わだつみの喚び声

    作者:佐伯都

     夕暮れの海岸を数人の人影が歩いている。遊泳禁止区域のためか何羽かの海鳥、そして遠くの沖をどこかの船が行く程度で、それ以外に動くものはない。
     ……どうかわたしにお応え下さい、サイレーン様。わたしは、あんな下等生物どもとは生きる世界が違うのですから。
     ……ああサイレーン様、サイレーン様、私の美貌をどうか、どうか。
     ……俺を利用し尽くして捨てた奴らに、どうかサイレーン様より速やかな死が下されますように。
     うつろな目、要領を得ない台詞、微妙にふらつく足取り。口々に呪わしげな声をあげながら、初老の二人の女と、一人の男が海へ入ってゆく。高い波が岩場へ打ちつけ白い飛沫を飛ばすのも構わず、一心不乱に何かを祈りはじめた。
     やがて斜陽の黄金に輝いていた海面がうすべにの光を広げる。それに呼応するように、波打ち際に立ち尽くしていた三つの人影がみるみる人ならぬものへの変貌を遂げていった。
    「ああ、これよ……これだわ、これこそ本当のわたしの姿!」
     まるで時計の針を逆回しにするように、活力にあふれ瑞々しい、若い頃の美貌を取り戻しながら。
     
    ●わだつみの喚び声
     関東からほど近い、とある海岸への道路地図。成宮・樹(大学生エクスブレイン・dn0159)がそれを教卓へと広げた。
    「サイキック・リベレイターを使用した影響で大淫魔サイレーンの力が活性化しているようだね」
     そのため、一般人が海に呼び集められて闇堕ちする事件が起こり始めている。集められた三人の人物には、二つの共通点があった。
     一つ目、若いころは美貌によってこの世の春を謳歌していたこと。
     二つ目、あらがえぬ老化とともに美貌は見る影もなくなり、結局没落していったこと。
    「それだけなら美容業界とか芸能界ではよくある話、で済むんだけどね。見た目を利用して相当悪どい事に手を染めたり、信用を裏切ってはやりたい放題とかで、落ちぶれたのも実のところ自業自得としか言えない」
     しかし闇堕ちによって以前の美貌を上回る容貌を手に入れ、あまつさえ過去の栄光を取り戻そうとしているのだから始末に負えない。
     皆揃いも揃ってもういい歳の大人だってのに、と何とも言えぬ顔で樹が眉根を寄せてしまうのも無理からぬ事だろう。
    「うまくやれば説得して救出できるかもだけど、正直ちょっとこれは……と思うようなのばかりだから、実際説得するかどうかは皆の判断に任せるよ」
     このたび岩場で淫魔に闇堕ちする一般人は、三名。
     ただし、防衛本能からか攻撃を仕掛ければ即座に闇堕ちしてしまう。もし説得しようと思うなら、早々に手出しするのは禁物だろう。
     海がピンク色に光る瞬間までに説得する事ができれば、彼等の闇堕ちを阻止できる。しかしながら元々悪事を働くことに良心の呵責を感じない人間であること、かつ『衰えた美貌を全盛期以上にしてくれる』というサイレーンの誘いに抵抗させるのは、相当難しいはずだ。説得の難易度は高い。
     闇堕ちしようとしているのはどれも初老の男女で、岩佐・光恵(いわさ・みつえ)、景山・透子(かげやま・とうこ)、谷敷・貴久(やしき・たかひさ)。
    「岩佐・光恵は美容整形クリニックを経営していて、整形を一切行っていない自分のような自然な仕上がり、を売り文句にしていたらしい」
     実際腕も良く滑り出しこそ順調だったようだが、彼女はそんな自分のクリニックに救いを求める患者を『醜いのは下等生物の証拠』とみなし金を搾り取る、相当歪んだ信条を旨としていたようだ。
     外見はもとより頭脳も優秀であった自分を高等生物と捉えており、ほどなくして悪評が広まりクリニックの経営も行き詰まったのは、当然の帰結だろう。
     『美容整形とは醜いものが受けるもの』である以上、加齢による衰えを彼女が自分の腕でなんとかしようとはしなかったのもある意味面白い話だ。
    「一時期は相当な財を築いたけど、クリニックを閉めたあとは何をやってもうまくいかず、中身もそんな残念さだから再婚に次ぐ再婚で驚異のバツ9」
     むしろその数字に至ってもなお改善の余地が見られないのが流石と言うべきか、何と言うか。今は近所のスーパーのレジ打ちでどうにか食いつないでいるらしい。
    「景山・透子は元モデルで、何十年か前に化粧品会社の夏期キャンペーンガールに起用されて、相当話題になったそうで。なんでもポスターが軒並み盗まれたとか何とか」
     当時としてはかなり露出度の高いポスターだった事でお察しだが、彼女は当初からさらなるステップアップは望めない、と評判だったらしい。
    「文字通り外見のみで、中身は空っぽだった、という話なんだけど」
     先細りする仕事量に焦り、彼女はとうとう自分の身体を使って仕事をもぎとる行動に出る。枕営業など可愛いもので、起用しなければ不倫の情報を流すぞと脅すことまでやりはじめた。
     そんなものだから最終的な仕事場が大人向けのビデオ業界、しかも色々と杜撰な会社としか仕事ができなかったため、自慢の美貌と肉体美は老化と伝染性の病気で今や見る影もない。
    「そして最後、谷敷・貴久は飲食店経営者……って言うか、バーを経営しつつホストみたいな事もしていたらしい」
     しかしながら、彼も外見こそ正統派美形だったものの、厳しい飲食業界界で生き残っていけるほど商才や経営手腕には恵まれておらず、それを補う努力もしてこなかった。
     彼が取った手段は、店の界隈を取り仕切っていた暴力団を利用しての同業者への陰湿な嫌がらせ。そうして他店を追い落とすことで数年生き残りはしたものの、決定的な過ちをおかしている。
    「それを苦にしていくつか閉めた店があるのはもちろんだけど、2人ばかし自殺に追い込んでいる」
     もちろん彼が断罪されていない以上明るみになっていないわけだが、それだけの事をしてきたうえ周囲を逆恨みするような貴久に人がついて来なくなるのもすぐに想像できる話だ。結局、外見の劣化とともに彼の店も経営が行き詰まり、今は運送業の真似事をしているらしい。
     彼等は本来、大淫魔が目覚めると共に闇堕ちし淫魔となったはずの存在だ。
     それがサイキック・リベレイターの影響で個別に闇堕ちするため、闇堕ちそのものを阻止、あるいは淫魔となってから即座に灼滅することであらかじめサイレーンの勢力を直接対決前に削いでおくのが、このたびの依頼の目的となる。
    「さっきも言ったけど、説得する事自体は可能だよ。でも実際説得を試すかどうかは、皆の判断に任せる」
     高い難易度というリスクを承知でそれに賭けるか、あるいははねつけられる可能性を回避し安全策を採るかは、考え方次第だろう。


    参加者
    科戸・日方(大学生自転車乗り・d00353)
    栗橋・綾奈(退魔拳士・d05751)
    碓氷・炯(白羽衣・d11168)
    柴・観月(星惑い・d12748)
    片倉・純也(ソウク・d16862)
    鈴木・昭子(金平糖花・d17176)
    久成・杏子(いっぱいがんばるっ・d17363)
    湊元・ひかる(コワレモノ・d22533)

    ■リプレイ

     まだ海水浴の季節でもなければそもそも遊泳禁止区域の岩場で、三人の初老の男女がためらいなく海へ入っていく。事情を知らぬものが見れば、どうみても入水自殺者でしかないだろう。
    「……今ある自分なんか、これまでの積み重ねでしかないのに」
    「当人なりに一生懸命なんだと思うよ」
     日没までの時間を確かめているのか、科戸・日方(大学生自転車乗り・d00353)はじっと手元の時計へ視線を落としたままの柴・観月(星惑い・d12748)を眺めやった。
     消波ブロックへ腰を下ろしていた久成・杏子(いっぱいがんばるっ・d17363)がコンクリートの岸壁に飛び降りる。
    「ま、こうなるのもよく考えれば当たり前の事ね。ダークネスになる人は、闇に堕ちる人だもの」
    「そうかもしれませんが、僕は彼等を責める気には、なれません」
     望まず灼滅者となった自分にそんな権利はない、碓氷・炯(白羽衣・d11168)自身はそう考えている。しかし、このままタダで帰すつもりも毛頭ないが。
     彼同様、所詮自分達はただの学生でしかないので、鈴木・昭子(金平糖花・d17176)もまた彼らの罪について裁く気はない。もし何かあるとしたなら、提示したメリットに付随するデメリットの説明がされていないのはフェアじゃない、という程度だ。
     それにもし堕ちて誰かを傷つけるなら、昭子にとってその理不尽を見過ごすことは非常に難しい。ちりりと鈴の音を響かせながら、岩場の海岸へとおりていく護岸の斜面を下る。
    「大きすぎる得には裏があるものと相場は決まっている、麻薬のようにな」
     麻薬は一時の快楽を提供することはしても、人格や健康はもちろんのこと、最悪命の保証もない。
     ましてやそれが生き物として自然な姿に逆行し、あまつさえ最盛期を上回るというのだから麻薬も裸足で逃げ出すな、と片倉・純也(ソウク・d16862)は溜息を吐く。
     サイレーンの甘言に乗せられた彼等がどれだけ悪事を働いたとしても、裁くのはダークネスではなく人だ。栗橋・綾奈(退魔拳士・d05751)はその考えを譲るつもりはない。
    「ダークネスが横から口を出す筋合いじゃないと私は思いますけど」
    「そうだね。なんにせよ罰はあって、然るべきと思うよ」
     そして、あ、一番星、と呟き、傍目にはどこまでも無表情なまま、観月が水平線の彼方を指差した。
    「なあ、あんたらどうしたんだ」
     夕暮れの岩場、その波打ち際で腰まで浸かっている初老の男女へ向かって日方が声をかける。振り返った女のうちの一人に湊元・ひかる(コワレモノ・d22533)は息を飲んだ。
     老化と伝染性の病気とで見る影もないという表現はされていたが、額や鼻、唇を中心に膨れあがった潰瘍と、それが潰れた痕とで酷い事になっている。
     たとえ外見が優れていようともそれだけで幸せになれるものではない、かつて存在していた美男美女にも少なからず自ら命を絶った者がいることはその証明だ。
     当たり前のことではあるが、元々美貌を誇ったものが老いることと、そうで無いものが老いること、どちらが辛いかはきっと誰にもわかりはしないだろう。ひかる自身にも、わからない。
    「どうしてこんな場所にいるの? ここ遊泳禁止だって知ってた?」
     波も高いし沖にさらわれちゃうよ、と心配そうな口調を装った杏子に、谷敷・貴久と思しき男は鼻で笑う。
    「お前には関係ない。さっさと消えろクソガキ」
    「随分な言い様だね。俺としては自殺志願者を放置するとちょっとね、って話なんだけど」
     説得の難易度が高いことをふまえても、あまり長々と話をした所でこちらの話を聞き入れる確率があがるとは観月には思えなかった。
    「ずいぶん気の早い海水浴だけど、醜く老いてこの先短い世を儚んだ、とかそういう?」
    「何かあったんだったら話くらいは聞くよ。たまたま通りすがったのも何かの縁だろうしさ」
     どこで何してる人? 名前は? と日方が自身の名も含め気さくに呼びかけると、腫瘍とその痕まみれの顔の女がなげやりに、カゲヤマトウコ、と言い捨ててきた。『名乗られたからには名乗らなければ』感ありありな顔が多少癪だが、杏子は黙っておく。
    「勝手に自殺志願者にしないで。とにかく、迷惑なの。もうすぐ、もうすぐ時間なんだから」
    「お前らの邪魔のせいで戻れなかったらどうしてくれるんだよ……」
     チッ、と目元や首すじへイボ状の染みをいくつも浮かべた貴久が舌打ちして沖の方へと向き直る。消去法で岩佐・光恵であろう女は学生の一団にとりあう事もないと判断したようで、最初に一度振り返ったきり無言で祈りを捧げていた。手入れの行き届いていない荒れた手指が綾奈には気になる。
    「時間って何ですか。誰かが来るのを待っているんですか?」
    「だから関係ないって言ってるでしょう! さっさとどこか行きなさいよ!!」
     綾奈の問いに、透子が喚き立てた。横槍が入って機嫌を損ねたのかどうかはわからないが、とにかく彼女は相当に苛立っている。
     あまりうまい方法ではなかったとは言え、業界内でのし上がるため恐喝を画策するような人物とは随分イメージが違う、と炯は眉根を寄せた。
     伝染性の病気とやらの症状が、まさしく顔面の腫瘍なら。ものの話だが不機嫌の原因の心当たりが炯にはないでもない。
    「戻る、と言っていたよな。あんたらどこに、何に戻るんだ?」
     食い下がった日方に、貴久が鼻で笑う。
    「ガキは知らない話だろうが、界隈じゃちょっとは知られてたんだぜ。裏切られて逆恨みされて、死んだ方がましな目にあうまではな」
     それは貴方が他の人にしたこと、の間違いでは……と昭子は一割くらいの内容の話に受け取っておく。いや10どころか5%でも好意的な割合かもしれないが。
    「話せないの、ごめんねぇえええ……」
     先ほどまでどうかしたら殴りかかってきそうな勢いだった透子が、突然火がついたように泣き出す。流石に何事かと思った純也が用心深くその先の様子を伺っていた。
     ひかるは心底ぞっとしながら透子を見つめる事しかできない。……もしここで闇堕ちを思い止まらせたとしても、彼女は恐らく、この先長くない。決定的な病名は聞けていないが、痴呆に似た情緒不安定が末期症状だとしたなら、そんな気がする。
    「大変だったと、思います……」
     それに対しひかるは月並みな言葉しか持たない。きっと自分が同じ境遇なら諦めてしまうだろう、自分も空っぽで、何も持っていないから。
     決して褒められた手段ではなかったけれど、きっと彼女のように、生きるために必死に足掻けなかっただろう。でも。
    「あなた達は、騙されてます」
     簡単に若返り美しくなれるなんて都合のよすぎる話、あるわけがないとひかるは食い下がる。
    「そんなうまい話がありえるわけがないのは、あなた達が一番分かってるでしょう……」
     それは彼等自身がたぐいまれな美を武器にしたからこそ知っているはずだった。そんな簡単に手に入るものなら、誰も美を求めたりなんかしない。
    「サイレーンとやらに縋って、その後どうなるか、よく考えられましたか。誰かを、ひとの領分を外れて食い物にするというのなら、あなたたちもひとの領分を外れて止められることになる。そのリスクは考えたのでしょうか」
    「……サイレーン様を知っているのか」
    「君は捨てられたんじゃない、君が裏切られたと主張したものは、君が捨てて、踏み躙ったものだ」
     貴久の問いには答えず、昭子のあとを引き取った観月は無表情のまま自分の頬を人差し指で軽く叩いた。
    「鏡を見ろよお兄さん。若返った所で、誰かを見返したりなんてできない。だって君は心底から醜いままだ、自分を高める努力もせず若返ったって何も変わらない」
    「外見だけに頼れば最終的にどうなるか、自分が一番良く知ってるんじゃないか? 若返っただけじゃ昔の話の焼き直しで、結局誰もついてこないぜ谷敷サン。誰かの為に、自分の手で全力で何かした事ある?」
     なぜ名前どころか真偽まで見抜かれているのか、サイレーンの存在を知っているのか。彼としては日方に問い質したかったはずだが、低く呻いて結局黙ってしまう。
     綾奈は背後の様子に聞き耳を立てている様子の光恵に気付いた。どれだけ彼等の心に響くかはわからないが、他人に現状を打破してもらうことを醜いと感じる心があれば、それに賭けたいと思った。
    「『自分は優れた人間、こんなところで終わるはずがない』……だったら、どうしてサイレーンなんかに頼るんですか? 自分で何とかしようとは思わないんですか?」
     興味を失った顔で沖へ向き直った光恵の背を、炯の声が追いかける。
    「サイレーン様の力で若返っても、それは美容整形と何が違うのでしょう? 貴女が身を落とそうとしているのは、貴女が何よりも忌避しているものではないですか。そのまま、別の誰かの力で美しさを得ていいのですか」
    「過去の行いがあるから、今のあなた達があるんじゃないかな。今の自分を受け入れられないのに美しさが戻ったって、今以上の苦しみが待っているよ」
     よく考えて、と切々と訴えた杏子に透子が眉根を寄せた。
     もともと良心の呵責を感じない相手を、誘惑に抵抗するよう説得するというのは非常に難しい。杏子や純也は相手から喋りだすよう誘導する方向だったものの、誘導のための具体的な言葉をほとんど考えてこなかったこともあり、さらに説得の難易度は上がっていた。
    「侮蔑も攻撃のうち、傷つく気配から人は離れるものだ。たとえ見た目が優れていても人の心を掴めなければ離れていく」
     頭脳で要領よく立ち回ればあるいは、という趣旨で純也は説得を試みるつもりだったが、違うな、と気付いた。つまりいくら他を侮蔑しようがうまく隠せば問題はない、となってしまう。それでは誘惑に抵抗できないだろう。
    「まあ最終的には、自ら人を辞めてしまうなど僕にはわかりませんね、というだけの話ですが」
     ざわわと沖から寄せる波の音。そこへ突き落とすかのような炯の言葉に、貴久と透子がぶるりと身を震わせる。光恵は変わらずに、ひたすら沖を見つめて祈っているようだ。
    「……目の前に居るのは、灼滅者ですよ」
     それはダークネスを屠るもの。いずれサイレーンを屠るもの。
    「堕ちるも堕ちないもあなたがたの自由。――その結果は因果応報というものでしょう、踏みとどまらずに堕ちるならここであなたたちを灼滅します」
     静かな、しかし全く迷いのない昭子の声は最後通牒じみて低い。西の空がじわじわ赤さを広げていて、もうすぐ日が完全に没することを観月へ知らせた。
     ただ、もし。もしもの話。
     あくまでも無数の未来のひとつの可能性の話として。
     あの中の誰かが命を拾って、でも、その誰かがあまりにも後悔や反省の色を示さなかったなら。
    「最後の機会だ。よく考えて」
     それはダークネスを逃がしてしまう事とさして差はないのではないだろうか、いや、もしかしたらそれよりもタチが悪いかもしれない、と観月は半眼を伏せる。……注意深く後を尾けて、何のペナルティもなく野に放たれてしまう前に――して、おいたほうが、この世界の為には、もしかしたら、――。
     皆言うべきことは全て言ったはず、とばかりに日方は腕組みして返事を待つ。そして岩場を波が数度洗ったあとに、綾奈はハッと顔を上げた。はるか遠くの沖合にいる何かから逃げるように、まず最初に透子が、そして彼女が海から上がろうとしていることに気付いた貴久が、もう耐えられないといった風情でこちらへ逃げてくる。
     透子は醜く崩れた顔をさらに大きく歪め、涙を流していた。
     あっという間に透子を追い抜き、灼滅者たちが背にしていた消波ブロックまで貴久が逃げてきた所で、夕焼けに染まる海一面にうすべにの光が広がる。
     光恵は海の中に立ち尽くしたまま、ただ黙ってその光を浴びていた。綾奈の魂鎮めの風で昏倒した透子と貴久を日方が素早く回収し、消波ブロックよりさらに高い場所にある護岸へと移動させる。
    「ああ、これよ……これだわ、これこそ本当のわたしの姿!」
     歓喜に満ちた光恵の声はどこか奇妙に歪んでいて、杏子は唇を噛む。
     解放ワードに従い杏子の相棒であるねこさんが宙空から躍り出るのと、正しく別人のように、もはや人ではないものへと生まれ変わった光恵が振り返るのはほぼ同時だった。
     あまり感情めいたものを匂わせない霊犬を前衛の前へ立たせ、ひかるは導眠符を抜く。光恵一人を相手取ることになった現状を果たして喜べばよいのか、それとも悲しむべきかわからなかった。
     そう、罪を感じないものはそれだけ闇に近く、当然堕ちやすい。
     只人を救うのが灼滅者の務め、たとえそれはどんな人間でも……というのは、建前だ。少なくとも杏子にとっては。
    「この力さえあれば、わたしはまた、頂点に君臨できる!」
     手荒れの目立っていた光恵の手は光り輝くばかりに白くなめらかで、疲労感のにじみ出た顔にはかつての美しさを上回るものを手に入れた歓喜があふれている。
     きららかな虹色の鱗をタトゥーのように四肢へ飾った光恵が、波飛沫をあげて灼滅者へ両手を差し出した。今日は其の足元、水底へ禍々しい影が凝集するのを見る。
    「あたしは、今まで人を不幸にしてきた人達が、一瞬でも自分の望みを叶えて喜ぶなんて許せない!」
     絶対に、楽になんて逃がしてやらない。傍らのねこさんへ、もはや攻勢あるのみとだけ指示を出し、岩場と波の間を縫うように飛び出してきた影色の刃を受けた綾奈へ回復を飛ばす。
    「淫魔は裏でこそこそ動くのが好きみたいだけど、正面からの戦いはどうですか!?」
     退魔の闘気をまとわせた拳での綾奈のアッパーカットをまともに喰らい、光恵が派手によろめいた。なんとか三歩で体勢を立て直すものの、その先を読んでいた純也の蹴りで浅瀬へ叩き伏せられる。
     がは、と盛大に水を飲みながら半身を起こした光恵へ、蹴りの動きからつなげた妖冷弾が襲いかかった。槍の妖気を氷の楔へ変換し、純也は浅瀬の岩場へと光恵の膝を縫いつける。
    「痛い!! 痛い痛いいたい!!」
     もともと戦闘能力が高い種族とは言えない淫魔がただ一人、今の灼滅者八人へまともに太刀打ちできるはずもない。もともと日方自身短期決戦狙いだったが、おかしな慈悲をかけて戦闘を長引かせる理由はどこにもなかった。
     炯がティアーズリッパーで確実に、冷徹に装甲を剥ぎにくるのとタイミングを合わせて紅蓮斬と黒死斬を交互に見舞う。
     観月はビハインドに己の身を守らせながら光恵の行動の自由を奪い、黒槍を構えた昭子へちらりと視線をくれた。流れるように昭子が振るった槍で貫かれ、かしこくあわれな淫魔がたたらを踏んで波間へ沈む。
     願いを叶えて死んだ一人の淫魔と、ぎりぎりで踏みとどまったふたりの堕ちそこない。
     果たしてどちらが幸福であったか、それはきっと当人たちにもわからないだろう。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2016年5月25日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 2/感動した 1/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 2
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