思い出せない想い

    作者:るう

    ●あてもなく街を彷徨いながら
    「……っかしーな、誰だったかな……」
     黒いコートに黒いシャツ、黒いデニムの大学生は、苛立った様子で頭を掻いた。誰かを探してはいるのだけれど、顔や名前も判らない。そればかりか性別や、どんな理由で探しているのかすらも思い出せない。
    「あームカつく……とりあえず、コーヒーでも飲むか」
     仕方ない。偶然目についたコーヒーショップで、一服しようと試みた。席を探して見渡せば、睦まじいカップルや家族連れ……何故だか、そんなのばかりが目に留まる。
    「……関係あるのか?」
     自問した。
    「へい、彼女」
     試しに、お一人様らしい女性客をナンパしてみる。ダメだ、心のもやは晴れそうにない。
     彼は、どっかりと椅子に身を投げ出した。香ばしいはずのコーヒーも、まるで泥水を啜っているかのよう。

     ……その時、とある会話が耳に飛び込んだ。
    「中島、お前の幼馴染じゃなかったの?」
    「知らねえよ、あんな奴。うぜえし、ブスの癖に生意気だ」
     ちょっと背伸びした少年が、粋がって幼馴染を馬鹿にしてるだけだろう。年頃の男子にはよくある事。
     なのに……何故?
     抑えきれない激情が、彼の全身に駆け巡る。減らず口のガキの首を一撃で刎ね、返す刀でもう一人の方も。さらに、どくりと影が鼓動した瞬間、隣の席の男女が同時に息絶える。
     ああ、溢れ出る感情が止まらない。みんな、みんな死んでしまえ……!

    ●武蔵坂学園、教室
    「大変! 六六六人衆が喫茶店で大量殺人事件を起こす未来が見えたの!」
     須藤・まりん(高校生エクスブレイン・dn0003)が予測したのは、憩いのひと時が凄惨な血に染まる午後だった。男はその場に居合わせた少年の発した言葉に逆上し、カフェにいた客と店員を、手当たり次第に惨殺するのだ。
    「その犯人は、ガイオウガとの戦いで闇堕ちした、立影・龍牙(黒衣の死神・d18363)さんみたい。みんな、犠牲者が出る前に事件を止めて、無事に立影さんを助けてあげて!」

     どうやら闇堕ちした龍牙は、誰かを探し回っているらしい。彼がカフェに立ち寄るのもその一環で、事件を起こしたのは彼自身も予期していない偶発的な事だ。
    「だから、立影さんが事件を起こそうとした時に止めるのは、難しい事じゃないと思うよ」
     そう、まりんは説明する。灼滅者たちがカフェ内に客として紛れているくらいなら、彼は気にはしないだろう。むしろカフェに来る前に先手を取る方が、彼に察知され逃げられてしまう可能性は高い。
     ……が、それだけでなくもう一つ、そのタイミングでなければならない理由があるのだ。
    「六六六人衆の苛立ちの原因は、立影さんが『幼馴染』を大切に想ってるせいみたい。だから、自分は予定外の事件を起こしてしまうくらい強い想いを抱いてるんだってことを思い出させてあげれば、きっと立影さんが戻ってくるための助けになるはず!」
     まりんも詳しくは知らないが、どうやらそのキーワードは灼滅者としての龍牙にとって、非常に重要なものであるようだ。これは彼を救い出すための、最大の鍵となるだろう。もしかしたら、六六六人衆の力を殺ぐ事に繋がるかもしれない。
     けれど、つけ加えるまりん。
    「もちろん、だからって戦術を疎かにしたら、助けられるものも助けられなくなっちゃうけどね」
     本来の龍牙よりも感情豊かに振る舞い、この度は思わず激情に身を委ねてしまう彼ではあるが……実力者と交戦するとなれば話は別だ。
     ひたすら冷たい戦術眼に、自分が死ぬ事なく相手を殺せるのであれば、どんな手段も辞さない狡猾さ。その上、灼滅者であった頃に使っていた武器の技を、既に灼滅者の限界を越えて使いこなせるようになっている。もしも今回の機会を逃したならば、恐らく、今後彼を救う事はできるまい。
     でも、まりんは悲観はしていない。
    「強くて狡猾な敵なくらい、みんなにとっては慣れたものだよね? だから、みんな……喫茶店にいる人たちも、立影さんも、しっかり助けて戻ってきてね!」


    参加者
    羽柴・陽桜(ねがいうた・d01490)
    神凪・陽和(天照・d02848)
    神凪・朔夜(月読・d02935)
    壱越・双調(倭建命・d14063)
    榎本・彗樹(自然派・d32627)
    篠崎・伊織(鬼太鼓・d36261)
    三影・紅葉(中学生・d37366)
     

    ■リプレイ

    ●束の間の平穏
     なんでもない場所。なんでもない時間。
     それが悲劇に変わる事など、どうして放っておけようか?
     そして、大切なモノを忘れてしまい、他者も、自分も傷つける立影・龍牙を、どうして救わずになどおれようか……たとえ、彼とは面識のない榎本・彗樹(自然派・d32627)であったとしても。
     縁もゆかりもない。だが、助けに来た。
     その言葉が最も彼の決意を象徴する。
     一度、隣の席で他愛もないお喋りに夢中な少年たちに目を遣ってから、彗樹は深呼吸と共にカップを呷った。
     彼の正面には、篠崎・伊織(鬼太鼓・d36261)の姿。幼馴染と呼ぶには少し足りぬが、かれこれ武蔵坂学園よりもずっと長い付き合いだ。
     その伊織も、同じタイミングでカップを啜り。
     トレードマークの鬼の面は、さすがに公衆の面前でつけてはいない……それでも内に秘めたる強い想いは、決して衰える事はない。
     ただの『同じ学園の生徒』でしかない。だから二人がこうしているだけで、龍牙には一般のカップルに映るだろう。そして、少年らの別の側のテーブルを固める神凪家の面々は……恐らくは、兄弟か友人同士と思われるだけのはずだ。龍牙に、灼滅者だと気づかれる心配はない。
    「そろそろ後期中間だけど、朔夜はテスト勉強は進んでる?」
    「この時期に慌てて理科を勉強し始めるのは、陽和だけだよ?」
     神凪・陽和(天照・d02848)と神凪・朔夜(月読・d02935)のやり取りを聞いて、おのずと壱越・双調(倭建命・d14063)の口許には笑みが浮かんだ。
     縁もゆかりもない人間に助けられたのは、双調も同じであったっけ。その時の縁は繋がって、彼を助けたうちの一人である黎明寺・空凛(d12208)は、今では最愛の彼の妻になっている。そして、その空凛を同じように闇から救い出したのが……陽和と朔夜という双子の姉である、神凪・燐(d06868)。
     今では、その誰もが失い難い。陽和と朔夜も、姉が拾ってきた人間がさらに拾ってきた人間なんてものを、よくぞ同じきょうだいと思い、慕ってくれているものだ。そして、きょうだいの誰もと同じように、龍牙も今は亡き幼馴染に、強い想いを抱いているのだろう……そんな事を思っていた時、隣席の少年たちの元で、にわかにトラブルが始まったのだった。

    「済まないが、席を譲ってくれないか?」
     そう声をかけた三影・紅葉(中学生・d37366)に、当然ながら抗議する少年ら。自分が空いてる席に座れと彼らは文句を言うが……だからといって紅葉の方も、彼らをみすみす龍牙に殺させるわけにはゆかぬ。それを正直に言ったとて信じてや貰えぬのがもどかしい限りだが。
     しばらく続く押し問答。その間に龍牙が到着してしまいやしないかと、羽柴・陽桜(ねがいうた・d01490)はどうにも気が気じゃなかった。
     仲間のために血路を拓かんと、闇に魂を預けた龍牙。後から知った事ではあったが、陽桜も垓王牙焔炉に辿り着き無事帰還できた一人として、彼の覚悟に助けられたのだ。その恩を返す事が叶わなければ、彼女は彼に、返しきれぬ貸しを作る事になる……。
     けれども燐が立ち上がった事で、問題は辛うじて解決に至るのだった。お姉さんに「ここは君たちが大人になって」などと囁かれては、ホイホイと燐の指す入口付近の席に移らない男子などいない!
     いそいそと移動する少年たち。新しい席に座った彼らの話題が今しがた起こった出来事へと完全に移ったちょうどその時……扉から、漆黒の服装に身を包んだ学生が現れた。

    ●御しきれぬ衝動
     面白くなさそうにコーヒーを注文した龍牙の視線が店内を見渡す。その動きが僅かに自分たちのところで止まったのに気づき、陽和はその時が近づいてきた事を悟るのだった。
    (「手はず通り、一般の人たちの誘導はお願いね、朔夜」)
    (「もちろん。陽和こそ龍牙さんを抑える役、頑張って」)
     そんな視線を交わしあう双子。辺りの人々は当然ながら、これから起こる惨劇など想像だにしていない。
     龍牙のおざなりなナンパは当然、通りすがりの女性には軽くあしらわれ。忌々しげに、けれども何故だか安心したように彼が席に戻ってきた時が……作戦開始の瞬間であった。
     何の気なしに携帯を取り出して、最初、紅葉はどうでもいい世間話のフリ。
    「聞いてくれよ田中。中島の幼馴染さぁ、最近モテてるらしい!」
     こんな演技で食らいつかせる事ができるのか? そして……彼の怒りを受け止めきれるのか。
     不安でないと言ったら嘘になる。が……ここまで来たら最後まで、この小芝居を続けてやるだけだ。
    「ハハッ、あいつバカだからどうなるか楽しみだな。あんなブスな顔なのに……」
     そう言いかけたその瞬間、膨れ上がった強烈な殺気! 同時に放たれた首筋への太刀は左の手の甲で止め、腹への刺突は右の手の平で払い、紅葉はできる限りの情けない声を作る。
    「やめろ! 死ぬ!?」
    「だったら、大人しく死ねばいいんじゃね?」
     にわかに騒然とする店の中。本来、紅葉の役割を追うはずだった少年たちは、既に怯えて逃げ出していた。その周囲にいた人たちも、店員も、一目散に店の外を目指す。
     けれども店の奥側で朔夜が見たものは、状況を恐怖の面持ちで眺めながら、逃げ場を探していた客たちであった。もちろん朔夜がその気になれば、一人ずつ護衛しながら戦闘の脇を通りすぎる事もできなくもないが……。
     どうしようかと見回した目が、その時、店の奥の頭上に輝く緑の灯りを捉えたのだった。
    「燐姉! あそこ!」
     内装の中に紛れていた非常扉を指差した後、彼はすぐさま踵を返す。
     二階では、空凛が姶良・幽花(高校生シャドウハンター・dn0128)と共に、人々が一階に降りぬよう食い止めている事だろう。
     だから、向かうのは血の匂う方。もう、戦いは始まっている。

    「何やってんだ!」
     揉み合うところに、力ずくで彗樹が割り込んだ。その姿と、彼の後ろで鬼面を被り、彼の力とならんとする伊織の間に見える絆は……ああ、龍牙の脳裏に囁いてくる、どうしても思い出せぬ大切な『何か』。
    「あーあ。なんでこんなにイラつくかな……」
     再び、龍牙は刀を振り上げた。けれども、それを獲物に突き立てる前に、陽和の爪が邪魔をする。
     ああ眩しい。神々しき獣をその腕に擁いた彼女は、まるで太陽の輝きのよう。なのに、それは荒んだ龍牙の心の内を、僅かたりとも癒しはしない。
    「なんかさ、人間ってみんな光ってるじゃん?」
     彼はへらへらとした顔を見せるけど……それは、すぐに憎悪に変わった。
    「それさ、オレ……全部、オレへの当てつけみたいに見えるんだよね」
    「龍牙さん……それは、貴方がその『大切な光』を忘れてしまったからではないですか?」
    「光? あー、この刀、いい感じに光ってると思わね?」
     再び刀! ……と思わせておいて、本命は足元から膨れ上がらせた影。この苛立ちがどんなに苦しいものか、原因のガキにも解らせてやる……!
     けれど、くぐもった悲鳴を上げたのは、紅葉ではなく陽桜の『あまおと』だった。
    「チッ……」
     舌打ちする龍牙。霊犬を取り巻くように覆っている陽桜のダイダロスベルトのせいで、影は包むべき相手から外れたばかりか、誤った標的すら思うように傷つけてはいない。
     彼は再び紅葉を睨んだ。先程、彼が切り裂いたばかりの標的の手は、双調の生みし法陣を受け、天魔の力を宿している。
     厄介な事だ。だが……文字通り矢継ぎ早に癒しの矢を構える双調の狙いは、守りよりも攻めにこそありそうだった。ならば……自分が死ぬ前に敵を殺してやれば、龍牙の苛立ちも和らごうというもの!

    ●忘るべからざる存在
     吹き荒れる殺意の暴風が、店内を廃墟と変えていた。
     真っ二つに割れて転がる丸テーブル。砕け、中のサンドウィッチを押し潰したショーケース。壁に、幾つもの赤が飛び散ってはいるが……その中に、命奪われた者のものはない。
     とはいえ双調の支援重視の回復姿勢が、攻勢を有利にする反面、紅葉にしわ寄せをもたらしていたのも否めなかった。
    「なぁ? いい加減に終わってくれねぇの?」
     苛立ちを抑えきれない龍牙の腕が、目も止まらぬ疾さで舞い踊る。影すら残さぬ剣技の後に、開くは紅い疵の花。
     けれど……その血を流れるままにして、彗樹はただその刀を振るうのだった。刃が生んだ風の渦のように、鋭い意志をその瞳に湛え。
    「……先輩。そのままでいいのか? 大切な何かを忘れてしまったままで」
     六六六人衆の冷たい瞳をも、その眼差しは貫かんとする。思わず、龍牙が間合いを取らんとすれば。
    「思い出したいとは思わないのかい? 大切なもの――守りたいものがあるんじゃなかったの?」
     まるで逃がさじと言うように、伊織の拳が背を突き飛ばす。その鬼の面の憤怒の表情は、それを忘れてしまった龍牙を怒っているようで、そして悲しんでいるようで。
     ……でも。
    「オレさ、そういう重たいの、知ったこっちゃねーんだわ」
     六六六人衆だから人を殺す。それ以上に大切な事なんて、龍牙の中のどこにあるものか。今、どうしようもなく紅葉を殺したくなっているのも、彼が六六六人衆だから以外の理由があるわけがない……わけがない、はずなのに!
    「てめぇ、俺が『幼馴染』の事を話してたらキレたよな? てめぇと幼馴染の間に何があったのかは知らんけど、てめぇもそいつもキモいよ!」
     紅葉が挑発してみせた直後……真っ白になる龍牙の視界。再び彼が気づいた時には……紅葉が、壁際に崩れ落ちている。
    「演技とはいえ馬鹿にして悪かったな……でも、これで少しは判ったろ」
     何故だか遣り遂げた微笑を浮かべ、うわ言のように呟く紅葉。そんな言葉になど耳を傾けず、今すぐ止めを刺せばいいと解ってはいるが、どうしても、龍牙の腕は動かない。左手に太刀、右手に脇差をぶら下げて、しばし呆然と立ち尽くす龍牙の前に……紅葉を庇うように立った双調は、まるで諭すように語りかけた。
    「思わず激情に任せてしまうほど、貴方は『幼馴染』という存在を大切に思っていらっしゃるのですよ」
     言葉の意味を彼が噛み締めるまでは、まだ、もう少しかかるかもしれない。
     でも、双調だけではなく朔夜だって、彼が思い出してくれる事を信じている。
    「龍牙さん。貴方は『幼馴染』という存在を侮辱した紅葉さんを見て、心が怒りに支配された。何故だと思う? それは貴方自身に幼馴染の方が実際いらっしゃって、その方が侮辱されたように感じるから」
     なのに、龍牙は思い出せない。認められない。認めたら……自分が間違った存在である事もまた、認めてしまう事になるのだから。
    「いねぇよ……そんな奴!」
    「あたしは、知ってます。あなたはあたし達を、確かに守ることができました」
     どす黒く広がる龍牙の影を、陽桜の祈りが生んだ清浄な風は、仲間の誰にも当てさせはしなかった。
    「あたしは思います。その言葉に感情が揺れるのは、あなたの心が、その存在をちゃんと憶えているからだって。守りたいって強い想いの原点が、そこにあるからなんだって!」
     そんな祈りに伊織と彗樹も手を重ね、先輩、と二人で声を合わせて。
    「先輩には、大切なものが……守りたいものがあるんじゃなかったの?」
    「それでいいのか? 守りたいものを……『幼馴染』の事を忘れてしまったままで」
     伊織は、そのままではいけないと。彗樹は、その事を思い出せと。彗樹はその剣に全霊を委ね、伊織はその拳に全力を込めて……。
    「「闇に呑まれるな! 闇に打ち勝て! 立影・龍牙!!」」

    ●忘れ得ぬ想い
     何故、せせら笑えばいいはずの言葉が耳から離れぬのだろう。
     背をカウンターにもたれさせながら、龍牙は思わず自嘲する。余計な感傷など斬り捨てていれば、こんな苦しみなど味わわなかったろうに。
     四肢は幸いまだ動く。けれど、どうにも……体全体がダルい。刀は変わらず鋭かれども、それを振るうための気が滅入る。
    「私には、護るべき家族がいます」
     眉間に『太陽牙』を突きつけて、陽和は龍牙の瞳を注視した。
    「もし、そのうちの誰かの命が脅かされるなら、私も命を賭すでしょう」
     すると二階の避難を終えた空凛も下りてきて、たとえ血のつながりはなかったとしても、神凪の義きょうだいは皆そうなのだと述べる。
    「もちろん、誰かが侮辱を受けた時も、我が事のように憤ります……ちょうど、貴方がそうであったように」
     だから、龍牙がどんなに否定をしても、龍牙にとっての幼馴染は大切なものなのだと陽和は説くのだ。
    「貴方のその想いの原点は誰か? さあ、思い出してください!」
    「チッ……!」
     どうにか、太陽牙を太刀の腹で払い退けた。このまま、すぐにでもこの場から逃げ出したい……でも、それを妨げるように組みつく朔夜が、その試みを許さない。
    「龍牙さん、それほどに大切に想っている方を忘れているなんて、悲しいよ!」
     壁に思いきり叩きつけられて、朦朧とする龍牙。その脳裏に閃光のように、誰かの姿が横切った。
     ……あれだ。
     あの人こそが、探していたはずの人。思わず虚空に手を伸ばした時に聞こえてきた双調の言葉に、何故だか熱いものが込み上げてきて。
    「貴方は誰よりも、その方を守りたかったのではないですか?」
     ようやく、彼は見つけたのだった。自分が、ずっと探していた人を。遠い、記憶の中にだけある人を。
     それでいい。そう、強く優しい声をかけながら、伊織は彼の腱を断ち切った。
     今や、彼が逃げる事は叶わない。戦いの場に背を向けて駆け出す事も。そして、苛む記憶を振り払う事も。
     彗樹の剣が宿る邪悪を、一刀の下に切り伏せた。最初は闇のようにどす黒かった血が、次第に、赤みを帯びてくる。
    「まだ、誰かを守りたい心があるのなら、お前はそちらの住人ではない。紛う事なきこちらの住人だ!」
     そんな彗樹の言葉を聞いて、ああ、とうわ言のように呟く龍牙。
    「悪かった……。そいつは、そんな事をしたら『オレ』に殺されるかもしれないと解って、『俺』にその事を思い出させてくれたんだろう?」
     横たわる紅葉に向けた眼差しの中に、今までの鋭さは見て取れなかった。
    「ええ。この子たちが私の全てであるように、それが龍牙さんの人生です」
    「『かけがえのない誰かを守りたい』……その信念は、正しき心をもって、貫くべきです」
     燐と空凛も言葉を添えれば、龍牙は静かに頷いて。
     けれども彼は……もう一度だけその刀を構えたのだった。

    ●そして……
     激しく踊る剣と影。その技は六六六人衆としての彼そのものであり、再び瞬く間に周囲の全てを傷つける。
    「あなた自身が帰ってこなくちゃ、ただいまって言わなくちゃダメなんです!」
     皆に危険を報せるのが間に合わない。それでもどうにか食らいつきながら、必死に龍牙に呼びかける陽桜。どうにか戻ってきてくださいと、懇願するような祈りが洩れる。
     でも……その攻撃を受け止めた陽和には、それが今までと何か違っていたように思えてならなかった。彼女がふと首を傾げた瞬間、朔夜の魔力が敵に炸裂する。
     まるで満足しているかのように、龍牙は微かな笑みを浮かべて弾き飛ばされた。その姿をじっと見据え、なるほど、と納得した様子で頷く双調。
    「貴方も、早く闇を吹き飛ばして貰いたいのですね」
     そうだ、と伝えようとするように、龍牙の口許が小さく動いた。彼が、どれだけ望んだとしても、闇はその力を奪われるまで、彼の大切なものを大切になどしてくれないのだから!
    「なら……俺は先輩のために」
     彗樹の放った風の刃が、最後のどす黒い何かを持ち去っていった。
    「ありがとう……そして、こんなに大切な事を忘れてしまっていて、本当に済まない」
     頬を涙に濡らし、誰へともなく謝ってから膝をついた龍牙を前に、もう、伊織の鬼の面は必要ない。
     ぐいと面を持ち上げた彼女の左目には……。
     無数の傷を負いながらも在りし日の誓いを取り戻した男の姿が映っていた。

    作者:るう 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2016年12月6日
    難度:普通
    参加:7人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 2/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 1
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