●魂を侵す忘却
月の没した空に星ばかりが輝いていた。
人気のない硝子の温室の中、枯れ、あるいは葉を広げる植物。ガーデンテーブルの上の血染めのトランプと、血に汚れた白いひなげしの花束を照らすランプの明かりが揺れる。
「てめぇにつけられた傷も癒えたな」
返り血のしみついたワイシャツの前をだらしなく開き、病的なほど白い肌を晒している青年は、退廃的ともいうべき艶めいた仕草で胸の返り血をなぞった。
声を投げかけられたのは、温室の隅に控える乱れた髪の女。
丈の短い軍服はずたずたに切り裂かれ、傷を刻みつけられた肌が露わに見える。額から伸びる歪な黒曜石の角。身を屈め恭順の意を示す女に、彼が笑みを深くした。
「ちっとは可愛げが出たな。――イイぜ、悪くない」
囁きかけ、羅刹の耳たぶを彼の牙が貫く。滴る血を味わいながら、彼はふと、ガラスの壁にかかった鏡へ目をやった。
艶のある黒髪がかかる耳にはピアスの痕。濁った緋色の瞳の自身が映る。
『―― 』
魂の深淵でわずかに頭をもたげたものがいる。
唇の端を吊りあげ、彼は鏡の中の己を覗きこんだ。
「まだいたのか? え?」
いつからこうしているのか。
自分が一体誰なのか。
それすら分からないけれど。
『……俺を、忘れない、で?』
その想いだけが、切れかける意識を時折つなぐ。
誰へ求めているのかもわからずに。
「生憎ここにゃ出来損ないはいないぜ。奴らもいずれ死んでいくさ。わかるか? てめぇを知ってる奴は誰もいなくなって、忘れ去られて消えていくんだ!!」
『彼』が何を恐れているか知っている。
もう抗う力がいくらも残ってないことも。
再び深淵に沈んだ『彼』を守ろうと抗う、もう一つの小さな抗いを捩じ伏せると、彼は堪えかねたように嗤った。
「……くっ、ははははは!!」
嘲笑う彼の背で、美しい乳白色の大きな双翼が開く。
噎せ返るような甘い花の香りの充満する温室の中、哄笑が響いていた。
●濁る緋まとう白の暴虐
田子の浦の戦いから一月が過ぎかけていたこの日、救出招集がかかった。
埜楼・玄乃(中学生エクスブレイン・dn0167)が視たのは、閉鎖されて久しい植物園。
南方植物の展示用温室にいる、闇堕ちした勿忘・みをき(誓言の杭・d00125)だった。
「そんなとこで何してるんだ?」
首を捻った宮之内・ラズヴァン(大学生ストリートファイター・dn0164)の問いに、玄乃はわずかに顔をしかめて告げた。
「勿忘先輩の魂の消滅まで、暇を潰しているらしい」
怒りのどよめきがあがったのも、むべなるかな。
田子の浦で闇堕ちした彼にはうずめ様の配下の追手がかかった。
追手の羅刹を捩じ伏せて従え、みをきの記憶を奪い魂を脅かしている彼のもっとも危険な能力こそ、極めて強力な催眠だ。
「彼が持つトランプは護符揃えに似た力があるが、中でも催眠には気をつけて貰いたい」
ダンピールと同じ能力は当然として、ガンナイフも隠し持っていると玄乃は警告した。みをきが『にいさん』と呼んでいたビハインドはヴァンパイアに吸収されている。
そして彼は、とにかくみをきの魂がまだあることが不快でならないらしい。
「彼に挑めば、勿忘先輩と親しかったものを苛烈に攻撃して絆を断ち、先輩を追い詰め消し去ろうとするだろう。先輩の自我は今、ぎりぎりのところにいる」
大切なのはみをきへの呼びかけになる。催眠にさらされ自我も記憶も曖昧になっている彼の、魂を呼び覚ます声や言葉が必要だ。みをきが己を取り戻すにつれ、ヴァンパイアの力は削がれるだろう。
戦闘になると羅刹もヴァンパイアの盾として参戦する。とはいえ、散々痛めつけられ傷も癒していない。長い時間は戦闘に耐えられないだろう。彼女は神薙使いと同じサイキックを使う。
ヴァンパイアは好戦的で感情的に見えるが、状況判断能力に優れ抜け目がない。不利なら撤退も迷わないだろう。どこかはわからないが、温室内に退路を確保しているようだ。
逃げられれば今以上に用心深く闇に潜み――みをきを救う機会は失われてしまう。
「諸兄らも周知のとおりヴァンパイアは強力な敵だ。生命を奪われかねないならば灼滅も、考えねばならない」
一息にそこまで言って、玄乃が唇を噛んだ。
最近は送り出した灼滅者が欠けて戻ることが珍しくない。それに慣れられない。
「どうか諸兄らで先輩を取り戻して欲しい。全員揃っての帰還を、待っている」
願いを託し、玄乃は深々と頭を下げた。
参加者 | |
---|---|
風宮・壱(ブザービーター・d00909) |
葛木・一(適応概念・d01791) |
花凪・颯音(花葬ラメント・d02106) |
城・漣香(焔心リプルス・d03598) |
祟部・彦麻呂(誰が為に鐘は鳴る・d14003) |
夜伽・夜音(トギカセ・d22134) |
ルチル・レッドゴールド(紅金針水晶・d23483) |
昇・冷都(主を探す放浪者・d26481) |
●一
月のない昏い夜。ランプの光が灯る温室の中で。
羅刹を従えたヴァンパイアの前に仁王立ちしたのは、霊犬・鉄を連れ不敵な笑みを浮かべる葛木・一(適応概念・d01791)だった。
「よ、迷子のお迎えだぜ」
「小学生に引き取りに来られるとはなァ。良い子はとっくに寝てる時間だぜ?」
ヴァンパイアの圧倒的な気配を前に、城・漣香(焔心リプルス・d03598)は震えを押さえ込んだ。実力で敵わないなんてことはわかっている。でもここへ来たのは、絶対にこの手で連れ帰りたかったから。
呼応するようにルチル・レッドゴールド(紅金針水晶・d23483)がヴァンパイアの挙動に気を付けながら背後へ回りこむ。
「お迎えに参りました、みをき様」
カンテラを置いて昇・冷都(主を探す放浪者・d26481)が折り目正しく一礼し、その足元に草を薙ぎ払った影が滑るように戻った。テーブルの上に置かれた花束を見やって、花凪・颯音(花葬ラメント・d02106)が溜息をつく。
「白い雛罌粟……花言葉は忘却、眠り。余りに合い過ぎているね……」
冷都も同じことを考えていた。戦いに身を投じるのは初めて、しかも入学直後に入ったクラブの部長であるみをきを引き戻す為の戦い。緊張と不安で胸が締め付けられる。
「そう思うだろ?」
ヴァンパイアが嗤う。その魂の昏さに呑みこまれ、闇の中にまぎれこんで居なくなる――それは嫌だから、夜伽・夜音(トギカセ・d22134)はここへ来ていた。みをきとは二度、一緒に依頼をこなしたことがある。
その二度ともみをきと一緒で、夜音の印象に残っていた彼が、颯音の携えた『Blanca』の穂先を握り躊躇なく引いた。滴る血が炎を噴き上げる。
「どこにも隠れさせないからね」
意志あるように枯れ草を選んで焼く炎の主は、風宮・壱(ブザービーター・d00909)。傍らのウイングキャット・きなこはいつも通り億劫そうだが、尻尾の毛は逆立っていた。
「居なくなった奴なんざ忘れちまえばいいのによ。まぁ、血は貰えそうか?」
羅刹の女を伴い踏み出すヴァンパイアへ、壱が手招きをする。
「血が飲みたきゃやるよ、炎が飲めるならな!」
一方、祟部・彦麻呂(誰が為に鐘は鳴る・d14003)は宮之内・ラズヴァン(大学生ストリートファイター・dn0164)を連れ、有志サポートたちと温室内から外へ繋がる脱出口を探していた。
「これで見つからないかなあ」
【隠された森の小路】は役には立つが、使い手の行く先だけという性質上、一度に調べられる面積が少ない。だが温室は既に包囲済みだ。
真榮城・結弦が園内見取り図片手に指示を飛ばす中、霧野・想太やルウ・イエリヴァルが、【Jack of spades】や【純潔のフィラルジア】の仲間たちが駆けずり回る。
鈴木・昭子と共に蔓草を掻き分けながら、片倉・純也は胸の裡で囁いた。
(「描けよ風宮、花凪。勿忘知人の先達各位。望みを脳裏に描く者にこそ、主はその眼差しを向けられる」)
●二
助ける為の犠牲をみをきには見せたくないと、皆が思っていた。羅刹が集中攻撃を受けるのは予想の内でも、催眠の解除を試みると思わなかったヴァンパイアが笑いだす。
「おいおい、そいつを助けるつもりなのか? くっ、ははははは!!」
笑い転げながら、手は血まみれのトランプを繰り出した。放たれた魔力は前衛たちの足を縛め、動きを鈍らせる。
「みをきくん、僕の事がわかるかなぁ? 夜伽・夜音だよぉ」
夜音が羅刹の腕をかわしざま、足を折らんばかりに蹴り下ろした。
「ご依頼さんでご一緒した事があるの。壱くんとご一緒してたみをきくんの事、僕はしっかり覚えてる。頼りになる姿、壱くんのお隣が嬉しそうな姿……もっと観たいよ、だから。おかえりなさい、しよう?」
「素直なのはいいが直球すぎだぜ?」
いなすヴァンパイアを視界の端に収めながら、颯音は唇を噛んだ。
(「……少しはね、分かる気がする」)
忘れられる事は恐ろしい。人間は結局自分の存在価値を、自分だけじゃ決められない生き物だから。
「特に最近忙しくてクラブに顔出しも全然出来てなくて。申し訳ない限りなんですけども」
サイキックそのものを否定する光を撃ち込みながら、ルチルが声を張り上げた。
「忘れるわけないじゃないですか。久々に顔出しても、覚えててくれて……企画に口出しても、ちゃんと検討してくれて。忘れませんよ、そんな得難い人は」
――短いだろう僕の人生の中で、褪せる事なく咲き続けるのでしょうから。続きを呑みこんで、羅刹の振り回す腕から跳び退る。
「ハロウィンには皆様とクッキーを作りましたね。双六をしたり、あだ名の付けあいもありましたっけ……みをき様はとても楽しそうでした」
語りかけながらも、冷都は羅刹にかけたキュアの手ごたえのなさに眉を寄せた。
催眠の解除は見込めそうにない。意を汲んだ颯音が槍を繰り出し、一の蹴りが鳩尾に叩きこまれる。傷にまみれた羅刹の背後にルチルが回りこんだ。
「もう灯りは消しますよ」
魔道書から放たれた微弱な炎に撃たれて羅刹が崩れ落ちる。前衛たちの足を鈍らせるトランプの効果を、鉄が癒しの力を持つ眼光で剥ぎ取った。
漣香が倒れた羅刹を引きずっていくと、温室の出入口にルウが顔を出す。
「連れてくね」
羅刹を預けると同時、彦麻呂とラズヴァンが温室に入ってくる。
「ヴァンパイアくんははじめましてかな。お名前とか聞いていい?」
敵意らしい敵意を感じない彼女を、ヴァンパイアは面白そうに見返した。
「まぁ仲良くなったらな?」
「そっか。キミに恨みは無いんだけど、かわゆい後輩を放っておく訳にもいかなくてさ。適当に暴れたら帰ってもらっていい?」
ダークネスであろうと会話を試みる彦麻呂の対応は変わらない。
みをきに貰ったお守りの色硝子玉を握りしめて、漣香は勇気を奮い起した。怖いのは敵じゃなく、傷じゃなく、彼を失う可能性。
「なぁ、オレは認めたくないけど、オレにこいつが居るみたく……お前にも居るだろ、守ってくれる人が」
付き従う『煉』をあくまで見ずに語りかける。颯音も言葉を重ねた。
「君だけじゃない、『お兄さん』だって同じ場所で戦っている! 君は、どんな時だって1人なんかじゃないんだよ……!」
「そいつももう居ないんだよ」
にべもなくヴァンパイアが突き放す。
●三
意識をぐらつかせる催眠に抗い、壱が颯音の傷を癒しながら声をあげた。
「みをきはなあ、勝手にプリン食ったの1年以上根に持ってるし、1on1はまだ俺に勝った事なくて、きなこが俺より懐い……いやこれはどうでもいいんだけど!」
「初めてキミと会った執事喫茶も、バレンタインにご馳走になったパンケーキの味も覚えてる。パッと見はカッコ良く見えて、実は可愛らしい後輩だって知ってるよ」
みをきへ話し掛けながら彦麻呂が喚びだしたのは、七不思議『小鞠童花』。紫陽花の花の精のような幼子が現れると、時ならぬ雨が降り水鏡を作る。水面に映ったのはヴァンパイアではなくみをきだ。
襲う衝撃に顔をしかめて、ヴァンパイアが無造作にひなげしの花束を掴んだ。仕込まれたガンナイフが前衛たちの足を狙って弾丸を吐き出す。
「学祭、二年連続楽しかったね。クリスマスの雪だるまも大作だったよな。カードもさ、勝ち逃げなんて許さねえから。今度はオレが勝つよ!」
漣香の声に誘われて、硝子の割れたところから生神・カナキが顔を出した。
「おーおー随分ワイルド系になっちってー。イケメンっすけど、お呼びはお前じゃねぇっすわ」
「ジャスペはとても楽しい所です。みをきさんがいたからこそだと思います」
蒼珈・瑠璃が携えた花は勿忘草――花言葉は『私を忘れないで、誠の愛、真実の友情』。
「貴方にぴったりの花ですよ」
「みをきクンが居ないとじゃすぺじゃないんだ。オレ達の部活を忘れようなんてさせねぇっす!」
「さよならには早すぎますよ、顔出す度に温かく迎えてくれるあの場所は。勿論皆の人柄あっての場所なのだろうけど……その皆を集めた、貴方あってのじゃすぺなんですからね」
カナキの言葉に頷いたルチルも、魔道書から炎を放って麻痺の重なった足を攻める。
仲間の声を聞きながら、漣香は呟いた。
「オレの友達はオレが必ず助ける。誰一人欠けずに、皆一緒に帰るんだ」
危機に陥っているのが己なら、死を前にしても認めなかったかもしれない。
でも手からすり抜けそうなのは、失いたくない大切な友達だから。
目を背け続けたことを、漣香は遂に認めた。
「だから力を貸してくれよ……姉ちゃん」
いつものように躊躇なく飛び出した煉が衝撃波を見舞い、合わせた漣香が炎に包まれた交通標識を叩きつける。
「辛いのも寂しいのだって皆にぶつけちまえ。抱えたまんまじゃしんどいだろ?」
笑う一が狼のものに腕を変じて鋭い鉤爪で引き裂くと、ヴァンパイアはこみあげる笑いを堪えきれなくなった。
「これだよ……生きるか死ぬか、これほど生産性のある戦いもないだろ? イイぜ、イイゼイイゼ、来いよ出来損ない!!」
「まぁ結構いい性格してるみたいだし、私としては良心が傷まなくて助かるかな」
槍を構えた彦麻呂が思わず嘆息した。
●四
血まみれのひなげしの花束は、みをきには不似合いに見える。
「……違うよね。貴方の花は、勿忘草。その想いは、『私を忘れないで』。絶対に、忘れたりしない。絶対に、連れ帰るからね」
決意の固い夜音が語るは『伽枷奇譚』、「普通」を夢観た少女が影の枷と遊ぶ噺。
「みをきくん、聞こえてる? 誰もみをきくんの事を忘れたりしてないよ」
彦麻呂の操る意志ある帯がヴァンパイアを引き裂き、思考を蝕む催眠を気合いで退けた壱が、傷を癒し加護をかけるシールドを広げて叫んだ。
「忘れるほうが難しいよ!」
部活でバカやって、あちこち遊びに行って、戦いの間も背に感じていた。
「ずっと一緒にいたんだ。いつかどっちもキレッキレのシルバー川柳詠む爺さんになったら、思い出話に花を咲かせるんだ。楽しそうだろ?」
「あー愉しそうだな。けど爺さんになる前に終わらせてやるよ!」
せせら笑うヴァンパイアが放った弾丸が壱を追う。的を外さぬその銃撃に、一が飛び込むとダメージを引き受けた。壱が思わず声をあげる。
「葛木!」
「フィラルジアの連中も心配してんぞ。いつもの馬鹿騒ぎな部室に連れて帰るって約束したんだ。膝抱えて縮こまってても良いぜ? けどお前を呼ぶ声は遮れねぇ」
呼応するように、温室の外から声があがった。
一言うところの『オレ以外残念なイケメンの集い』から。
「勿忘君は縁があって再会できた可愛い後輩だよ。この絆は消させはしないからね」
穏やかに結弦が呟けば、テスト一夜漬け常習犯、難しいことが苦手な早鞍・清純も。
「帰ってくるの、いつもの控えめに言ってもめっちゃ古くて汚い部室でまってるからな! 簡単に忘れてもらえるとか思うなよ!?」
「ハロウィンに皆と仮装したよね。アリスのみをきちゃんとミニスカナースの俺に外野の野郎共の視線が集まってた気がするけど、俺はすっごい楽しかったんだよ?」
柔らかな物腰の瑞月・浩志からはうって変わって、雪下・藍凛は真顔だった。
「……クラブが一緒で顔を合わせた位だけど……助けたい、それだけ」
一息ついて、続ける。
「……さっさと、戻って。クラブの皆に殴られろ」
深い傷を負おうとも、一は不敵な笑みを絶やさなかった。
波のように押し寄せる声が、魂の深淵へ響いていると知っていたから。
「これはお前のために伸ばされた手だ。『勿忘』を迎えに来たんだよ」
ぞくり、と。
経験したことのない感覚が、ヴァンパイアの背筋を駆け上がった。
こいつらは何だ? こんな人間一人、取り戻すどんな価値がある?
ガンナイフを蹴り飛ばした勢いで距離をとり、一は斬魔刀を閃かせる鉄と呼吸を合わせてヴァンパイアの足に踵落としを喰らわせた。苦鳴をもらすヴァンパイアに紅く輝く標識を構えたルチルが迫る。
「――返せよ!」
横殴りの殴打。彦麻呂のダイダロスベルトに引き裂かれ、夜音の炎に包まれた蹴撃に鳩尾を蹴り抜かれてヴァンパイアがよろける。
温室の外から純也の声が響いたのは、その時だった。
「勿忘のビハインドに告ぐ。守護を担う存在が攻勢に出る機会のひとつは今に違いない」
単純な依頼で十分か、と呟いて、続く。
「抵抗すべきは今である」
「てめぇ……!?」
荒げた声が終わるより早く、ヴァンパイアの背が爆ぜた。羽化する蝶のように、ヴァンパイアの背から青年が――否、蒼い花の陰に顔を隠したビハインドが抜け出る。
それは『勿忘・みをき』が目を覚ました瞬間だった。
●五
明らかに流れは傾いた。紅蓮の光を宿したヴァンパイアの爪の一撃を槍で受け止め、回転しざまに彦麻呂が炎を灯した蹴撃を叩きこむ。
「忘れそうなのはみをきくんの方でしょ? ちゃんと思い出して? キミがキミを忘れてどうするのさ」
「どうかみをき君、君も俺達を忘れないで。今引っ張り上げるから……! 帰りたい場所も人も、直ぐ傍にあるんでしょう!」
跳び退くヴァンパイアに狙いを定め、颯音の放つ風の刃が唸りをあげる。
誰も倒れないように。皆で帰れるように、日野原・スミ花が呼びかけた。
「みをき先輩、聞こえているか。先輩が退路をひらいてくれたから、壱先輩も皆も無事だったんだ。……忘れる訳がないだろう」
直接話したことはないけれど、あなたを大切に思う人を知っているから。鈴木・昭子が語を継ぐ。
「はじめまして、って、言わせてください。忘れたくないから、出会わせて。わたしは、あなたを憶えていたいのです」
ふわっと綺麗な笑顔で笑うキミとまた会いたいと、霧野・想太は思う。
「みをきさんには帰る場所があるし、待ってくれてる人がいるんだ。だからこんな所でくじけないで、皆と一緒に帰ろう」
壱とみをきと花火を見た大切な思い出を胸に、鳴神・千代も声を振り絞った。
「戻ってこないと私も皆も、そして壱くんが悲しんじゃう。だから、引っ張ってでも無理矢理でも、連れて帰るんだから!!」
「てめぇら……!」
苛立ちを露わにしたヴァンパイアが不意に踵を返した。警戒を促すような鋭い猫の鳴き声が響く。退路から逃げるつもりだろう。
温室の奥、繁みの奥へ駆けこもうとしたヴァンパイアの足が止まった。
「なんだ?!」
ひんやりと冷気が流れてくる。通路の奥は岩が積み上げられて封鎖され、氷漬けにされていた。彦麻呂とサポートの者たちの仕事だ。
「逃がさない、んだよぉ」
瞬足の止まったヴァンパイアの背中に、破邪の光を宿した夜音の斬撃が刻まれる。
「よく頑張ったね……早く皆と帰ろ。部長の席が空っぽじゃ、じゃすぺが在る意味がないんだ」
「貴方が居なければ始まりません。優しく頼もしき部長の事をどうして忘れることが出来ましょうか。どうかお戻り下さいませ」
漣香のダイダロスベルトが腹に突き立ち、冷都の足元を滑り出た影がヴァンパイアに絡みついた。動きが止まった瞬間、煉の放つ衝撃波が身を蝕む毒を与える。
刀を抜いたビハインドの斬撃を避けきれず、唸ったヴァンパイアを壱が捉えた。
「みをきは返してもらうよ!」
みをきの『あの日』を繰り返す気はない。ここに雪はないしひとりでもない。闇を照らす明かりも、寒さを和らげる温もりも、誰かの代わりじゃなくみをきのためにある。
『Brave Heat』が橙色のシールドを展開し炎に包まれた。拳を握り込み、渾身の力をこめて横っ面を殴りつける。勢いを増した炎がヴァンパイアの身を焼いた。
――ああ、綺麗だ。ルチルは思う。
ヴァンパイアを包む炎も、漣香や壱が流した血が放つ炎も。
空を裂く音は哭くようで。颯音愛用の真っ白な葬槍の穂先は、ヴァンパイアの胸を貫いて背へ抜けた。無残に裂けた乳白色の翼が広がる。
「……くっそ……」
血の糸をひいて槍が抜けると、ヴァンパイアががくりと膝をついた。
翼がごそりと崩れはじめ、傾いで倒れてゆく身体を颯音が受け止める。
●六
割れた硝子が、吹き込む風に揺れる炎の光をちらちらと反射した。
終ぞ正気に戻ることのなかった羅刹は灼滅せざるを得ず、手当てを受けたみをきはそれから目を覚ました。颯音に助け起こされ呆然としている彼に、一がにしし、と笑いかける。
「どーだ、思い出しただろ?」
「痛いとこないか? 平気?」
「……だいじょうぶ」
冷都の治療を受けながらの漣香に問われて、みをきが頷く。彼が震えていることに気がついて、壱は預かったマフラーを懐から引っ張りだし、汚れがないか確認した。
「……もうさあホント……」
相棒にそっとマフラーをかけて。長い溜息をついて言葉を探したのに、出てこなかった。
「帰ろ、みをき」
頭にどんと乗ったきなこに苦労しながら、言えたのはそれだけで。少し恥ずかしそうな早口に、彦麻呂と夜音が思わず微笑み、ルチルが安堵の笑みを浮かべた。
大事なマフラーを握りしめて、みをきがもう一度頷く。
戻りたいと、願っていたから。
「はい」
夜の植物園で救出成功の報が回り、歓声があがった。
時が全てを蝕み記憶を奪い、いつか忘却の彼方へ連れ去るのだとしても。
結ばれた絆や想いを手放さずに歩いていこう。
朽ちることなき想いはきっと、悔いることなき道を示してくれるから。
作者:六堂ぱるな |
重傷:なし 死亡:なし 闇堕ち:なし |
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種類:
公開:2016年3月20日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 7/感動した 3/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 9
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