いざなう

    作者:牧瀬花奈女

     片側の頬を、涙が伝う。
     彼女はそれを手で拭うと、視線を前へ戻した。
     背中に生えた、骨だけのようなぼろぼろの翼。裾の破れかかった、着物を模した豪奢な赤いドレス。そして、たおやかな手に握られた、身の丈を超えるほどの大鎌。
     非日常から舞い降りたかのような姿をした彼女は、夜の公園を歩いていた。
     外灯に照らされた、遊ぶ子供達の帰ってしまった公園。こそりとも音のしないそこで、彼女はブランコに座る一人の少女を見付けた。
     少女は俯いて、声も立てずに泣いている。
     誰かに裏切られたのか。大切な人を失ったのか。少女の心が闇を抱えている事を、彼女は見抜いていた。
     紅の瞳を細めて、彼女は少女の前に立つ。
    「悲しいのね」
     投げ掛けられた声に、少女が驚いたように顔を上げた。
    「でも大丈夫。心の奥に耳をすませて」
     少女が濡れた瞳を瞬かせる。
     その姿を見て、彼女は自分の中で何かが疼くのを感じた。また片方の目から、涙があふれ出す。
    「それを受け入れれば、あなたは救われるの。苦しみも悲しみも、全て消化されるわ」
     少女へ言葉を紡ぎながら、彼女は胸の中を引っ掻かれるような微かな痛みを覚えた。
     それは不可解な寂しさ。彼女の中で疼き続ける、娘の心の名残りだった。
     早く、これを消してしまわなければ。
     心が全て闇に染まりさえすれば、この娘も、ダークネスに殺される人々に胸を痛める事も、大切な人を失う事に不安や苦しみを感じる事も無くなるのだから。
    「恐れないで。闇を受け入れる事は、何も怖くないの」
     温和な声に、少女の瞳がゆらゆらと揺れる。
     片目からあふれる涙は、まだ止まらない。

    「闇堕ちした霜月・薙乃(ウォータークラウンの憂鬱・d04674)さんの行方が分かりました」
    「ほんと!?」
     五十嵐・姫子(大学生エクスブレイン・dn0001)の言葉に、御厨・望(ひだまりファイアブラッド・dn0033)が勢い良く席を立った。彼に座るよう言ってから、姫子は説明を始める。
    「薙乃さんはとある公園で、一人の少女を闇堕ちさせようとしています」
     闇堕ちした薙乃は、人の苦しみや悲しみや寂しさは、闇堕ちによって救われ消化されると考えている。温和な表情と優しい語り口で、彼女は人の心を闇へと誘おうとするのだ。
     そこに悪意はひとしずくたりとも存在しない。闇堕ちさせる事は、彼女にとっては救済なのだから。その最初の救済対象に、公園にいた少女が選ばれてしまったらしい。
     時刻は夜。公園を利用していた子供達は、みな帰ってしまった後の事だ。公園の中央にあるブランコを目指して行けば、少女と薙乃が接触している最中にたどり着く事が出来る。
     何らかの方法で少女と薙乃を引き離せば、救済を邪魔された薙乃はこちらを敵とみなすだろう。
    「薙乃さんはまだ、完全には闇堕ちしていません。ダークネスの中に残っている薙乃さんの心に直接呼び掛ければ、救出出来る可能性は残っているんです」
     薙乃は手に大鎌を持っており、戦闘になればそれを振るい血色の花びらを零す。攻撃方法は咎人の大鎌のそれによく似ているという。ポジションはクラッシャーだ。
    「それから、戦闘には支障が無いのですが……薙乃さんは、片方の目からずっと涙を流しています」
     紅の瞳が瞬きをする度に、片頬だけを濡らす涙。それはまるで、片目だけで泣いているかのようだという。闇堕ちした薙乃が抱えている不可解な寂しさ。それが表に現れているのだとすれば、そこから心の内へ切り込む事が出来るかもしれない。
    「今回、薙乃さんを救出出来なければ、薙乃さんは完全に闇堕ちしてしまいます。どうか気を付けてください」
     姫子の説明が終わると、望が再び立ち上がった。
    「ね、助けに行こう」
     大きなみかん色の瞳を瞬かせ、後ろを振り返る。残りの灼滅者達も頷き、席を立った。
     必ず救い出す。
     涙を流しているのはきっと、薙乃自身なのだから。


    参加者
    アリス・バークリー(ホワイトウィッシュ・d00814)
    水之江・寅綺(薄刃影螂・d02622)
    雨月・葵(木漏れ日と寄り添う新緑・d03245)
    呉羽・律希(凱歌継承者・d03629)
    霜月・蒼刃(蒼月ニ哭ク守護ノ拳・d04677)
    白伽・雪姫(アリアの福音・d05590)
    七六名・鞠音(戦闘妖精・d10504)
    祟部・彦麻呂(誰が為に鐘は鳴る・d14003)

    ■リプレイ


     夜の公園は冷えた。
     銀色の外灯が辺りを照らす中、灼滅者達は早足でブランコを目指した。静かな公園に、乾いた土を踏み締める音が響く。
     遊ぶ者のいなくなった広場を突っ切り、公園の中央へと至る。素早く周囲へ視線を走らせた灼滅者達の視界に、ブランコに腰掛けた少女の背中が映った。見た目にも心細げな少女の前には、一人の女性が立っている。
     背に生えたぼろぼろの翼。裾の破れかかった、着物を模した豪奢な赤いドレス。そして、白い手に握られた大鎌。薙乃だ。
    「それを受け入れれば、あなたは救われるの。苦しみも悲しみも、全て消化されるわ」
    「いいえ! それは違います!」
     凛とした声を響かせたのは、呉羽・律希(凱歌継承者・d03629)。少女が驚きこちらを振り返る内に、灼滅者達は彼女と薙乃の間へ滑り込む。
    「君の闇を……殺す」
     見る間に蟷螂形の影を背負った水之江・寅綺(薄刃影螂・d02622)が、黒死の斬撃を放つ。薙乃が後ろへと飛び退き、切っ先は空を掻いたが、狙いは少女と薙乃を引き離す事だ。何の問題も無い。
     戸惑う少女へ、ラブフェロモンをまとったアリス・ロビンソンが笑いかける。泣かないでと。
    「キミの心は今悲しい思いでいっぱいかもしれない。それに染まったら、楽になるかもしれない。でも、動けなくなっちゃうよ」
     優しく握られた手を、少女はためらいがちに握り返した。ブランコを軋ませ、立ち上がった彼女を導いたのは、正流だ。
    「闇からの声に身を任せてはいけません。必ず夜明けが来る様に……きっと貴女の心の闇が明ける日が来ます。その日まで……諦めないで下さいね……」
     戦線に立つ相棒と一時視線を交わし、彼は幼いアリスと共に少女を連れて公園の外へと足を向けた。御厨・望(ひだまりファイアブラッド・dn0033)がその後を追う。
     もう彼女は大丈夫だろう。守られながら歩いて行く少女を見送って、アリス・バークリー(ホワイトウィッシュ・d00814)は薙乃へ向き直った。
    「こんばんは、薙乃さん。一期一会と思っていたけれど、私たちの因果の道行きはまた交わってくれたようね」
     薙乃が闇堕ちした松戸の密室事件から、2ヶ月と少し。その間、薙乃はどうしていたのだろう。
     あの時は、薙乃が堕ちなければ『姫君』を灼滅出来なかった。今度は、そんな手抜かりは許されない。アリスの眼差しを受けて、薙乃は緩やかに微笑んだ。
    「どうして邪魔をするの? 私はあの子を、救いたいだけなのに」
     紅の双眸が瞬きをする。片方の瞳から涙があふれて、頬を伝った。
    「そういう薙乃ちゃん自身は、救われてるのかな?」
     周囲の雑霊をざわめかせ、祟部・彦麻呂(誰が為に鐘は鳴る・d14003)は静かに言葉を投げ掛ける。
    「闇を抱えてる人を助けたいって前になぎーが言ってたけど、そのやり方は何か違うの」
     クロスグレイブを撫でて前へ出た白伽・雪姫(アリアの福音・d05590)の言に、薙乃はゆるりと首を傾げた。
    「違う? 心を闇に解き放てば、苦しみも悲しみも溶けて無くなるのに?」
    「それなら、どうして薙乃さんは泣いているのかな?」
     片頬を濡らす涙を、雨月・葵(木漏れ日と寄り添う新緑・d03245)は見逃さない。薙乃が堕ちたと知らされてから、救い出せる機会をずっと待っていた。必ず一緒に帰ると決意した彼の足元で、朝顔の形をした影が揺れた。
    「教えてくれ、薙。どうして泣いているんだ?」
     薙乃が闇に捕らわれたと聞いてから、霜月・蒼刃(蒼月ニ哭ク守護ノ拳・d04677)は気が狂いそうだった。自分まで闇の中にいるようで。けれど、一番辛くて寂しかったのは、薙乃だっただろう。
    「俺ではそれを、止めてやれないのか?」
     穏やかな笑みを崩さないまま、薙乃は片手で涙を拭った。
    「そうね。私の中からこの子がいなくなれば、きっと涙も止まるわ」
     たおやかな手が、身の丈よりも長い大鎌を握り締める。
    「あなた達を殺せば、この子もいなくなってくれるかしら」
     暗闇の色をした刃が振られ、血色の花びらが一瞬、幻のように零れる。
     七六名・鞠音(戦闘妖精・d10504)は黄金のバスターライフルを握り締め、まっすぐに彼女を見据えた。
     ――雪風が、敵だと言っている。


     幻の花びらをこぼしながら、大鎌が風を切る。刃は凝った闇の力を宿し、勢い良く振り下ろされた。
     無慈悲な一撃の標的となった蒼刃の前に、寅綺が身を滑らせる。肩に突き立った刃を片手で引き抜き、寅綺は蒼刃を振り返った。
    「貴方が一番、彼女を救えるだろうから……僕の命くらいなら、使ってくれていいよ」
     すまないと漆黒の瞳を僅かに伏せ、しかし蒼刃は首を振る。そんな風には言わないでくれないか、と。
    「どうか一緒に、薙を救って欲しい」
     誰か一人でも欠けてしまったら、きっともう薙乃は戻って来られないだろうから。瞬きをする寅綺の足元で、壬戌が六文銭を飛ばした。
     ぽんと地面を蹴り、彦麻呂が跳ぶ。長い赤茶の髪が、風に乗ってふわりと広がった。
    「そりゃ不安だよね。実際、薙乃ちゃん堕ちちゃってるし」
     いつ誰が死ぬかわからない。学園だって、いつ滅びるかわからない。
     振り上げた足先が流星の軌跡を描き、薙乃の向こう脛を鋭くえぐる。
    「けどまぁ大丈夫だよ。だって薙乃ちゃんは、ひとりで戦ってるわけじゃないでしょ?」
     着地し微笑む彦麻呂の耳に、バイオレンスギターの力強い響きが届いた。癒しの調べを奏でながら、雪姫は言う。なぎーがいないとつまらない、と。
    「一緒に買い物にもいけないし、一緒に甘いものも食べにもいけない」
     薙乃が時折作ってくれたチーズケーキや焼き菓子の甘さを、雪姫はよく覚えている。甘いものが好きな雪姫に、薙乃はまた作ってくれると約束したのだ。
     歌う雪姫の声を、綺麗だねと褒めてくれたりもした。ちょっと真面目だけど、とても優しい女の子。それが、雪姫の知っている薙乃だ。一番仲良しの、友達だ。
    「なぎーを、返して」
     弦をピックで弾く雪姫の側から、香乃果が進み出た。一緒に帰ろうよ。優しい声が、夜の中に響く。
    「いつも一緒に楽しく笑いあっていたあの場所へ、闇の中よりもずっとずっと温かで優しい場所へ。皆が待ってるよ」
     遥陽のきらめかせた猫魔法の後を追って、葵は後衛から距離を詰める。クロスグレイブを真横に構え、薙乃の脇腹へ打ち付けた。
    「悲しさや寂しさで泣いているなら闇に堕ちるよりも、みんなと一緒の時間を過ごす方がいいと思うよ」
     たとえ辛くても、誰かと共にあれば支え合う事が出来る。それを迷惑に感じる者など、ここにはいない。
     薙乃が大鎌を頭上に掲げる。回転と共に花びらを舞わせた鎌は、中空に無数の刃を生み出した。降り注ぐ虚の力を掻い潜り、火夜は言葉を紡ぐ。
    「そろそろ、温かい場所に帰って来ませんか?」
     薙乃の片目から、また新たな涙があふれる。小鳥遊・葵は祭霊光を飛ばし、笑顔を向けた。
    「……また兄さんにさ、美味い料理を食べさせてあげよう? 素直になれなくてもさ、気持ちは伝わってるよ、大丈夫だ。だから、戻っておいでよ」
     アリスの指が護符揃えに伸び、符を引き出す。白い符は音も無く宙を漂い、アリスの周りを囲む。
    「人の世は、苦しみ、悲しみ、寂しさに満ちている。それはその通り」
     五芒の形に散った符が、仄白く輝いた。攻性防壁に照らされて、薙乃の足取りが鈍る。
    「だけど、自分自身でその試練を乗り越えないと、成長は出来ない。闇堕ちに逃げるのはただの逃避だわ」
     大鎌の柄を撫で、薙乃は緩く首を振った。顎を伝った涙が、外灯の光を浴びてきらめきながら落ちて行く。
    「それでも、闇は人を救うのよ」
    「貴方の救いは、優しいのですね」
     穏やかな声音で言い、鞠音はバスターライフルの引き金に指を伸ばした。
    「闇の中は互いの醜さも、痛みも悲しみも見ずに済みますから」
     その中では、怒りも悲しみも無いのだろう。しかし生きるという事は失う事だと鞠音は考える。得るだけの生など、ありはしないのだから。
    「けれど蒼刃さんは、貴方のことを。闇の外で、互いに傷つき、失ったから、知っていることを教えてくれました」
     薙乃の事を知りたいと願った鞠音に、蒼刃はたくさんの事を教えてくれた。意地っ張りな事。努力家な事。料理が上手な事。大切な、自慢の妹だという事。みんな、闇の中にいては分からなかった事だ。
     細い指がバスターライフルの引き金を絞り、銃口からほとばしった光線が薙乃を貫く。
    「人を救うのは闇じゃない、人だよ。俺はずっと、薙の存在が救いだったんだ」
     蒼刃が拳を固く握り締める。言えぬ想いも内にこめるように、きつくきつく。
    「だからこそ、薙を苛むものがあるのなら、俺がそれから守ってやりたい」
     薙乃の居場所は、闇の中などではない。光あふれる、温もりの中だ。
     この手を伸ばす事を、諦めはしない。鍛え抜かれた拳が薙乃の体を打ち据える。
     宿題提出しなきゃだよ。クラスの皆にそう言っていた薙乃の姿を、律希は昨日の事のように思い出せる。
     もう、季節が変わっちゃうよ。癒しの矢を紡ぎ上げ、律希は薙乃をまっすぐに見詰める。
    「私は絶望から逃げるために堕ちたけれど、絶望も苦しみも悲しみも消化されることなんてなかった」
     闇に堕ち、その中でもがいた律希だからこそ知っている。そこに救いなど無いと。
    「これは救済じゃない。ただ問題を先延ばしにしているだけ」
     灰の眼差しを受けて、薙乃の瞳が揺れる。
     自分のエゴなのだとしても、今はそれを押し付けてでも連れ戻したい。
     だから、律希は目を逸らさない。紅の瞳の奥にいる、大切なクラスメイトから。


     スノードロップを彫られた聖剣が、光の筋を作る。聖戦士の加護を受けながら、寅綺は薙乃の方へと大きく踏み込んだ。
     片頬を濡らす涙は止まらない。戦い始めた時よりも、涙のしずくがこぼれる頻度は上がっているようにすら見えた。
    「涙が止まらないのは……本当は大切な人の元に還りたいから、かな……」
     泣かなくて良い場所があるなら、そこに還ろう。寅綺は静かに呼び掛ける。手伝いは、必ずするよと。
     寅綺は薙乃の事を知らない。知っているのは、戦う姿と守る意思だけ。あの時、ごめんと言った彼女の姿は、寅綺の心に深く刻まれている。
     もとより、あの時救われた命。今日ここで返せなければ、嘘だ。雪のように白い、幅広の刀身が、薙乃の二の腕を裂く。
     花びらと共に襲い来る黒き波動を受け止めて、彦麻呂はバベルブレイカーを持ち上げる。薙乃と行った、お泊り会や海。あたたかな思い出が、一瞬、脳裏を過る。優しい印象の薙乃が闇堕ちしてまで戦ったという事実は、彦麻呂にとっては意外だった。薙乃は薙乃なりに、色んな思いを抱いて戦っていたのだ。
    「薙乃ちゃんが守れない誰かは、私が守ってあげる。私が守れない誰かは、他の誰かが守ってくれる」
     唸る杭の震動を感じながら、彦麻呂は懐へと飛び込む。
    「大切な誰かは、それこそ薙乃ちゃんが守ればいい」
     守りきれそうになかったら、みんなを頼ればいいよ。言葉と共に突き立った杭が、豪奢なドレスに赤い花を咲かせる。
    「その流れる涙は、まだ心が残ってる証拠?」
     長い銀の髪を揺らし、雪姫はギターを握り締める。私はここにいるから。ずっと傍にいるから。澄んだ声が押し込めた感情に震える。
    「なぎーの好きなお兄さんもいるよ。もう寂しくなんてないよ。だからもう、泣かなくてもいいんだよ」
     真横に振られたギターが、薙乃の胴を強かに打った。
     葵の足元から、影の朝顔がその蔓を伸ばす。破れかかった裾から伸びる素足に、黒い蔓は正確に絡み付いた。闇の奥底にいる薙乃自身を、引きずり出そうとするかのように。
    「みんな薙乃さんの帰りを待っているよ。だからまた、クラブで話したいな」
     呼び掛ける葵の声音は、普段よりも真剣の色を帯びる。薙乃は大切なクラブの仲間だ。たくさんの人が、その帰りを待っている。
    「ダークネスになったら、ホントに救われる?」
     違うでしょ、と律希から癒しの矢を受けて彦麻呂は言う。
    「ダークネスになったら、大好きなお兄ちゃんとの繋がりを失うことになるんだよ?」
    「そんな覚悟もないダークネスなんて、彼らからお断りでしょう」
     それとも。アリスの手に、高純度の魔力が集まって行く。
    「あなたが同類を増やすことで、寂しさを紛らわせたかったのかしら?」
     薙乃には、返しきれないほどの借りがある。帰って来て貰わなくては。紫の瞳を細め、アリスは真白き魔力を矢の形に紡ぎ上げる。掌から放たれた矢が、薙乃の肩を貫いた。
     さあ、一緒に薙乃さんを連れ戻しましょう。一歩退いたアリスは、その場所を蒼刃に譲る。
    「駄目な兄だと思ってくれていい」
     それでも。蒼刃の拳に蒼きオーラが集束する。
    「戻って来てくれ、薙。俺にはお前が必要なんだ……!」
     世界で一番、大事な女の子を取り戻すために。打ち込む拳に迷いは無い。
     薙乃がきつく目を瞑る。微かに唇が動いたが、そこから言葉は出て来ない。そして紅の瞳が再び開かれた時、堰を切ったように涙があふれ出した。片目だけではない。両の目から。
    「迎えに来た人がこんなにいるんだよ。薙乃ちゃんは優しいから、拒むことなんてできないって知ってるよ」
     どうか目を開けて。どうか耳を塞がないで。
     どうか、どうか泣かないで。
     願う律希の背から、奈落を意味するダイダロスベルトが伸びる。
    「帰ろうよ、薙乃ちゃん!」
     帯に貫かれ、よろめく薙乃を、鞠音の銃口が狙う。
    「貴方の闇が、私達を繋いでくれたのです。だからまた、失っていける」
     さようなら、優しい貴方。
     鞠音の指が引き金を絞り、銃口から光がほとばしる。
    「大丈夫です、闇の中で触れ合えることも、闇を伝える人が必要なことも、私は知っています」
     長く尾を引いて走った光は、薙乃の闇を貫き、そして溶けるように消えて行った。


     灼滅者達の見守る中、倒れていた薙乃が目を覚ます。
     身を起こした彼女には、もう闇の気配は何処にも無かった。
    「おかえりなさい、なぎー」
     大切な友達が、戻って来てくれた。普段は感情を表に出す事の無い雪姫の目に、涙があふれて頬を伝う。
    「ゆきりん……心配かけて、ごめんね」
    「本当に良かった……無事戻ってきてくれて。もう勝手にいなくならないでね」
     約束。
     優しい涙をこぼす友達と、薙乃は小指を絡め合う。
    「みんなも、ごめんなさい……ありがとう」
     詫びる薙乃に、いいんだと、蒼刃が目元を緩める。
    「おかえり、薙」
    「兄さん……」
     穏やかに笑む蒼刃に、薙乃は軽く目を伏せる。少しの間だけ、その場に沈黙が落ちた。それを破ったのは彦麻呂だ。
    「ほらほら。こんな時くらい、素直になってみたら?」
    「べ、別に意地になってるわけじゃ……」
     いつも通りの光景が、目の前で展開されている。戻って来た日常に、葵は眼鏡の奥で目を細めた。そうしてただ一言、おかえりと呟く。
    「お帰り……還って来てくれて、良かった」
    「あの時の借り、返せたかしら」
     寅綺とアリスにそう言われ、薙乃は恐縮したように首を振る。
    「また、クラスでお喋りしたり、色んな所に出掛けて、たくさんたくさん思い出作ろう」
     おかえりと律希は手を差し出す。その手を取って、薙乃は微笑んで頷いた。
     一人離れたベンチの方へ行っていた鞠音が、保温バッグを手に戻って来たのはその時だ。
    「初めまして、ナノナ・マリネです。以後お見知り置きください」
     食べませんかと、鞠音は保温バッグの蓋を開ける。中に入っていたのは肉まんだ。優しい匂いが鼻腔をくすぐる。
     体の内から温まって、優しい想いに包まれて。そうして、あたたかい場所へ帰ろう。
     ――お帰りなさい。

    作者:牧瀬花奈女 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2015年11月21日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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