその日、いつも通りの穏やかな朝を迎えた。
     だからかんざしもまた、窓から零れる光を受けて煌めくだけだ。
     いつものように、机に置かれたまま。

    作者:鏑木凛 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年4月1日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 5/キャラが大事にされていた 2
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