蝋燭番の陰

    作者:中川沙智

    ●暮れる頃
    「ラジオウェーブのラジオ放送が確認されたわ。それによって都市伝説が発生しているらしいの」
     小鳥居・鞠花(大学生エクスブレイン・dn0083)が少し楽しそうに片眼を瞑ったのは、気のせいではないらしい。これから語られるのはエクスブレインの能力としての予知ではない。あくまでラジオ放送から得られた情報からの分析や予測である。
    「このままじゃその都市伝説によって、ラジオ放送と同様の事件が起こってしまうわ。皆にはそれを阻止して欲しいのよ」
     鞠花曰く。
     放送内容は、以下のようなものだという。

     地方のとある温泉宿。小さ過ぎず大き過ぎず、程良い規模の佇まいが昨今話題になっている宿だ。
     歴史ある風情が美しい建物で、日中は勿論だが、特に日が傾きかけた頃に玄妙な陰日向を形作る。趣深い光がその手摺ひとつとっても柔らかく包み込む。日本建築の伝統を色濃く映し出すのだ。
     そのため宿では、訪れる客には夕方のチェックインを勧めている。
     日が沈む頃には、建物の随所に備え付けられている蝋燭に灯火を齎す蝋燭番が働き出すのだとか。元々蝋燭番と言えば中世の屋敷に尽力したという職業だが、その技が発揮されるのに東洋も西洋も関係ないのだろう。
     そうして蝋燭が尽きるまで、夜半まではずっと宿の情景を楽しむ事が出来る――はずだったのだが。
     いつしか夜でも灯りがつくのが当たり前になっていた。広めの客室もその例に漏れない。
     蝋燭番の不手際か、あるいは女将の言いつけか。はたまた客が抱いた、光無き場合にどのような彩を持つのかという興味か。単純に隙間風の仕業か。
     ふと、火が消された時に。
     仕事道具である芯切鋏を手に、『蝋燭番』が姿を現すという。
    「どうして、焔を絶やしてしまったのですか」
     影を従者に引き連れて、命の灯火をこそ絶やしてしまう。

    ●闇より出ずる光
    「ちょっと不謹慎だとは思うのよ。でも少しそのお宿が気になるなってのも本音でね、皆が解決してくれたらいつか行ってみたいな~……、なんて」
     頬を掻いて笑顔を傾けるのも許して欲しい、とエクスブレインの娘は嘯く。勿論火が消えた時に出現する『蝋燭番』は真実のそれではなく都市伝説によって生み出されたもの。恐らく宿が繁盛し噂が生じるようになって初めて出現したのだろう。何とも皮肉な話だ。
     このまま放置しておけば、客の命が狩られてしまう。
     だからこそ灼滅者の皆に向かって欲しいのだと、鞠花は告げた。
    「情報を整理するわね。『蝋燭番』はその宿で日が落ちてから、広めの客室の蝋燭の火を消したら出没するわ」
     鞠花が指定した日は夕方から夜のみ学園の名前で借りてあるから、その客室に入る事自体は容易い。その代わり他の光源により明るくした状態で蝋燭を消しても『蝋燭番』は出現しないため、暗闇の中で戦闘が開始される事には注意が必要だ。
     出現する都市伝説『蝋燭番』は一体、その逸話からして怪談蝋燭と断斬鋏に酷似したサイキックを使用すると考えられる。また、配下として出てくる『陰』は三体、こちらも影業同様のサイキックを用いるに違いない。
    「……ここまで言ってなんだけど、これはいつもの予知じゃないわ。ラジオ放送の情報から類推される能力でしかないの。可能性は低いでしょうけど、予測を上回る能力を持つ可能性があるわ。その点は気をつけて頂戴ね」
     あくまで推測でしかないが、『陰』は主である『蝋燭番』を護ろうとするだろう。その傍らで『蝋燭番』が多彩な妨害術を駆使してくるであろう事は簡単に想像出来る。
     十分留意して欲しいと鞠花は注意を促した。
     赤槻・布都乃(悪態憑き・d01959)が『都市伝説を発生させるラジオ放送』を突き止めたおかげで、こうした情報収集が可能になったのだ。対ラジオウェーブにおいて、この機を生かさぬ手はない。
    「上手く成功したら、お宿の陰影とレトロな日本邸宅の雰囲気は楽しんで来れるんじゃないかしら。勿論油断大敵だけど、ご褒美があると頑張れたりもするわよね」
     集まった灼滅者達の姿を眺め、鞠花は不敵に微笑んだ。
    「行ってらっしゃい、頼んだわよ!」


    参加者
    睦月・恵理(北の魔女・d00531)
    奇白・烏芥(ガラクタ・d01148)
    橘名・九里(喪失の太刀花・d02006)
    森田・依子(焔時雨・d02777)
    嶌森・イコ(セイリオスの眸・d05432)
    戒道・蔵乃祐(聖者の呪い・d06549)
    鮫嶋・成海(マノ・d25970)
    烏丸・海月(くらげのくらげ・d31486)

    ■リプレイ

    ●古き良き
     指先まで芳しき飴色に染められる。
     純和風の出で立ちは、踏み入れた者をゆるり誘う。宿は近代が培った利便性は封じているが、その分心を豊かに満たしていく。
    「きれい、ね」
     銀星の双眸細め、嶌森・イコ(セイリオスの眸・d05432)は窓の外を眺める。蝋梅が綻ぶ冬の終わりと今在る和室は随分と調和していて、出来るだけそれを崩さぬように願う。
    「さあ、始めますか」
     木目鮮やかな手摺の触感に微笑み刷いて、明暗揺らめく玄関や庭を通り抜けた。感極まるように睦月・恵理(北の魔女・d00531)が宣言したならば、集まった少年少女達が頷く。
    「お部屋の調度は遠ざけましょ」
    「ええ。空気に浸る前に憂いは断ってしまいましょう」
     内緒話を詳らかにするように、森田・依子(焔時雨・d02777)はイコと小さく微笑み交わす。木製の建物の温かさは愛おしく、此処に在るものに傷をつけたくないが故の配慮だ。
     予約してあった部屋は随分広い。彫刻が施された座卓と座椅子、窓際で寛ぐための談話コーナー一式等を壁際に寄せてしまおうか。そうすれば戦闘に慣れた灼滅者達の事、傷は極小で済むはずだ。
     襖は衝撃で破れるといけないから、代わりに雨戸に手をかける。
    「決して覗かないで下さいね……」
     まるで鶴の恩返しのような心地。戒道・蔵乃祐(聖者の呪い・d06549)は指先揃えて丁重に閉ざした。鮫嶋・成海(マノ・d25970)は座布団を押し入れに仕舞い、広くなった客室をぐるり見渡す。
    「これで動線は確保出来そう?」
    「えと……はい。大丈夫だと、思います」
     烏丸・海月(くらげのくらげ・d31486)が首肯する。手分けした成果だろう、思いのほかスムーズに事が済んだ。
     窓の隙間から差し込む夕昏に瞳が向く。
     鼻腔を擽るは懐古の木の馨。辿れば嘗ての日々に、更にこのまま彼の日へ続いている様な気がした。胸に掌を添え、深く呼吸をする。奇白・烏芥(ガラクタ・d01148)がビハインドの揺籃と頷き合えば、首尾を再度確認するだろう。
    「……では、準備はよろしいですか」
     誰と言わず、諾意が満ちる。
     古き家屋の趣は似合わぬ胸懐を呼び覚ます。しかしながら其れを上回り身を焦がすのは、これから向き直る戦いへの高揚だ。橘名・九里(喪失の太刀花・d02006)の丸眼鏡越しに見据えるのは、焔の裏側にある謂れ。
    「さァ、愉しませて頂きましょう」
     静かに囁けば、影に染み入るかの如く。
     必ず屠ると決意する。
     死角を作らぬよう布陣する。準備は万端だ。出入り口を閉め電灯を消す。残された部屋の隅にある燭台が自然と人目を引いた。
     その蝋燭を燭台ごと部屋の真ん中に鎮座させ、固定する。部屋の四隅にはリモコン式電気スタンドも置いた。各員に装着式ライトも配布する。
     燭台傍に立つのは烏芥と恵理。護り手として火急の事態にも備えた二人は、目を合わせて顎を引く。
     消灯役を担う雪色の少年は五感を研ぎ澄ませ、手を翳した。
     掌を扇にして上から下へ振る。炎が揺れる。
     もう一度煽いだなら細い煙を残して明かりが消えた。

    ●佇み焦がれ往くうちに
     雨戸を閉めた事もあり一気に暗闇が場を支配する。
     が、何かの気配が急速に構築されていく。
    「来ます!」
     仲間を護るための大事な先手を、狙撃手として逃すわけにはいかない。注意を払っていたからすぐに気づいた。イコの声が響くと同時、
    「――どうして、焔を絶やしてしまったのですか」
     ゆらり、燭台の傍から浮かび上がるは蝋燭番。芯切鋏を翻し斬り刻もうとした衝撃を、構えていた烏芥がいなして弾く。相殺が叶ったのを理解した時、部屋の四隅が一斉に閃いた。
     視界が再び光を孕む。
     蝋燭に頼る風情を壊すのは心苦しい。照明を入れたスイッチを手にして、それでもと恵理は瞳を細める。
    「宿の方々が保って下さるその風情を血で汚さない為です……失礼」
     仮面を着用する蝋燭番の表情は読めない。配下の陰は黒一色の居住まいか。事前の情報通り合計四体の陰が出現すると、誰もが包囲を敷き距離を詰める。
    「……命の灯火まで絶やしては、此の宿も畳まざるを得ないでしょう」
     其れは貴方も望む所では無いのではと問いかけた瞳は優しい。向けられた殺気に言葉では事態を収められぬと知るけれど。
    「どうか怒りを鎮め見守っては頂けませんか。此の宿の燈を永く護る為に」
     冀う。
     烏芥の囁きと共に、殲術道具に力を籠めたのは誰か。
     時折瞼を閉じ、暗闇に目を慣れさせておいたのが功を奏した。明滅の狭間にも九里は臆さない。練度の高さも相まって、真っ先に畳を蹴る。
    「何故焔を絶やしたのか? ……逆に問いましょう」
     質問には質問を呈する。狙うは陰のひとつ。書生服を翻し、膝下を滑るように刃を振るう。
    「此の世に消えぬ焔があるとでも?」
    「確かにそうですね。その『何時か』が少々早まっただけでしょう」
     睥睨し、死角から打ち払う。続き、依子が蔓花を模した杭打機から衝撃を伝播させる。前に立つ陰らすべてを呑み込み咲かせて、敵群の足許を疎かにしよう。
     眼鏡越しに視線を流す。重なったのは成海の眼差し、ライドキャリバーの春海と共に連撃を狙った。太陽の祝福浴びたような金の髪が靡く。顎下から拳で突き上げたなら追い打ちをかけるべく盛大に突撃を見舞う。
     連打を浴びせた陰からかなり体力を奪ったと手応えで感じる。が、彼奴らは蝋燭番の前から動こうとはしない。小さな問いが灯る。
    「随分と番人が大事だそうで。……灯がなければ陰の貴方達も存在できないから?」
     回答は特に期待していない。が、想いを馳せる事は許されるだろう。
     その代わりか、迸る影が成海を襲う。一体のみならず三体同時に放たれた黒き刃を腰を低くし構えて堪えた。切っ先は鋭いが致命傷ではないと知り、イコが安堵の息を零しながらも前を見据える。
     その視界に入っているのは、陰ではなく蝋燭番だ。そのままでは先に攻撃を食らった成海を狙うのは明らかだったから。
    「どうぞお相手くださいませね」
     序盤故強化がまだない事を鑑み、銀風帯びる霊光を組んだ両手に集中させる。狙いすまして横っ面を光弾で叩いたなら、その間に海月が癒しの術を編み上げる。鎧の形を成し、海色戴く彼女の傷を少しずつ埋めていく。
    「そういうわけです。あまり上手くいくと思わないほうがいいですよ」
     個人でも用意した光源が、蔵乃祐の横顔を確かに照らす。帯を放出させ生み出した翼は陰を縛り上げ駆逐しながら、青年の冷めた瞳は蝋燭番の挙動を見逃さない。
     だからだろうか。番人が懐で備える蝋燭は赤く紅く炎を上げる。言葉への返答とばかりに蔵乃祐へ焔弾が穿たれるも、その前に立ちはだかったのは恵理だ。酷く延焼する火の粉を叩き落とし、黄昏時に魔女たる彼女は優美に微笑む。
    「お生憎様です。思う通りにはさせませんよ」
     指先に霊光を這わせたなら、もう一度火の粉を払う。傷より凄まじい勢いで広がる炎のほうが厄介だ。少しでも抑えておいたなら、主に回復を担う海月を始めとした仲間の負担が減るだろう。
     ユリ――短く呼ぶ声ですべてが伝わる。揺籃がかんばせを露わにすると同時に、烏芥が獲物に影を宿して振り抜いた。二重の心的外傷を付与された一体は、目に見えて動きが鈍くなっている。
    「ならばほら、ひとつめ。陰を消していきましょう」
     九里の橙の瞳に浮かぶは戦闘の愉悦、それも酷薄なもの。下駄が宙に浮かんだ瞬間、両者の距離はなくなっていた。低く息を吸った直後の拳の連打は残り火の如き気力まで奪い去る。
     まず一体の陰が消滅する。
     蝋燭番の妨害術は侮れないが、残る陰は左程手間取るまい。
     依子は番人と陰の両方を視界に入れながら、心のどこかで古きよきものに感慨深さを覚える。
     陰影に落ちるは惨劇ではなく静寂が相応しい。
    「あたたかな灯火は絶やさせない。そうでしょう?」
     問いかけるは己に仲間に、そして蝋燭番にも届くように。

    ●沈む世界に
     灼滅者達の攻勢は止まない。
     当初の予定より勝ち過ぎていると言ってもいい。
     サイキックの予測から防具の特性を合わせる等、様々な気遣いが積み重なって追い風を醸造した。特に手下を片付ける間も番人に牽制を加えておいた事が大きく寄与している。何度も確実に制約を打ち付けられては、何より注意力が削がれるというものだ。
     その結果、蝋燭番が苛々する気配は誰もが肌で感じている。陰との連携を遮っている以上、後方支援はおろか指示すらままなるまい。
    「うん、こんなもんでしょ」
     蔵乃祐が淡々と魔法弾を射出したなら、最後の陰の鳩尾を貫いた。その痕に罅が走り崩れ落ちれば灰となり、散る。
     炎が揺れども、己以外の影はもう伸びない。蝋燭番は懐の蝋燭を護るように手を翳している。
    「仕事を奪って楽しいですか」
     ある意味職務に忠実な都市伝説は、もう片方の手の芯切鋏を眼前に突き付けている。
    「燃えて頂きましょう」
     芯切鋏を蝋燭に触れさせ芯を少し切る。さすれば蝋燭は青く蒼く炎を上げる。模るは小妖怪の幻影、群がるように襲い掛かられれば自然足取りも鈍る。ターゲットは、後衛陣だ。
    「えと、今、浄化します……!」
     海月は指先から清らかなる風で戒めを優しく祓う。細やかな治癒を心がける少女に背を押された心地でイコは走る。炎を武器へ這わせるサイキックを用意していなかった事を思い出すものの、その源は何より誰より近くにある。生まれた時からこの身に宿れる焔だ。
     だからこそ美しさも危うさも、尊さも識っている。
     夜との狭間に星明りが灯る頃、影で番人を束縛する。一際強く力を籠めた時にカンテラに閃く光は、線香花火に似た星の欠片。
    「燈は尽きるからこそ眩い力を持つの」
     生命と、同じね。
     噛みしめるように囁いたなら、肌で感じるのは確かな手応え。同意を伝えるようにイコの肩を依子が軽く叩いた。彼女が梔子宿す槍から生み出したるは妖気の氷柱、肩口を貫いたなら、攻撃する度にかの身を苛む凍結が広がる。
     足は動き続ける。成海が先程揮った拳で、番人が持つ破魔の力は粉砕した。灯の魅力に託けているだけだと理解するから、今ここで止めねばなるまい。
    「……御役目は十分果たしたんじゃない。然るべき相手に受け渡して、もう眠って良いのよ」
     しなやかな肢体に体重を乗せ、成海は炎の打撃をお見舞いする。融けぬ氷と尽きぬ焔が重複し、蝋燭番の仮面に罅を入れた。春海も続けざまに銃声を轟かせる。恵理が踵から炎を繰り出せば見切られ躱されるものの、その隙を見過ごさず烏芥が揺籃と駆ける。天球儀の瞬きが、道行きを柔らかく包む。
     中段の構えから放たれる、疾く重き斬撃。霊撃が連なれば微かに番人の体躯が揺らいだ。
     逃さない。
    「貴方の命の焔が消える其の前に、精々悦い声で啼いて下さいな」
     此方の耳に届くのならば、だが。九里はそう嘯いて漆黒の鋼糸を手繰る。幾筋もの糸を疾駆させれば一気に引いた。音を立てて斬り刻む。
     血の代わりに焔の陽炎が飛び散る。
     叫びすら焼き尽くされたか、蝋燭番はその蝋燭も芯切鋏も畳に取り落とす。
     灰が舞う。
     だがそれは窓の隙間から注ぐ夕暮れに溶け、霧散した。
     そこにあるのは残り火に似た、玄妙たる蜜色のみ。

    ●灯火ひとつ
     家具を元に戻すのにさして時間はかからなかった。雨戸を開け放てば、先程より沈んだ夕焼けが世界の境界を滲ませている。
     火を移し再び燈った蝋燭の火が、部屋を優しく包み込んでいる。予約の終了時間にはまだ余裕がある。なれば、満喫しようと心が沸くのは自然な事だ。
    「ただ慌しく日帰り、と言うのもね。お茶でも頂いて、帰るまであの古風な書斎で書生気取りを味わって。検討してみませんか……旅情の最後を飾る夕食を」
     茶目っ気を覗かせて、恵理が片目を閉じてみたなら。
    「はい、御相伴に預かりたく」
    「折角です。お茶も此の後も楽しんでいきましょう?」
     幾人もが、賛同の歓声を上げる。僕は遠慮しておくよと蔵乃祐がごろり畳に寝転んだ。広い。心地よさが抜群だ。時間までこの客間で寛ぐと告げれば、誰も異議はない。はたと気づいて、これだけは伝えておこう。
    「寝過ごしたら誰か起こしてね? 置いてかないでね?? ほんとやめてね??」
     あまりに本気で訴えるから、笑いが弾けるのも致し方なかろう。人の気配が遠ざかったなら、蔵乃祐は手足を存分に伸ばして目を細める。
    「畳部屋だ――……」
     本当は温泉にも入れたらよかったけれど、彼の予測通り宿泊客が優先される宿のため止むを得まい。いつか一人旅で来ようと決意するうち、思考が黄昏に溶けていく。
     夕焼けに揺蕩う。
     恵理の後ろを海月もちょこちょこついて歩く。案内されたのは一階の和洋折衷のサロンだ。ランプは中に蝋燭が立つ仕様。ソファに腰を下ろしたなら、琥珀色の紅茶さえ夕日を煮詰めた彩に見える。
     蝋燭を見る度、白く長き髪の老女と暮らした山奥の尼寺の光景を思い出す。
     九里がそろり縁側に近づくと、望む風景すら灯火に染められるよう。
     下駄に視線を向ければ、不意に胸の奥を衝く感傷。
    「……高くて上がり難いと漏らしていた縁側に少し、似ていますよ」
     彼の言葉に少し睫毛を伏せて、成海はティーカップを手に橙の焔を味わう。つい眦が緩められたのは、依子とイコがカメラを手に今ある情景を写し取ろうとしていたから。あとで写真は見せてもらおう、そんな穏やかな視線の先で、依子は一枚一枚を大切に切り取る。
    「揺らぐ火に照らされて……どんなものが、焼き付くかしら」
     蝋燭の生み出す光と闇に不思議な何かが生じるのもわかる気がして、想いを馳せる毎にそれすら被写体の形を成すのだと風情に浸る。
     イコは敢えて縁側から室内を窺う。精緻な彫りの欄間にうっとり吐息を零した。その趣と陰影は不思議と心に馴染むもの。
     幻想めいた現実の狭間に溺れるよう。愛用の旧い一眼は、形見だ。ニッポンの旧き建築物に胸が熱くなるのは、心にこそ焔が宿るから。
    「……なんて綺麗。とうさまが魅了されていらしたのも、解るわ」
     そして娘達は語り合う。情報を寄越したエクスブレインに写真を見せたらきっと喜ぶと笑顔弾ませ、次の機会も是非心待ちにしよう。恵理と海月がもう一度紅茶で乾杯したなら、さて夕食へと向かおうか。

     手と燈火あれば影の鳥が孵化する。
     揺籃と昔遊んだ掌影絵は烏芥にとって慕わしいもの。彼女の小鳥も己の影の隣へ留まったなら、宿のいたるところへ羽搏いていく。
     庭は蝶、長廊下は兎、温泉近くは魚へと姿替え、何より伸びやかに楽しもう。最後は書斎で星となり、夜空へ吸われる様を見届ける。
    「何時か私も、本当に影に成る日が来るのだろうか」
     烏芥の呟きは闇ではなく揺籃に掬われる。重ねた日々は確かに君の袂にある。
     ――其の時は最期迄、君と共に在れたなら幸いだ。

     もし影に成っても、こころの灯りは常に傍らにいてくれる――確かにそう、信じている。

    作者:中川沙智 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2017年2月27日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 0
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