死線のみなしご

    作者:零夢

     古びたアパートの一室、部屋中に撒き散らされたおもちゃの真ん中で、その少年はうずくまるように座っていた。
     透き通るような白い肌、柘榴色の深い瞳。
     窓からそそぐ夕陽に小さな身体は船をこぎ、しかし、不意に響いたチャイムの音で跳ね起きる。ぱっと顔を輝かせ、一直線に部屋を横切り、いそいそと開ける玄関の戸。
    「ぉ、かえりっ! ……あ」
     ちがうひと。
     拙い発音で出迎え、途端、傷ついた顔でしゅんとする。
     その姿に、出迎えられた中年の女性はあんぐりと口を開けていた。
    「あんた……、なんだい、その格好」
     ややあって、彼女はどうにか声を絞り出す。
     線が細いとか痩けているだとか、それだけでは説明がつかない人間離れした異様な雰囲気に、表情が固まる。
     それでもざっと部屋を見回すと、なんとなく事情を悟ったらしく、苦い溜息を洩らした。
     ――なんだってこんな小さい子置いて蒸発しちまうんだかね。物音もしない、家賃もよこさないと思ってきてみれば……。
     口ぶりから察するに、彼女はここの大家なのだろう。
     けれど少年には、そんなことひとつも理解できない。
     わかることは、ただひとつ。
    「おなか、すいた」
     真っ赤な養分を求め、小さな口は牙を剥く。
     
    「なぁ、アレクシス。ヴァンパイアの闇堕ちは、『愛する者』を道連れにするんだったか?」
     放課後の教室、事件の資料片手にそう訊ねたのは、帚木・夜鶴(大学生エクスブレイン・dn0068)だった。
    「……どうした、いきなり」
     唐突な質問に、アレクシス・カンパネラ(高校生ダンピール・dn0010)は答えるともなく問い返す。なにやら考え事をしているらしい彼女を真っ直ぐに見つめれば、あぁ、すまない、と夜鶴はいつもの笑みを取り戻す。それは、灼滅者を支えるエクスブレインの表情だった。
    「ふと思っただけなんだ。深い意味はないよ」
     気にしないでくれ、と切り出す本題は、闇堕ちした子供に関する予知。
    「今回頼みたいのは深匡・千栄という少年……ヴァンパイアに堕ちた、8才の男の子だ」
     深匡・千栄は運命が闇に逆転するその日まで、至って普通の子どもだったと言っていい。だが、ひと月前の運命の日、彼は見てしまったのだ。
     宿題を教えてもらおうと子供部屋から開けた居間への襖、その向こうに。
     人であることを捨てた父親が、口元を真っ赤に染めて母親を食い殺す姿を。
     思考が止まって、悲鳴などでなかった。
     涙すら零せなかった。
     呆然と見つめる小さな瞳に、父は何を言う事もなく、母の身体を抱え、その場から消え去ったのだという。
     後に取り残された千栄はショックに思考を閉ざし、言葉も失った。自分が、人ならざる者へと変化していたことにも気づかずに。
    「今の千栄は、ほんの簡単な言葉しか扱うことも理解することもできない。正直、現状をどこまで理解しているのかもわからないな。だがどういう訳か……いや、訳などいらないのかもしれない」
     ――彼は待っているんだよ、『おかえり』と言って迎える相手を。
     その言葉に、アレクシスは夜鶴の最初の質問に込められた意図を見つけた気がして、静かに視線だけで先を促す。
    「この一か月、千栄ずっとアパートに籠っていた。……皮肉だよな、闇堕ちしてなきゃ死んでいる時間だよ。だが闇堕ちしたことで、他者を殺しうる存在になってしまった」
     たとえばそう、空腹に耐えきれず、様子を見に来た大家の女性に食らいつくとか。
    「そこには善意も悪意もない。ただの純粋な、子供の抜け殻だ。とはいえ、罪悪感のない奴に凶器を持たせるほど危険なことはない」
     だから、千栄が誰かを手に掛ける前にアパートへ出向き、事態を収束させてくれと夜鶴は言う。
     千栄に事前の敵意がない分、接触方法はある程度の融通が利くだろう。ただ、ひとたび戦闘になれば油断はならない。
     ヴァンパイア級の戦闘力とダンピール相当のサイキック、そして玩具の銃を武器に千栄は戦う。無論、玩具といえどもダークネスが使えば立派な凶器だ。
    「千栄は完全には闇に堕ちていない。ともすれば、救出も可能だろう。もっとも、言葉が容易く届かない上、善悪の区別が鈍くなっている彼を人として呼び戻すのは相当至難の技だ。それでも手を伸べるというなら……どうか、最後まで諦めないでやってくれ。ただ、いざというときは見切りをつけることに躊躇うなよ」
    「ああ」
     アレクシスが、静かに頷く。
     わかっている、と。
     その頭で渦を巻くのは、『道連れ』の三文字。
     近親者、あるいは愛する者を巻き込んだヴァンパイアの闇堕ち。
     ――……引きずりこんでおいて、置いていく、か。
     誰へ向けるともなく、彼は心に呟いた。


    参加者
    淳・周(赤き暴風・d05550)
    黒蜜・あんず(帯広のシャルロッテ・d09362)
    聖刀・忍魔(雨が滴る黒き正義・d11863)
    廣羽・杏理(フィリアカルヴァリエ・d16834)
    愛宕・時雨(小学生神薙使い・d22505)
    紅月・美亜(厨二系姉キャラ吸血鬼・d22924)
    水貝・雁之助(おにぎり大将・d24507)
    ルーナ・カランテ(ペルディテンポ・d26061)

    ■リプレイ

    ●待ち人
     ピンポーン、と、ドア越しに響いたチャイムの音に続き、パタパタ足音が近づく。そして勢いよく開かれた扉の向こうに、
    「おかえりっ! ――あっ」
     驚いたような傷ついたような顔で、小柄な少年が立っていた。
    「ごめんな、違う人で」
     愛宕・時雨(小学生神薙使い・d22505)が、少年の言葉を先回りする。覗き込むように首を傾げた彼の瞳の色は、ひどく柔らかい。
    「こんにちは、深匡千栄くんだね。初めまして。いきなりごめんね。僕たち、千栄くんにお話があってきたんだけど、お家に入れてもらってもいい?」
     そう言ってしゃがんだのは、廣羽・杏理(フィリアカルヴァリエ・d16834)だ。頭二つ分はある千栄との身長差をなくし、優しく笑いかける。
     だが、一身に注がれる灼滅者達の視線に耐えかねたのか、千栄は戸惑うようにドアの陰に身を隠した。
    「千栄君、大丈夫よ。びっくりさせちゃったわね。でも危ないことはしないわ。お姉さんたちと仲良くしてくれる?」
     怖くないから出ておいで、と黒蜜・あんず(帯広のシャルロッテ・d09362)が手招けば、おそるおそる、千栄は姿を見せる。
     その小さな身体を、淳・周(赤き暴風・d05550)がふわりと抱き上げた。
    「わ、わっ。たかい」
    「平気平気。落とさねぇよ」
     たかいたかいの要領で、周は千栄の頭を自分の首筋からは遠ざけつつ、目線を合わせるとニッと笑いかける。その不安も疑念も打ち払うように、こちらのペースへ誘うために。
    「しっかし軽いなー。ちゃんと食ってっか? いっぱい食わねぇと大きくなんねぇぞー」
     周は千栄を抱えながら、上がらせてもらうぜ、と一言断わり、奥へ進む。皆もそれに続くと、ルーナ・カランテ(ペルディテンポ・d26061)はドアの外に霊犬を残した。
    「……ってことでモップ、何かあったら知らせて下さいね」
     名は用途を示す――日頃はメイドの助手たる彼は、今日は見張り番だ。
     
     茜に染まったリビングは、時が止まったような冷たさがあった。
     散らばったおもちゃを避けつつ、周が千栄を降ろすと、彼は小さな鼻をくんと鳴らす。
    「いいにおい……」
     その言葉に、紅月・美亜(厨二系姉キャラ吸血鬼・d22924)が得意げに頷いた。
    「そうだろう、そうだろう。うむ、やはりわかるか。実は君のために作ってきたものがあるんだよ」
     言って、いそいそと取り出すのは保温性のお弁当箱。フタを開ければ白い湯気が立ち上り、優しい卵色のお粥が顔をのぞかせた。
     色々なレシピを調べに調べた自信作、味はもとより、食欲をそそる香りにとことん拘った一品だ。「わぁ」と上げる千栄の歓声が、なんとなく照れくさい。
     それに続き、水貝・雁之助(おにぎり大将・d24507)もおにぎりとみそ汁の魔法瓶を出す。
    「ボクも作ってきたんだよ。温かいうちにどうぞ」
     瓶からお椀にそそげば、部屋に広がる味噌の香り。
     千栄は目を輝かせ、けれどなかなか手を伸ばせないその背を、聖刀・忍魔(雨が滴る黒き正義・d11863)が促した。
    「深匡。ごはん……一緒に食べようか」
    「いいの?」
     勿論だとアレクシスが頷き、時雨はフルーツサンドを詰めたランチボックスを差し出す。
    「僕ら子供は遠慮しなくていいんだ。ほら、好きなだけ食べろよ」
     ごくんと動く小さな白い喉、そして。
    「――いただきますっ!」
     千栄は両手を合わせ、勢いよく食べ始めた。

    ●お利口な子ども
    「深匡さん、卵焼きは好きですか? ホウレンソウ巻いてあるんで、鉄分取りましょう鉄分!」
     ルーナが差し出す彩り鮮やかなそれに、千栄は大きく頷き、口いっぱいのおにぎりを急いで呑みこむ。
    「――っ、けほっ、こほっ」
    「わわっと、すいません! 慌てなくていいですよ。はい、あったかいお茶」
    「ん、ありが、と」
     受け取り、ゆっくりのどを潤す彼の背中を忍魔がさする。
    「落ち着いたか?」
    「うん」
    「そうか。よく噛んで……のどには、詰まらせるなよ」
    「ん、だいじょぶ」
     素直な返事に、忍魔は目を細める。彼女と周の持ち寄ったおにぎりも、既に半分ほどなくなっていた。こんな細い身体のいったいどこに、と思う程よく食べる。よほどお腹が空いていたのだろう。お粥とみそ汁は、とっくに千栄の胃の中だ。
     美亜はナプキンを手に、千栄の口元を拭う。それはまるで、弟の世話を焼く姉のようだった。
     ダンピールであり愛する妹を持つ彼女には、今回の件がどうしても他人事とは思えない。言葉以上に態度で、行為で、とにかく何かをしてやりたかった。いざとなれば、この血を対価に払ってでも助け出す覚悟さえある。
    「千栄君、デザートもあるから、焦らず、好きなだけ食べてね」
     言いながら、次々にスイーツを並べるあんず。
     ババロア、ムース、ヨーグルトパフェ。今日は腕を振るって、なめらかでみずみずしいものばかりを意識して作ったつもりだ。せめて、ひとじゃないモノの衝動で、渇きを思うことがないように。
     アレクシスも一口サイズのパインやリンゴを詰めた容器を千栄の前に広げると、ルーナがその横に、プリンを添える。
    「良い子でお留守番してたんだもの、これもあげる」
     言葉が伝わらなくても、この甘さは――このあたたかさは。
     大切な人の代わりにはなれないと知りながら、それでも彼女はあまやかす。
     ぱぁ、と顔を輝かせ、幸せそうにはにかむ千栄。
     ご飯も飲み物もデザートも、ぜんぶぜんぶ、きみのために。
     子供とは慣れるのが早いもので、一度心を許すと向こうから寄ってくる。全てを食べ終えた千栄に、雁之助がおいでと腕を広げれば、千栄は杏理にもらったゼリー飲料を咥えたまま、すっぽりその膝に納まった。横から、雁之助を父上と慕うカンナが優しく千栄の髪を櫛で梳く。
    「……頑張ったね」
     呟き、細い肩を抱きしめた雁之助を、千栄は不思議そうな顔で受け止める。
     それを眺め、時雨がやわらかく問いかけた。
    「なぁ、キミは誰を待っていたんだい?」
    「だれ?」
    「あぁ。ずっと一人で待っていたんだろう?」
    「あのね、ぼくがかえってきたら『おかえり』ってしてくれるから、ぼくもよるになったら、『おかえり』するの」
     噛みあわない会話――だがその端々に、彼の家族が見え隠れする。
     きっと、小学校から帰ってきたら母が『おかえり』と言ってくれて、仕事から帰ってくる父を『おかえり』と迎えるような、そんな家庭にいたのだろう。
    「……キミは偉いよ。いい子だ」
     早く帰ってくるといいな――言って、哀しいとも切ないともつかぬ笑顔を浮かべる時雨。
     じゃあ、と代わって、杏理が口を開く。
    「千栄くんは、困ってることとかない?」
    「うん?」
     んー、と空を彷徨う視線。
     たとえば誰も帰ってこないとか。
     たとえばひどく喉が渇くとか。
    「たとえばホラ、宿題とか?」
    「……それは、ヤ」
     リビングの片隅、見つけたノートをひょいと拾い上げた周の言葉に、千栄は口を尖らせた。子供らしい仕草に、周は思わず苦笑を零す。もしかして、意識的にあの日との繋がりを避けているのだろうか?
     そんなことを考えつつ、不貞腐れる彼の頭をくしゃりと撫でれば、
    「……あったかい」
     千栄が、ぽつりと洩らした。
    「あったかくて、おなかいっぱい。ねむたいね」
     ねちゃえばよかったのに。
     おきてなきゃ、よかったのに。
     とろんと言って俯く頭――雁之助は、千栄を抱く腕が濡れていることに気づく。
     ざわりと変わった空気に、灼滅者達の本能が一斉に警鐘を鳴らす。だが、千栄を突き放したりはしない。
    「……千栄くん、起きたら一緒に、お父さんたちを探しに行こうね」
     堕ちゆく意識へ、杏理が最後に呼びかけた。

    ●それはまるでがらんどうな
     薄闇に呑まれゆく部屋で、千栄はゆっくりと顔を上げる。あらゆる感情を失くした無表情――なのに、涙で煌めく赤い双眸がひどくアンバランスだった。
     ルーナが放つ人払いの殺気に、異変を察したモップが彼女の元へと駆けつける。
     瞬間、千栄はありえないほどの腕力で雁之助の抱擁を振りほどくと、小さな膝をばねに、灼滅者へと飛び掛かった。
     同時に、忍魔が床を蹴る。
    「深匡……痛いけど、我慢するんだぞ」
     お前に意地悪をするわけじゃない、お前を一人にしない為に必要な事だから。
     振り上げた腕が異形に変わり、鬼の腕力で華奢な体躯を薙ぎ飛ばす。千栄は猫のように着地を決めると、手近な玩具を掴み取った。
    「それならそれで構わないよ。……『さぁ、遊ぼうか』」
     小振りな銃を翳す千栄に、能力を解放する時雨。途端、足元の影がざわめき、漆黒のスズメバチが群れとなって襲い掛かった。
    「――ぱん、ぱん、ぱんっ」
     無数の蜂を歯牙にもかけず、白い指は引き金を引く。銃口が吐き出す暗い円盤が、次々と前衛達を傷つける。
     それを少しでも引き受けようと駆け回るのは、美亜の霊犬・ギンだった。
    「君は今までずっと待っていたのだろう? だから、結論を急ぐな……時間を作ってやる」
     美亜は千栄を見据え、真っ直ぐに伸ばした腕で石化の呪いを撃ち放つ。
     瞬間的に鈍った動きを周の影が捕え、アレクシスの撒く霧が前線の仲間に力を与える。その霧を突き抜け千栄へ走る魔力の帯――あんずだ。
    「少し苦しいかもしれないけれど、信じてちょうだい。あたしがあなたを守ってあげるから……絶対、戻って来れるから!」
     初めて灼滅者となった日の記憶を胸に、あんずが叫ぶ。それはもう二年以上も前のこと、闇に囚われていた自分を学園の仲間たちが救ってくれた。
     だから必ず、千栄のことも助けてみせる。
     見事胴に決まった帯に、千栄の息が短く詰まる。
     しかし眉ひとつ動かぬ無表情に、雁之助の方が顔を曇らせた。
     ――まだ、カンナと同い年なのに。
     そんな思いが頭を過り、ついで、千栄の父親に思いを馳せる。自分よりもずっと年上のその人は、どんな思いで我が子を置いていったのだろう。
    「……あと、少しだけ待っててね」
     噛みしめるように言って、口を引き結ぶと、人造灼滅者の『腕』を構える。瞳は千栄から逸らさない。言葉が通じなくても、偽りない想いを差し出すことが無意味だとは思わない。悪いものも暗い闇も、綺麗に取り除いてあげるから。
     素早く振るう手刀が千栄を切り裂き、殲術執刀をその身に施す。
     揺らぐ身体、とん、と踏みとどまる足。
     持ち直す千栄に、杏理はイエローサインを振りかざす。黄色は注意、仲間の耐性力を底上げだ。そして、深く息を吸い込み、音もなく吐き出す。
     ひとり待つ時間の静けさとか、しゃがみこんだ床の冷たさとか――わかるよなんて、気軽に言えやしないけど。
     大丈夫、千栄は今も頑張っている。だから『もっと頑張れ』という代わりに、別の言葉でキミを呼ぼう。
    「……こっちだよ、暗がりじゃなくて、僕たちの方。千栄くんなら、きっと来れる」
    「……?」
     傾げる首、灼滅者へと伸びる腕――次の瞬間、小さな人差し指が血色の逆十字を空に切る。
     後列へ襲い掛かるそれを堰き止めるべく、周が割り込む。正面から受け止め、傷だらけになりながら、彼女は強気に口角を吊り上げる。床を踏みしめ膝を曲げ、反撃に臨む気だ。時雨が言う。
    「足止めは任せろ」
    「おう、頼んだ!」
     威勢よく答えた周が走り出せば、時雨は護符を投げ飛ばす。
     たとえ感染でも、道連れにされたからこそ繋がった命を闇に渡すものか。
     五芒星を描いた護符が千栄の動きを縛り、炎を宿した周の拳がその身を穿つ。
    「どんな闇が相手だろうと、アタシ等が救い出してやる! それがヒーローってヤツだ!」
     真紅の髪を靡かせ、高らかに言い放つ周。
     これから先、千栄が向き合わねばならない現実を思えばこそ、せめて自分たちが救いにならなきゃいけない。
     モップの斬魔刀と共に振り下ろされるルーナの縛霊撃。
     愛なんて無責任で身勝手で、そんなよく分からないものを押し付けた挙句に消えるとか本当に迷惑で――……お陰で、生きてかなきゃなんないんですよねぇ。
     自嘲気味に目を細め、ルーナが微かに呟く。
     つらくても、苦しくても、逃げ出したくても。
     忍魔は半獣化した腕を携え、千栄の懐へ潜り込む。
     大切な肉親が闇に呑まれても、お前まで囚われる必要は無いのだと。
    「この手で、闇を落とす!!」
     闇を引き裂く銀狼の爪。
     白炎が尾を引き、細い身体は糸が切れたように崩れ落ちる。
     それを、美亜がしっかと抱きとめた。
    「……頼む。消えてくれるなよ」
     強い祈りを、腕に込めて。

    ●きみの待つ人、きみを待つ人
     やがて、ゆっくりと瞼を開けた千栄に、美亜は大きく安堵の息を洩らす。
     手の中に感じる温もりと重さ。変わらぬ白磁の肌と柘榴色の瞳は、生来の物か後遺症なのか。ともかく、本当に良かった。
    「おかえりなさい、千栄君」
     ぼんやりと天井を見上げる千栄を、あんずが上から覗きこむ。眠たげに見つめ返す瞳に微笑みかけると、そっと手を差し伸べた。
    「ね。よければ、あたしたちと同じ学校に来ない? そしたら、おかえりって言える相手は沢山できるわ。おかえりって言ってくれる相手も――その時は、ただいまって笑ってね」
    「そうですよ、深匡さん。笑ってたらそのうちいいことあります! 明るく元気にお仕事サボり気味な私でも、そんな感じで毎日楽しくやってますから!」
    「おいカランテ。変なことを教えるな」
     えへんっ、と胸を張った駄メイド・ルーナに、ぴしゃりと時雨がツッコんだ。
     うん。まぁ、ちょっと見栄を張ったかもしれない。サボり気味ではなくサボってる――じゃなくて。
    「……もし心細いなら、いい考えがある。今日から俺が深匡の姉……家族になる」
     それなら、寂しくないだろ?
     千栄の傍らで膝をつき、忍魔が言う。住み慣れた家を離れても、見知らぬ場所で新たな一歩を踏み出すお前を俺が支えてやると。
     それは、今までの家族を捨てるという意味じゃない。むしろ逆だ。
    「僕らのことも、家族だと思って甘えて欲しいんだな」
     雁之助が、カンナと共に笑顔を見せる。
     兄や姉のように、そして、親のように。代わりではなく、新しい家族が増えたと思えばいい。
     何かを捨てるのではなく、新たな誰かを得ることで拓ける世界があるはずだから。
     現に、生まれもルーツも違う彼ら二人は、そう家族として寄り添い生きてきた。
    「どうする?」
     訊ねる周の目は、しかし前向きな光を帯びて、一緒に来いよ、と誘いかける。
     千栄は順に灼滅者たちを見回し、それから、きゅ、とあんずの手を握りしめた。
    「うん。いっしょにお父さんたち、さがしてくれる?」
    「……うん。探しに行こうか」
     そっと、杏理が応える。
     だって、そう約束したのだから。
     そしてキミは、灼滅者として目を覚ましてくれたのだから。
    「よく、頑張ったね」
     もうひとりでうずくまる必要なんてない。
     行こう。キミを待つ人がいる新たな家へ。

    作者:零夢 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年4月6日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 1/素敵だった 7/キャラが大事にされていた 1
     あなたが購入した「複数ピンナップ(複数バトルピンナップ)」を、このシナリオの挿絵にして貰うよう、担当マスターに申請できます。
     シナリオの通常参加者は、掲載されている「自分の顔アイコン」を変更できます。
    ページトップへ