氷界

    作者:来野

     寒い。睫毛が凍て付く。
     閉じ込められたと気付いてから、どれほどの時間が過ぎただろう。
     そこは冷凍倉庫。外は長雨と紫陽花の季節だというのに、目の前を漂うのは白い冷気だった。
     食品の箱が積み上げられた棚の間で、身を寄せ合った数名が腕を擦り足踏みを繰り返す。瞼が重たくなり始めていたが、目を瞑ったら二度と開けられないような気がしてできない。感覚なんてもう無くなりかけて、大人しく眠れば美しく安らかに死ねるというのに。
    「さ……む、いね」
     白い息を両手の中に閉じ込めて、一人の少女が呟く。彼女の名前は野原・絵美(のはら・えみ)。
    「大丈夫。きっと……助けが来るから」
     土屋・筆一(つちや・ふでかず)はスケッチの手を止めて励ます。この寒さの中で制服を着崩し、事も無げに絵美の姿を描き続けているのだが、いつもと代わりのない態度のせいか低温から来る感覚の鈍磨のせいか、不審を感じる者はいない。
     かつての同級生、絵美すらもがこくりと頷いた。ただ一緒に閉じ込められてしまったのだと思い込んでいる。冷えた頬が透き通るように白い。
     筆一、いや、殺人鬼・ツチヤフデカズはスケッチブックから目を上げた。
    (「ああ。綺麗なものは好きだ」)
     ――この手で描いて手許に留め、そして実物など殺してしまいたくなる。
     スケッチブックで隠された口許は、微かに歪んだ笑みを含んでいる。巧妙に土屋・筆一を演じてはいるが、彼はそんな風には笑わない。
    「大丈夫……」
     囁いて、フデカズは手許に眼差しを戻す。
     手にするスケッチブックには、灼滅された羅刹の女の姿が描き残されていた。
     それを知る者は、この『密室』にはいない。
     押し殺された筆一を除けば。
     
    「南アルプスで闇堕ちした土屋・筆一君を見つけた。見つけた、けれども」
     石切・峻(大学生エクスブレイン・dn0153)は痛いほど噛んだ奥歯を緩めて、息を吸い直す。
    「密室化した冷凍倉庫の中だ」
     今、この瞬間も冷気が人の命を削っている。秒針の回る音が聞こえる。そんな面持ちで峻は続ける。
    「彼は密室殺人鬼との交戦経験がある。その記憶を基にして冷凍倉庫を密室化させたようだ。数人の一般人が巻き込まれていて、それなりの時間が経過してしまっている」
     対処にあまり時間をかけられない。状況がそう物語っていた。
    「問題の筆一君、じゃないな。ツチヤフデカズと名乗る六六六人衆だが、自分自身も巻き込まれた風を装って、かつての同級生、野原・絵美さんを密室内に連れ込んでいる。彼が灼滅者となるきっかけに関わった少女だ。その時と同じように彼女をモデルにしてスケッチを描きながら、救出を待つふりをしているらしい」
     闇堕ちから救われて灼滅者となった筆一には旧知の少女がいた。それが野原・絵美である。
     状況を説明した上で、峻は皆に向き直った。
    「今回の事態だが、対処の際にはスピードと物事の優先順位が重要となってくる。一般人には戦闘への巻き込まれ以外にも凍死の危険性があるからだが、困ったことが一つ」
     言葉を切り、息を整えて続ける。。
    「六六六人衆は筆一君を絶望させて消滅させようと動いているが、何よりもまず自分の身の安全を優先する。なので一般人を先に退避させようとすると、絵美さんを殺害して逃げ出そうとするだろう。彼から人質を奪う行動が、逆に一般人の死を誘引するという構図だ」
     死者を出すまいと思うと灼滅者側の犠牲が大きい。厳しい状況だ。
    「その上で灼滅者を戦闘不能に陥らせることができたら、とどめを刺しに来るだろう。これは南アルプスで依が取った動きと似ている。筆一君の経験を作戦に盛り込んでいるのかもしれない」
     まるで模写したかのように。峻は自分の指先を見下ろしてから、顔を上げた。
    「六六六人衆は筆一君の口調や仕草を真似るのが上手い。そして、元の人格であるはずの筆一君の方を自分の衝動から目を逸らす嘘つきであり偽物、欲求に忠実な自分こそが本物だと考えるようだ」
     絵を描くという才を持つ者らしいとも言えるのか。
    「彼は綺麗なものを好む。それは良いんだが、気に入ったものは絵に描いて手許に留め、実物の方は殺すという行動に執着しているのが問題だ。大切なものを失ってしまう前に何とか救出してくれないか。それが無理な時は灼滅せざるを得ない。何といっても今の彼はダークネスだから」
     灼滅という響きがこの時ばかりはつらい。峻は教卓の上の手を強く握り締める。普段は筆を握る手でもあるのだ。
    「もし今回助けることができなかったら、完全に殺人鬼となってしまった彼を助ける機会は無くなるかもしれない。どうか、君たちの力を貸して欲しい。お願いします」
     静かな教室に雨の音が満ちた。


    参加者
    森田・供助(月桂杖・d03292)
    サフィ・パール(星のたまご・d10067)
    片桐・公平(二丁流殺人鬼・d12525)
    ペーニャ・パールヴァティー(羽猫男爵と従者のぺーにゃん・d22587)
    ロジオン・ジュラフスキー(ヘタレライオン・d24010)
    九形・皆無(黒炎夜叉・d25213)
    紅茗・秋邏(疾風紅蓮・d34797)
    ペーター・クライン(殺人美学の求道者・d36594)

    ■リプレイ

    ●薄氷
     霜の匂いに出迎えられた。寒いを通り越して肌に痛い。
     今は七月なのだ。なのに密室の中はほの白い冷気に満ちている。
     サーヴァントは出さず、人間の姿を保ち、灼滅者たちは箱の積み上げられた棚の間で気配を窺う。ほどなくして、忙しない足踏みの音が聞こえて来た。
     ペーター・クライン(殺人美学の求道者・d36594)が、棚の突き当りを回り込む形に指先を動かす。一般人たちは恐らくこの先にいる。
     紅茗・秋邏(疾風紅蓮・d34797)とロジオン・ジュラフスキー(ヘタレライオン・d24010)、サフィ・パール(星のたまご・d10067)がカイロなど体温を保つものを、森田・供助(月桂杖・d03292)と九形・皆無(黒炎夜叉・d25213)が茶やスープなどの飲み物を手にする。一般人の保温対策だった。どう転ぶかわからないが、凍死させるわけにはいかない。
     行動開始。前へと出る。
    「寒かったでしょう、身体を温めて……もう大丈夫ですからね」
     人間の姿でいる時、ロジオンは一見、女性のようにも見える。穏やかに声を投げかけると、身を竦めていた一般人たちが一斉に顔を上げた。縋る眼差しで救助者たちを見る。
    「指が……かじかんで……」
    「これで温めましょう」
     震える男の手にカイロを握らせる。
    「ああ、ありがと、う……?」
     男が目を瞬いた。カイロには文字が記されている。
    『眼鏡の少年に気づかれないよう、焦らずゆっくりと入口の方へ移動をお願いします』
     物言いたげな男を見て、サフィがその肩を毛布でくるんだ。疑問を寒気と共に閉じ込めるかのように。
    「だいじょうぶ、焦らない、で」
     ぽんぽんと掌を動かす内に、相手の表情が和らぎ始める。ラブフェロモンの効果だ。カイロと毛布を宝物のように引き寄せる男の様子からは、もはや疑念が感じられない。
     急な変化を疑われる前に上手く立ち回らなければならない。
     同じようにして一般人の間を通り湯気の上がる茶を渡しながら、供助が絵美の元へと辿り着いた。筆一との距離は大股に歩いて三歩ほど。
    「大丈夫か? これ飲んで体温めて。友達も皆、助けるから安心してくれ」
     しっかりと声をかけながら絵美の正面に回って茶を渡し、さりげなく筆一との間を遮る。襟足を冷気が撫でて行ったが、振り向かない。
     皆無と目が合う。スープを配りながら一般人の中に紛れる彼も、少しずつ庇う位置取りへと向きを入れ替えていた。
    「まずはこれを」
     僧衣の袂から差し入れを取り出して凍えた人々に声をかけながら、浅く顎を引いて頷き合う。
    「無理に立ち上がろうとして転んだりすると危ないですし、少し身体を温めてから動いた方がいいですよ」
     そろそろメッセージ付きのカイロは行き渡っただろうか。
     ここまで、実際はほんの数分。随分と時間がかかったような気がするのは、冷気よりも研ぎ澄ました緊張のせいだ。
     ぱたっ、という音が聞こえた。
     儚く優しげにも聞こえるその音は、スケッチブックを閉じる音だった。どう見ても筆一にしか見えない少年が、踵を動かす。
     動こうとしている。それがわかった、その時。
     眼鏡をかけた彼の目の前で、毛布がふわりとひるがえった。
    「大丈夫ですか? 今助けますので、まずは暖を取ってください」
     闇堕ちした彼をも被害者であるかのように包み込んだのは、片桐・公平(二丁流殺人鬼・d12525)。
     毛布の内で、ぎちっという身動ぎがあった。
     瞳が疑っている。
     逃走経路を確認している仲間もいれば、そちらに誘導するために距離を取り始めた仲間もいる。
     ダークネスの瞳はただ、見つめている。
    「助けに……来たんです、ね?」
     六六六人衆の足が一歩動いた。
    「どこに行こうと言うのです?」
     公平が問いで時間を稼いだが、
    「俺の行きたいところへだよ」
     限界だった。ディフェンダーたちが絵美の前に立ちはだかる。
     フデカズの手がペンを握り直す。
     ならば――
    「私が相手になりますよ」
     抜刀一閃。
     公平の刃が、六六六人衆の行く手へと走った。

    ●移ろい
     竹箒で氷を一撫でするような、そんな音はひどく乾いていた。
     ダークネスの初撃は幾枚もひるがえる紙片の姿を持ち、確実に絵美を狙って空を裂いた。
    「……やっ」
     立ちすくむ少女の前で散った鮮血は、しかし供助のもの。
    「大丈夫、だ……」
     公平にバランスを崩されたフデカズは、彼らの守りを抜くことができなかった。
     白く凍て付いた床に、点々と熱く赤い色が散る。そして、瞬く間に氷結する。
     それを見た一般人たちは、いち早くその場を離れようと慌て始めた。転びそうになった少年をペーターが抱え起こす。
    「落ち着いて」
     顎先を振って示すのは、出口の方向。しかし、フデカズが走ろうとしているのも同方向だった。
     ロジオンが扉の前へと回り敵の撤退を阻むが、一般人たちもそちらへと殺到する。そして眼鏡の少年と距離を取ろうとして急停止する。何もかもが凍りつく氷点下の世界。
     六六六人衆の唇が歪んだ薄笑いを浮かべる。
     その中で、まず最初に動いたのはペーニャ・パールヴァティー(羽猫男爵と従者のぺーにゃん・d22587)だった。
    「冷凍庫だけにフリーズ! もとい、閉じ込められたフリ!」
     寒い。寒気をさらに凍りつかせる駄洒落はともかく、彼女の生じさせた霧が傷付いたディフェンダーたちの傷を癒し、仲間を鼓舞する。
    「ツッコミが必要か?」
     フデカズが虚空にペンを走らせながら、ウイングキャット「バーナーズ卿」の肉球を避ける。首を横に振るペーニャ。
    「絵画、即ち創作は描く人の思い入れを形にするものです」
     自身の考えを語り始める。
    「闇筆一さんは」
     六六六人衆を指差して、ペーニャはそう呼んだ。
    「闇筆一さんは筆一さんもかもしれませんが、美しいものを美しいと感じているようですね」
    「当然だろう」
    「ええ、それはとても自然な感性です。でも、まだまだ描き足りないでしょ?」
    「そうだな」
     頷いたその時、フデカズのペンは複雑な動きの最後の線を結ぶ。振り上げ、振り下ろす、その先に降り注ぐのは赤黒い六花の流星。鋭利な氷の鏃が、灼滅者たちへと次々に突き立つ。
    「エル」
     サフィの命を受けて子犬のヨーキーが後衛を庇う位置に踊り出す。霊犬「エル」だった。
     その護りを借りて脇を抜けるのは、ライドキャリバー「獅子」を駆る秋邏。出口へと走るフデカズの背を追い、片手でスロットルを操る。鋭く乾いた音が生じた。
    「百発百中、狙った獲物は逃がさない……ってな」
     広がるイカロスウイングが、振り返ったフデカズの足許へと迫る。無数の帯の下で霜が弾け、白く曇る冷気の中で六六六人衆は足を止めるしかない。
    「俺を獲物だって、いうのか」
     薄く眉根を動かした。
    「ああ、いや……」
     秋邏の知っている筆一とは趣が違うだろう。だが、その受け答えを聞いても彼は怯まなかった。片手を脇に広げて飄々とした態度を見せ、しかし、一度口を噤む。眼鏡の奥を見つめた。
    「依頼で敵を倒した後に見た絶景、覚えてるか?」
     カツン、という靴音が聞こえた。六六六人衆の足が一歩下がり、そこで逡巡した音だ。誰に話しかけているというのか。
    「どんな景色も移り変わる。戦った後に見た絶景も、同じ景色は見られない」
    「そうだな。もう、とっくに変わり果てただろうよ」
     でも、と秋邏が指差したのはスケッチブック。
    「でもあの日残していたスケッチがあるから、あの時の景色が形に残る」
     ペーニャが後押しするかのように頷いた。
    「人間も風景も日々変化します。成長するし老いもする。その変化もまた美しい」
     指し示すのは筆一。
    「貴方もまた然り。土屋筆一と言うスケッチブックを閉じるのは早いのではないですか?」
     キリッという音は微かだった。微かだが、確かに鳴った。
     それは、スケッチブックを握る手が表紙に爪を食い込ませる音だった。

    ●節制
     ほんのわずかな逡巡の間、皆、少しずつ動くしかなかった。
     退避しようとする一般人は、行く先を判断しかねて頼みと縋る灼滅者たちの背後から動かない。良くも悪くも膠着したために絵美もまた無事であったが、渡した小さな暖ではいずれ追いつかなくなるのが目に見えていた。
     守りきれるのか。皆無が白い息を吐いた時、背に何かがぶつかった。
    「……?」
     疲弊した絵美が屈み込んだのだ。供助が身を低めて彼女を庇おうとする。
     その一瞬の隙をついてフデカズが動く。皆無もまた、冷たい床を蹴った。
    「貴方があの時己を捨ててでも戦ったから、私達は誰一人死ぬ事なく戦い抜けた」
     二重廻しの黒い裾が、冷気を孕んで翻る。打ち付けるのはシールドバッシュ。エネルギー障壁の輝きが横顔を照らす。
    「感謝しています、ありがとうございます」
    「……っ、く」
     出口から逸れて脇の棚の方へとたたらを踏んだダークネスは、首を振り立てペンの先を彼へと向けた。
    「礼を言いながら殴るのかよ」
    「だからです」
     ばさり、と音を立てた袖が示すのは背後だ。
    「だから、今度は私が貴方の為に護り抜いてみせましょう!」
     床に膝を落とした絵美が、頭を垂れるのが見える。
     それでも六六六人衆はペンを操る。氷を削るかのような音を立てて描き切ったものは、ひどく禍々しく湾曲した刃だった。
     ザンッという一閃の響きは残酷で、僧衣の胸から噴いた血は夥しい。
    (「南アルプスで守って頂いたこと、まだお礼を言っていませんからね。学園祭もそろそろですし、必ず連れ帰るとしましょうか」)
     白いはずの冷気が赤く見えたが、それでも皆無は唇を動かした。
    「誰も……殺させたりしませんよ、……土屋さんの、ためにもね」
     サフィが回復に回るのを見て、供助は自分の背で絵美の視界を閉ざす。標的との距離を見て、確実に放つのはレイザースラスト。軌跡が白く曇る。
    「聞け。土屋は欲求から目をそらす嘘つきなんかじゃない」
    「なぜ、そう言える」
    「自分の中に衝動があるのを知ってても守るって意志のために、選択した」
     フデカズの足許が揺らぐ。
    「真似ばかりのお前より余程強い」
     ズッ、という音が響いた。ダイダロスベルトの先が敵の脇腹に食い込む。
    「お前が好きなものを残すのは閉じ込めて愛でるためじゃなく、一瞬一瞬が惜しいからじゃないのか」
    「ち、がう」
    「帰って来い。もっと、描きたい瞬間は生まれるはずだろう」
    「ち……」
     フデカズの手からスケッチブックが滑り落ちた。ぱらら、と音を立ててページが捲れる。
     緋色の髪の羅刹の女が白い紙の中に描かれて今も息づいていた。供助は彼女と同じ色の瞳をその紙面へと伏せる。
     筆一は、そうして依を紙に閉じ込めてしまいたかったのか。真実は分からない。けれども、彼にはそれが依への悼みに思える。
    「もう、時を止めさせたくないんだ、お前のも」
     ――彼女のも。
     命ある少女を背に庇い、白い息と共にその一言を声にする。
     六六六人衆の肩先が大きく揺れた。
    「あ……」
     何かに思い切り叩かれたかのような、そんな揺れ方だった。
    「っ、あぁ……ッ」
     大きく首を横に振って、内からの抵抗と戦い始めた。そんな彼を見てサフィが顔を上げる。皆無の傷を癒して支える指先は、寒さと血とで真っ赤だ。
    「衝動抑えるは人でありたいから。欲に流されること、強いと思えない。『あなた』力は強いでしょ、けど」
    「あぁっ、つ、よい、さ」
     地を這うようにして飛んできた赤黒い鉤爪の一撃を、エルが受け止めて叩き付けられる。サフィは退かない。
     ダークネスの攻撃と同じ色に汚れてしまった指を相手へと向ける。
    「自分と戦い、誰か守れる心持つ筆一くん、弱くなんて、ないです」
     吐いた白い息は柔らかく、そして、くっきりと輪郭を描いていた。

    ●世界
    「そんなはずが、っ」
     灼滅者たちの声と体の内の抵抗、その二つへと吐き捨てながら六六六人衆が走る。向かうのはただ一点、出口。
     そちらを背に取り、ロジオンが魔導書を繰る。
    「闇の先、通せや通せ!」
     纏う鎖が瞳へと集まり始める。その場を動かない。
     公平の足許から黒い刃が走る。いや、刃の形を成した影だ。
    「あなたの相手は私です」
     踵へと襲い掛かる一撃が、駆ける足を鈍らせた。滴る血に滑り、フデカズが舌打ちをする。
    「殺人鬼同士、仲良く殺し合いでもしましょう」
     さらりと口にするが、目尻では一般人との距離を計っている。筆一のものである肉体への配慮も忘れていない。
     足を止められて眦を決したフデカズは、よろめきながらペンを構える。
     しかし、掲げたその手が次の瞬間、大きく跳ねた。ペーターのダイダロスベルトに甲を貫かれている。
    「……っ」
    「仕事じゃない。第一俺は、絵画は作者より実物で選ぶ派です。写実主義ならコローのアトリエが緻密で素晴らしかった」
     ダークネスの手を止めて、自分の好きなものを語る。筆一とならば、趣味の話だとてできたのだろうから。
     なのに、今はただ荒い息が返ってきた。
     傷付いた手を冷たい床につき、震える膝を立たせてフデカズは出口へと向かう。ペンの先は小刻みに震えているが、未だ誤った線を引こうとしていた。
     その先に立つロジオンの魔導書が、はたりとページを翻す。
    「場面の一瞬一瞬を切り取るのが絵なら、学園生活で切り取れる美しい場面がまだまだあるではありませんか。それを経験せず闇に飲まれるなど、私が許しません」
     生じ始める光は彗星のそれ。闇からの出口を示すかのように輝く。
    「戻ってきてくださいませ!」
     思い切り引き絞ったその光を、ロジオンは一気に放つ。
    「舞うは光条、射貫けや射貫け!」
    「ッ……あああっ!」
     真っ直ぐに走った光条は、六六六人衆の体を打った。苦痛の声と共に吐き出した真っ白な息が薄っすらと輝いている。
     凍て付く床に背から叩き付けられたが、大きく跳ねて落ちた彼はそれ以上の弱音を吐かなかった。大きく見開いた目にまず高い天井を映し、ぐるりと首を横に巡らせる。
     筆一の目だ。皆の無事を気にしている。
    「大丈夫ですよ」
     ペーターが扉を開けた。まるでついでであるかのように毛布を投げて、一般人たちの退避を促す。
     幾つもの靴音が脇を駆け抜けていく。暖かい世界へ。ついえた者は一人もいない。
     それを全て聞いてから立ち上がった筆一を支え、一番最後となって皆が外へと踏み出す。
    「ああ……」
     夏の日差しは驚くほどに眩く、そして、美しかった。
     

    作者:来野 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2016年7月14日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 5/感動した 0/素敵だった 0/キャラが大事にされていた 2
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