●夢の中
「げーっ! しまった!」
少年は飛び起きた。提出すべき夏休みの宿題は、昨晩やろうと思ったまま結局手付かず仕舞い。これはお母さんに怒られる……そう思ったが、彼は正直に母に打ち明ける事にした。後でバレるのと比べれば、多少は怒られ方もマシになると思い。
けれども母は不思議そうに首を傾げた。
「まだ八月よ? あんたがそんなにちゃんと宿題やる気だったなんて知らなかったわね」
まだ八月? 少年は確かに昨日、夏休みの最終日だという事に気付いて不幸のどん底に突き落とされたのに。
けれど、そうと判れば話は早い。昨晩やるつもりだった宿題は、今晩に回せばいいってわけだ。さあて、今日は遊び納めだ!
……という事を昨日して、結局また宿題が手付かずだった記憶はあるのだが。
少年は今朝も、母と昨日と同じ遣り取りを繰り返す。
明日も、そして明後日も。
●武蔵坂学園、教室
「今、全然悪夢じゃないだろうと思った人、正直に手を上げて下さい」
五十嵐・姫子(大学生エクスブレイン・dn0001)の台詞にドキリとした人はどれだけいるだろうか。そしてダイキ少年もまた、その夢の本質を見誤ってしまうのだ。
「夢の中のダイキ君は時間感覚を引き延ばされて、一晩が十晩にも思っています。これでは現実の出来事よりも、夢の中の出来事を本当の事と思ってしまいかねません……そして夢の中毒となり、いつしか死んでしまうのです」
事件を防ぐには夏休み最後の晩、ダイキが夢の中で宿題の算数ドリルを解き終える必要がある。すると宿題に潜んでいたシャドウが現れるので、これをソウルアクセスして夢の中に入った灼滅者たちが倒すのだ。
「もっともダイキ君は自分からは宿題をやりませんので、皆さんが彼を応援してあげなくてはなりません」
と、姫子。そのためには彼と遊んで信頼を得たり、勉強を教えてあげたりといった工夫が必要だ。話の持っていき方次第では、これが夢だと教えてしまうのもアリかもしれない。
「そこまでできれば、シャドウとの戦い自体は決して困難ではありません……ただし」
そこで姫子は灼滅者たちを見回した。
「先ほど手を挙げた方、シャドウの出す『宿題』に負けないよう、気をつけて下さいね」
参加者 | |
---|---|
天衣・恵(無縫者・d01159) |
苑田・歌菜(人生芸無・d02293) |
比良坂・八津葉(天魂の聖龕・d02642) |
黒咬・翼(ブラックシャック・d02688) |
字宮・望(穿つ黒の血潮・d02787) |
トランド・オルフェム(闇の従者・d07762) |
シャルロッテ・カキザキ(幻夢界の執行者・d16038) |
白鳥・悠月(月夜に咲く華・d17246) |
●少年の部屋
シャルロッテ・カキザキ(幻夢界の執行者・d16038)は、机の上に放置されたままの算数ドリルを手に取った。それは全くの白紙というわけではなかったが、ほんの少しだけ解いて投げ出した形跡がある。
ベッドの中のダイキ少年は、幸せそうに寝息を立てている。まるで、宿題の事など忘れてしまったかのように。
(「気持ちは、理解してやれなくもないな」)
字宮・望(穿つ黒の血潮・d02787)の口元に、微かな笑みが浮かんでいた。けれども彼女自身はといえば、夏休みの宿題は七月のうちに終わらしてしまう派なのだ。ダイキがシャドウに付け込まれたのが、彼もそうするようになる切っ掛けになればいいのだが。
(「終わらない夏休みと聞けば聞こえはいいが……永遠に同じ日常が繰り返されるなど」)
黒咬・翼(ブラックシャック・d02688)の目元が厳しくなった。唾棄すべき偽りの日常、憎むべき悲惨な終焉を、彼は、少年から取り除いてやらなければならない。
「流行ってるのかしらね?」
小さく、比良坂・八津葉(天魂の聖龕・d02642)が呟いた。細かいところは違えども、勉強をダシに犠牲者を苦しめるシャドウの事は、八津葉も数々見聞きしている。
「ま、解る気はするわ」
その視線がちらと横を向く。この機に乗じて自分の宿題も終わらせに来た(それは、今日という今日まで宿題を放置し続けていた証拠でもある)天衣・恵(無縫者・d01159)が、夢に持ち込んで皆に解くのを手伝って貰うつもりの宿題を今更チェック中なのだ。
(「私の場合は、理数系ばっかりやってたのよね」)
恵の大惨事を眺めつつ、昔を思い出した苑田・歌菜(人生芸無・d02293)。彼女の場合、文系科目が放置されていた。人によって宿題の貯め方も違うのは、不謹慎ながらちょっぴり興味深い。
「さて、どうするのが良いのかな」
そんな風に頭を巡らせた白鳥・悠月(月夜に咲く華・d17246)に、トランド・オルフェム(闇の従者・d07762)が声をかけた。
「自分で理解さえできれば、後は楽しくなってくるものですよ。現実によくあるシーンを例に出して、解りやすく、楽しく教えてゆけばいいでしょう」
「いや、そういった話ではないのだ」
悠月はそう答えてから口を噤んだ。子供に好かれる自分の姿を、彼女はとんと想像できないのだ。
けれども、悩んでいられる時間はそう残っていない。
シャルロッテが、再びドリルを机に置いた。そしてダイキに近付くと……そっと彼の額へと、その手を静かにかざしたのだった。
●終わらない夏
ミーンミンミンミンミンミー……。
ノスタルジックなセミの声。後ろを見れば、青々と茂る山の緑は迫るようであり、山並みそのものが神聖な結界を思わせる。そして前を見渡せば、向こう側の山の麓からずっと続いている田んぼ。流れる空気はひんやりとしていて、東京の灼熱に慣れた身にとっては肌寒いほどですらある。
ふと、田んぼのあぜ道を、小さな姿が横切った……ダイキだ。
翼が試しに手を振ってみると、少年はすぐにこちらに気付き、急いでこちらへと駆けてきた。それから、何やら灼滅者たちに抗議する。
「お前ら、誰だよ!? ここはオレのおばあちゃんちだぞ!」
けれども、知っているとばかりに灼滅者たち。
「私たちはね、今日からダイキ君の家庭教師なのよ」
歌菜は家のほうを指差した。
「遊びに行くのはいいけれど、先に宿題を終わらせたらどうかしら」
「えーっ!」
ダイキは口を尖らせる。歌菜に、私たちも一緒にやるから、と言われても、どうにか逃げる隙はないかと辺りを見回している。
その視線の行く先に、八津葉が回り込んでいた。
「大変だと思うことから逃げるのは簡単。でも、それだと人生の大事なことからも逃げる癖がつく。君が君の人生を大切に思うのであれば、逃げずに勉強しておくべきよ」
「逃げてねえって!」
慌てて弁解する少年。
「夜になったらちゃんとやるよ! だから今は今しか遊べないことをやってんの!」
それは一見、ある種の正論ではあるのだが。
どん、とバッグを大地に置き、恵は数学の問題集を取り出した。
「それで本当にちゃんとできるなら、私はこんなに苦労してません! だからダイキ、一緒にやろう! 今なら他の人に教えてもらいながら……試練を乗り越える事ができるのだ!」
「教えてもらいながらかー……」
少年はちらりと灼滅者たちを見た。それから勿体ぶるようなフリをする。
「だったら、やってもいーかもなー? でも、もうちょっと遊びたいなー……?」
●算数の勉強
「あれ? 少ねーな」
参加者が9人ともなると、トランプが54枚あっても手札になるのはたったの6枚。ダイキは最初、感覚以上の手札の少なさに戸惑っていたようだったが、それでもすぐに本領を発揮する。
「よっしゃー上がり! 大貧民なら負けねーぜ!」
ちゃぶ台にトランプを叩き付けて得意げになるダイキの姿をじっと眺め、悠月は大きく頷いた。
「これで安心して宿題に取り掛かれるな?」
「わ、わかったよ……」
萎縮した様子の少年は、悠月に脅されたように感じたのだろうか? 仲間たちにも、悠月は怖いと思われていなければいいのだが。
兎に角、ダイキが渋々ながらドリルと向かい合おうとしたのは確かだった……でも鉛筆は進まない。しまいには、手持ち無沙汰にドリルのページを指で弾き始める。
「誘惑に負けるな……負けたらこうなってしまうのだから」
翼の懐から、一枚の証拠写真が取り出された。整理される事もなく積み上げられたノートや参考書の山に埋もれ、半泣きで恨めしそうにこちらを見ている悪友の姿だ。
「高校生が、何一つ宿題をせずに最終日を迎えた結果だ……いやこんな写真を見なくても、そこの現物を見るのでもいいか」
ダメ高校生サンプル――恵は、ああ、あそこに漫画の本棚があるのが悪い気がする、などと生気のない声で呟いて、唐突に本を移動し始めた。もちろん……結果はこうだ。
「あー、これ私が生まれる前の漫画だー……一年修行しても一日しか経たない部屋かーいいなー……」
無論、すぐに宿題(げんじつ)へと叩き戻された。そんな恵を横目に見ながら、望は袋を取り出してダイキの前で開ける。
「難しくて嫌なのか? なに、そんなことはないぞ」
ごろごろと置いたのはクッキーだ。望は、そのうち一つを取って聞いてみる。
「例えばこのクッキー6個を、一人3個貰えるとすれば、何人がクッキーを貰えるか数えてみるといい」
「馬鹿にすんなよ!」
ダイキは、すぐにクッキーを2つのグループに分けた……答えは2。
「よくできました」
まるで坊ちゃんに仕える執事のように、トランドはミルクティーを差し出した。ご褒美のクッキーとよく合うアッサム茶は、飲みやすく、問題を解いて疲れた頭をすっきりとさせてくれる。
自らも数学Bの問題集を解きながら、シャルロッテは横目でダイキの様子を窺っていた。滑り出しは順調……けれどもこの後は、一体どうなる事だろう?
嫌な予感はすぐに当たってしまった。
9÷3、12÷2、そういった簡単なものは問題がない。けれども……。
「もーめんどくせー!」
もっと難しい問題……例えば、歌菜が出した54コの飴玉を9人で分ける問題になると、ダイキの解き方は直感で9グループに分けてから、やはり感覚で微調整するという手間のかかる方法を始めてしまうのだ。
「なら……飴玉のプレゼントはナシね」
溜め息を吐く歌菜。
「答えは6なんだけど……」
「……あ!」
唐突に、ダイキが身を乗り出した。
「9人で一人6コだったらトランプと同じじゃん!」
もう一度ダイキは飴玉を集めた。それから今度は一つずつ、9のグループに割り振ってゆく……まるで、トランプを配る時のように。
「よっしゃー、ちゃんと6コずつになったー!」
「まさか、こんなところでトランプが役に立つとはな」
目を丸くしてみせる悠月の前で、ダイキは自分のアイディアに喜び踊り始める。
「これで割り算のやり方はわかったし、もー後は遊ぼうぜ!」
「だめだ」
望の目には、今までダイキに見せていた物静かな光とは違う、力強い意志が宿っていた。
●破るべき夢
「これは……夢よ。ダイキ……あなたの、宿題が終わらないことへの恐怖が産み出した夢」
淡々と語り聞かせるシャルロッテ。
「……そこに目をつけた悪魔が……まだ八月だという喜びであなたを夢に閉じ込めようとしている」
「夢?」
彼女の与えたバウムクーヘンにかぶりつきながら、ダイキが問う。
「昨日、夏休みの最終日と気付いたのではなかったか? ならば何故、今日はまだ夏休みなのだろう」
翼の問いに、少年は答える術はない。黙りこくってしまった少年を手招きすると、八津葉は一本の箒にまたがらせた。そして自分もその後ろに乗り込んで……びゅん。
涼しい風が、冷たく感じ始める速度。箒で空を飛ぶなんて、夢の中でもなければありえない!
しばしの空中散歩の後に戻ってきた少年の頬は、冷たい風と興奮で真っ赤になっていた。
「そっかー……夢だったのかー……あれ?」
けれどもそこで、少年は首を大きく傾げた。
「だったら……宿題しても無意味じゃね? 遊んだ方がよかったじゃん!」
「いいえ……それが、そうではないのです」
静かに首を振ってみせるトランド。
「このままでは、現実に帰れなくなるのです……ずっと、同じ時間を繰り返すおつもりですか?」
友人や、家族も偽者ばかり。本物とは二度と出会えないまま、いつの間にか死んでしまう人生。
トランドが少しばかりの誇張を交えてそう語ると、少年は、ぶるりと身を震わせた。
「抜け出すためには……宿題を終えるしかないわ」
と、シャルロッテ。そのために私たちも手伝うのだから、と歌菜は言った。シャドウがダイキの『ニーズ』に合わせてくるのなら、こちらもそれ以上のニーズで応えてやればいい。のだけれど。
「でも……夢の中だったら、いくら解いても意味ねーんだよな……やる気出ねーなー」
ダイキの言う事ももっともだ。だから悠月はこのように説く。
「それは、算数の面白いところを知らないからだ。問題を解くのが面白ければ、朝起きて答えが消えていたとしても楽しいだろう?」
「本当は、答えが合っているかどうかじゃない。大切なのは『考えて、解き終えた』ってことよ」
八津葉の言葉もダイキの心を、多少は楽にしてやったようだった。
「じゃーやるよ! けど……間違ってても怒んなよ!」
「間違ってても怒りはしないが、合っていたならこれをやろう」
悠月もご褒美に、カステラ饅頭を取り出した。
●漆黒の方程式
こうしてダイキが、最後の問題を解き終えた時だった。
ドリルが突如……黒い光に包まれる!
「出ましたね……シャドウ」
スレイヤーカードを解放したトランドが、執事から貴人へと変化した。
黒の礼服に差し色の赤。眼鏡の奥の双眸は、皮肉げな微笑を絶やさない。
『Tmax=kQ÷A!』
数式が流れ出す。それを一撃のもとに引き裂いて、敵を自身と同じ色へと染める!
『ad-bc!?』
驚く暇など与えない。収縮しようとする数式を今度は、有無を言わさず翼が斬り捨てた。
「始まりがあれば終わりがある。終わりを望まぬ下らん悪夢め」
すると憤った数式が凝り固まり、闇の触手を解き放つ。それを手のひらで受け止めて、そのまま握り潰す望。
「切っ掛けをくれたのは結構だが、あまり小さい子を狙ってくれるな」
闇へと杭を打ち込む望。腕を滴る毒の事など、何も気にする必要はない。何故なら毒は、悠月がダイダロスベルトで拭ってくれているのだから。
「毒ごとき、任せておけ」
悠月は、弓の形をした杖も抜きながら声をかけた。
「私に任せてくれてもいいわ」
八津葉の指先で魔法が光る。闇の中の文字を貫く様子は、まるで、生徒に指差し教える教師のよう。
苦しみから逃げるよう、一行の数式が部屋を這う。
『sin(α+β)、cos(α-β)!!』
「ぎゃー!? 来たあああ!?」
盛大に悲鳴が上がった直後、ばすばすと盾を叩きつけまくる音。這ってきた数式は壊せたが、涙目の恵を狙い目と見たか、さらなる数式が集まってくる!
『(kI-A)v……ピギャ!?』
けれどもそれらの数式は、いとも容易く動きを止めた。
「こんなもの、ゲーム感覚にもなりゃしない」
それらの解法を諳んじながら、逆に問題の不備を指摘する歌菜。放たれた魔力の弾丸は、数式を闇ごと呪縛する!
「……どう? 解かれる気持ちは……」
闇の中に自らを取り込ませるほどに近付いて囁くシャルロッテ……彼女が次の瞬間全身を捻ると、数式は項の単位にまで粉々に分解された。
『3x……2ab……!』
「逃げ場などない……ここがお前の終着点だ」
翼は項を、さらに文字へと。
『y……』
床に転がった幾つかの文字を、望は足の裏で踏みにじる。
「この夏最後の宿題は、お前を倒す事で終わる。その数式を、自分にでも撃ち込んでいろ」
深紅の逆十字が燃え盛り、闇は、浄化されるかの如く虚空へと消えていった。
●再び、少年の部屋
目を覚ました灼滅者たちの前で、ダイキは夢に入る前と同様、幸せそうな寝息を立てていた。
「悪夢は去ったか」
翼は不機嫌そうに吐き捨てる。永遠という名の終焉などとは、実に虫唾の走る事を思いついたものだ。
……とはいえ。
宿題を克服した少年にとっては、悪夢は最早、何も意味を成し得ない。朝起きた時、少年が夢の中の出来事をどこまで覚えているかは判らないが、あとは朝、早起きをして、急いでドリルを仕上げればいいだけだ。
一方……。
「……!」
恵はがっくしとうなだれて、呆然と宿題ノートを眺めていた。ずっと肉体と一緒にあった『本物の』ノートは、夢の中での努力も空しく白紙のままだ。
「あーあ」
「そうなると判っていただろうに」
歌菜と悠月が呆れ果てた。
「早めに宿題を終わらせないからだ」
「ここにも、一つ授業になった人がいたわね」
望や八津葉の忠告に、恵はただ涙を流すほかはなく。
そんな彼女をエスコートしつつ、トランドは部屋を後にする。続いて……他の灼滅者たちも。
その最後にシャルロッテが振り向いて、机の上に、それからダイキの寝顔に視線を遣る。
『解法はわかったでしょ。あとは清書をするだけね』
彼女からのそんな置き手紙を、朝起きた彼が見てくれる事を祈りつつ。
作者:るう |
重傷:なし 死亡:なし 闇堕ち:なし |
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種類:
公開:2015年9月1日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 1/感動した 0/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 0
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