Daisy

    作者:笠原獏

     ぜぇ、と吐いた息は荒い。胸元を鷲掴みするように押さえ込んで、少女は見開いた目を周囲に向けた。
    「……」
     大きな橋の下は薄暗く、誰もいない。一瞬だけ安堵したように表情を緩めた少女は足元に視線を落とし、再度表情を強張らせた。
    「……楽しかった、とか」
     信じたくない。どうしてこんな事になってしまったのかも分からない。そう葛藤するさなかにも、頭の中でもう一人の自分が囁いた。
     こんなんで満足出来てるわけ?
     もっと、もっとやろうよ。殺しちゃおうよ。
     大きいのをさ、沢山、たくさん殺しちゃおうよ。
    「やめてよ!」
     大好きなお菓子のように甘い誘惑だと思った。けれどそれに抗いたかった。くずおれるようにその場で膝をついた少女は無駄だと分かっていながらも両耳を押さえる。
    「やめてよ……いやだよ…………いや、じゃないよ、楽しそう。すごく、すごくすごく楽しそう」
     くつくつと、歪んだ笑い声が零れる。少女の葛藤を知るのは少女の目の前、切り裂かれ事切れた猫ただ一匹だけ。

     本当に、どうしてだっただろうか。もはや頭の隅にかすかに残るだけとなった記憶の中で誰かが叫ぶ。
    『お前がちゃんと見ていなかったから』
    『お前のせいだ』
    『お前が死んでしまえば良かったのに』
     白い布が被せられた小さな亡骸を抱き締めて、叫ぶ誰かの声がする。
     そこから逃げ出した先に、真っ暗な世界が広がっていた。
     
    ●六六一
    「……」
     ひとつの教室の前で、甲斐・鋭刃(中学生殺人鬼・dn0016)が扉に手を掛けたまま黙り込んでいた。扉に鍵が掛かっている訳でもなく、少し力を込めれば簡単に開く事を分かっていながら、それでも僅かだけ躊躇うように。
    「……」
    「何してんの鋭刃くぅーん?」
     けれど次の瞬間、後頭部をノートのようなもので叩かれる。黙したままゆっくりと振り返れば一人のエクスブレインがバインダー片手に立っていた。
    「あ、まさか気にしてる? この間の事。分からないでもないけど、でもとりあえずその扉を開けなさいな。僕も入りたいし」
     ストレートに言われ鋭刃は僅かに視線を落とす。そして口を開いた。
    「迷惑を掛けてしまって済まなかった。……感謝している」
    「キミほんとに中学1年? ま、いいや。それは中の子達に言うべき事だね。あ、でもその前にちょっと、その眉間の皺をぐりぐりほぐした方がいいかもねぇ」
     こうやって、とジェスチャーで示された動作を言われるままに真似ようとした所で、エクスブレインはあっさりと扉を開けてしまった。そして集まっていた灼滅者達へと告げる。
    「という訳で闇墜ちしてしまった女の子を救って来てくださいな。その子が六六六人衆として、誰かを殺めてしまう前にね」

     教室の扉は閉められて、エクスブレインの話す声だけが僅かに漏れ聞こえる。
    「その子の名前は華村・雛菊(はなむら・ひなぎく)、中学生だよ。元は普通の、どこにでもいるような、名前のように可愛らしい女の子」
     けれど今は、闇墜ちをし、近いうちに完全なダークネスとなってしまうであろう存在、六六六人衆の六六一番。
    「通常なら闇墜ちしたダークネスってすぐにダークネスとしての意識を持っちゃって人間の意識は消えちゃうんだけど、彼女はまだ元の人間としての意識を残してるんだよね。ダークネスの力を持ちながら、でもダークネスになりきっていないって感じ」
     そして沸き上がる無差別殺人衝動を抑える為に、小さな動物を手に掛けている。
    「勿論それもいけない事だけどね、彼女なりに頑張っているって事。キミにも覚えはあるでしょ? 正しいとは限らないけどそれしか出来なかった、みたいの」
     くるりと鋭刃へ目を向ければ、鋭刃は僅かに俯く。視線を灼滅者達へ戻したエクスブレインは続けた。
    「それを放っておけば近いうちに彼女は完全なダークネスになってしまうから、そうなる前にキミ達の出番って訳ね。彼女が灼滅者の素質を持っているなら闇墜ちから救って欲しい。完全なダークネスになってしまうようであれば、その前に灼滅をして欲しい。いい?」
     
     雛菊と接触をする為には、夕方五時にある河川敷へ行く必要がある。大きな橋の下、猫を殺す直前、意識がそこへ集中している時が最善のタイミング。
    「彼女は六六六人衆のサイキック……殺人鬼と同じだね。それを使って来るよ。かなり強いから、そこんとこ注意してね」
    「どうして、そこにいるんだ」
    「聞きたい? 彼女の弟がね、その河川敷に二人で行った時に溺れて死んでしまったんだ。彼女が一瞬だけ目を離した間にさ」
     自分のせいだって『思い込まされて』、かつ『思い込んでいる』部分があるんだよ、と。聞いた鋭刃が顔を上げる。
    「それが今回の闇墜ちのきっかけさ。ちょっと『似ている』だろう?」
    「……」
    「折り合いを付けるのって大変だよね。でも誰かの言葉で救われる事もある。思う事があるならただ戦うだけじゃなくて、呼び掛けてあげてもいいんじゃない?」
     誰にという訳でも無く告げたエクスブレインは「以上だよ」と言葉を結ぶ。
    「僕が伝えられるのはここまでです。後は、任せたよ」
    「分かった。俺はその為にこの力を使う」
     そして、紡がれた鋭刃の言葉を聞いた。闇墜ちから救われ、前に進もうとする事を選んだ少年の言葉、それを噛み締めどこか嬉しそうに頷いた。


    参加者
    結月・仁奈(華篝・d00171)
    鹿野・小太郎(バンビーノ・d00795)
    玄鳥・一浄(風戯ゑ・d00882)
    鹿島・狭霧(漆黒の鋭刃・d01181)
    金井・修李(無差別改造魔・d03041)
    浅凪・菜月(ほのかな光を描く風の歌・d03403)
    千鳥・要(ジキルなハイド・d05398)
    桜吹雪・月夜(花天月地の歌詠み鳥・d06758)

    ■リプレイ

    ●一
     永遠に暗い思考連鎖へ引きずり込まれるにはたった一瞬の時間だけあれば十分なのだろうか──結月・仁奈(華篝・d00171)は暮れ始めた空を仰ぎながらぼんやりと考える。
     一線を越えてしまうのは簡単な事、けれどそこで踏み留まって考えて、そして歩いて行くのが人だと思う、とも。
     視線を落とせば遠くに灰色の橋が見えた。いま自分が立っているここには恐らく、華村・雛菊の気持ちが分かる者が複数存在している。
     沸き上がる殺意に一人で抗う事の辛さと厳しさを鹿島・狭霧(漆黒の鋭刃・d01181)は身を持って痛感していたし、千鳥・要(ジキルなハイド・d05398)もまた平穏な日常を愛す為に衝動を抑えてここに在る。そして、
    「相手は女の子なんだから、も少し愛想のいい顔しなさいって」
    「大丈夫! 鋭刃君は一人じゃなくてボク達が居るから、なんとかなるって!」
     狭霧と金井・修李(無差別改造魔・d03041)から肩を叩かれる甲斐・鋭刃(中学生殺人鬼・dn0016)もまた、その一人だった。
     僅かな緊張感と複雑な心境を表情の奥に潜める術をまだ知らぬ少年は、その勢いに心を軽くされたのか、やや和らいだ表情を浮かべ頷く。武器を点検していた修李が更に零した。
    「……というか、もうすっごく痛感してるかな、それは」
    「ああ。……その、驚いたが気持ちはとても嬉しかった」
     つい先刻まで、この場には鋭刃や灼滅者の手助けをしようという多数の灼滅者達が──それこそ鋭刃が無表情で戸惑う程に──集まっていた。けれど数人を残して他は気持ちだけを受け取らせて貰う、という方向で話をつけている。大多数で一人を囲むという事は、今回は少し違うような気がしたからだった。
     ただ、その受け取った気持ちや激励、アドバイスだけは確かに心に刻み戦おうと決めて。
    「そろそろ時間やねぇ」
     緩やかに風に乗る声は玄鳥・一浄(風戯ゑ・d00882)のもの。着流しを纏う少年の真上を、燕が一羽ひゅるりと旋回し、橋の方へと飛んでいった。

    ●二
     太い橋柱の陰から伺っただけでも、その少女が何かに抗っているのだという事が痛い程に伝わった。少女の足下から生える黒々とした影が少女に緩く押さえつけられた猫の命を奪う時を待ち、彼女の代わりに嗤っているようにも見えた。
     話の通り、華村・雛菊は可愛らしい少女だった。ごく普通の、道端に咲く花のような。そのあどけない表情を支配しつつあるのは確かな殺意。
    「戦闘が始まったら、急いで駆けつけるよ」
     仲間に告げながら、桜吹雪・月夜(花天月地の歌詠み鳥・d06758)は柱の陰に留まり身を潜める。あの猫にも、そして闇に墜ちてしまった雛菊にも幸せな未来がある筈なのだ。彼女に接触する為に歩き出した仲間五人の姿を見守りながら、浅凪・菜月(ほのかな光を描く風の歌・d03403)は祈るように手を組んだ。
    「物陰で、どうしたの? 具合でも悪い?」
     ゆっくりとした声に雛菊の肩がびくりと震えた。反射的に猫から手を離して声のした方を見れば牡丹色の瞳が印象的な少女の姿。心配そうに──あくまでも偶然を装い──雛菊の様子を伺う仁奈がそこにいた。雛菊が返答に困っていると仁奈の後ろから顔を出した狭霧が猫へ目を向け優しく問う。
    「あら、可愛い猫ね。あなたが飼ってる猫なの?」
    「いや、……その」
    「ほんま、可愛いねぇ」
     一浄が屈みながら穏やかな声色で言って、鹿野・小太郎(バンビーノ・d00795)が黒いフードの下、眠たげな表情に嬉しげな色を宿しながらどこからか取り出した狗尾草を用いて猫を呼ぶ。そちらを雛菊が向いた隙に、狭霧が鋭刃の脇腹を軽く小突いた。
     掛けたい言葉、あったら掛けて、ね。
     ここに来る前、小太郎が鋭刃へそう告げていた。
     けれど少年はまだ、掛けるべき言葉を見いだせていないようだった。
    「……ごめんなさい、私、もう帰──」
    「新聞で、見たんやけどねぇ」
     勢い良く立ち上がった雛菊がその言葉に動きを止める。見れば声の主である一浄は屈んだ状態のまま、小太郎が引き寄せてくれた猫の顎を撫でている。
    「この川で、可哀想な事故があったって」
     恐らく、実際にニュースになっていたとしても小さなものであり、かつ雛菊の事が書かれている可能性はほぼゼロだ。死んでしまった男の子に姉がいて、それが彼女であると目の前の者が知っている事は雛菊にとってとても不自然な事であり──同時に足を止めさせるに十分な事だった。
    「……何で、知ってるの」
     湧き出た警戒心を顔に貼り付けぐるりと見回せば、いつの間にか自分が囲まれていると気が付いた。
    「なぁ、本当の君の望みは今しようとした事とは違うやねぇ」
     猫から手を離し、一浄が立ち上がる。猫は小太郎に抱き上げられた。
    「……いい子だから、向こうに行ってね」
     促された先には激励の言葉と共に猫の保護を申し出てくれた坂村・未来や万事・錠が待っている。にゃあと鳴いて素直に駆け去ってくれたその尻尾を鋭刃が見送った。
    「違う、殺すつもりなんて無かった! ……ううん、そうだよ、殺してやろうと思ってたよ、殺したかったよ! どうして邪魔するの!?」
     ぐらぐらと、境界線の上で不安定に揺らぐような感情が露わになる。橋の下に響き渡る。
    「……後悔するからだ」
     そこへ、鋭刃の声が落ちた。
    「お前が今以上に後悔すると、知っているからだ」
     目は逸らさずに、けれどそれ以上の言葉は無い。一浄が僅かに笑み頷いた。
    「そ、解っとるからやよ、同じ匂いがするんやから。君は、いっこも悪ぅないよ」
    「悪いに決まってるじゃない、私が死ねば良かったって、ホントだよね、でももう知らない! みんなみんな、私のせいで死ねばいいんだ!!」
     何で、誰も言ってくれなかったのだろうかと。雛菊の感情を受け止めながら一浄は思う。可哀想な事故だったけど大丈夫だと、あなたも事故の被害者だと。誰かがもっと早く言ってくれていれば少女は闇に墜ちたりなどしなかった筈だ。
    (「……悲しい出来事はひとを狂わせるけ」)
     緩くかぶりを振った一浄はただ、雛菊へ手を差し伸べる。
    「そんでも戦うなら、今の内に連れ戻したるよ。……『見おおせ』」
     小さく短いその言葉は、己の力を解除する為の、そして少女を救う為の切欠の言葉。

    ●三
     花を、捨ててしまったのだ。
     川岸に供えられていた花束を見たくなくて捨ててしまって、そこから何かが狂い出した。
     だから今、ここには証が無い。あの子の最期を示すそれが無い。
    「イッツ・ショータァーイムッ!」
     スレイヤーカードを指に挟んだ手が真上に伸びると同時、月夜の声が響き渡った。くるりと回ったバイオレンスギターをキャッチしながら地面を蹴って、雛菊のいる方へと駆ける。彼女に続き待機していた仲間達が次々と飛び出した。
    「Eli,eli,lemasabachthani」
     華々しい月夜の声に対し要の声は静かだ。構えたバスターライフルを一度指で撫ぜ、前を見る。
    「さて、始めましょうか」
     雛菊の操る影はようやく人を斬る機会を得て愉しげに揺れていた。口元には笑みが、目元にはじきに枯れてしまうであろう涙が浮かんでいて、次の瞬間無尽蔵に放出された殺気が数人の灼滅者を覆い尽くした。
     真っ先に前方へ躍り出た狭霧を始めとする前衛達が痛みの重さに表情を歪めるも、狭霧が取ったのは攻撃では無く防御姿勢。
     多少なりとも雛菊の耳に説得が届くように、ディフェンダーとして彼女の攻撃を捌けたら、と。狭霧はその覚悟を持って此処に立っていた。
     仲間が囲みきれなかった穴を埋めるように場所を選んだ菜月は何より先に、叫ぶ。ひゅんと振られた手から仲間を護る為の符が飛んだ。
    「雛菊さんは弟さんの分も生きていいんだよ? 弟さんだって雛菊さんの幸せを願っているはずだよ!」
    「もし弟を失って悲しいと感じたのなら、動物や人を殺めちゃうのはダメだよ」
     更に月夜が呼び掛ける。雛菊は聞きたくないとかぶりを振る。けれど月夜は続けた。
    「大切な人を失う悲しみを、彼らの家族や兄弟にさせちゃダメだよ」
     悪い心に負けないで──と。言い終わると同時に掻き鳴らされたギターから生み出された音波が空を震わせた。
    「炎弾装填完了! いくよ、雛菊ちゃん! 絶対に助けるから!」
     構えた武器のトリガーに力強く指をかける修李の先には、流れるように鋼糸を繰る一浄の姿。
    (「本当の望みは、行き場の無い思いをぶつけて千々に潰してしまう事……それに抗う事、やんなぁ」)
     手は取って貰えなかった。けれど一浄は雛菊を肯定する。
    「その衝動も知っとるよ」
     そして鋼糸を操り動きを封じようとするそれに続き、仁奈が動く。
     殺戮の声に負けてしまったら、雛菊の中で本当に弟が死んでしまう。衝動のままに殺したくないと思っているのなら雛菊はまだ『生きた人間』だ。
     短く、この場所を振り返り見た。この場所は、雛菊にとってとても苦しい場所だと思った。
    「……その苦しいって感情、雛菊さんが生きてる証拠だと思う」
     問いかけに雛菊は答えない。バスターライフルからの魔法光線を放つ寸前、仁奈は更に問いを重ねた。
    「ここで、殺戮衝動を抑えているのは「殺したくない」って思ってるんだよ、ね?」
    「そうだよ! 弟さんが亡くなった場所に来てるって事は、悲しんでるんでしょ? なのに殺しが楽しいなんて思えないと私は思うよ!」
     同じ気持ちを抱く修李もまた声を上げる。真剣な呼び掛け、ただ伝わって欲しいと思う。
    「悲しい? 殺したくない? 違うよ、死んじゃえって言ってるじゃない!」
     けれど攻撃をいなしながら癇癪のように雛菊は叫んだ。ずるずると闇側に引きずられているようで、優しい少女の影が薄れてゆくようで。
    「彼がもし死んで悔やむとしたら、あなたを追い詰めてしまった事だけでしょうよ」
     そこへ、自身には命中率を上げる術を施し、霊犬には前へ出るよう促しながら、要が変わらず静かな声で言った。雛菊が反射的に要へ振り返る。鋭い視線の中に続きを聞きたい、という感情がほんの僅か生まれている事に気付いた要は続ける。
     自分を責めたい気持ちは分かる。けれど、決して貴方のせいではない。皆がこれまでも紡いだ言葉を再度言い聞かせるように繰り返し、
    「貴方を責める人は、ただはけ口が欲しかっただけだ」
    「っ──」
     自分以外に理由を作れば楽になれる。楽になり、目を逸らす事が出来る。それはとても簡単で、そして不器用な手段のひとつ。
    「だから自分を赦してやれ」
     要は、そう伝えて雛菊を見据えた。
    「赦せって……どうやって!? そんな方法知らないよ!」
     そこへ、小柄な影が割り込む。見えたのは握り締められた解体ナイフと、真っ直ぐこちらを見つめる鮮やかな黄緑色。
     ログインという呟きは力を解放する合言葉、彼女の為に容赦をしないという決意。
    「大切な弟……なんだよね」
     雛菊との間合いを計りながら小太郎は言った。今も、これからも、雛菊にとって。
    「あのね、『そっちに』行ったら、全部消えちゃうんだ。辛さだけじゃない、思い出も……愛情も全部」
    「!」
     忘れないであげて。死角から攻撃を受ける寸前、聞こえたような気がした。斬りつけられた肩口を押さえながら、雛菊は小太郎と向き合った。
    「心、すごく痛いだろうけど、オレは……」
     ──きみと、弟の絆を護りたい。
     真っ直ぐな言葉。雛菊の目に、人の証たる水が戻る。

     凄いんだ、と声がした。
    「ここにいる奴らには、その力がある。俺も助けられた」
     だから託せ、と告げた少年は小太郎とは逆の死角から躊躇無く雛菊に斬りかかった。音羽・彼方からの小光輪、志賀野・友衛や朝霞・薫らが重ねてくれた符、外法院・ウツロギからの援護攻撃。他にも後方から少年に対する援護が幾つも届き、助ける。最後に新条・一樹から届いた魔力を宿す霧は、彼以外にも複数の仲間の傷を癒し、力を与えた。
     雛菊は口を閉ざしている。何かに抗うようにしながらも、堪えきれずに影を放つ。仲間へ向かう筈だったそれをすかさず肩代わりした狭霧の受けた鋭い斬撃は、先刻よりも力を失っている事を確かに、感じた。
     軽やかに踊りながら菜月は声を掛け続ける。伸ばしたこの手を離さないで欲しい、掴んで欲しい。
    「誰かを助けるためにその力を貸して……!」
    「逆に、そういう理不尽な悲しみを振りまく悪い奴らから、みんなを守るべきだよ」
     素質を保証するよ、と伝える月夜の声は明るい。彼女の奏でた響きは灼滅者達だけでなく雛菊にも、救い、立ち上がる力を与えたいと願っている。
     弟の事で自分が許せないと思うのも分かる。それでも仁奈は伝えたかった。
    「でも貴女を許せるの、雛菊さんだけなの」
     まだ雛菊が正気を残しているのなら、それは雛菊がとても強いという証だと。
    「ごめんね! ちょっと縛らせてもらうよ!」
    「これ、他人に見られたら何言われるか分かったもんじゃないですねぇ」
     修李の影が雛菊を絡め取ろうとし、高速で死角に回り込んだ要がぼやきながら彼女の纏う服を一部切り裂いた。後には霊犬が続き刃を振るう。じわじわと近付く終わりを感じ、小太郎は緩く首を横へ振った。
     ──終わりじゃなくて始まり。それがいい。
     地面を蹴って、駆ける。雛菊はいまだ闇の側にいる。ただ、出口は確実に見え始めていた。
     そこからの時間は長いようで、けれど瞬く間にも思えた。戦いながら短い言葉を掛け続けた一浄は再び手を伸ばす。
     この別世界から一緒に帰って、猫と一緒に遊ぼう、と。告げた直後に菜月が皆を護る為の、要が少女を連れ戻す為の術を力強く放った。
    「……『  』」
     誰かの名が、紡がれた。
     少女の膝が崩れ落ちる。沈黙の中、少しの間を置いて武器を下ろし、振り返った修李が無邪気に笑った。
    「──ほら、なんとかなった」

    ●四
    「大丈夫? 痛い所ない?」
     意識を取り戻し、それでも横たわったままの雛菊の顔を修李と菜月が覗き込んだ。雛菊は両手で顔を覆い、微かな声で「平気」と答える。
    「彼女にとって、これからがある意味本当の苦難の始まりかもしれないわね。もっとも、その辺は私も鋭刃君も似た様なモンかもしれないけど」
     僅かに離れた所から見つめていた狭霧が横目で見ながら言えば、隣で聞いていた鋭刃はただ小さく頷く。
    「死んでしまった人を、忘れる訳じゃない」
    「そうね」
     そして、再度視線を戻した。
    「学園、一緒に来てみないかな。あなたみたいな境遇の人いっぱいいるよ」
     雛菊の怪我を心配そうに伺いながら仁奈が告げると雛菊は自身の顔をようやく覗かせる。
     声を届ける事が出来た。無表情で安堵の息を吐いた小太郎が雛菊へ手を差し伸べると、少女は一度は躊躇ったものの長い時間を掛けてそれを取ってくれた。
     そして、まだぎこちなくも笑み返し、言った。
    「……新しい花を供えてから、ね」
     君のいた世界を忘れない為に、君のいない世界を生きてゆく為に。

    作者:笠原獏 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2012年10月5日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 4/感動した 23/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 0
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