白線少女

    作者:日暮ひかり

    ●scene
     どうせ、生まれたときからろくでもない人生だった。
     だから、ろくでもない救いが唐突に訪れたとして、たいして驚くようなことじゃない。
     ましてや命をつなぐために『それ』が必要ならば、彼女にはもう、なにも躊躇う理由なんてなかった。

     机や箪笥のすみから見つけた、なけなしの小銭をかき集めて家を出た。
     走った。
     電車に乗って、ずいぶん遠い街へきた。
     此処ならば、もう私のことなんて誰も知らないだろう。
     人を記号として捉えることができるならば、今は思う存分食い繋ぐことができるのだ。

     幸福を嫌味に着こなしたような服で己を飾り立て、下卑た命乞いなど口走る男。
     偽りを何重にも塗りたくった顔を醜くゆがませ、恐ろしさに泣き叫ぶ女。
     いや。幼子も、老人ですら。なにもかも。
     善きも悪しきも、すべて『餌』というひとつの名でくくることができるならば、彼女はそれをただひたすらに狩ることを辞さなかった。
     生きるため。
     他者の鮮血を自らの生命と変えうるその力は、ひとりで生きていくためにはなんと都合のいいことだろう。
     神など、信じたことはなかった。
     けれど、これは神の贈り物かもしれない。
     そう考え始める程に、彼女は身も、心も満たされていたはずだった。

    「……げほッ。っ、はっ、はぁ」 
     嘔吐する。胃液と血が混ざりあった液体が、今しがた餌とした女の死体を汚す。
     躊躇うな。立ち止まるな。
     そう己に言い聞かせ、ふらつく足で新たな獲物を探しに彼女は走った。
     このまままっとうに生きていたって、どうせ救いなど訪れはしない。
     
    ●warning
     ずいぶんと、ひどい境遇にいたんだそうです。
     五十嵐・姫子(高校生エクスブレイン・dn0001)は少女――萬屋愛梨のことを、ただそれだけ語った。
    「中学2年生の女の子です。遠い場所に棲んでいるお母さんがヴァンパイアに堕ちた影響で、彼女は巻き添えになってしまいました。……あぁ。どうして『遠い場所』にいるのかは、なんとなくわかりますよね?」
     姫子はさして楽しくもなさそうにふふっと笑みをこぼし、ひとつ浅いため息を吐いた。そしてまた、穏やかな表情に戻って説明を続ける。
    「でも、愛梨さんはまだ助かる可能性があります。ひとの心が、残ってますから。彼女に灼滅者の素質があるのなら、どうかその心に呼びかけて助けてあげてほしい……のですが」
     ふーむと首を傾げ、姫子は言葉を探す。彼女には珍しく、どうにも歯切れの悪い説明だった。
     
     ――家出。
     やがてぽつりと呟いたのは、その一言。
     
    「したんです。愛梨さんは。ヴァンパイアの吸血能力を得て、それを頼りに、たったひとりで生きていくため」
     それはそれは、深い絶望と孤独の中にいたのだろう。
     だから、与えられた力の意味も出所もわからずとも、すがってしまった。
     それは、彼女が初めて得たに等しい『幸運』だったから。
    「既に、何人か人を襲ってしまったようですね」
     今あるすべてを捨て、新しい自分として生きる、そのために。
    「――でも。できれば救ってあげてくださいね。後の手続きは、学園でどうとでも出来ますから。でも……愛梨さんの信頼を得るのは、とても難しいと思います。言葉が通じなければ……灼滅してください」
     何を言ったらいいのかわからないのだと、姫子はすこし遠い目をした。けれど私に解ることは皆さんに託しますから、とも。
     次の狩りが行われるのは深夜。
     ナイフを持って、会社帰りの女を袋小路に追い詰め、血を啜り殺してしまう。
     現場までの地図を一人一人に手渡し、そこへ至るまでの道筋を説明する。
    「警戒心の強い子です。介入するタイミングは、二人が袋小路に入った直後がいいでしょう。どうしても被害者が奥側になってしまうので、そこは気を付けてあげてくださいね」
     広さは、四人が並んで戦える程度だという。
    「生きるために、だれかを殺したことは……ありますか?」
     愛梨さんに届くような言葉を、少なくとも私はきっと、持ち合わせてはいないのでしょうね。
     誰に問うでもなくそう言うと、姫子は緩く首を降って、いつものようにほほ笑んだ。
     白線の向こう側で、彼女が待っていますと。
     姫子がす、と駅の方を指さし、呟く。
    「私の話は終わりです。急ぎましょう」
     そうしないと、皆さんの知らないだれかが――。

    「死にます」


    参加者
    財満・佐佑梨(真紅の徹甲弾・d00004)
    篠雨・麗終(夜荊・d00320)
    ミレーヌ・ルリエーブル(首刈り兎・d00464)
    津宮・栞(漆の轍・d02934)
    西織・一(中学生ダンピール・d03323)
    九重・透(目蓋のうら・d03764)
    水無瀬・京佳(あわいを渡る片翼・d06260)
    六車・焔迅(彷徨う狩人・d09292)

    ■リプレイ

    ●1
    「助けて! 誰か!! 助けて!」
     眠らぬ都市の灯りを遠くに望むこの街では、助けを求める女の声も虚しく夜風に吞まれゆく。
     お願い。私が何をしたっていうの。
     許して。どうか。お願いします――。
     腰を抜かし、へたり込んだ女の必死の懇願も、2度3度目となれば案外聞き飽き始めている。
     まだ、僅かに高鳴る胸の鼓動は忌々しいけれど。その理性を殺そうと、愛梨が刃を構えるのをほんの一拍だけ遅らせた、その瞬間だった。

     振り返る。
     誰もいない。確かに、なにかの駆けだす気配を背後に感じたと思ったのだが。

     愛梨の勘は当たっていた。ただ、その『弾』は、中学生の目線では視え難かったのだ。
     小柄な身体の腰を更に低く落とし、財満・佐佑梨(真紅の徹甲弾・d00004)が放った不意の一撃は、愛梨の死角を突いた。槍で足を貫かれた愛梨が顔をしかめる。
    「こんな夜中に、こんな袋小路で。随分と寂しそうにしてるのね」
    「……誰だ」
    「名前なんて別にいいでしょ? 貴方を助けられる力を持った者、とだけ言っておくわ」
     小生意気にきりりと眉を吊り上げた少女に、愛梨が気を取られた隙を見逃さず、新たな影が次々と袋小路へ滑り込んだ。
     水無瀬・京佳(あわいを渡る片翼・d06260)と津宮・栞(漆の轍・d02934)がいち早く被害者の女性に駆け寄り、その身を助け起こす。
    「させないよ」
     九重・透(目蓋のうら・d03764)の放った鋼糸が愛梨の足に絡み、身体が一瞬、ぐいと入口側に傾いだ。踏み止まって糸を払い、再び獲物へと向かおうとするも、彼女の進路上には既に六車・焔迅(彷徨う狩人・d09292)と西織・一(中学生ダンピール・d03323)が回り込んでいた。
    「僕が壁になります。津宮お姉さん達はその方を逃がしてください」
    「六車くん、ありがとう。……分かりました」
     そして、ミレーヌ・ルリエーブル(首刈り兎・d00464)と篠雨・麗終(夜荊・d00320)が入口側を封鎖する。獲物を追いこんだ心算が、己が罠にかかったのだと、愛梨が何となく理解する迄にそう時間はかからなかった。
    「人を殺さなくても生きていける道がある、と言ったらどうかしら」
     ミレーヌの言葉を聞いた愛梨は、灼滅者たちの攻撃を捌きながら、一層怪訝な顔で彼女を見た。それはミレーヌなりの切実な事情があっての事なのだが――珍しい服。その好奇心は、一瞬だけ瞳に純粋な光を与える。
     けれどすぐに猛禽類の強暴さを宿し返し、未だ少女らしい声で低く呟く。
    「信じられるもんか。どけ」
     私は生きる、と。
     褪せた少女はナイフを強く握りしめ、障壁たる灼滅者達をぎろりと睨んだ。

    ●2
    「ここまでくれば、もう大丈夫かしら?」
    「怪我はないでしょうか。お気をつけて、帰ってくださいね」
    「は……はいっ。ありがとうございます……っ!」
     OLを無事に袋小路の外まで送り届け、京佳と栞は息をつく間もなく戦場を振り向いた。
     その先では、佐佑梨と愛梨の攻防が繰り広げられている。
    「さっきの貴方の言葉だけど。信じれるかどうかは、ぶつかり合って決めてもらえるかしら」
     佐佑梨が繰り出した正拳を横にかわし、目標を定めた愛梨が紅の刃を振るい返す。
     10にも満たない少女が、人生の憂いを心得ている筈もない。けれど芯を通して、日頃の鍛錬の全てを賭して、佐佑梨はぶつかる。
     救えると言った。嘘ではない。
     でも足らぬ言葉が届くとは思わないから、彼女に出来る最大の証明は、そのための『力』を見せる事だ。
     深く抉られた腹が痛む。けれど弱みは見せまいと、佐佑梨は声を殺す。槍に籠められた気概を、武芸者でない愛梨は完全に汲み取れはしないが。
    「こんな袋小路が運命じゃないって事、分からせてあげようじゃない」
     この少女を伸さねば、逃れられまい。その印象を与えるには充分たりえた。
    「もうこれ以上人を手にかけるのはやめて。あなたも本当は嫌なんでしょう? 本当に人を単なる餌と見ることができるなら、元いた場所を離れる必要は無かったはずよ」
    「……離れたかった。私を知る人から。半端な憐憫と好奇の目で私を見る人たちからは」
     飯が不味くなるだろ。
     その言葉が本気か、虚勢なのかはわからない。自嘲めいた笑いを返す愛梨の顔を見ても、ミレーヌはある種の冷静さを保っていた。
    「これから私達は、あなたが生きる道を示すわ。それでも選択を拒むなら、悲しいけど、私はあなたを狩る。……自分の意思で選ぶなら、その結果はあなた自身の責任よ」
     此処に立つ全員が心得るべき真実を語る。責任に対するだけの覚悟は用意した。出来れば助けたい。けれど、影は飢えたように愛梨を喰らう。
     溢れる血のにおいに、遠い記憶が軋む。
    「水無瀬さん」
    「……ううん、何でもないの。ごめんね」
     軽い眩暈を抑えて、京佳は栞に微笑む。敵を見て、呟いた。
    「愛梨さん。生きる為に人を殺す、って」
     出発前の姫子の問いだ。栞は静かに視線を落とす。返す言葉が見つからず、今も言いようのない感情が胸に満ちたまま。
     生き延びる為に殺したことならば、京佳にも覚えがあった。今でも心につかえて外れはしない。
     けれど、だからこそ誓った。
     もう、誰も倒れさせはしない。誰にもこんな辛い思いはさせない。それが私の役目だと。
     願いを籠めて捧げる京佳の歌は、天使の慈愛を宿して佐佑梨の傷を塞ぐ。
     己の血と返り血で粗末な服を斑に染め、愛梨は頑なに過去を閉ざし、牙のみを向ける。
     貴女の思いは、貴女だけのものだからそれでもいい。けれど――躊躇う心を持つ限り、諦めはしない。
    「この手を取ってくれるなら、何があろうと私は絶対に裏切らないわ。救うなんて驕り高ぶった事も言わない。これは、私の我儘だもの」
    「必要無い。私は助けなんか要らない。今有る幸運を手放さない」
    「君はその力を幸運、と呼ぶか? ならば、何故そんなに泣きそうな顔をしているんだろうな」
    「――……!!」
     切れた鋼糸を手繰れば血の朱が伝っていた。透はそれを懐中時計にしまい、また新たな糸を張る。
     振り翳した腕が隣の一に当たり、ふたりは一瞬顔を見合わせた。
     佐佑梨、透、麗終、一、焔迅――前衛が5人居る。
     愛梨を取り囲み、被害者を逃がすまでは良かった。が、この窮屈さでは継戦し難く、これ以上の隊列の移動も困難だ。連携や攻撃がどうもスムーズにいかないのは、ひとえにそれが原因だった。
     何処に齟齬があったのかを反芻している余裕は無い。
    「私が下がろうか。前は任せる」
    「有難い。俺は守りに徹しよう」
     一は既に壁となる体制を固めていた。フォローを念頭に置いていた透が後退を選ぶ。透がスナイパーの位置に入ることで、前線の詰まりが解消する。麗終のチェーンソー剣が、獣のような激しい唸りをあげて愛梨を喰らいに動く。
    「化け物になってまで生きたいのか。ほぼ、自分じゃないのに、まだ生きたいのか。人の命啜ってまで生きたいのか。それで、自分一人で生きてるって胸張って言えるのかよ!!」
     救えるものなら救いたいとは思う。けれど苛立ちは言葉に滲み、つい声を荒げてしまう。
     わかるものか。ある日突然、血を吸われて殺された者の気持ちが。
     残された者の悔しさが。
     人としての優しさと、宿敵の根絶を願うダンピールの憎しみ。どちらも棄てることが出来ないのは、素気なくも見える彼女ですら、また闇に抗いながら生きている証。
    「俺は、堕ちない。人を犠牲にしてまで、生きたくない」
     誰にともなく言う。絶対に、あんなモノにはなりたくない。例え不本意な選択であれ、見逃す訳にもいかないのだ。
     同じ境遇にある焔迅には、麗終の考えている事が何となく解った。柔和な顔の内に秘めた狩人の焔が、受け継いだ魂が、静かに燻ぶりだすのを感じる。
     けれど、今日狩るものはヴァンパイアだとは考えてはいない。萬屋愛梨という名の少女の心にさした影を、己の炎で祓う。そのために此処にいる。
    「己のみで生きていくのは格好いいですが、お姉さんのそのやり方は良くないと思います。とても、苦しそうですよ。……お姉さんがそんな顔をしなくても、生きる為の方法はきっと他にもあります」
     槍に宿る紅の氣が焔のように猛り、愛梨の腕を貫く。滴る血を見つめ、歯をぎり、と噛みしめて彼女は呟いた。
    「新しい、血を……」
     自分が間違っているなんてとうにわかっていた。
     それでも。閉ざされた愛梨の心では、誰かに縋るという道を上手く見つけることができない。
    「……ヴァンパイアは全て、灼滅する」
     剣を握る手に力を入れ、感情を殺して呟いた。麗終の独り言に栞がまた俯き、軽く目を伏せる。
     ――わたしは、恵まれていたのかしら。
     己がヴァンパイアに狙われたが為に、妹と生き別れてから三年が経つ。もう愛梨と同じ位の歳になっている筈だ。自然と、重ねてしまう。
     もし同じような目に逢っていたら。こんな孤独を背負っていたら。何と声を掛ければ良い?
     命を繋ぐ為に、選択肢なんて無かったのかも知れない。
    「人の血を啜らず、共に生きる道を選べます。本当です。わたしは……わたし達は、それを望んでいます」
     込み上げる感情と理屈の全てを、こぼさずに伝えたい。けして強く叫びはしない控えめな彼女だけれど、言葉には人一倍大切な想いを託していた。

    ●3
     同じような境遇の者が集まる場として、武蔵坂学園の事を話して聞かせた。
     愛梨はただ一言、そのような御伽話は信じられないと言った。少女は徹底的に信じる事を拒んだ。
     一は表情を変えぬまま、攻撃を受け続ける佐佑梨の様子を横目で見る。
    「大丈夫か?」
    「……平気よ、このくらい」
     彼女はディフェンダーに移動しようとは考えて居ないようだ。京佳や栞の回復支援はあるものの、積み重なった裂傷で次第に息が上がり始めている。
     そう簡単に仲間を倒させはしない。一は盾を構え、側面から愛梨の横っ面を殴りつけた。
     少し申し訳なくも思うが、怒りで少しでも敵の気を逸らす作戦だ。本気でやらなければ、やられる。
     殴られた愛梨はぐるりと一のほうを向き直り、鋸のように変形したナイフを衝動的に振るった。
     逃げはしない。同じ孤独の苦しみを知る者として、彼女の痛みを受け止めるために。
    「もう一度、聞いていいか。君は、人を餌として生きて行く事を本当に望んでいるのか」
     その刃を胴に食い込ませたまま、愛梨の目を真っ直ぐに見て、一は語りかける。己の纏う鋭い雰囲気を少しでも和らげようと、ゆっくりと優しい声で。拒絶など決してしないと伝えたかった。
    「孤独が好きな人というのはたくさんいるが、孤独のままにずっと生きられる人は誰もいない。力を得たとしても人は人だ。例外とはならない」
     一の言葉にミレーヌがこくりと頷いた。闇を恐れずにいられるのは、助けてくれる仲間がいると信じているから。
    「共に行かないか。君を理解し支えてくれる人は、絶対にいる」
    「お願い。こっちに来て?」
    「いやだ。私は一人でいたい。誰も信じられない……!!」
     愛梨の声に、段々と感情がこもり始めていた。泣きだしそうな声だ。技の効果も重なり続け、動きがだいぶ鈍りを見せている。焦ってもいるのだろう。
     刃に籠った怨嗟は被害者のものか、彼女自身のものか。渦巻く毒霧と化したそれが前衛に襲いくる。
     真っ向から突っこんでいったのは焔迅だ。京佳が息を呑む。
    「焔迅さん、危ない!」
    「僕達は、お姉さんを独りのままにはさせませんから。それを見せます」
    「……わかったわ。なら、私は皆の気持ちを支えるから。誰も倒れないようにするのが私の役目。それには愛梨さん、貴女も含まれてるの」
     言葉が届く事を、愛梨が戻ってくることを、皆がけして倒れないことを京佳は最後まで信じぬいていた。裏切らないと言った気持ちに嘘は無い。愛梨は敵でなく仲間なのだ。包みこむような優しい風が、霧を散らして頬を撫でる。
     ――あたたかい。感じたことの無い思いだ。
     毒霧を突き抜け、焔迅の槍が炎の苛烈さでごうと螺旋を描いた。穿たれた愛梨が血を吐きながら叫ぶ。
    「こうやってお前達、また私から幸運を奪うんだろう!!」
     幸運。
     愛梨の、自分たちの手にしたそれが幸運なのか、誰もわからない。
     けれど誰も否定しなかった。少なくとも、きちんと幸せと繋がれるものだとは信じていたから、全員が言葉を投げかけたのだ。
    「手に入れた力。それが悪いことなんて言わないよ。でも、力はいつかそれ以上の力に押し潰されるんだ」
     透の、水面にたゆたう月にも似た不思議な色のまなざしが揺れる。
     かつて全てを破壊しても力が欲しいと思っていた。けれど、そうやって手に入れた力は脆いと知っているから。助けたい。孤独に、力に押し潰されないためにその手をとりたい。
     ――友達になりたいと、思う。

    「君からは血の匂いがして、君が境界線を一歩越えたところにいることを、私達は知っている。君の環境も力も、幸運じゃないかもしれない。でも、その力のお陰で私達は会えたから。そのことが、君の幸運に繋がればいい」
     懐中時計から繰り出した糸が、絶句し身を震わせる愛梨を離さぬように捕らえた。
     誰もが白線の際に立ち、それでも踏み出さずにいられるのは、強い風に攫われぬつながりをこの力で作っていけるから。
     愛梨の迷いや、背負うものを認め、許し、受け入れて。
     境界線のその先へ、ようやく想いは巡りついた。

    「独りで苦しむより、似たような境遇の奴とつるんで生きてきゃ良いだろ。どうせ一人でいるなんで無理なんだからよ」
     剣の持ち手で軽く愛梨を殴りつけ、麗終がぶっきらぼうに言い放って帽子を深く被りなおした。
    「私はミレーヌ・ルリエーブル。ね、お友達になりましょう。あなたにはもっと似合う服があると思うの」
     ミレーヌと京佳が微笑んで手を差し伸べる。
    「私、京佳。水無瀬京佳よ。あなたは?」
    「私、は……わたしは」
     萬屋、愛梨。
     かさついた頬をひとすじの涙が伝った。
     血の染みついた彼女の両手を、叶うならゆっくり引いてあげたいと願った。
     夜の闇に溶けた栞の影が、包みこむように優しく、そっと愛梨を覆っていく。
    (「今は心を溶かせなくても……きっかけになる事は出来るはずだから」)
     重ねた面影を引き留めるように影は深く絡み、喰われたダークネスの気配が夜の向こう側に消えさってゆく。
     立つ力を失い、ふらりと倒れる愛梨の身体を透が走って受け止めた。
     ――大丈夫。ちゃんと息をしている。
     確かめるように抱き締めて、一番伝えたかった言葉を言った。
    「なあ、世界はそれでも、優しさに満ちているから……だから一緒に行こう?」
     愛梨は初めて知った。人の血の流れる腕が、こんなにも暖かいなんて。
     どうやって言葉にしたら良いのだろう。
     朦朧とする意識の中で、それでも少女は僅かに頷き、瞳を閉じた。
     今はまだ、上手く口が動かないけど――目が覚めたらゆっくり考えよう。

    作者:日暮ひかり 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2012年10月16日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 6/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 3
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