ヴァーミリオンの喉元

    作者:中川沙智

    ●scarlet
     切り裂く。
     抉る。
     穿つ。
     どれもこれも偽物。本物には及びもしない。
     切先に迷いはない。切り刻む。深く刺し大きく突き上げる。
     瞳を、鼻梁を、唇を。
     跡形もないように切り刻む。

     どんなに刻んでも、赤は滴り落ちたりしない。
     幾枚ものキャンバスに佇むのは同じ人物の肖像画。赤を基調とした油彩画だ。
     キャンバスには数えきれないほどの亀裂や穴が開いている。乾いた油絵具はシンナーめいた匂いがきつい。
     ナイフの刀身でキャンバスを撫でると、傷だらけのそれはすぐにイーゼルから地に堕ちた。美術室の床に散らばるのは、同じ末路を辿った肖像画たち。
     響いた音すら無機質過ぎる。彼女は眩暈を覚えて頭を押さえる。だが彼女は倒れることはない。彼のように倒れることはない。生きてしまっている。生きて、しまっている。
     唇の端を噛んだら痛みが宿った。もっと、と千切るくらいに噛んでみたら血の味が滲んだ。
     彼の血はこんな温度だっただろうか。

     あたたかくない。
     ぬめりを感じることもない。
     乾いても鮮やかなのに、脈打つことは二度とない。
     どうして死んでしまったの。そのくらいなら、

    「私が殺したかったのに」
     
     
    ●carmine
    「誰かを殺したいほど好きになったことってあるか?」
     俺にはわからんが、と神崎・ヤマト(中学生エクスブレイン・dn0002)が手元でルービックキューブを弄ぶ。一面に揃ったのは、赤。
     特に返事は期待していなかったらしく、ヤマトは教室に揃った灼滅者たちへ常の声音で告げた。
    「一般人が闇堕ちしてダークネスになる事件が起きようとしている。そいつを助けて欲しい」
     闇堕ちした人間は即座にダークネスとしての意識を持つため、人間としての人格は消滅する。だが今回はまだ、元の人間としての心を失ってはいない。
     とはいえそれは『まだ』というだけだ。放っておけばどうなるかは、言うまでもない。
    「もしそいつが灼滅者の素質を持つようなら闇堕ちから救い出してくれ。もし完全なダークネスになってしまうようなら……その前に灼滅してもらいたい」
     教室の窓から傾いだ夕陽が注がれる。
     随分と日が短くなった。秋の足音は思いの外足早に近づいてくる。
     
    「そいつの名前は霧咲・透(きりさき・とおる)、高校1年の女子だ。先日与えられた六六六人衆内での序列は、六二八」
     元々は思慮深く真面目な性格だったという。強がりで意地っ張りな面があり、素直に自分の心を開くことができる人間がほとんどいなかったらしい。
    「ただ例外があってな。同級生の彼氏には素のままでいられたみたいだ。だがその彼氏がつい先日、交通事故で亡くなった。それから心の均衡が崩れたんだろう」
     美術部に所属していた彼女は彼に油彩画のモデルを頼んでいたそうで、ふたりが美術室で睦まじく談笑していた姿はよく見かけられていた。
     彼女は彼が亡くなった後もしばしば美術室に足を運んでいる。
     ただ以前と異なるのは、込み上げる衝動を吐露するように刃を振るっていることだ。――彼を描いた絵に向かって。
     しかし彼を描いた肖像画もさほど枚数があるわけではない。
     すべてを切り刻んだ後は、矛先は別の誰かに向かうだろう。
    「今ならその美術室に向かえば接触できる。俺の未来予測に従えば潜入は難くない」
     ヤマトの声のトーンが、僅かに低くなる。
    「そいつは解体ナイフと殺人鬼のサイキックすべてを使いこなす。部下や眷属の類は連れていないが、その分強いぞ。はっきり言って、1対1なら確実に勝ち目がない」
     闇雲に戦って勝てるほど甘い相手ではないとヤマトは暗に示す。いかに連携を取り戦闘するかが重要になる。
     言葉か行動か、もしくは両方か。彼女の心に呼びかけることで、戦闘力を抑えることになることも出来るかもしれない。だがもし接触の仕方を誤ればより手強くなってしまうだろう。
     はたして彼女が辿りつくのは彼岸か、此岸か。
    「決して楽な話じゃないが……決着をつけて欲しい。頼んだぜ」
     机の上に置かれたルービックキューブに、夕焼けの緋色が仄かに散った。


    参加者
    来栖・桜華(櫻散華・d01091)
    緑釉堂・薄荷(むくつけき影縫・d01311)
    早瀬・道流(プラグマティック・d02617)
    刀鳴・りりん(透徹ナル誅殺人形・d05507)
    佐和・夏槻(物好きな探求者・d06066)
    天霧・らんぷ(夜霧の幻影射手・d06257)
    八月朔・修也(色々とアレな人・d08618)
    キュール・ゼッピオ(道化・d08844)

    ■リプレイ

    ●magenta
     世界が業火の紅に染め上げられる。
     暗く静まり返った廊下で、美術室からの灯りと窓から差し込む夕陽の茜色だけが眩しい。
     灼滅者たちは霧咲・透が通う高校の美術室前に到着する。放課後ということもあってか、人の気配はほとんど感じられない。
     来栖・桜華(櫻散華・d01091)は長い前髪に沿う睫毛を伏せた。
    「すごく綺麗、なのに。どこか哀しいです、ね」
    「くひっ、真っ赤な曼珠沙華の色だな」
     対照的に前髪で目の表情を隠している緑釉堂・薄荷(むくつけき影縫・d01311)が短く笑った。灼滅者誰もが言葉少なに、それでも尚毅然と前を向いている。
     扉の取っ手に指を伸ばしかけて、腕を下ろし。かの少女に思いを向ける。
    (「本当に殺したいのは、大事な人に何もしてあげられない自分自身じゃないのか」)
     だが己と現実を責めて、殺したい対象をすり替えても何も変わらない。彼女も本当は、わかっているのではないか。
     そこまで思考を巡らせて、佐和・夏槻(物好きな探求者・d06066)が静かに美術室の扉に手をかけた。
    「……兎に角ここで立ってるだけじゃ始まらない。行こう」
     ゆっくりと開けると、部活の為に解放された専用の美術室らしく、かなり広いスペースが確保されていた。
     イーゼルの前でぼんやりと棒立ちで佇む少女がいる。細身ですらりとした、と言えば聞こえはいいが、かなりやつれた体型をしている。
     手には使い馴らされたペインティングナイフが握られている。本来は筆とは別種の力強く硬質な塗りを表現するために用いられるのだが、ただの描画材とは思えぬほどの強靭さと、何者をも寄せ付けない鋭さを抱いている。
     彼女が、透だろう。
     描画面を切り刻まれたキャンバスが何枚も足元に落ちているが、歩を進めることに支障はない。
    「良い絵だね。技巧はまだまだ拙いが、込められた想いはどのような名画にも劣らない……そんな絵だ」
     キュール・ゼッピオ(道化・d08844)が流れるような足捌きで透の横に立ち、イーゼルに置かれた絵を眺めゆったりと呟いた。その神出鬼没さに透はいつの間に、と喉の奥で声を漏らす。動揺で瞳が揺れている。
     イーゼルには一人の柔らかい笑顔を浮かべた少年が描かれている。今日のような夕焼けの時間に描かれたためか、彼の温厚な人柄をあらわしているためか。暖色系で纏められた色彩の肖像画だ。
     床に散らばる無残に切り裂かれた肖像画たちと色調は同じ。
     それはつまり。
     天霧・らんぷ(夜霧の幻影射手・d06257)が一度ためらい、それでもと口に出した。
    「折角綺麗に描けてるのに破いちゃうのって勿体無いよ」
    「そうだよ。ね、……やめようよ」
     刺激しないように、それでも必ず助け出したいという願いが届くように。早瀬・道流(プラグマティック・d02617)の懇願が透の心に優しく響く。
    「彼は、どんな透さんが好きだって言ってくれたの?」
     強くあろうとする殻から、どうやって透の本心を引き出してくれたか、それがどんなに尊いものだったのかを。
     どうか思い出してと道流が透に告げると、透は迷子に似た面持ちで少年の肖像画を見つめる。彼女の瞳にあたたかい光が映り込む。
    「あんたはわっしと同じ。わっしも一度は闇に堕ちた。だから、わっしはあんたの気持ちが理解できるよ、霧咲さん」
     老獪な口調で語りかけたのは刀鳴・りりん(透徹ナル誅殺人形・d05507)だ。
    「『堕ちても堕ち切っていないなら、助けられる』。それは、わっしにかけられた言葉だ。忘れはしない。霧咲さん、あんたはわっしによく似ている。だから、」
    「似てないわ。同じじゃないわ。だってあなたは、私じゃない」
     叫びにも似た氷点下の声音。
    「同じじゃない。どんなに似ていても意味はない。此処にある絵のすべてが彼であっても生きている彼ではないように、本物でなくては駄目なのよ」
     皆が説得する様子を見ていた夏槻が眉をひそめる。
     透の瞳が光を失くしていたからだ。燻る気配は研ぎ澄まされた、闇の衝動。 
    「殺戮衝動にも抗いながら生きていくことができる。そんな道もあるんだ、……考えてみる気はないか」
     透の表情の変化を読み取った八月朔・修也(色々とアレな人・d08618)が、切り口を変えようと試みた。灼滅者として歩んで行く未来を仄めかす方向で言葉を重ねる。
     だが透は更に冷え切った響きで言い捨てる。
    「そうすることに何の意味があるの?」
     修也は声を詰まらせた。
     美術室を沈黙が支配する。
     透のペインティングナイフが、鋭く光と影を交差させる。
     
    ●volkan
     視界が陰る。
     その正体は大きく跳躍した透だ。殺戮の讃歌に身を窶し、瞳に光は宿らない。
     灼滅者たちが構える余裕もなくペインティングナイフを閃かせる。その俊敏さたるや視界に留めるのも難しい。
     瞬く間に透は修也の死角に滑り込み、彼の腱に深く突き刺す。
    「っ……!!」
    「夜霧隠れ、を……!」
     事態を飲み込んだ桜華が、修也を中心に夜霧を広げていく。どうにか動きを阻害されない程度には治まったが全快には至らない。
    (「必ず彼女が元に戻る、と信じます」)
     たとえ今は闇に傾いたとしても、と己のビハインドと顔を見合わせ頷く。だから今出来ることは、仲間の傷を塞ぎ透と向き合ってもらうこと。回復役に専念することが自らの役目だと強く再認識した。
     桜華は更に夜霧を展開する構えを見せる。それに応えるように彼女のビハインドは互いに守り合う立ち位置を図りながら、霊光を纏わせた一撃を透へ翳した。
    「油断するな、次が来るぞ!」
     強襲に膝をついたままの修也が声を飛ばす。既に透は次の攻撃のため駆け出している。
     灼滅者たちのうち数名が初手に自己や仲間の強化を施したこともあり、まだ攻めに踏み切れていない。
     六六六人衆の片鱗を持つ者はかくも手強いのかと其々が息を呑む。
     次の標的となったのは癒し手と認識された桜華だった。
    「!!」
     桜華が目を見開いたその瞬間、彼女の前に滑り込み刃を受け止めた人物がいた。
     りんねだ。
    「試合おうというなら、応じよう」
     自らが刀そのものになったかのような存在感と、凛とした覚悟を秘めて。抜いた刀で透のペインティングナイフとで鍔迫り合い――透の武器には鍔はないが――の様相を呈する。
     やがて刃は弾かれ剣戟が交わされる。りんねは中段の構えから、透の素早さに勝るとも劣らない斬撃を振り下ろす。 
    「先程の言葉の続きだ。だから……助けたいと、願う」
     真直ぐに見つめるりんねの視線の先で、透が僅かに戸惑いを見せた。攻撃そのものは回避したが、動揺は隠しきれない。
     そのほんの少しの隙に、蠍の尻尾の毒が廻る。
     透が影に足を絡めとられている。悔しそうに歯噛みするが、足取りがかなり鈍くなる。
     その主はいつの間にか前髪を額の上に括っていた薄荷だった。予め瞳にバベルの鎖を宿し行動予測の精密さを増していたのだ。彼が操る影の蠍は、透を捕縛することに成功している。
    「くひひっ、年を取るってのは面倒なことが増えるんだな。相手が死んで悲しいんなら、素直にそう言えばいいのに」
     ふと、透の動きが硬直した。
     正直精神世界で過ごしてきた薄荷は恋愛感情に疎い。恋愛ってーのは生きるか死ぬかなんだなと肩を竦めて笑んだ。
    「でもよ、気持ちをもう一度考えてみるんだな。自分が殺してしまえばよかったほど相手が好きだった?」
     しかしだからこそ、透へ真直ぐ言葉を投げかけられたのかもしれない。
    「ひひひ、本当かな?」
     
    ●vermilion
     軽快な動きと共に、糸が透の足を更に縛る。道流が薄荷の影に続いて透の動きを封じたのだ。
     決然と向き直って切々と訴えかける。きっといくら血を求めても、満たされない。
    「透さん、闇からの誘いに負けないで」
     ひたむきな声に透の瞳が一瞬光を宿すが、すぐに澱んだ闇の色に堕ちてしまう。
     胸元に具現化したハートの4にそっと手を当て、らんぷが視線を上げて宣言するように言い放った。
    「目を覚まさせてあげる」
     指先で鋼糸を繰り、透を斬り裂いていく。同時に先に加えられた束縛が更に強く指に足首に膝に絡んでいく。
     伝えたい思いは時に言葉だけでは伝わらないから。
    「キミの大切な人は今のキミなんて見たくないと思う」
     切り刻まれた傷を押さえ、呆然とする透。
     今の瞳は光も闇も燈されない、遠い深淵を覗く色だ。
    「……彼が愛した君は、そんなにも悲しい顔をしていたのかな?」
     死角に回ろうとしたキュールは眼前で透の面差しを見止め、マジックロッドを一瞬止める。
    「キュール!?」
     修也が問いかけるも、芝居がかった仕草でけむに巻く。
    「君に悲しい顔は似合わないし、彼も望んでいないだろう。これは確信に近い」
     透がきつくペインティングナイフの柄を握る姿を余裕をもって見つめる。
    「これ以上悲しい顔をさせないために、必要とあらば君の殺戮衝動は受け止める覚悟がある。さあ、来なさい」
     緊張が走り、沈黙が破られるまでそう時間はかからなかった。
     八つ当たりのように大振りに向けられたペインティングナイフを、キュールは自らが湛えていた殺気で正面から相対し受け流す。
     包帯の下で微笑みが浮かぶ気配がした。
     やはり透の攻撃力は今や戦闘開始時の半分に近いほど落ち込んでいるのだ。
     それでもキュールは賞賛の辞を粛々と述べる。
    「……素晴らしい。ここまでの力を得る程に、彼を愛していたのだね」
     喉で空気を呑み込めなかった音がした。
    「還って来たまえ。彼が君に残したその想いを無駄にしないためにも」
     透の足の動きが止まった。交戦中素早く走り回り灼滅者たちを翻弄した透が、束縛ではなく初めて自らの意思で、止まったのだ。
     今ならば耳を傾けてくれる。そんな気がして、夏槻は冷静に口を開いた。
    「人が死ぬ時は残った人の記憶から消える時だ。このまま衝動に任せて落ちれば彼のことも忘れて彼を本当に殺すことが出来る」
     透の顔が目に見えて強張る。
    「だけど、それでいいのか? 本当に彼が消えてしまう事が本意なのか?」
    「……私、は」
     震える唇から洩れた声は、揺らぎを抱えた幼子のよう。
    「やり場の無い感情に振り回されてはいけません。大切な人も望んでいない、と思いますから」
     透と同じような経験をしたことのある桜華は、大切な人を失う気持ちも多少なりとも共有できると感じていた。
     ビハインドの『櫻』に視線を向け、思い返すように囁く。
    「本当にその方、を大切に思っていたのなら、霧咲さん自身のことも大切にしてください。それが、その方の願いだと私、は思います。はい」
    「命の熱さ、忘れないようにとっておけ。……もう、心配しなくていいから」
     あと一息体力を削る攻撃が必要、と見極めたのは修也だった。身体から迸る炎を縛霊手に纏わせ、口下手ながらもどうにか言葉を紡ぐ。その分真摯に実直に、焔を透へとぶつけていく。
     生命の象徴のような、火の赤。
     身体に髪に炎が踊っても、浮かび上がる透の横顔はどこか美しい。
     ようやく透の体力は尽きかけている。らんぷが一歩前に出て、柔術の要領で透の腕を掴み投げ飛ばした。
     透の視界が、世界が反転する。
    「透が抱えた感情に嘘はないかもしれんが、それだけじゃなかっただろう」
     薄荷が単純な真実を、告げる。
    「当たり前の女の子として当たり前に好きだった。それでいいじゃねえか」
    「積み重ねた時間こそ大事にしなきゃ。それは自ら捨てない限り、失われる事は無いんだ」
     大切な人の喪失は常に残酷だ。いつ如何なる時であっても。
     だがそれを乗り越えられる強さは、失った人から既に受け取っている。月日が流れ、掛替えのない想い出を抱きしめられる限り、きっと。
     道流はそう信じている。否、信じたかった。  
    「さあ、帰ろうよ。彼との思い出が残る日々へ。透さんの中には、いつまでも彼がいるんだよ。殺すんじゃない、共に生きよう?」
     仰向けに投げ出された透は只管に身体を巡る赤を感じていた。
     炎を、流れる血潮を。
     一筋涙を流した透はペインティングナイフを床に落とし、意識を手放した。
     
    ●crimson
     ダークネスの気配は感じられなかった。
     目の前に倒れる少女は今同じ場所にいる面々と同じ、灼滅者として存在している。
     戦闘が終わって暫く経ち、ゆっくりと、ゆっくりと透が目を覚ました。
     桜華が小さな身体ながらも透を抱きしめる。まだ状況が判断出来ていない彼女に、ぽつりぽつりと桜華が呟く。
    「一人、ではありません。はい」
    「……え?」
    「私もまだ大切な人の死、を受け入れられていません。それでも、前に進むこと、が必要だと思います」
     宥めるように、桜華が懸命に背中を撫でる。
    「霧咲さん、今は立ち止まっても良い、です。でも、前、を向いていてください」
     前を向く。
     それは途方もないことのように思えた。前がどちらかわからない。優しさが染みる分答えを返せず、透は桜華の背を抱きしめ返すことしか出来なかった。
    「それにしても、絵が1枚でも残っていて良かった。どうしてこの絵を残しておいたのかな?」
     明朗な声が響き、キュールは戦いの喧騒で床に落ちた無傷の絵を、イーゼルに飾り直す。幸運にも大きな傷はなく、穏やかな笑みは守られていた。
    「……その絵が一番出来がよかったの。その絵が、彼の笑顔をそのまま映すように描けた」
     視線を向けるうち、堪えきれない想いが満ちてくる。
    「どうして死んでしまったの。そのくらいなら、そのくらいなら」
     己と現実を責め傷つけ続け、切り刻んで、闇に呑まれそうになる。
     溢れそうなその感情が――決壊した。
    「……私が死んだ方が、よかったのに」
     透がその名の如く透明な涙を、硝子玉のように瞳から零す。
     けれど本当はわかっている。わかっていた。
     灼滅者たちが思い出させてくれた。
    (「つまり予想通りだったわけか」)
     夏槻は顎に手を添え淡々と思索する。
     心を開くなど錯覚と思っている。だが、錯覚にも効用があるとも感じている。
     だからはらはらと涙を流す透へと言葉を、贈った。
    「心をさらけ出せる人なんて簡単に出来ない。でも自分の心を見詰める事は出来る。そんな時に傍にいてくれる人も、きっと」
     透が瞬きののち見渡すと、灼滅者それぞれの顔が目に入った。らんぷが大丈夫かな落ち着いたかなと様子を伺い、微笑みながら手を差し出した。
    「ねぇ、武蔵坂学園てところがあるんだけど一緒に来ない? ボクたちみんなそこの生徒なんだ」
     気が付けば首が縦に動く。
     ふとりんねと目が合ったが、そっけなくひらりと背を向けてひらひらと手を振る。
    「わっしは正義を貫くのみよ。あんたが悪でないことは、目を見りゃわかる。生者の目よ」
     
    「おかえりなさい、透さん」
     伸ばされた道流の手を慕うようにすがるように握りしめる。その姿を見て、修也は安堵の息を吐いた。
    「ただいま。……そして、ありがとう」

    作者:中川沙智 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2012年10月6日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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