香りの文を認めに

    作者:鏑木凛

     学園から望む景色にも、緑の香りが強まっていた。
     春を告げる白き花。都内のものは、間もなく新緑へ変わることだろう。
     君は、窓枠に収めた季節の移ろいから、視線を廊下へ戻す。放課後は学舎を問わず賑やかだ。通り過ぎる生徒たちを見ても、学年が一定していない。この学園の良いところだろう。
    「……よしっ」
     春からは少し遠い藍色が、君の目に飛び込んできた。
     窓の外を眺めていた少女の声だ。何かを決意したらしい少女――狩谷・睦(中学生エクスブレイン・dn0106)は、君の姿を見つけてにっこりと微笑んできた。
    「ちょっと、いいかな」
     君が首を傾ぐと、そうキミだよ、と睦が傍まで歩み寄る。
    「週末、時間が空いていたりしないかな。ほんの数時間でいいんだ」
     言葉を続けた睦は、バッグからおはじきサイズの折り紙細工を取り出す。
     途端、鼻をくすぐる香りに君は気が付いた。
    「文香なんだ。手紙に同封すると、香りも一緒に届けられる」
     砕いたお香を、和紙やポチ袋で包み、封筒へ入れるだけ。
     封を開けると仄かに漂うしとやかさ。それが、慎ましくも優しい文香の役割りだ。
     お香自体も、沈香や白檀といった定番の他、蓮や金木犀、桜や梅、甘いバニラ、甘酸っぱい柘榴の香りなど、種類も豊富に用意されている。
     花や果実以外にも、最近は緑茶やダージリンティーといった嗜好品の香りや、ミントなどのハーブ類もあり、ラインナップも申し分ない。
     楽しそうに話す睦を前に、君が眼をしばたたかせる。
     すると彼女は、思い出したように声をあげた。
    「あっ、本題を忘れてたね、ごめん。文香を入れたお手紙、書いてみない?」
     面と向かっては言い難い日頃の感謝を、誰かへ向けて綴るも良し。
     自らの過去を振り返って、或いは将来を見据えて、決意や願望を認めるも良し。
     もちろん、黙々と手紙を書き続ける必要もない。会話をお茶菓子に、仲間とペンを走らせてみるのも良いだろう。
    「胸に留めておいた想いも、文字にするとまた違う気がして」
     そこに薫りも添えられたら、もっと良いひとときになる。
     睦は、春の陽射しを映した瞳で、君へそう言葉を向けた。
    「文香作りに必要な道具は僕が用意するよ。あと、ペンと……レターセットも」
     レターセットを集めるのが好きなのだと、睦は言う。
     そのため、便箋や封筒はもちろん、シールも様々な種類を取り揃えているらしい。
    「もちろん、愛用しているものがあるなら、持ってきてほしいんだ」
     お気に入りのペン。お気に入りの便箋。道具は、気持ちを記す助けになるから――話す睦の頬が、微かに赤らむ。
    「昼に教室を借りるだけだから、簡単な飲み物と、パンとかも大丈夫だよ」
     空腹では事も進みにくい。軽食ぐらいなら周りの邪魔にもならないだろう。
     ふと、君は渡された一通の封筒へ視線を落とす。
     封を開けると、桜の花弁が顔を覗かせた。便箋の柄だ。ふんわりと桜餅の香りもする。
    「それ、場所と日時が載っているから。よろしくね」
     睦は言い終えると、君へ控えめに手を振り、行ってしまった。
     和紙で包まれた文香と、薫りが移った便箋を手に、君だけが取り残される。

     さて、これからどうしようか。


    ■リプレイ

    ●選
     絹のように漉した陽射しが、教室内に降り注ぐ。
     柔らかい温度と鳥の囀りが、擦れあう葉の音を連れて入り込む。春を外から招いたのは、教室で行き交う数々の声だろう。
    「センパイ、もう選んだ?」
     ひょっこり覗く天青石の瞳に、考え込んでいた雫も覚悟を決め、和紙を手に取る。
    「悩みますが、私はこれを」
     文香と手紙の材料を手に、雫は狭霧と足を並べて窓際へ向かった。
     むっちー、と聞き慣れた呼び声に睦が振り向く。そして視界に飛び込んできた顔につられて、笑みを零した。
    「プレゼントにとっておきメロンパン! さっくさくで美味しいんよ~」
     自分の舌に狂いは無いと言わんばかりに、朱那が胸を張る。彼女と一緒に来ていたアシュも、メロンパンを手渡した。二人の行動に、目を丸くさせたのは睦だ。
    「だって睦、あの誘い方は絶対メロンパン期待してただろ」
     彼の言葉に、朱那も当然のようにうんうんと何度か頷く。
    「……お見通しだったんだね」
     睦の声は、間違いなく嬉しそうだった。
     こぽこぽと耳の心地好い水の音が届く。差し入れの紅茶を、アリスが紙コップへ注いで置いていた。遠慮無く飲んでね、と微笑む彼女から、燈も睦も紙コップを受け取る。
     早速席について書き始めた燈は、最初こそ難なく進んだものの、次第に雲行きが怪しくなっていく。
    「うーん……書きたいこと、たくさんあるなぁ」
     量を考えず突き進めては、分厚い手紙になりかねない。苦笑いを浮かべて、燈は指の腹で香を転がした。上品な和紙で出来た便箋に添える、桜の香。手紙を送る先、開封してくれる人が感じる香りなら、やはりその人の好きなものが良い。
     ――伝わるといいなぁ。
     自然と湧き上がってくる愛しさが、浮かぶ表情と共に胸に溢れだす。その全てを包み込むように、燈は言の葉へと想いを託した。
    「イコさんは何を挟むんですかねぇ?」
     決めかねていた円蔵が、材料と睨めっこしていたイコへ声をかける。すると不意に、イコの指が押し当てられた。けれど、秘密を思わせる仕草は、指先に染みついた香気を漂わせる。懐かしいお品なの、と続いたイコの声があまりに優しくて、円蔵は瞼を伏せた。
    「……かあさまが使っていらしたから」
     俯く頬に、柔い翠葉の髪が寄り添う。訥々と紡がれる思い出に耳を傾けていた円蔵は、やがてポンと手を叩く。何事か思いついたかのように。
     香りを選ぶ人に共通するのだろう。一方では、ふんふんと夜深の鼻頭がひくついていた。
    「あ。林檎トか、モ。可愛、かナ……」
     甘くても平気だろうかと、夜深が香をひとつ手に取り芥汰へ近づける。瞑った目の奥で馨しさを確かめてから、芥汰は考え込むように唸った。
    「強く残るものがいいな。花の方が好みだから、金木犀に白檀とかカナ」
     意見を聞いた夜深が、落ち着き無く辺りを見回して白檀の香を取る。
     鏤められた星屑が海色の瞳に輝く。自分をそこに映してくれているのに気付いて、芥汰は薄ら笑った。

    ●筆
     射しこむ陽射しで暖められた窓際は、一夜の特等席となった。
    「睦は好きな香り、あるのかな」
     雪色の長い髪を揺らし、好奇心を含んで尋ねる。
    「季節を感じる香りは特に好みかな。……お手紙、たくさん書くんだね」
     便箋が幾つも並んだ光景に睦が唸ると、月色の瞳がきらきらと揺れた。離れて暮らす家族には、息災を報せる沈香を。知り合いの先輩には、お疲れ様の意を込めてカモミールを。それぞれ選ぶ一夜の指先は、ひとつずつ幸せを生み出していった。
     目は口ほどにものを言う。そんな表現を希沙は思い出していた。自分の視線が間違いなくその状況だ。ちらちら視線を寄越しても、若草色を見つけては逸らしてしまう。
     小太郎が握る若草色のペン。それは彼女の贈り物だった。愛情を重ねて返すかのように、小太郎は便箋から意識を外さない。
     焦れた希沙は気持ちを落ち着けようと、用意した香りを吸って恍惚の息を吐く。その反応で思い出したように、小太郎が声をあげた。好きな香りを入れて貰っても良いですか、と。
    「読む時にまた、今日を思い出せるように」
    「……そっ、その理由は照れます!」
     あたふたしてから希沙が置いたのは、甘酸っぱくて瑞々しい苺の香り。耳まで染まった赤に笑いながら、小太郎が寄せたのは、仄かに甘い紅茶の香りだった。
     彼らのように、手紙を送る相手が眼の前にいるとは限らない。
     今年もパパに出すんだ、と無邪気に笑ったのは朱那だ。へえ、とアシュが文香を作りながら尋ねる。
    「父親宛てか……遠くに居るの?」
    「ん、パパは遠い遠い空の上」
     だから元気だと伝えたかった。学園から仰いだ大空の写真を、絵葉書にして。
     アシュは発しかけた呼気を呑み込んで、静かに呟く。
    「青空なら必ず届きそうだね」
     返った言葉に、朱那の空色の瞳が嬉しそうに震える。彼女の鼻が甘い香りを捉えたのは、その時だ。
    「あたしもメロンパンの香りにする! むっちーとアシュのことも書くんだもん」
     文香の香りを見事に嗅ぎつけて、朱那は勢いよく席を立った。
     鼻歌交じりに香りを求める人とは反対に、想像以上の書き辛さに苦しむ人がいた。縦書きの便箋に筆ペンという畏まったスタイルに挑む、勇介がそれだ。作業のお供として水筒に入れてきたチョコ・フレーバーのミルクティで息を整える。
     手紙だからこそ伝えられる。心を落ち着かせて、勇介は筆を滑らせた。
     ――俺がお茶を勉強するのは、小父さんみたいな大人になりたいからなんだ。
     幼さを併せ持つ少年の瞳に映る、大人としての理想の姿。頼もしい背中を追うごとに、己に欠けているものを自覚する。
     ――小父さんは、人の痛みに気づいて助けてあげられる、優しさと賢さを持ってるから。
     目標は近くて遠い。だからこそ勇介への影響も強い。古来より魔除けとしての意味もある、茶道に馴染深い訶梨勒と合わせて、北の大地へ想いを飛ばした。
     穏やかで、時に荒々しい春風が窓から吹きこむ。
     磨った墨が微かに波打つのを見届けて、円蔵は余白にうさぎを描いた。うさぎの出来としては少々拙いが。
     隣で文香を紡ぐのはイコだ。指先で模るバラと幽かな白檀。草木染で包む迷迭香に、はらりと零したバニラの粒。愛しさをそこへ描き、少女は桜色の唇に笑みを刷く――寂しい時には、どうぞポケットに忍ばせてね。
     窓際は、よりいっそう春を感じる席だ。
     宵色の万年筆でリズムを刻んでいた狭霧は、何気なく向けた視線に雫のそれと鉢合わせて、咄嗟に手元へ意識を戻す。
     挙動不審すぎやしないだろうか。
     狭霧の懸念をよそに、雫は深い青のインクで感謝を綴る。描き添えたのは小さな翼。文字で模ることも侭ならない想いは、鈴蘭の香りへ託して。
    「十六夜さんは、書けました?」
     俯いていた顔を覗きこむと、銀葉の長い髪がさらりと落ちる。彼女の瞳に灯る紫丁香花に囚われそうで、狭霧はそろりと顔を上げてから、折り鶴を摘まんで見せた。仄かに零れる白檀が、折り鶴と狭霧の指先を染める。
     しかし星を添えた手紙はまだ見せない。
     ――願わくば、貴女に幸せの星が降り注がんことを。
     煌めきの途切れない夜空のインクで綴った気持ちは、まだ――。
     暑くも寒くも無い温暖な気候は、余計な思考に惑わされず集中できる。
     繊細な青を瞳孔に宿し、伊織が忍ばせるのは柑橘の香り。新緑の爽やかさも味わえる竹も添えながら、大事な存在を思い浮かべる。
     ――これを見たら、どんな顔をするかな。
     伊織の頬を緩ませるには、充分な感情だった。

    ●認
     一人の配達員が、襟を正して机と向き合っていた。
     換気のため開放された窓からは、ぬるいそよ風が入り込み、手紙を認める人たちの髪や服をやんわりと撫でていく。その風に奪われないよう帽子をかぶり直し、黙太郎は筆を握る。
     仕分けて配達する方を得意とする黙太郎にとって、自ら配達物を作る機会は久しかった。ゆえに、筆の動きは滑らかにはいかず、祖父から昔受けた助言を想起する。
     ――文は人なり、でしたか。
     メールが普及している今の時世から、遠退いてきている一つの文化。
     ――手書きで伝える習慣は大事にしていきたいですね。
     気持ちを引き締めるように、制服のしわを引っ張った。
     言葉を発せず筆を走らせる青年もいれば、唸りながら机に向かう者もいる。
     ええと、と視線を彷徨わせていたのはシュガーだ。
     手元に置いた、白のレースで縁取られた便箋。聳えるアルプスのような清らかさを湛えた便箋は、開封されたばかりで真新しい。だからこそ言葉の塩梅にシュガーは悩んでいた。長すぎると諄いだろうし、短すぎては物足りない。
     ――貴方を、お慕いしています。
     彷徨った言葉と共に、香りを勿忘草色の紙に封印する。
     つん、と酸っぱく鼻孔をくすぐるレモンの香りは、シュガーが胸に覚えた慕情のよう。ちらりと視線だけで向かいを見ると、真剣な面持ちで筆を走らせる誉が映る。顔から火が出そうになって、シュガーは口元を覆い伏せた。
     対する誉は、先ほどから表情が硬いままだ。便箋のすぐ横に白檀と伽羅を転がして、万年筆で小気味良く顎をつつく。
     ふと思い出したのは、百人一首の一句だ。こんなにも焦がれているというのに伝えられない、そんなもどかしさを募らせた、藤原実方朝臣が傾慕を寄せる相手へ贈った歌。
     ――好きだよ、シュガー。愛してる。
     握る万年筆から熱が滲む。祖父が手を貸してくれている気がした。
     昇り行く湯気の熱は、未だ冷めない。
     アリスが注いだ紅茶のものだ。室温との均衡も考え淹れられた紅茶は、旨味を引き出したところで口へ運ばれている。今更彼にラブレターでもないし、と脳裏を過ぎる顔をアリスは軽く払い、薄い空模様の便箋にペンを走らせた。宛先は誕生日を迎えた少女だ。
     ――あなたの前途に幸いがありますように。
     ささやかながらも紅茶を思わせる温かさを添える。文に触れた香りは、紅茶のそれに紛れて溶けた。
     溶けた香りと湯気が消えた先、少し離れた席に腰を下ろしていたのは流希だ。
    「いやはや、文香とはこれまた……」
     顎を擦って懐かしさを噛みしめつつ、流希は握りやすいペンを手にする。そして遠く海の外に住まう家族の今へ、想いを馳せた。
     遠方へ馳せる想いもあれば、近しい者へ向ける想いも確かにある。
     伏目がちの表情に捉えた薫りの元を、芥汰の指先が弄っていた。文香の長所。それは、匂いが飛んでも、中のお香を砕くことで再び香りが滲み、楽しめるところ。缶に詰めたらもう少し長持ちするだろうか、と思考を巡らせる芥汰の言葉を、夜深の眩いばかりの眼差しが見つめていた。彼の得ている知識は、箱入り娘の少女にとって、新しい世界そのものだ。
     きらきらと光の粒を零す夜深の笑顔に、芥汰はうっとりと目を細めた。
    「少し先の夜深に手紙を書いてみようかと」
    「未来宛、御手紙……! 我モ、ソ、すル!」
     右に倣った夜深の決意に水を差すかのように、秘密をあれこれ書いてしまおうと、不穏な音を芥汰が落とす。
     何を書くつもりなのかと慌てる夜深を前に、芥汰は僅かに肩を揺らした。
     それはいつか開く誰かへ――今よりちょっとだけ、大人な君へ。
     未来へ向ける願いを綴る若者たちと背を向ける形で、過去と今に向き合うのは昭乃だ。ビハインドの総司と並んで、ロータス、沈香と白檀、丁子の調合を試みていた。
     香を合わせる場合、バランスが重要だ。集中しながらも、昭乃の考えは過去へ遡りつつある。精神の均衡が崩れ迷惑をかけてしまったときも、優しく支えてもらった。それを昭乃はずっと胸の奥で温めている。感謝しか浮かばない。
    「事前に調べておいて良かったですね」
     難なく済んだことを悦び、薄く総司へ微笑んだ。来たるべき夏に向けた、爽やかな香りが昭乃の鼻をくすぐる。
     そして一つ、匂い袋を総司へ差し出した。込めたのは、常に傍にある存在への、ささやかな感謝の意。
     寄り添いあうよう机が埋まるのは、二人の隙間だ。机を密着させた特別感は少々くすぐったくて、ショートナイフでコルクを削る模糊が唇を引き結ぶ。藍色の折り紙細工に忍ばせた欠片は、夜に揺蕩う香り。安らかな眠りへ誘う香りだ。
     ちらりと隣を見遣った模糊は、文に取り掛かっていた一平の手元を知る。見つけた言葉に小さく笑うと、笑わないでくれよ、と一平が頬を搔いた。
    「っふふ、ごめんごめん」
     笑った拍子にずれた眼鏡を押し上げ、模糊は手紙に「了解」の二文字だけを記す。
     そんな思惑をよそに、一平は折り紙の中へ桜の花を封じ込めていた。眠りに落ちる前に読めば、あの見事な桜の下で会えるだろう。香りがひときわ強い種の、桜の花を選んだ。一輪だけでも充分甘いこの香りなら、きっと。
     そう。二人の逢瀬は――今夜、甘い夢の中で。
     一方で、ゆらゆらと戯れる心が二つ。幼子がする内緒話のように、烏芥は揺藍と共に文字を連ねている。秘密の遊びだった。ずっと前から。
     しかしいつからだろう。烏芥にとっての「他愛も無いひととき」に、多くの呼吸が聞こえてこようとは。
     恐る恐る握った筆が、変化を覚えた指先から謎を零す――誕生日とは何か、と。揺藍も烏芥も動きが止まった。沈黙した筆は、心と違って揺るがない。
     ――ワタシにも、在るのでしょうか。
     烏芥は緩く首を振り、筆を置く。仄かに鼻を撫でるのは、馨しい山茶花。
     だから彼は朧に夢を見る。揺藍と共に、夕陽色の封の中で。

    ●渡
    「どうぞ、速達です」
     姿勢を正した小太郎が、両手で文を差し出す。はにかんだ小太郎の顔を瞳に映して、希沙の指がそっと文を受け取る。代わりに希沙が授けたのは、鹿のシールで封が成された文で。
    「お返事が届きました、よ」
     向き合い交わした二通が、持ち主の手を離れ相手へ届く。互いにゆっくりと文を胸に抱いた。開封して目を通すには、少しだけ勿体ない。
     完成した手紙を交換し合うのは、彼らだけではない。
     陽菜と錬も、日頃は口にできない気持ちを一文へ込めた。錬は鼻をひくつかせて、開封と同時にふわりと香ったのは、心安らぐラベンダー。先ず目に飛び込んできた「親愛」の字に、錬の頬に紅が射す。
     ――好きになってくれてありがとう。私が私らしくいられるのは、貴方のおかげです。
     文字だけなのに、陽菜の声で読み上げられているようだ。それは、錬の手紙に目を通している陽菜も同じで。
     ――いてくれてありがとう。頼りない僕だけど、君のために生きたいって思うから。
     滑らせた眼が捉える本音。筆跡に表れた人となり。同じだった。読む速さも抱く温かさも、そして。
     ――ずっと一緒に、いてください。
     ――これからも一緒にいたいと思っています。
     記された願いもまた、同じで。
     手紙を読み終えた錬が顔をあげる。陽菜の瞳が、天を照らす光のように柔らかく揺れた。
     傾く陽射しで、空いた机が熱を帯びる。白だけだった陽に橙が混じりだしていた。
     片づけを終えた人から教室を後にする。騒々しさこそ無かったが、人の気配と心に充ちていた教室は、徐々に静けさを取り戻していく。
     朱那と話す睦へ、一通差し出したのはアシュだ。手紙を開いた睦は、感謝を込めた文の末尾に記された名に、目を瞬く。朱那を振り返っても、彼女はいつも通り楽しそうに笑うだけで。
    「シューナがむっちーむっちー言うの、耳に残るんだよ」
     頬を搔いたアシュが、自分もそう呼んで良いかと質問を重ねる。睦から零れたのは、小さな笑い声。
    「駄目と言う理由が一つも思い浮かばないよ。僕には」
     微笑みながら、だからそう呼んで貰えると嬉しいな、と睦は言葉を付け足した。
     教室の戸が鳴り、また幾つもの靴音が外へ飛び出していく中、一夜も去り際に睦へ封筒を渡した。
    「またいい一年になりますように」
     踊るような軽やかさで、一夜は教室を後にする。
    「睦君、誕生日おめでとう御座います」
     揺籃と並んで声をかけてきたのは烏芥だった。
    「……どうだったかな。ここでのひとときは」
     不意に投げられた睦の問いに、烏芥はガランとした教室を見渡す。そして最後には礼を述べて立ち去った。そんな彼らを見送る睦の耳朶を、元気な二種類の声が打つ。
    「ヒヒ、ハピバですよぉ!」
    「ステキな一日、そして一年を、ね!」
     春の陽光を一身に浴びたメロンパンと、円蔵とイコの姿を睦が交互に見遣る。贈り物の形は睦の好物そのもので、だからこそ笑みが絶えない。
    「ありがとう。二人にとっても良い時間だったなら……」
     嬉しいよ、僕も。そう返した睦が、二人の背へ小さく手を振る。
     教室に漂う残り香も、すっかり薄れていた。思い出だけを残して、香りはそのうち消滅するだろう。少しばかり寂しさを覚えた睦に、一人の配達員が軽く脱帽した後、手紙を取り出した。
    「私なりの春花の便り、喜んで頂ければ嬉しいです」
     春を報せる梅の香が、仄かに封筒から零れてくる。
    「お勤め、ありがとう。郵便屋さん」
     そう礼を述べた睦に、黙太郎は会釈をして出て行った。

     秒針の音が室内に響く。睦は帰りしな、一通一通へ鼻先を寄せた。
     泰山木に梅、カンパニュラや桜餅、甘さを交えた金木犀、ダージリン。鼻先を寄せる度に溢れだす様々な香り。それは一人ひとりが練り上げた、想いそのもので。
     ――頑張ろう。僕も、もっと。
     両手いっぱいの幸福と決意を胸に、睦は教室の床を蹴って飛び出した。

    作者:鏑木凛 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年5月4日
    難度:簡単
    参加:25人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 7/キャラが大事にされていた 5
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