ソロモンの大悪魔達~魔将軍オセ

    作者:日暮ひかり

    ●『悪魔将軍』――オセ
     唐突に、凍える風が吹いた。刺すような殺気をはらんだ風だった。
     木々が揺れ、鳥の群れが逃げるように飛び去っていく。はらはらと散った枯葉は、そのまま地面に落ちるはずだった。
     社から現れた男は灰色の空を見上げていた。いや、男、と言っていいのだろうか――禍々しい光沢を放つ鎧の上に漆黒の衣を纏い、顔は豹を模した兜に覆われて見えない。鎧から覗く屈強な肉体だけが『男である』と判断できる要素だったが、肌の色は死体よりもなお暗い。

     人間では、ない。
     一閃。
     男が不意に、手にした刀を一振りする。世界がそこから静かに裂けてしまいそうな、澱みなく、力強い太刀筋だ。
    「……ふん、まだこの程度の力しか出せぬか。歯痒いが、血気にはやって攻め時を見誤っているようでは栄光は得られまい。我こそは剛の者であると、徒に蛮勇を奮い散らした先に待つはいつの世も破滅のみ……」
     空を彷徨っていた無数の枯葉がまっぷたつに割れ、鮮やかな炎をあげながら墜落する。
     身の凍るような風に吹かれ、灰すら残さず、消える。
     男は人間ではない。
     男は――悪魔だ。とてつもなく強く、狡猾で恐ろしい、ひとではないもの。
    「世は戦場であり、戦場とは常に意思を持ち蠢く一つの生命体。悪魔の知恵と圧倒的力を兼ね備えて、初めて手懐ける事が可能な怪物よ……この私はそれを熟知する、ゆえに敗北の二字はない。ブエルよ、貴公の犠牲と引き換えに我が軍の勝利をお約束しよう。魔将軍オセの名をもって――」
     
    ●warning!!!
    「……ヤバいな」
     鷹神・豊(エクスブレイン・dn0052)は資料を捲りながら深く溜息をついた。
     強力なソロモンの悪魔達が、一斉に封印から解き放たれ、出現しようとしている――その事実に対する率直な感想らしかった。
    「クソッ……冗談じゃねえよ。ブエルの野郎がコソコソ情報を集めていたのは全部コイツらの差し金だったんだ!!」
     パァン、と凄まじい音を立て、鷹神は資料を机の上に叩きつけた。
     掲載された18体の悪魔は、どれも最低でもブエルと同等の力を持っているらしい。それらが、今までに集めた情報を元に大攻勢をかけてくる――エクスブレインの口から語られたのは、そんな悪夢としか言いようのない未来だ。
    「いいか、『最低でも』だ。正直言って、今までのダークネス組織が霞んで見えてくる位のヤバすぎる奴らだよ。ったく、戦わずにすめばどんなにいい事か」
     鷹神は床に落ちた資料の一枚を拾い上げると、呟いた。
    「……だが、僅かでもつけこむ隙があるとしたら……」
     
     封印から脱出した直後。チャンスは、それだけだ。
     悪魔は大きく弱体化し、配下を呼び出す事もできない状態にある。
     更に複数の悪魔が同じ場所に出現すれば、他のダークネス組織に察知される危険があるため、悪魔らの出現地点は大きく離れているという。
    「……ちなみに俺の担当はコイツだ。ソロモンの悪魔の中でも武闘派として知られる『オセ』。まぁ相手にとって不足はない」
     鷹神は集まった八人の眼前に、一枚の資料を突きつけてまわる。
     悪魔の知恵を持つ怪物たちに油断はない。己の弱点すら熟知し、慎重に出現地点を選ぶ。
     仮に多数の戦力を送りこめば――察知され、逃げられる。
     敵は悪魔の将軍。
     たった八人でこの化け物とやりあう覚悟があるか。
     それを問うように、エクスブレインは一人一人に真剣な眼差しを投げかけた。
    「……無礼を承知で聞いてほしい。今の君達の力を持ってしても、勝つのはほぼ不可能と俺は感じている。だか容赦なく言わせてもらう。『灼滅せよ』とな。奴のスケジュールなんぞ知ったことかよ。俺達にとって『攻め時』はまさに今、だからな……!!」
     全員の意思を確認し終えると、鷹神はにっと強気な笑みを浮かべて言った。
     普段に比べると幾分余裕がなく感じられたが、かえって自然にも見えた。
     
    「今回の作戦における目標だが『18体のうち1体でも倒せれば』と皆考えている。君達も完全勝利するつもりで全力を出しきってほしい。それでやっと勝てるかどうか……ってトコだろうな」
     鷹神が冷静に勝算を告げるさまを見て、皆が無言になる。
    「なんというか……珍しく弱気だな」
    「弱気? 冗談じゃない。まずは敵の強さを正確に把握しなきゃ勝てんぞ、兵法の基本だ」
     勿論、実際に戦うのは君達だから、どこまで食い下がるかは慎重に考えてほしいが――そう前置きして、続ける。
    「ま、個人的には……良い報告を期待してる、って事だな。大悪魔オセを灼滅せよ!」


    参加者
    風宮・壱(ブザービーター・d00909)
    一・葉(デッドロック・d02409)
    夜鷹・治胡(カオティックフレア・d02486)
    相羽・龍之介(焔の宿命に挑む者・d04195)
    アレクサンダー・ガーシュウィン(カツヲライダータタキ・d07392)
    城守・千波耶(裏腹ラプンツェル・d07563)
    関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)
    玄獅子・スバル(ネームレス・d22932)

    ■リプレイ

    ●1
     何かが起きそうな空だ。鉛色の雲が垂れ込める空を見上げ、一・葉(デッドロック・d02409)はそう思った。吹き抜ける寒風がまたひとつ枯葉を散らした。仲間達は周囲の林に潜み、開戦の時を待っている。
     一行も先程現地に着いたばかりだ。細かい情報共有こそできなくとも、周囲の地形は見ておいて損はない。葉の気だるげな双眸は周辺に向けられていた。逃走経路や退避先の見当をつけながら、敵の気配にも注意する。
     また寒風が吹いた。その際立った冷たさに、相羽・龍之介(焔の宿命に挑む者・d04195)は小さく身震いする。来た――初手を確実に叩きこむため、モノリスを構える。立つ鳥の羽音がいやに遠く聴こえた。
     今だ。
     社から現れた巨躯の武人、大悪魔オセは頭の痛そうな様子で灰色の空を見上げた。その一瞬の気の緩みを逃さず、龍之介と風宮・壱(ブザービーター・d00909)は腰を屈めて木陰から飛び出した。両足に打撃を受け、オセが緩く視線を落とす。
     集中を乱さないように。城守・千波耶(裏腹ラプンツェル・d07563)は落ち着いて武器に魔力を籠めた。玄獅子・スバル(ネームレス・d22932)の矢を受けた千波耶のベールは、淡い光を帯び敵に向かっていく。オセが刀を一振るいする。例の身の凍る風が吹き、ベールが静かに地に落ちる。
     ――完全に隙をついた。その間に背後を取った葉はオセの頭部を狙い、真紅の刀を打ち下ろした。首を断ち切るつもりで放った油断ない一撃だ。しかし、オセは蝿でも追い払うように腕をふるうと、葉の攻撃を爪で軽く弾いた。
    「道を開けろ」
    「嫌よ」
     目の前の敵を虫けら程度にしか思っていないような態度だ。大悪魔の放つ重圧にも耐え、千波耶は気丈に言い返す。燃えなかった枯葉は地に落ち、風が夜鷹・治胡(カオティックフレア・d02486)の燃えるような髪を揺らす。
     サーヴァントのスキップジャックに騎乗したアレクサンダー・ガーシュウィン(カツヲライダータタキ・d07392)が側面から敵へ突撃した。オセが刀を地に突き立てると大地が流動し、飛び出した岩がアレクサンダーの進路を阻む。オセは同時に正面から迫る治胡にも対応せねばならなかった。しかし――彼女の動きは陽動だ。
     気配を消して動いていた関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)が、背面から不意打ちの縛霊撃を叩き込む。オセは峻の僅かな殺気にも反応し、ひらりと身をかわしながら刀を引き抜いた。刀身が熱した鉄のように輝き、辺り一帯が業火に包まれる。
    「再度忠告する。道を開けろ。加減を仕損じて殺してしまうやもしれぬ」
    「厄介な敵サンだ」
     治胡は眉間に皺をよせ、一言こぼした。さすがに敵も戦い慣れている。だが治胡のギターの音に操られるように炎の勢いは衰え、仲間に立ち向かう力が満ちていく。
    「だが倒すぜ。俺達はその為に来たんだ」
     連携は完璧に取れている。後は、この集中力を維持し続けなければ。
     もはや退けない。覚悟を胸に秘め、灼滅者達は恐るべき魔将軍に挑みかかった。

    ●2
     はじめから勝ち目の薄い戦いだった。時の経過と共に、身をもって実感してもいた。だが、この命尽きるまで駆け抜けるのみ――攻撃を誘うための防護符を貼ったアレクサンダーがグリップを強く握ると、主の意思に応えるかのようにスキップジャックはエンジン音を高く轟かせた。
     仲間を守り、主もろとも太刀の餌食となったスキップジャックが消し飛んだ。アレクサンダーの危機を察し、後衛の壱が交代で盾役につく。ふと隣を見ると、傷だらけの峻が鬼気迫る眼で敵を見ていた。
     絶対に勝たねば。そんな切迫した焦燥が伝わってくる。きっと、関島先輩にもまだ自分の知らない顔が沢山あるのだろう。
    「鷹神、やっぱちょっとらしくなかったよなあ。勝ってびっくりさせてやりたいね」
     あえていつもの調子で、壱は言った。後輩の言葉に峻もはっとし、笑みを返す。いつも明るく気どらない壱の笑顔は、自然と心をほぐしてくれる。
    「だな。俺も使命を果たしたい。今までそうしてきた……今回も必ず」
     葉が腕に注射器を突き立て、トリガーをひいてもオセは動じない。勝機は一向に見えなかったが、勝利にかける強い意思が灼滅者達を支えていた。アレクサンダーの傷を癒しながら、スバルもあえて不敵に言い放つ。
    「大悪魔どもが一度に、それも各地にバラけるたぁ……ブエルも相当やってくれたもんだ。趣味も実益も兼ねてた……実に悪魔らしいわな」
    「ふん。最期はその悪癖が仇となり落命したようだがな。まさか無策で出陣するとは……大悪魔の恥晒しよ」
    「信じられません。仲間を利用しておいてそんな事を言うなんて……!」
     まっすぐな少年にはその冷酷な発言が許し難かったか、龍之介は憤った風に表情を曇らせた。彼の砲弾に撃たれ、凍りついた指先をオセは一瞥する。
    「ほう、正義は我にありと見て負け戦を勝たんとするか。健気な人間だ。戦において大義名分が勝敗を覆す一因であるのは確然たる所、だが……私には勝てんよ」
     オセは凍った指で刀を握ると、静かに宙を横薙ぎに斬りつけた。一瞬の間があった後、治胡と峻の胴体から噴水のように血があふれた。
     不気味なほど綺麗な傷口。いま何をされたのかすらわからない。されど二人は膝をつかず、気力で体を支える。ピアスを伝って流れた血が、治胡の頬を紅く染めた。
    「……こっちも倒れてやる気は無いね。倒れるのはテメーの方さ」
    「雑魚が減らず口を叩きおるわ」
     オセは一刻も早く立ち去りたい風だったが、己を包囲し、勝利を信じて食い下がってくる弱者達を次第に目ざわりだと感じ始めてもいるようだ。治胡と入れ替わりで龍之介が前に出た。峻ももう交代したい所だが、1回に1組までと決めている。なんとか持ちこたえてくれと念じながら、スバルは峻に癒しの矢を放つ。
     オセが不意に左脚をひいた。龍之介が攻撃の気配を察知し、声を張りあげる。
    「交代を急いでください!」
     半ば峻を押しのけるようにして、スバルが前に出た。両腕で刃を受けると同時に、雷の如く強烈な痺れが全身を襲った。スバルにはオセの一撃が尚更重く感じられ、反射的に顔をしかめる。
    「ふん。防戦一方かね」
    「まずはガードを固めねぇとあっさり負けちまうんでね。コレ勝負の鉄則だぜ、アンタの十八番だろ?」
     ぽたぽたと腕を滴る血を拭い、スバルは皮肉めいた笑みで返す。

    ●3
     強がっても、もう後がない。隙を与えぬ連撃で確実に敵の体力を削り、かつ味方を倒れさせない事を意識して一行は奮戦したが、交代した前衛たちにも間もなく疲労が見え始めた。敵の一撃が重すぎる。
    「壱くん!」
     はね飛ばされてきた壱を千波耶が受け止める。心配そうな顔を見せる彼女に、壱は平気平気、と笑いかけた。
    「何が楽しい」
    「へー、大悪魔でもやっぱわからない事ってあるんだ」
     ぴょんと起き上がった壱は大きく息を吸う。体を支える足は痛みで震えるが、声を張りあげた。
    「俺にとって戦うことは守ることだ。力でも刃でも絶対折れてなんかやらないよ!!」
     言葉にすると、傷が癒えると共に再び立ち向かう勇気がわく。壱の叫びを聞き、スバルと龍之介も奮起した。三人でオセを取り囲み、しがみついてでも動きを止めようとする。なりふり構わぬ様子の彼らを横目で見た葉は、後ろ手で千波耶にサインを送った。
     千波耶は即座に十字架から光の砲弾を撃った。弾はオセの左手に命中し、患部が凍結する前に葉が影を宿した氣を体内に送り込んだ。ノイズが精神を侵食し、頭の中で暴れまわる。その煩さに、オセは初めて頭を抱えてもがき苦しんだ。
     ――やった。
     雲間に一筋の光が見えた気がした。
    「……この程度か?」
     だが、オセは平然と刀を構え直した。もう、傷を癒しても次の攻撃は乗り越えられないだろう。壱とスバルは残る力の全てを武器に注ぎこみ、駆けた。壱のグローブが輝き、緑の盾が禍々しい刀を押し止める。
    「背水の陣か。好かん戦法だ」
    「へッ、好かれようだなんて思ってねぇよ」
    「確かに君はメチャクチャ強いよ、けど……それでも勝つって思ってくれる人がいるんだ、引き下がれないよね……!」
     スバルが鎧の上から炎の蹴りを叩きこむ。後衛からの追撃が矢継ぎ早に襲う中、オセはスバルと壱を力任せに薙ぎ払う。倒れる直前、ウイングキャットのきなこが面倒そうに前に出たのを見て、壱は任せたよと笑った。皆を庇い、倒れた二人を葉はすかさず安全な林の方へ向かって蹴り飛ばす。
     次は僕の番だ――龍之介も覚悟を決め、歯を食いしばった。
     皆のように闇堕ちの覚悟は決められない。だけど、それでも僕に出来る事はあるんだ。傷つけど尚、龍之介の真っ赤な双眸は闘志を秘め燃えていた。灼滅者の意地、通してみせる――!
    「ソロモンの大悪魔オセ、貴方はここで倒す!」
     焔の如きオーラを体中に纏わせ、龍之介は駆けた。両手から放出した氣を至近距離から叩きこむ。再び雨霰と降り注ぐ攻撃を煩わしげにしながらも、オセは龍之介を斬り捨てた。
    「壁が崩れたな」
     視線を向けられた千波耶はびくりと肩を震わせた。しかし、見慣れた背中が視界を遮る。
    「あんま俺のカノジョ(仮)いじめてくれんなよ。俺がいじめんのはいいけど」
     聞き慣れた低血圧な声。こんな時に何言ってるの、葉くん。可笑しいよりほっとするより、何故か涙が出そうだ。
    「ふん。ならば力尽くで守ってみるか」
     千波耶の様子がどこかおかしい事を葉は察していた。葉は言われた通り刀を構える。真紅の刃同士が交わり、息も止まる程打ち合い続けた。外したら死ぬ、漠然とそう考えながら。
    「今日ここで誰が死のうが生きようが、世は全て事もなし、ってな――なあ、アンタもそう思うだろ?」
    「誰も彼も風の前の塵に同じ、というわけよ。その身にも教えてしんぜよう」
     力で押し負け、刀が弾かれる。あ、ヤベ、と思った瞬間、らしくない行動に自嘲の笑みが零れた。左肩から右腰を、やけに冷ややかな痛みが通過する。
    「葉くん!!」
     オセに蹴られた葉は木に激突し、崩れ落ちて動かなくなった。声にも反応がない。だが、千波耶は灼滅者として敵の撃破を優先した。何度回復されても仲間の攻撃の礎となる、その使命感が腕を動かした。
    「女だてらに勇ましい事だ。しかし、何を恐れている?」
     オセの言葉に千波耶は唇を結ぶ。それは目の前の悪魔でも、仲間や己の死でもない。
     雷の如き一閃はきなこ、そして千波耶をも斬り伏せる。せめてもの情けだと言い、オセは千波耶を葉の上へ蹴り飛ばした。
     死んでも構わないわけ、ないでしょ。
     耳元で葉の心臓がまだ動いている。その事に少しだけ安堵しながら、千波耶は闇に意識を預けた。

    ●4
     たった八人でこの化け物とやりあう覚悟があるか。
     ふと、その問いを思い出す。倒れた仲間と、己の血で紅く濡れた鎧を纏い、静かに歩み寄る男はどう控えめに言っても化け物だった。
     事前に定めた撤退条件が頭をよぎる。ここまで庇ってもらってきたが、分が悪いことに残る三人は既に瀕死だ。峻も、治胡も、アレクサンダーも迷わず最後の賭けに出た。
     霊力の網が波のように押し寄せ、悪魔を絡め取る。アレクサンダーは両脚に渾身の力を集めて跳躍すると、炎を噴き上げ、全体重を乗せた踵落としをオセの頭部に打ち下ろした。
     逃げ場を失ったオセは低い呻き声を発し、その場に倒れ伏す。
    「やったか……?」
     勝った、のか。
     あの化け物に。信じられない思いで顔を見合わせたその時、アレクサンダーがぐッと低い呻き声をもらした。
     峻と治胡が驚きに目を見開く。土佐の偉人の言葉通り、前のめりに倒れたアレクサンダーの背には深い切り傷がある。
     その先に、オセが立っていた。
     細かな交代で失い続けた行動機会を悔やんだ。もう少し格の落ちる敵と対峙する時、増援が延々と出現する状況など作戦が有効な場面もあったろう。だが、高い攻撃力を誇る強敵との相性がよくなかった。
     仲間が遠くに横たわっている。ぴくりとも動かない。まさか、もう死んでいるのではないか。嫌な想像が峻の頭をよぎり、冷たい汗が額を伝う。
     現状戦力で灼滅可能か否か。曖昧な基準に誰も判断か下せず、ここまで来た。もはやオセが見逃してくれる事を祈る他なかった。仲間を置いて逃げ帰る事などできない。
    「……笑わせないで頂けるかね。随分となめてくれおるわ……」
     そう言い放つオセの声は怒気を含んでいた。どこまで食い下がるかは慎重に考えてほしい――出発前に念を押された事を二人は思い出し、背筋の凍る思いをした。
     幾度となく死にかけてきた。罪なき人々の死を間近で見てきた。堕ちた仲間に頭を食い千切られ、無惨な死を遂げたらしい少年の話も聞いた。己の手の中で燃え尽きていった愛されたがりの男を、想った。
     そして思った。
     人は死ぬ。
     いとも容易く、死ぬ。
    「ふん、雑魚がよってたかってよくもここまで……逃がしてやる道理がないと思わんかね」
     直感した。
    「些細な火種であろうと、確実に消さねばな――私情としても貴様らが気に入らぬわ」
     今。
     ここで。
    「皆殺しだ」

     死ぬ。


     ざわりと燃え滾った治胡の血は、凄まじい殺気にあてられ急激に冷えた。反射的に身を引いたオセの身体をどす黒い氣の刃がかすめていく。その先に、関島峻によく似た男が立っていた。
    「ち……命拾いしたな」
     こんな小競り合いに命まで賭ける必要はないと判断したのだろう。オセは忌々しげに舌打ちすると、何事かを呟き黒衣を翻す。そして、林の奥へ姿を消した。
    「治胡、皆を助けてくれ。頼む」
     灰色の空を背負った灰色の青年は、燃え尽きたように天を仰いだ。ついに使命を果たしそびれた虚無感と、いつかの夜に似た苦み。何より仲間を死なせずにすんだ安堵のみが、彼の胸を支配していた。
     これで良かったのだ。例え自分がどうなろうと、誰かが助かるならいい。関島峻はそういう男だ。いつだってそうして生きてきたじゃないか。
     ただ、謝りたい相手の名前がうまく出てこない。
    「……ごめんな……」
     期待に応えられなくてごめん。帰れなくて、ごめん。どうあがいても駄目なら堕ちる――その古い約束だけは守れた、と思う。
     遠くへ行こう。それが誰だったか、本当に忘れてしまう前に。

     気付けばそこにはもう、治胡以外誰もいなかった。急ぎ携帯を手に取り、救援を求める。仲間の状態は一刻を争うだろう。全てが傷ついた戦場で、指にはめた誓いの輪だけが変わらぬ輝きを放っていた。
    『次に会う時は、命はないものと思え』
     去り際、オセが吐き捨てた言葉が耳から離れなかった。
    「……そう易々とくたばってやれるかよ」
     生きねば、と思った。
     自分も、仲間達も。忘れたくないから何度でも、何度だって繋ぎ止めてやる。
     冷たい電話の呼び出し音が、祇園精舎の鐘の如くに鳴り響く。枯葉を散らした生臭い風は、確かに戦場の風だった。

    作者:日暮ひかり 重傷:風宮・壱(ブザービーター・d00909) 一・葉(デッドロック・d02409) 相羽・龍之介(焔の宿命に挑む者・d04195) アレクサンダー・ガーシュウィン(カツヲライダータタキ・d07392) 城守・千波耶(裏腹ラプンツェル・d07563) 玄獅子・スバル(ネームレス・d22932) 
    死亡:なし
    闇堕ち:関島・峻(ヴリヒスモス・d08229) 
    種類:
    公開:2016年1月15日
    難度:難しい
    参加:8人
    結果:失敗…
    得票:格好よかった 8/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 2
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