ラブ・インナ・ミストの蠱惑

    作者:菖蒲

    ●Nigella
     初夏の風に煽られて空色の髪が風に揺れる。ラブ・インナ・ミストと呼ばれる色合いの艶やかな髪先は砂に塗れ、掌にはべったりと泥状となった汚れが張り付いていた。
     サイレーン様。
     ぽつりと零された声に応えるものはない。永き眠りから覚めた淫魔は己の主君たる『大淫魔サイレーン』の声が聞こえない事を不可解に思いゆっくりと立ち上がる。
     周囲の様子は彼女が知るものとは違う。他の仲間や姉妹達との連絡も取れない――それ所かサイレーンからの命令もないのだ。おかしいと首を幾度も傾いだ彼女は走り寄ってくる影に気付きゆっくりと顔を上げた。
    「あのー……怪我でもしたの?」
    「いいえ、いいえ……只、行く宛がないのだわ」
     ワザとらしく、こてりと首を傾ぐだけでも色香を感じさせる。潮騒を聞きながら女は青年へと手を伸ばした。
     先ずは生活基盤を確立し、快適な場所を作り上げる――情報収集を行うのは其れからでいい。そうしている間にもサイレーンの声が聞こえる筈だと彼女は赤い唇を三日月に歪める。
    (「利用してやるのだわ。あたしに掛かれば病に罹った様に熱に浮かれるもの」)
     潤む瞳がゆっくりと青年を見上げる。そっと、その腕を取り猫の様に擦り寄った女は彼の耳元で秘密事を囁いた。
    「あたしと、甘い毎日を……過ごして下さる?」
     
    ●introduction
     名古屋での動乱を経て、校長から齎された重要な選択を終え、数日――サイキック・リベレイターを使用した事で目覚めの時を得た大淫魔サイレーンの配下の活動が活発化しはじめた。
    「沢山、大変な事があったのね。皆、お疲れ様なの。
     それで……ええと、事件というか、出来る限り早い対処が望まれる案件なの」
     資料を抱えた不破・真鶴(高校生エクスブレイン・dn0213)は教室の机の上に地図を広げる。海開きの早い地方の海岸、サイレーンの配下である淫魔『ラブ・インナ・ミスト』、通称をニゲラという女が活動を開始したのだ。
    「ニゲラはわたしたち武蔵坂の事は知らないみたいなの。
     それに、他の淫魔とも連絡が取れていなくて誰かの指示を受けてる訳でもないのよ。でも、より上位の淫魔が復活すれば、その命令に従って統制のとれた軍勢になるかもなの」
     その前に、一つ対策を打っておくべきだろうと真鶴は進言した。
     ラブ・インナ・ミストは人間達に馴染む為にニゲラと名乗り手始めに一人の男を籠絡した。生活の基盤を其処に置き、情報収集を行いながら本能に従い様々な男達を虜にしているのだという。
    「今はサイレーンから指示が来るかもしれないと余計なお荷物に鳴っちゃう強化一般人は作ってないみたいだけど……彼女達、気紛れなの」
     一般人への被害が増え、強化一般人とする可能性が否めない。
     目覚めたばかりで何も分かっていない彼女は現状としては脅威ではないのかもしれないが、今後を考えれば自ずと行動は早い方がいいと結論が出る。
    「ニゲラは、えっと、夕暮れから夜にかけては街の中を散策してるみたいなのね。お気に入りは夕陽の見える丘、一般人の男性を探してるみたいなの。
     朝になれば最初に出会った相手のお家に帰って眠るみたいだから、夕方に奇襲を掛けた方がいいとおもうの」
     一般人が巻き込まれる可能性がない様に配慮が必要だと真鶴は付け加えた。
     男性が囮となるのも構わない。人懐こい性質であるニゲラは警戒することなく近寄ってくる事だろう。
    「きっと、戦闘に持ち込むのは容易な筈なの。
     誰かが傷つく前に……ハニートラップに掛った人もニゲラが居なくなれば復活できる筈だから、お早い回復をお祈りしなくちゃなのね」
     がんばって、と力強く告げた真鶴は夏の気配を孕み始めた風に目を細めた。


    参加者
    古賀・聡士(月痕・d05138)
    神乃夜・柚羽(燭紅蓮・d13017)
    高城・時兎(死人花・d13995)
    御影・ユキト(幻想語り・d15528)
    狂舞・刑(その背に背負うは六六零・d18053)
    ハレルヤ・シオン(ハルジオン・d23517)
    鳥辺野・祝(架空線・d23681)
    荒谷・耀(罅割れた刃・d31795)

    ■リプレイ


     遠く、波の音が聞こえる。頬を撫でた空色の髪を撫でつけて女は小さく息をついた。
     淑やかなかんばせを照らす夕陽は彼女の頬を赤く染め上げる。男の視線を集め慣れた肢体を包むワンピースのスカートは潮を混じらせた初夏の風にゆっくりと巻き上げられた。
    「お一人かな、お嬢さん」
     片目を隠した長い前髪。汗を滲ませることもなく涼しげな表情で古賀・聡士(月痕・d05138)はその背中へと声をかけた。振り仰いだ女の大きな双眸が柔和な彼の表情に止まる――警戒心は無い様だ。
    「寂しい女だと思った?」
    「幸運だと思った。もしよければ、僕と少し話しでもしないかい?」
     慣れた雰囲気で手を差し伸べた聡士は人目の付く丘から離れる様に彼女の手を引く。
     女は『積極的な男は嫌いでは無い』。せっかちさんと冗句めかして告げた女の声を聞かないふりをして夜闇に逃げる様に青年は歩き出した。
    (「恨みはないけれど、ごめんねぇ――」)

     小石をかつりと蹴飛ばした高城・時兎(死人花・d13995)は面白くないと伸びる影を見下ろした。
     死人花から零れた柘榴石。アクセサリーは主を顕す様にゆるりと首元で揺れていた。囮役を買って出た相棒を待つ時兎にとって淫魔は生理的に受け付けない女の部類だったのだろう。
    「淫魔事件の多発――流石、といいますか。学園総意で決めるものだけの効果ですね、リベレーター」
     サイキック・リベレーターを使用して、方針を決定した灼滅者一同。その結果が目に見えて現れたのだから、感嘆する他にない。御影・ユキト(幻想語り・d15528)は強敵を起こすそれにより面倒事が起こる可能性を感じ小さく息をついた。
    「そうですね。淫魔は気紛れですし強化一般人を作られても困りますし……。
     それに、怪我には気を付けて無事に帰らないと心配して夜も眠れないクラスメイトが待っていますから」
     面倒事は即時解決。全員揃って、無傷が一番だと言う様に荒谷・耀(罅割れた刃・d31795)はその表情に気合を漲らせた。淫魔に対する思いは彼女が六六六人衆へ向ける強い憎悪と比べればさもない事なのだろうが、事件を予測したのが『友人』であれば思いもまた違ってくる。
    「そうだな。無事が一番だし……取り敢えずは古賀先輩の無事を祈るばかりかな」
     依頼に同行する機会も多くなった聡士や時兎、ハレルヤ・シオン(ハルジオン・d23517)と言った顔ぶれに何処か安堵を覚えた鳥辺野・祝(架空線・d23681)が唇に弧を描く。
     差し込む夕陽に、叢に座り淫魔の到着を待つ祝は息を潜め金の双眸をぎょろりと動かした。
    「どこにいくのォ?」
     上ずった声音は甘えるかのように膚を撫でる。嫌悪の感情を示すこと無く『獲物』の到着に舌をぺろりと出したハレルヤは笑みを抑えきれないと喉を鳴らして息を飲んだ。
    「着いたよ。ラブ・インナ・ミスト」
     どこで、その名をと低く囁くその声に女の裏側を見た気がして狂舞・刑(その背に背負うは六六零・d18053)は痛む頭を押さえた。合図が入ったならば女を殺す――女絡みで三度の失敗を背負った身としては中々に、遣り難いことではないか。


     ニゲラという名前は花を想像させる。ゴシックロリータのワンピースを翻し、時計の針を模した刃の切っ先を女の喉元へと向けた神乃夜・柚羽(燭紅蓮・d13017)は『積極的な男』以外の影に酷く動揺を見せた淫魔を表情なく見上げた。
    「な、」
    「何か、誰かという質問には答える事は無意味ですし、知っても得にならないので。
     何も知らないまま倒されてください。淫魔ラブ・インナ・ミスト」
     帯を射出し貫かんと定めた柚羽が宙を穿つ。仮にもダークネスの端くれだ――男にうつつを抜かすばかりではないのだろう、直ぐに臨戦態勢に入った女は焦りを隠さないまま後退した。
    「逃がしませんよ」
    『喜劇の糸』がだらりと指先から垂れ下がり、踊る様に跳ね上がる。グローブに包まれた指先を強く握りしめ、ユキトの爪先が柔らかな土を蹴った。
    「何なのよ!? どういう料簡でこのあたしに喧嘩売ろうっての!?」
    「ン、やっぱり、こういう露骨なタイプ……生理的に無理」
     聡士の相手してる時と違うとぽつりと零した時兎が周辺に放つ殺気からラブ・インナ・ミスト――『ニゲラ』は灼滅者達が本気で自分を標的にしているという事をしっかりと悟る。無論、彼女の逃走を予測し、逃がさないようにと視線を集める柚羽とユキトの背後から回りこんだ耀は静かに愛用の大剣を構えた。
    「アハッ、元気なオンナのコって、ボク好きだなぁ。ニゲラ、キミの躰って彫刻見たいでとぉってもステキ!」
    「ハッ、何よぉ。話しが分かるのも居るじゃないの」
     うっとりとした表情のハレルヤはじろりと女の身体を舐める様に見回した。流石は淫魔と言うだけの事はあるのだろうか、抜群のプロポーションは目を見張るものがある。ぺろりと舌を出したハレルヤが巨大な縛霊手で地面を擦りゆっくりと振り上げた。
    「分解(こわ)し甲斐がありそうで、うずうずしちゃうなあ」
    「――!?」
     蒼褪めた表情に、女特有の苛立ちを僅かに芽生えさせたニゲラが意味分かんないと唇を震わせる。甘えの滲んだ表情は、今や好戦的な『ダークネス』の顔に変わっていた。
    「これより宴を……開始する!」
     僅かに表情を歪め、強い嫌悪感を示した刑は相手が女である事を些か遣り辛いと感じているのだろう。鎖を巻き付けた手の先を地面に向け、影の刃を放つ。
    (「……女を、殺すか」)
     豹変した彼女は正しく『女らしい』。一人の女性を救えず殺せず、そして一人の少女の約束を反故にした三度の失敗に追い詰められた雰囲気をかもしながら女の逃走経路を塞ぐ。
    「何よ、何よォ!? あたしが何かしたってーの!? 誘ったのはお前だろ! そこのお前ェッ!」
     目を血走らせ、愛らしいかんばせに怒りを乗せたニゲラから思わず自船を外した時兎が「魅了とか、されてないだろうね」と肩を竦める。
    「ははっ。どうかな? もしされてたら、魅了し返してみせてよ」
     軽口で返した聡士はあからさまに女の怒りを買ったのだろうと肩を竦める。ここまで安易に豹変して、襤褸が出ずに過ごして来れたものだと感動すら覚えるほどだ。
    「口調がだいぶ変わってますよ。
     ここでは猫被る必要もないですけど、ある意味素晴らしいですね」
     こてりと首を傾いだユキトが地面を蹴る。能面の様に表情を変えず『興味がない』事をあからさまな程に顕した彼女に苛立った様にニゲラが飛びかからんと手を伸ばす。
     靱やかに避けたユキトは「いっそ清清しいものです」とぽつりと零し、ニゲラの耳へとからんと軽い音が聞こえる。それが、下駄の音だと気付いた刹那、女の顔面目掛けて切り裂く一撃が飛び込んだ。
    「なっ、何――!? 何すんのよォ! このクソガキッ!」
    「クソガキってな……こっちの都合で起こしておいてなんだけど、口が悪すぎやしないか?」
     呆れた様に祝が肩を竦める。からり、ころころと鳴った下駄の音。慣れた様に土を踏みしめ熾烈に攻める彼女はニゲラの『これから』を防ぐのだと己に言い聞かせ、ゆっくりと瞳を伏せた。
     同情する義理もない――況してや、何も知らない人間を理不尽に巻きこむ輩なのだから。
    「……理不尽と言えど、運命だということでしょうね」
     憾むなら、己を憾むしかない。生と死が尊くあるべきなのだと唇に乗せた耀はスカートの裾をひらりと返す。
     激情に身を流す女にとって清廉な彼女の姿は癇に障る。心の冷えていく感覚にニゲラは「なぁんだ」と小さく零した。
    「男、三人も連れてあたしのこと馬鹿にしてるわけ……?
     何で喧嘩売りにきたか分かんないけどさァ――邪魔すんの止めてくんない?」
     苛立った女の言葉を遮る様に刑の放った業の光が女の身を包みこんだ。


     してやられてばかりではいられないとニゲラが吼える様に声を発する。
    「罵詈雑言、捲し立てるばかりでは可哀想ですし一つ教えてあげますね。
     タチの悪い追剥に会ったとでも思えばいいですよ。……『当惑』のニゲラ」
     大きな宵色の瞳に感情の色は無い。ぱちくりと一度、瞬かれたそれをじいと見詰めたニゲラが唇を震わせる。
     柚羽とて冷静で居る様に見えてそうではない。己のコンプレックス――『胸』についてを刺激するかのように見せつける彼女に思う事が幾つもあるのだ。
    「貧相なお胸だこ――」
     ひゅん、とニゲラの喉を目掛けて飛び込む一打。避け、またも喚き立てたニゲラの口を塞がんと柚羽が苛立ちを力に変える。
    「いやぁ………女の子らしくて可愛いよね、あの子」
     女同士の剣呑とした様を軽くあしらう様に笑みを零した聡士へと時兎が「……キュアしてあげよーか」と拗ね返る。
    「うーん、君も可愛いけど、どちらかといえば守ってあげたいのはこっちかなぁ、なーんて」
     時兎をちらりと見て笑う聡士の仕草にかぁ、と頬を染めたのはどちらも同じ。一方は照れで、もう一方は苛立ちで。その違いはあれど、怒りに狂ったことには違いは無い地団太を踏んだ女は「あたしばっかり悪者にしてェ!」と何に怒ったものかと鬱憤を吐き出す様に眼前の刑を狙う。
    「ッ」
    「遠慮はいりませんよ」
     鮮やかな蒼色は、海で見飽きたと柚羽は唇を引き結ぶ。
     女に手を上げる事を惑うと言うならば、『女が手を上げる』のみだ。
     刑の惑いを払う様に女の失敗の前に立ちはだかった女は苦戦を強いらされる。元より淫魔は個体として強力な力を持っては無い――誘惑した男が傍に居ない丸腰の彼女が、統率のとれた歴戦の灼滅者と相対することとなればどうなるかなど想像の内だ。
     女の罅割れたネイルを見下ろして祝は意地悪く挑発する様に笑みを零す。これは、彼女が守る為にとる最大の行動だ。
    「見た目が良くても底意地の悪さってのは隠せないよなあ」
     ぎらりと瞳を輝かせ睨みつけるニゲラへと祝は首を傾ぐ。
    「そんなだから、置いてかれて仕舞ったんじゃないか――なんでひとりぼっちなの?」
     女の唇から漏れだしたサイレーン様という名前。
     彼女の配下だというラブ・インナ・ミストが『ひとりぼっち』な理由など、武蔵坂の灼滅者は重々承知していた。だからこそ、女の識らないことを、口に乗せ挑発へと変えてゆく。
    「そうだよねェ……キミ、独りぼっちなんだあ。
     サイレーンもキミのコトなんて忘れてるかもねえ」
     へらりと笑ったハレルヤへと激昂したように女が吼えた。固い土を蹴り飛ばし、髪が乱れるのも気にせずにニゲラが手を伸ばす。
     花の香りが鼻孔を擽り、彼女の香水のかおりで居場所を判別したとハレルヤの瞳がらんらんと煌めいた。
    「バレバレだよねぇ」
     放たれた蹴撃を受け止めて、ハレルヤが彼女の身体を『払う』
     地面に向かって垂直に落ちる体を受け止めきれず衝撃に息を吐いた淫魔は飛び上がり獣の如き勢いで吼えた。
    「何よォォッ!?」
    「アハハッ! 嬉しい、嬉しい! もっともっともっと!!」
     上機嫌に切り刻まんと手を伸ばす。握りしめたクルセイドソードが『斬る』感覚を掌に覚えさせた。
     細胞も心も全部。彼女を歓迎して震えあがっている――これは淫魔に誘惑される事より程遠い狂気。
    「ッ、」
     震え上がったそのままに切り裂く一撃、赤く染まる。
     髪先を切り裂く刃に落ち付く心が誤魔化せない自分を思い返させる。ハレルヤの肩をぽんと叩き擦れ違う様に一撃放った刑により、ニゲラの脚が縺れ込む。
     立てない彼女を見下ろして、ユキトは女の終わりを感じとりゆっくりと唇に乗せた。
    「―……此度語るは願いを込めた暖かい言葉の話、」
    『言霊祈り』にのせたその祈りは口にしない。瞳を細めたユキトの祈りを感じとる様に刃に力を乗せ耀がゆっくりと首を振った。
    「逃がしませんよ」
     いやだと嘆く女の言葉が耳朶を伝う。遠く聞える海よりも深い絶望だと耀は花瞼を落とした。
    「……もう、いーんだよ」
     眠たげな瞳は一度伏せれば彼女を忘れてしまうだろう。咎を振り上げ、凍て付く氷が女の足を挫けさせる。
     視線がかち合って、頷く聡士が放った一刃に微かに声を漏らした女の身体が砂に塗れた。
    「憾みは無いんだ。運が悪かっただけだよ」
     タチの悪い追剥にあった――なんて、その言葉はなんて自分達の立場に会っているのだろうかと祝は自嘲する。
     立場が違えば狩人と兎は逆だったのだろう。否、今回が何時もの逆だったのだろう。
    「夕暮れ、好きなんだろ」
     傷だらけの女を見下ろして祝は首を傾ぐ。首を上げた彼女の喉元に宛がった生者の杭。力なく「だから何よ」と返す彼女に当初の生気は感じられなかった。
     崩れたメイクに、乱れた髪が淫魔がそうであった事を忘れさせるかのようで。
    「……私も、夕暮れは好きだよ。これは道場では無いけれど、その分だけ悼んでやる」
     その言葉に堰が切れたかのように涙が溢れ出す。それが生の執着なのだろうかと丸い眸でハレルヤは首を傾いだ。


    「あたし、は!」
     大粒の涙が溢れ、命乞いをする様に女が声を張り上げる。

     こんなの知らない、知らない、知らない――!

     ラブ・インナ・ミストにとって『灼滅者』は知らない存在だ。況してや状況の説明など死に往く者には意味がないと言い切った柚羽は言葉もなく女を狙い影を揺らす。蓮の花が愛情に咲く様に、『ニゲラ』はきっと盛りのころなのだろう。
    「……咲くことは諦めて下さい」
     彼女が淫魔である以上。彼女がダークネスである以上。
     錯乱した女の攻撃を頬に掠めたハレルヤが小さく笑う。彼女の高揚を感じとり、癒しを送ったユキトは指先で作った『銃』を打ち出す様に僅かに揺らした。
    「死にたくない! 死にたくないの!」
     たった一人の女を哀れだと唇を食んだのは潮のかおり。
     こっちだと鬼を誘う様に囁かれた声音に激情を抱いた女が振り仰ぐ、死を恐れた女の前に『殺人鬼』は淡い笑みを浮かべた。
    「いや、」
     とん、と。
     彼女の胸に突き立てられたのは耀の一閃。夜を映した影は女の絶望さえも飲み喰らいその場に静寂を齎した。

     目覚めたばかりの美貌は襤褸の如く崩れ去る。何も知らないままだから、自由だった彼女は『識ることが無かったからこそ死んでしまった』――それは、どちらがしあわせだったのかと祝はゆっくりと花瞼を落とす。
    「もう一度お休み、ラブ・インナ・ミスト」
     鮮やかな蒼はそこにはもう残らない。
     夕暮れ空を反射した海は深い深淵を湛えている。刑にとって耐え難い四度目にならずに済んだのは僥倖だったのだろう。胸を撫で下ろし、険しい表情を僅かに緩めた青年はダークネスとしての生を終えた女の立った場所をじっくりと見下ろした。
    「さあ、もう日も暮れますから」
     武蔵野へ帰ろうと柔らかに声をかけた耀の髪を掻き上げた乾いた風は海へ向かって吹いてゆく。
     沈む夕日に伸びる影を追い掛ける様に踏みしめた土は僅かに軟い。
     無知は罪だというように、囁いた潮騒はもう遠い。

    作者:菖蒲 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2016年5月24日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 3/感動した 0/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 2
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