セイメイ最終作戦~カルキの悲痛

    作者:来野

     中天を越えた陽は傾き、体育館の屋根の向こうで地平線へと向かう。
     私鉄沿線の駅から10分。とある公立高校が、放課後を迎える。
     普通という言葉がこれ以上似つかわしい学び舎もない。そのはずだった。
     なのに――、
    「急いでっ」
    「せ、先輩っ、待……っ」
     顔を引き攣らせた女子生徒が二人、手を取り合い、覚束ない足取りで廊下を駆ける。
     全速力で走っているつもりだった。だが、つもりでしかなかった。焦りに足がもつれ、遅れた一人が倒れ込む。
     迫り来るのは、まず、濃い腐臭。そして皮膚の朽ちかけた土気色の手。
     彼女たちと同じ制服姿のゾンビが4体、見慣れない制服姿のゾンビが2体、足首を掴もうと押し寄せてきた。
     一体、なぜ、こんなことになっているのか。
    「い、いやっ、いやああっ!」
     悲鳴を上げて足をばたつかせる他ない少女を、先輩であるもう一人が抱き起こそうとする。すぐ脇に扉が一つ見えていた。
    「急いで、こっちに……ひ、ァッ?」
     起き上がりかけた少女の頬に鮮血が跳ねかかる。
    「……? せんぱい?」
     呼びかけられた少女は、表情を失って動かない。薄く開いた唇から血の泡をこぼしている。かくり、と首を傾けた。
    「グゥ……ゥ」
     覗いた喉首に、ゾンビが喰らい付いている。
    「やめて、はなしっ、て!」
     手にしていたバッグを叩き付けると、中に入っていた筆洗油の瓶が割れた。
    「ギ……ッ!」
     溶剤が飛び散り、ゾンビの目を直撃したようだ。濁った瞳がさらに白く曇る。
     その隙に先輩をもぎ取った女子生徒は、脇の部屋へと逃げ込み扉を閉ざす。
     腕の中の少女はもはや息をしていない。それでも抱きかかえて守ろうとし、室内を見渡した。何か、何かないか。
     ドンッ、ドンッ。
     廊下側から扉を叩く音が聞こえる。鈍く単調なその音が、腐肉の稚拙な動きに似つかわしくて怖かった。
     何度も何度も叩かれ続けた扉が軋み、やがてゆっくりと開かれる。もう、どこにも逃げ場はない。
    「……っ!」
     少女は壁際に置かれた石膏像へと手を伸ばし、その台座を握り締めた。
     きつく、きつく。
     
    「富士の迷宮突入戦、お疲れ様でした。大勝利は皆のお陰だ」
     石切・峻(大学生エクスブレイン・dn0153)は教室内へと笑いかけようとして、不器用に失敗した。
    「すまない。嬉しい報せの直後だというのに、頼みがある。白の王の置き土産が見付かった。始末して欲しい」
     教室内から声が上がる。
    「置き土産?」
    「ゾンビだ」
    「やっぱり」
    「ただ、従来のそれとは少し違う。仮に『生殖型ゾンビ』と呼ぶが、こいつらは噛み殺した人間をゾンビ化させることで増殖し、俺たちエクスブレインの予知を妨害する能力を持っている。不甲斐ない話だな」
     苦々しく呟いて眉根を寄せ、峻はとある公立高校の見取り図を配布する。
    「この『生殖型ゾンビ』は日本各地の高校の校舎に現れ、生徒などを噛み殺してゾンビ化させることにより学校を制圧しようとしている。場所だけはどうにか確認できた。疲れているところ申し訳ないが、至急向かってくれないか」
     配布した見取り図には資料が添付されている。それによると敵となる『生殖型ゾンビ』は富士の迷宮の下層にいたものたちと同様と目されているらしい。
    「単体として見れば決して強力な連中ではないが、名前の通り『一匹見たら……』という傾向性を持つ。放っておくとあっという間に増えて、累は周辺住民にまで及ぶだろう。元はといえば数千体は存在したらしいが、多くは富士の迷宮で灼滅されている。幸いにして生き残りは100体以下なので、ここで一掃したい」
     かすれた息を吐き出し、峻は人差し指を立てる。
    「それと、もう一つ。連中にはバベルの鎖を持たないという特性がある。一般人に認識されやすい。なので、撃破後は可能な範囲でゾンビがそこに存在したという証拠を持ち帰るか、破棄するかしてして欲しい」
     隠蔽工作だ。告げる峻の声自体が低く落ちる。
    「物証が残れば残るほど、ゾンビといった超常現象が一般社会に表出してしまう。これは、まずい。絶対や完全はあり得ないとしても、可能な限り力を尽くして貰えると助かる。頼む」
     向かう先の状況を考えると、それを口にすること自体が苦渋だ。
     峻は、しばらくの間口を引き結んでいたが、やがて喉の奥から声を押し出した。
    「万が一、富士の迷宮で数を減らすことが出来ていなかったならば、生殖型ゾンビが社会を蹂躙しただろうことは想像に難くない。先の勝利がこの国を救ったと言っても過言ではないのかもしれないな」
     呟きは、今、ここにある者の実感を語って余りあるものであっただろう。
     だから。
     目を閉ざすことはできない。


    参加者
    陽瀬・すずめ(雀躍・d01665)
    夜鷹・治胡(カオティックフレア・d02486)
    森田・依子(深緋・d02777)
    ニコ・ベルクシュタイン(不撓の譜・d03078)
    百舟・煉火(イミテーションパレット・d08468)
    鈴木・昭子(金平糖花・d17176)
    菊水・靜(ディエスイレ・d19339)
    興守・理利(赫き陽炎・d23317)

    ■リプレイ

    ●水も平和もただじゃない
     街は何も知らない。
     人は昨日も明日も変らないはずの道を行き、陽が西へ西へと傾く。
     最寄駅から10分。高等学校の校門前に立つ八人を怪しむ者はない。
     夜鷹・治胡(カオティックフレア・d02486)、鈴木・昭子(金平糖花・d17176)、菊水・靜(ディエスイレ・d19339)の三名が同校の制服を、興守・理利(赫き陽炎・d23317)がスポーツウェアを身に付けていた。他も皆、高校生として自然な私服姿である。
     理利と治胡がアラームを設定し、陽瀬・すずめ(雀躍・d01665)が見取り図を開く。覗き込んだ昭子が指差すのは、本校舎とは別棟の特別棟。一般教室以外の特殊教室はそちらに集められており、明らかに人の気配が薄い。
    「3階の一番奥だな」
     百舟・煉火(イミテーションパレット・d08468)が、並んだ『美術室』と『美術準備室』の文字に指で触れ、その手を前へと振って駆け出す。
     森田・依子(深緋・d02777)が右の、ニコ・ベルクシュタイン(不撓の譜・d03078)が左の生垣の陰に消え、現れた時には犬と猫の姿で校庭へと身を躍らせた。一分一秒すら無駄にはできない。
     特別棟へ。矢のように駆ける彼らとすれ違い、幾人かの生徒が目を丸くして振り返った。足許をすり抜ける獣たちに驚き、一斉に散らばる。
    「えっ、猫?」
    「ばぁか、犬だっただろ」
     口々に言い交わす声が背に遠ざかった。のんきなものだが、これこそが日常というものだろう。図太く見えて壊れやすい。
     多くが渡り廊下の先を目指す中、すずめと靜は建物の外側を一番奥まで回る。外観を一瞥して頷き合った。
    「これなら」
    「行けるな」
     踊り場を挟んだ外階段はコンクリートの手すりで囲まれている。しかし、それには踏み出さない。外壁を目がけて地を蹴って、手すりを目隠しに垂直に進む。壁歩きを使って3階通用口へと向かうのだ。
     途中、携帯電話をスピーカーモードにして繋ぐと、昭子の声が聞こえた。
    『予測が当たりました。3階に業を感じます。3階の……』
     ちりん、という鈴の音が聞こえた。彼女の存在証明だ。
     DSKノーズに集中しながら走っているのだろう。階段を駆け上るいくつもの靴音と速い息遣いが聞こえる。
    『奥……より少し内側、かもしれません』
     昭子が告げた。すずめが手すりをつかんで3階踊り場に着地する。続いた靜がスチールドアのノブをつかんだ。
    「内側は美術室だよね?」
    「そのはずだ。開ける。気をつけろ」
     ガンッ。
     扉を盾にして大きく引き開けると、鼻につく臭気が流れ出してきた。
     腐臭。そして揮発性の油の匂い。間違いなくここだが、彼らに向けた攻撃はない。
     腕で鼻と口とを覆って3階廊下に踏み込む。真っ直ぐ正面に中央階段を上がって来た仲間の姿が見えた。猫が身を震わせてニコとなり、犬は依子の姿を取り戻す。
     煉火が廊下を駆けながら、美術室という表示を親指で指し示した。扉は大きく開かれっ放しになっており、廊下には彼ら以外の人影は見られない。
     頷いた壁歩き組が、間近な美術準備室の扉を開ける。見取り図を信じるならば、この部屋は中扉で美術室と繋がっているはずだ。ここまで、皆、無言。
     その時。
    「いやあぁっ、来ないで!!」
     叫び声が、灼滅者たちの鼓膜を打った。

    ●惨劇はいつだって隣に
     ゾンビたちは既に美術室の内へとなだれ込んでいた。石膏像の台座をつかんだ少女は窓際まで追い詰められ、ただ悲鳴を上げるしかない。朽ちた手が一斉に襲い掛かる。
    「……っぃ!」
     もう、どうしようもない。少女が石膏のセントジョセフを振り上げた、その時。
    「待ちな」
     赤い影が惨劇の真っ只中へと飛び込んだ。治胡だった。その腕に現れるのは、薄く輝く護りの盾。
    「とんでもねー置き土産、残しやがって」
     ゾンビは強烈なシールドバッシュを食らってよろめき、目玉の溶けかけた眼窩で振り返る。醜く曲げられた指先を伸ばし、治胡の頬を細く長く引っ掻いた。
     それを知り、別の一体が歯を剥いて飛びかかってくる。間髪入れずにその横面を張り飛ばしたのは、依子の£1。
    「こちらです」
     ただの手擦れた銀貨一枚であるはずの盾だった。だが、それこそが腐肉の狙いを狂わせる。憎悪に満ちた二つの洞が彼女を睨むが、眼差しは逸らさない。
    (「迷宮で消えていった人影を忘れることなど……」)
     できるはずもない。振り下ろされたイーゼルを腕で払いのけ、ゾンビたちを誘うように仲間と共に後ろへと退る。
     ごろん、という鈍い音が足許で響いた。石膏像が床に転がっている。
    「せんぱ、い?」
     少女は自分を護ってくれた二人を見て虚ろに呟き、屍となった上級生を片腕に抱えたままその場にへたり込む。鍛冶場の馬鹿力など、そう長く続くはずもない。恐怖に塗りつぶされていた無表情が、安堵と不安に歪む。
     少女とゾンビの間に盾が立ちはだかったのを見て、煉火が縛霊手・シュヴァリエR.C.の結界を解放する。機能一点張りの無骨さで腐肉を一網打尽にしようという正義の鉄槌。戒めとなって敵の動きを鈍らせ、目標を狂わせる。挑発を効かせた二人が戸口へと走れば、理性の薄いゾンビはそちらを向くしかない。
     空隙が生まれた。ぎくしゃくと追いすがるゾンビの脇をすり抜けて、ニコが美術室の中央を横切る。屈み込んだ彼を振り仰いだ時、少女の瞳はひどく怯えて小刻みに揺れていた。
     富士の下層部で目の当たりとした光景が蘇る。
    (「こんな世界の事は知らない方が良い」)
     生真面目な挙動を崩すこともなく口を開く。
    「まずは、落ち着くべきだ。その人は手当が必要なのではないか」
    「あ……先輩」
     年長らしいニコの語り口は、少女の心に確たる碇を降ろしたらしい。はっと我に返り、腕の中の上級生と彼とを見比べる。
    「心配ない。見せてご覧」
     とっくに事切れていることを、ニコは知っていたが。
    (「全部、全部引き受けて行ければどんなに良いか」)
     事実は心に伏せて、腕を差し伸べる。
    「お、ねがい……します、っ」
     腕の中のあまりに重たい責任を彼へと委ねた瞬間、ついに少女の瞳が涙をこぼした。きつく眉根を寄せて俯き、せめて泣き顔を隠そうとする。
     その時、中扉が静かに開かれた。美術室のカーテンが大きく風を孕み、ゆっくりと元の位置へと戻る。
    「……?」
     少女は言葉を失い、音もなく斜めに傾いでいく。意識は柔らかな眠りの中に引き込まれ、濡れた睫毛はそよがない。魂鎮めの風だ。
     靜が倒れ込む少女を受け止める。
    「救える者為らば救う。例え指の間からの零れ掛けで有っても、掴む」
     物静かにこぼされた声に頷き、すずめが傍らに屈み込んだ。
    「ゾンビに吸血に。災難だね、君」
     欣喜雀躍という言葉がある。まさにいつも明るく元気なすずめが小さく呟いて、眠る少女の髪をそっと梳きのけた。
    「咬むのは嫌いなんだけど……ごめんね。大丈夫、すぐ終わらせるから」
     その声は、眠りの中にまでは届かないだろう。しかし、すずめの唇が薄っすらと紅に染まっても、少女は苦痛の声を上げなかった。
     吸血捕食の効果で、現実の苦悩と夢想の安らぎの境界線が滲む。柔らかく曖昧に。頬に飛んだ上級生の血痕をニコがそっと拭った。
     処置が終わるのを見届けて、靜が少女を物陰へと運ぶ。百物語が余人の接近を阻止する中、理利が時計を睨んで屍の少女を抱え上げた。
    「幸運な状況とは言いますが……」
     準備室へと向かいながら、惨状へと視線を投げる。現場単位で考えるならば、これは最悪の事態。
     生と死を隔てるものは、今、ただの扉一枚だった。

    ●浄化の痛みを飲み込んで
     廊下へと誘い出されたゾンビたちは、一般人の攻撃でも傷付く程度の強さしか持っていなかった。イーゼルを振り被り、パレットナイフを手に飛び掛ってくるが、動きがぎこちない。サウンドシャッターで戦いの物音を遮断し、灼滅者数名で囲めば、数に手を焼くことはあっても負けるとは思えない、が。
     依子のサーベルが朽ちた胸を貫き、治胡の炎が這い寄る腐肉を焼き落とした時、煉火は固く息を噛んだ。昭子と共に友の依子の様子を気にかける。
     目の前の敵を打ち倒すと、そこに残されるものは自分たちとそう年の変らない高校生の制服の切れ端なのだ。
    「他の高校の制服は、迷宮下層から逃げ延びたゾンビかな」
     煉火は敵を殴り倒す手応えに目を伏せ、千切れ飛んだ校章を見下ろす。
    「理不尽だったろうな……今、楽にしてやるよ」
     煉火の声に、治胡が頬の傷を拭って答える。
    「救えぬこと嘆くだけじゃァ、大切なモンだって取り零しちまうだろう」
     だから、たとえ心が痛んでも手は止めない。
    「お嬢サンは何が何でも守り切る」
     力強い言葉に頷いて、昭子が白い花咲くロッドを振り抜く。鈴咲が死に見捨てられた者を払うと、リン、と鳴るのは鈴の音。
    「理不尽も不条理も、よくあること――それを打ち倒すためにわたしたちがいます、けれど」
     看過などしてはいないのだ。万全だなどと奢るつもりはないけれども。
    「これ以上取り零すことがないように、つとめを、はたしましょう」
     足許に積み重なったゾンビの残骸へと治胡と依子が屈み込む。傷付いた身が紅蓮の炎を生み出し、それが残骸へと燃え移ると赤々と周囲を照らし出した。
     灼熱が悲劇の痕跡を焼き尽くす中、ニコと煉火が警備室を目指して駆け出す。監視カメラへの対策を行わなくてはならない。
     残った者たちと共に灰をかき集めながら、依子は煤に汚れた指先を見つめた。
    「ごめんなさい。遺体をおうちに帰せなくて」
     微かな呟きを、唇の内へと噛み締める。
     悲痛とは、拭う者たちの内側へも降り積もるものなのかもしれない。
     誰にも知られず、音もなく。
     昭子はそんな背をそっと撫でてから、消臭剤と清掃用具を手にして後片付けに走り回る。
     少しずつ現場が修復されていく中、美術室の奥でカタッという音が立った。
    「……?」
     振り返ったのは少女たちを安全な場へと運んでいた靜と理利。
    「あと一体」
    「残っていましたか」
     怒りの混乱から免れたゾンビが一体、中扉に向かっていた。だが、二人とも両腕が塞がっている。
    「無為に眺めてなど居られん。貴様らに渡せるものでもない……!」
     靜がとっさに片脚を持ち上げ、ゾンビの膝を後ろから蹴り払った。転がり込むのを理利が待ち構え、間髪入れずに膝頭で蹴倒す。
     ザンッと逆巻くカミの風が、二人分の勢いで朽ちた肉体を屠った。
    「脆いですね」
     理利は膝に残った感触の呆気なさに続く言葉を失う。身の内で疼いた殺人衝動が晴れていく。その実感が、罪悪感と高揚というまるで別の方向に心を引きずった。
    「おれは最低だ……ごめんなさい」
     証拠隠滅から戻ったニコが苦渋に気付き、さっと片手を上げる。後片付けは請け負った。
    「キリが無いとはわかっているが」
     知らぬ存ぜぬでいられるならば、今、ここにはいないのだ。

    ●真実は無言の中に
     異臭が拭い去られると、部屋の空気は冴えて冷たい。ただ進み続ける時計の文字を見つめて、理利が薄く唇を動かす。
    「10分経過。異常ありません」
     少女の亡骸は微動だにしない。
     ここから5分。万が一に備えて片付けの手を止める仲間たちと共に息を詰める。やがて。
    「残り5秒、4、3、2、1……」
     ゼロ。アラーム音が、単調に時を告げる。
     閉ざされた睫毛は動かない。
    「亡くなっています」
     その瞬間、宙に浮いた存在だった少女は、正しく『人間の遺体』となった。
     理利は、その亡骸を抱きかかえて無言で戸口へと向かう。走馬灯使いの力が発揮された時、少女の遺体は静かに瞼を持ち上げた。
    「あ……ら?」
    「どこか、具合でも悪いのですか?」
     あたかも貧血を起こしたところを助け起こしたというさまだ。
    「え、いいえ、私……」
     少女の言動に異常は見られない。しきりに首を傾げながら外階段へと去る。声が届かなくなった頃、理利はそっと口にした。
    「……よい最期を」
     美術室に戻ると、靜の腕の中では後輩の少女が目を覚ましていた。
    「ん……っ、え? ええっ、なに?」
     記憶は曖昧でも、恐怖からくる緊張だけが体に残っているのだろう。大きく目を見開いて、跳ね起きた。何が怖いのかもわからないのに、身を竦めている。すずめが脇に屈み込だ。
    「ん? 私たち? 演劇部だよ」
    「演劇部」
    「新作作るのに張り切りすぎちゃってさ。驚かせちゃったよね」
    「驚くに決ま、っ」
    「……ごめんね?」
     同じ年頃の少女に謝られると、ほっとしたのもあってか少女はそれ以上、言い募れない。
    「お騒がせしてゴメンな」
     と治胡に謝られ、
    「リアルな演技だったから混乱させてしまったかな」
     と煉火に言われると、こんがらがっていた眉根を平らに戻す。ラブフェロモンを用いる煉火の手が、背後で揮発油に濡れた携帯電話を包み込んで隠していることを、そうしなければならなかった心中を、知ることもなく。
    「驚きました。すご過ぎです」
     靜に頭を下げて立ち上がり、少女は憧れの眼差しを上げて言った。
    「だから、上演の時は絶対に呼んで下さいね。絶対ですよ?」
     笑顔で念を押すと、周囲を見回し「先輩?」と呟いて首を傾げる。
    「君の先輩? 私達は見てないなぁ。今、来たところだし」
    「今? やだ、約束忘れているのかしら」
     すずめの声に眉を持ち上げた少女は、もう一度、皆に頭を下げてその場を駆け出す。戸口で振り返り、名残惜しげに手を振った。
    「君は無事でよかったよ。本当に」
     その一言は聞こえていたかどうか。身軽な足音は、廊下の向こうへと遠ざかる。彼らに護られた平穏は鉄壁だった。
     理利が足許を見下ろした。
    (「異常を認めない、受け入れない、記憶しないというバベルの鎖の効果。よくよく考えると後ろ向きなシステムですよね」)
     軽く膝を払う。残っている、あの感触。
    「それ程に人は脆いという事なのでしょうか」
     昭子が手を伸ばすのは、薄っすらと煤に汚れた依子の指先。
    「……手をつなぎませんか」
     帰りましょう。
     心に抱いた真実と共に、あるべき場へと。
     誰が知らなくとも、仲間たちとはこの現実を分かち合っているのだから。
     

    作者:来野 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2016年3月17日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 2/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 3
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