夢見のサルヴァツィオーネ

    作者:西宮チヒロ

    ●calmando
    『……どうしたの? 陸』
     気づけば呆けていた陸を、美雨が呼んだ。
     烏羽色の長い髪。白皙に淡く浮かぶ笑顔。
     誰よりも大切な幼馴染の、不思議そうにこちらを見つめる琥珀色の瞳へ、オレは微笑み返す。
    「オレは、なんて幸運なんだろうって思ってさ」
     先天性の心疾患を患い、余命1ヶ月と宣告されていた美雨。
     心臓移植しか道が残されていなかったそんな彼女に、ドナーが現れ――こうして、命を明日に繋げることができたのだから。
     物心ついた頃からずっと、彼女という雨を受け止める大地になりたいと願っていた。
     だからこそ、一番護りたい子を護れない自分が嫌でたまらなかった。助けたくても助けられず、ただただ非力な自分を憂い、疎み続けた。
     けれど、それももう終わりだ。
     柔らかな雨が降る庭を、ふたり縁側に並んで眺める。
     二言、三言。水を孕んだ空気に、雨だれのように染む言葉は少ないけれど、それで構わない。眼前に横たわっていた絶望は跡形もなく消え、彼女には無限にも思える時間がある。
    『陸。……これからはずっと、一緒ね』
    「ああ」
     オレは、なんて幸運なんだろう。
     朝から雨が降っていたのも、その雨が夕方から豪雨になったのも。
     ――雨でスリップした車に轢かれても尚、心臓だけは無事だったのも。

     幸せそうに笑う少年に、少女も幸せを滲ませて花のように綻ぶ。
    (『……きれいな、夢』)
     どうして、こんなに煌めいて見えるんだろう。
     どうして、こんなに『わたし』はこの煌めきが欲しいんだろう。
    『……リタ。あんたなら、解る……?』
     胸に手を当て微かに毀れた声は、返る答えのないまま、雨だれに溶けて消えていった。
     
    ●lamentevole
    「……命を救えるのは、ひとりだけです」
     視たものを語り終えた小桜・エマ(高校生エクスブレイン・dn0080)は、翠の双眸を僅かに伏せると、そう短く添えた。
     白いシャドウ――エト・ケテラに今回魅入られたのは、交通事故に遭い、病院に搬送された中学生・陸。
     既に意識はなく、このまま目覚めなければ脳死判定となり、彼の心臓は――幸運にも適合率が高いと判定された――彼の最愛の少女・美雨へと移植される。
     そして陸を目覚めさせれば移植はできず、美雨は医師からの宣告通り、1ヶ月後には命を終えるだろう。陸自身も、脳や身体に障害が残ってしまう可能性もある。
    「何だよ、それ……。なぁ! ふたり共生き残れる方法、何かないのかよ……!」
     堪らず椅子から立ち上がった多智花・叶(中学生神薙使い・dn0150)から視線を逸らすと、エマは静かに首を横に振った。
     臓器移植の適合者はそう簡単に見つかるものでもないし、例えESPの水垢離を用いたとしても、既に懸かってしまった病や負ってしまった傷を癒すことはできやしない。
    「ですから、今回どう対応するかは皆さんに託します」
     依頼の目的としては、『シャドウの撤退』。
     撤退させれば陸は助かるが、美雨はいずれ死んでしまう。
     撤退させずに灼滅者たちが退却すれば、その逆に。
    「……ただ、エトを撤退させようとするのであれば、恐らく彼女は『答え』を求めてくるでしょう」
     ――夢の外に返して、あんたたちが幸せにできるの? 最期まで、その幸せを護れるの?
     今まで何度となく問われ、そして未だ誰も明確な答えを返せていない、エトからの問いかけ。
     幸福な悪夢を見せ、幸福なまま死を迎えさせることで対象を護る。
     それは確かに彼女のエゴではあるが、『戻る先が辛い現実だとしても対象を目覚めさせる』というのもまた、灼滅者側のエゴでしかない。
     エトはそう想い、故に問いかける。
     目覚めさせて終わりではないのか。最期まで幸せを護ることができるのか、と。
    「正直なところ……『できる』と、言い切れる方は少ないと思います。ですから、自分なりの答えで良いと思うんです」
     できるのなら、そう言い切る理由を。
     できないのなら、それでも目覚めさせたい理由を。
     そして――共通するのは、『目覚めさせる』ことに対する覚悟があるか。
     その答えや覚悟がエトの理解や共感を得られれば、彼女はその場を引いてくれるだろう。逆に、得られなかった場合は直ちに戦闘へと発展する可能性が高い。
     
    「勿論、問われる前に戦闘に持ち込んで撤退させる方法もあります」
     灼滅者たちが悪夢の中へ入ってきただけであれば、すぐに攻撃はしてこない。
     だが、対象者への説得やエトへの攻撃――つまり対象者の目覚めに繋がるような行為をすれば、忽ちエトは妨害してくるだろう。それが会話のみに留まるか、それとも戦闘へと発展するか。それは灼滅者たちの対応次第だ。
     戦闘時のエトは、シャドウハンターと同様の攻撃手段を用いてくる。一撃は重く、そして体力も相応。それでも、皆でかかれば勝機はある。劣勢と思わせるほどに追い詰めれば、エトもその場を退くはずだ。
    「自分の命を捧げても良いと思えるほどに、大切な人……。
     陸くんにとって、美雨ちゃんにとって、どちらの選択が『幸せ』なんでしょうか」
     ――私はまだ、答えが出せずにいます。
     エクスブレインの娘は、憂いを帯びた声で、最後にそう独りごちた。


    参加者
    ハイナ・アルバストル(怯懦な蛮勇・d09743)
    サフィ・パール(ホーリーテラー・d10067)
    小沢・真理(ソウルボードガール・d11301)
    アイスバーン・サマータイム(精神世界警備員・d11770)
    新沢・冬舞(夢綴・d12822)
    霧月・詩音(凍月・d13352)
    野乃・御伽(アクロファイア・d15646)
    四辻・乃々葉(よくいる残念な子・d28154)

    ■リプレイ


     夢の中を覆う鈍色の空は、けれど不思議と澄んでいた。仰ぎ見た先から止め処なく毀れる雨粒は柔らかく、仄かに初夏の熱を孕みながら静かに大地に染みてゆく。
     濡れる。そう思ったときにはもう、誰しも傘を手にしていた。エトが惹かれた、けれどどこか物悲しくもある空を仰ぎながら、四辻・乃々葉(よくいる残念な子・d28154)は首許のマフラーを整える。
     少しして、ハイナ・アルバストル(怯懦な蛮勇・d09743)が巡らせていた視線を止めた。ひっそりと佇む一軒の平屋。仲間たちの首肯を受けてその木製の門扉を押すと、古びた蝶番が鳴き、庭先から水を含んだ土が匂い立つ。
     夢の中は病院やもと用意していた身分設定を手早く練り直し、縁側に座る陸と美雨へと小沢・真理(ソウルボードガール・d11301)が声をかけた。
    「こんにちは陸くん。久しぶりね、小沢真理よ。ほら、あなたの対面のベッドに寝ていた人の身内の」
    「あぁ、小沢さん……! そちらの方は?」
    「俺は、新沢冬舞。病院研修中の医学部生だ。その後の様子が気になってな」
     新沢・冬舞(夢綴・d12822)に続いて霧月・詩音(凍月・d13352)が名乗り、野乃・御伽(アクロファイア・d15646)が会釈する。
    「……私たちは、美雨さんに逢いに来たです」
     夢の中における立ち位置を持ち得なかった者の内、サフィ・パール(ホーリーテラー・d10067)が咄嗟に告げた内容は、確かに真実であった。彼女たちは紛れもなく、美雨に化けたシャドウ――エト・ケテラに逢いに来たのだから。
    「美雨、知り合い?」
    『……そう、ね』
     陸に尋ねられた美雨は、観念したかのように息を吐いた。足を揃えて立ち上がると、サンダルのまま初夏の花に彩られた庭へと歩き出す。
    『何、してるの。話、あるんでしょ?』
     詩音やアイスバーン・サマータイム(精神世界警備員・d11770)、多智花・叶(中学生神薙使い・dn0150)の見守る中、振り返った娘はもう、美雨ではなくひとりのシャドウだった。


    「ちゃんと呼んで待っててくれたのか。また次もそうして欲しい」
    『……待ってない。呼んでない。次も呼ばない』
     微かな呆れ顔ののち、ほんの僅か眉を寄せる。出逢った頃には見られなかった表情に、冬舞は思わず綻んだ。
    『此処に来たってことは、いくつかの答え……持ってきたの?』
    「ああ、あの問いかけかい?」
     ――夢の外に返して、あんたたちが幸せにできるの? 最期まで、その幸せを護れるの?
     報告書の通りに口にするハイナに続き、この場にいる最もちいさな、年端も行かぬ少女の凛とした声が響いた。
    「幸せに、出来ます」
     真理もまた、確りとエトを見据えて大きく頷く。
    「でも、誰かに決められた幸せなんて、それは、嘘、です」
    「ああ。一方的なままなのは、違う」
     都璃も何が正解なのか解らない。けれど、何もせずにはいられなかった。その心をサフィが繋ぐ。
     幸せは、与えて、与えられるだけのものではない。彼らなら自身の幸せために歩んでいける。だから目覚めさせる。それは、多少形は違えどもハイナも同じだった。
     『救えなかった』という事実は、彼の心に在り続けるだろう。
     自分たちがこうして助けに来たことすら、彼の意に反するかもしれない。
     ――それでも、この夢を、壊す。
    「えっと、はじめまして……。アイスバーンって言います。わたしも、それはわたし達がすることじゃないんじゃないかな? って、思います」
    「ああ。だからドナーを探すんだ、俺達皆で」
    『あの子……あと1ヶ月しか、持たないよ』
    「『まだ』1ヶ月あります」
     おどおどとした様子ながらも、アイスバーンは確りと言った。エトを見つめたまま、ゆるりと笑う。
    「わたしこう見えても欲張りなんです。2人ともが生きれる方法があるんでしたら、最後まで諦めたくないんです」
     揺らがぬ答えを胸に、真理も告げる。
    「私は、計算で助ける命を選択したくないし、誰かの犠牲が前提の救助を望まないし、助かる人を見捨てたくないから全力で助けるの」
    「覚悟は最初に関わった時から変わらない。今までもそうだ。灼滅者のエゴとも重々承知。だが、エト。人はだからこそ煌めくんだ」
     理不尽で不条理で儚くて酷い現実で、必死に生きるからこそ輝く魂。
     その光を失った魂は、死と何が違うといえようか。
    『冬舞……そう。それが、あんたたちの答え、ね』
    「じゃあ逆に問うよ」
     今まで口を閉ざしていたハイナが、そう切り出した。感情の篭らぬ青と金の瞳が交差する。
    「……君は『覚悟』をもってやっているの?」
     身代わりに生き残る地獄を美雨に見せること。
     彼の生をかけがえのないものとしている人たちを絶望させることへの『覚悟』。
    『そんな『覚悟』……必要?』
    「君と同じ絶望を持つ者を救う為に、君と違う種の絶望をふりまく事に、なんの躊躇も後悔もないの?」
    『『わたし』が満たされれば、他の人間がどうなろうと、関係ない』
    「それが、エトさんにとっての『わたし』のためです?」
    『そう』
     アイスバーンへと短く首肯すると、エトは右へと視線を移す。
    『ハイナも、本当はどうなの』
     見透かすような金の眸。己を案ずるサフィたちにひとつ頷くと、魅入りそうになったそれを受け止め、青年は僅かに瞼を伏せた。
     自分を置いて逝った両親。
     とりわけ身代わりとなった母には、己を死なせて生きていて欲しかった。
     そして、失うくらいならこの命に替えても良いと考える存在。
     仮に彼女の身代わりになって果てたとしたら、彼女の心が壊れるであろうと知りながら、それでも己は躊躇わぬだろう。矛盾した想いを抱えながら、冬舞たちが見守る中、それでもハイナは顔を上げた。
    「思うに、答えなんてものは何処にもないんだよ、エト君」
     きっと……どちらも正しいんだ。


     エトとの会話を始めた仲間たちから視線を戻すと、詩音や乃々葉たちは陸へと向き直った。
    「よぉ陸、初めまして。少し話をいいか?」
    「初めまして。……あ、こちらどうぞ」
     しゃがもうとした御伽に、陸はそう縁側の空いた場所に手を添えた。青年は口端を上げると、ありがとな、と隣に座る。
    「ツラかったよな。護りたいのに、何も出来ないってのはさ」
    「……でも、漸く護れました」
     誇りと喜びに満ちた横顔。陸は心の底から美雨を大切に想っている。だからこそ、それを否定せぬよう言葉を選ぶ。
    「ああ、お前が望んだ未来だ。でもな、よく考えてみろよ。お前が死んじまったら、今度は美雨が悲しむぞ」
    「そうだよ。美雨ちゃんも同じ気持ちの筈。……陸くんは全てを美雨ちゃんに背負わせちゃうつもりなの?」
     のんびりとした声音ながら、乃々葉は傍らを窺う。彼自身も考えていたことなのだろう。俯き、暫く黙り込んでいた少年の名を、詩音が呼んだ。
    「……大切な者の為、命を捧げて救う。なかなか出来ない事ですし、行為自体は尊い事でしょう。ですがそれは、大切な者の意思を、感情を無視しているのですよ」
     あなたを犠牲にした事を死ぬまで負い目に感じ、涙に暮れる事は無いと言い切れますか。
    「……でも、じゃあオレはどうしたら良かったんだよ……!!」
     膝の上で握り締めた拳を、やり場のない憤りのまま縁側に叩きつけ、思わず声を荒げた陸。
     その音に反射的にエトが、アイスバーンら灼滅者も振り返り、そして真理の相棒たるライドキャリバー・ヘルもまた、陸を、皆を、護らんと身構えた。
     得も言われぬ緊張と静寂。
     けれど、エトは動かなかった。
     陸と灼滅者たちを金の眸で捉えたままのエト。まるで試されているかのような感覚さえ覚えながら、それでも言葉を重ねることを赦されたのだと察したサフィがひとつ頷き、樹斉が独りごちのように語る。
    「……しあわせってなんなのかな」
     どちらに重い物を背負わせるか。
     愛する人が苦しむのを望むのか。
    「美雨だってお前に生きて欲しいと思ってるはずだろ。大事に想ってんなら、美雨を泣かせんなよ」
     生きるってのは当たり前のようで幸せなことだから。そう言って陸の拳へと掌を重ねる御伽の、その言葉を一番に解しているのは誰よりも陸本人だろう。だからこそ、乃々葉は願う。
    「そうだよ。美雨ちゃんには陸くんの支えが必要だよ。それに、美雨ちゃんはずっと側にいてくれた陸くんに感謝してると思うよ。だから、力が無いなんて思わないで……」
    「陸は随分甘いんだな。俺なら最後の瞬間まで美雨に覚えていて欲しいのに、他の男に美雨の未来を託すのか?」
    「それはっ……オレだって、そうです。けど……」
     冬舞へ咄嗟に返すも、答えを出し切れぬ様子の陸へ、春は短くその名を呼んだ。
     彼の気持ちを全否定はしない。けれど、陸が生きていることこそが美雨の支えになる。
     同じことを過去にしてしまったからこそ、伝えたい言葉。
    「『好きだから』なんて言って一方的に、私と同じように離れて、傍に居て欲しい人に逢えない苦しみを彼女に味あわせたいんですか!?」
    「じゃあ、オレはどうすればいいんだよ! 生きてたって、美雨のためにできることなんて――」
    「君が考えなきゃならないのは、大切な人の事だ」
     彼女が納得できる幸せを、君は自分の心を犠牲にしても考えろ。
     その諭すような木菟の声音に、陸の眼が見開かれた。ずっと見守っていた白髪の少年もまた、隠した目許はそのままに続く。
    「このままじゃ美雨を置いてきぼりにするんじゃねぇかな」
     幸せとは結果ではなく、選択したその過程も大事だから。
    「ああ。彼女の幸せを考えられるのは君だけだ。好きに決めろ。どんな答えでも俺はそれを全力で支持する!」
    「美雨の、こと……美雨の、幸せ……」
    「陸さん。もし私が美雨さんだったら、好きな人に生きていてほしいです」
     二人で生きていきたい。アリスの言葉に、ミルフィも頷く。
    「わたくしも……ほんの少しでも可能性があるなら……!」
    「――だから陸君。君は間違ってはいない、が……僕は君の命を救おうと思う」
     明確なその声に、陸は弾けるようにハイナを見上げた。
    「救うって……でも、オレはもう死んで……心臓も、美雨にあげて……」
    「よく考えて、陸くん。死んでから適合者を探すのに、まだ生きてる陸くんがドナーなんておかしいじゃない」
     陸と美雨の命の両立。
     本来なら在りえない状況を指摘する真理に乃々葉が頷き、詩音も続く。
    「……私達はあなたを夢から目覚めさせに来ました。あの美雨も偽物です」
    「偽者……って、あれ……?」
     いつの間にかいなくなっていた最愛の姿。
     それに気づき立ち上がった陸へ、サフィとアイスバーンが駆け寄り、これは夢だと詩音が言葉で制す。
    「……現実は辛く、厳しいのは自身が一番よく理解していると思います。ですが、自己犠牲精神を発揮したいのなら、先ずは目覚めて相手の意志を確認しなさい」
     直接会えぬのなら手紙を。代筆や配達くらいならする。そう諭され、陸はゆっくりと縁側へ腰を下ろした。暫く口を閉ざし、そうして灼滅者たちを再び見る。
    「……これは夢で、本当のオレは、まだ生きているんですね。目覚めようと思えば、目覚められるんですね?」
    「ああ」
     静かに頷く御伽。
     陸の瞳に俄かに戻ってきた光。
     それは、命を望む確かな兆し。
    「仲間達がドナー探しをしている。このまま無為に待つよりも共に歩きたくないか?」
     問いかける冬舞の言葉は、事実確かなものであった。
     ドナー探しをする恵理やパメラ、ゆま、采、栞、澪、周や樹斉、アリスにミルフィ。マネーギャザで集めた寄付金。更には、障害のない奇跡のような『幸運』に恵まれますようにと、水垢離をする【お節介屋】の面々やその協力者たちの存在を、彼らは識っていた。
    「ほら、こんなところにゐないで。今すぐ、病室にいる彼女の元へ行かなきゃ……」
     君が元気な姿を見せなくては彼女も病気に立ち向かえない、と无凱も後押しする。
     愛しい人の為に、命を捧ぐ。
     相手の気持ちなぞ関係ない、奥底からの願望。それは愛じゃなく、エゴであり狂気。
     そう識りながらも、共に生きるべきだと勇介も望む。
    「辛い道かもしれないけど、最期まで美雨ちゃんと一緒に居てあげて」
     そして、まだ美雨ちゃんの隣に居たいという気持ちがあるなら。
     ――生きて。


     ありがとう。その声とともに世界が揺れた。
     雨音も雫も薄れ始め、乃々葉へと頷いた陸も笑顔のまま消えてゆく。
    「俺にも、もう一度会いたい人がいた」
     けれど、彼女には会えず己は生き、そうして別の幸せを――愛する人を見つけた。
     必ず幸せに至れるものでもない。それでも、君が見つけた人々が生きて幸せになることを祈っていると、玲仁は零す。
    『本当……スレイヤーは、厄介』
    「簡単じゃねーな。人の命や心ってのはさ」
     どんな結末が待っていても、幸せかどうかを決めるのはお前でも俺達でもない。そうだろ?
     ハイナの向かいでからりと笑う御伽に、シャドウの娘は短く嘆息した。「優しいんだな、お前は」と添えた声には、違うと言いたげに視線を逸らす。
    『優しさなんて、識らない。あの子が識らないこと、わたしが識るわけない』
    「……『リタ』というのが、あの子の名前なのか?」
     冬舞の問いに、真理やアイスバーンも答えを待つ。
    『そう。愛称。本名を識る人は、すぐに死んだ』
     故に、そこから『エト』となるまでの14年間、優しさも識らずに生きていた。
    「……人は弱くて汚くて、簡単に裏切って他人を利用する。それでも、人の持つ優しさが煌めいて見えて……求めずには居られないのではないですか」
     名乗りを添えて告げた詩音の考えは、冬舞もまた同じ。
    『……優しさが、何なのか解らないから……それがきらきらして見えるのかも、解らない』
     ――エト。
     呼び声とともに、雛菊は愛刀の星椿で空を薙いだ。影の軌跡は漆黒の蝶となり、ふわり舞いながらエトへと届く。
     何故『蝶』なのか。
     半身を蛹として脱ぎ捨てたと感じた故に『一緒に居られない』と思うのならば、それは違う。
     共に居られるか否かではなく、共に居たいかどうか。
    「君の本心を聞きたい」
     案じながらも真っ直ぐに向けられた双眸。それを受け止めながらも答えぬままの娘に、都璃が尋ねる。
    「大切な存在がいなくなる淋しさを、お前は知っているんじゃないのか?」
    『……わたしが表に居れば、リタは眠る。一緒に居たくても……居られない。それに、リタはもう、飛べない』
    「飛べなくてもえぇんや。手、繋いで一緒に歩いたらえぇ」
    『繋いだこと……ない。……けど、リタは無理。だって、もう脚がないもの』
     ――掴まらぬようにと逃げ続けるも、ついぞ両足も壊死して自由を失った。
     咄嗟に乃々葉の脳裏を過ぎる、報告書の記録。
     今のエトの姿は、シャドウが人間形態に転じただけのものだ。人間としてのリタの脚が再生されたわけではない。そういうことかとハイナや御伽たちも得心する。
    「私は――手が届くならエトちゃんも助けたいんだよ」
     堪らず、真理が身を乗り出した。
     彼女にとっての救いが、助けが、何かはまだ解らないけれど。それでも。
    『……わたしは、救いなんて求めてない』
    「そうかな。エトのやり方は、なんだかエトが満足しない形で終わってしまう気がするの」
     例えエトが美雨となっても、それは仮初のぬくもり。陸が死んで夢が消えれば消えてしまう。
    「栞は、エトの幸せも願いたいな」
    『……わたしは、今が幸せ。自由だもの。飢えも寒さもない。他に欲しいものなんて、何もない』
    「本当にそうでしょか」
     そう言ったサフィに、エトのみならず詩音やアイスバーンも窺うような視線を向ける。
    「あなたは、誰かの大切な存在になりたい……のでは。だから、惹かれた」
     誰かを想う、強い気持ちに。

     ――だれか。だれかわたしを――『あいして』。

     瞬間、エトの心を渇望が支配した。
     それは、声にならなかったリタの叫び。
     愛を識らぬまま眠りについた娘が、最期まで棄てきれなかった願い。
     強い感情に揺さぶられ、エトは堪らず膝をついた。名を呼ぶ冬舞に続き、咄嗟に飛び出した澪が、震えるその身体を優しく包む。
    「大丈夫。わたしが、ずっと見て、ずっと傍に居て、力になる」
    『澪……』
    「感情の渦……最初は怖い。けど、少しずつ、受け入れていけたら……幸せになれるかも」
     ゆるゆると首を振って拒絶するシャドウ。まるで幼子のようなその白いざんばら髪を、変なこと言いますね、と囁きながらサフィが撫でる。
    「私、エトとお友達、なりたい……ですよ」
    『ともだち……?』
     言葉として識ってはいるし、実際に化けたりもした。
     けれど、それらは宿主の記憶を辿っただけにすぎない。リタをも識らない言葉に、娘はまた困惑の色を浮かべる。
    「難しいのは、分かってます。でも、私、エトのことは嫌いじゃなくて、好き……なので」
    『す、き……?』
    「わたしも、ダークネスとか関係なく……エトが好き」
     彼女が己を『何者でもない』と思っていても、澪にはそうは思えなかった。
     誰かを恋しがる『人』。
     だからそれを否定しないで。相談して。
     争わない方法は、きっとあるから。

     足早に消えていく夢に、灼滅者たちもまた背を向ける。
    「わたしは、エトちゃんとも一緒に居てあげたいかな……」
     去り際に、一度だけ灼滅者たちへと振り返ったシャドウ。
     その横顔にどこか淋しさを見つけた乃々葉の声が、唯静かに夢の残滓へと溶けていった。

    作者:西宮チヒロ 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年5月25日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 1/感動した 2/素敵だった 16/キャラが大事にされていた 6
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