王道を駆けぬけろ!

    作者:矢野梓

     天高く馬肥ゆる秋。芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、あらゆる秋がある中で――10月31日水曜日は決戦の日。すなわち武蔵坂学園のマラソン大会である。コースは全長10キロ。学園から市街地へ、井の頭公園を抜けて吉祥寺駅前へ。さらには繁華街を走り抜け、最後の上り坂を越えてめでたくゴール、学園へ舞い戻ってくることになる。
    「時が来たようだな……マラソン大会の時が!」
     神崎・ヤマト(中学生エクスブレイン・dn0002)はボードをだだんと一叩き。貼られた案内は改めて読むまでもなくマラソン大会のお知らせである。何しろ全学年が覇を争う秋の一大イベントだ。日頃ダークネスとの戦いに明け暮れている灼滅者達にも純粋な勝負事、要するに息抜きは大切なこと。
    「朝食は軽めに、水分補給はこまめにとか注意書いてあるわけなんだが……」
     その辺はまあよく読んどいてくれ――ヤマトは軽く流すと、にっと笑った。まあ周囲に大きな迷惑をかけさえしなければ、たいていのことが許されるのも学園のイベント事のお約束。ここはひとつ気持よく爽やかに武蔵野を駆け抜けて……。
    「てーなわけで、狙えっ、優勝!!」
     大切なのは走りぬくこと、そして勝つこと。そうい言わんばかりにヤマトはびしっと指を立てた。天上天下唯我独尊――そんな風に天を指して。

     マラソン大会とくればやはり注目すべきは記録と順位。正々堂々、武蔵野路を駆け抜けてこそのスポーツの秋である。
    「出るからには優勝したいよな」
     自身も走りきる気満々なのか、ヤマトはにやりと笑った。運動部で鍛えている者、マラソン大会に向けてひそかなトレーニングを積んで来た者、走るのを得意とするものはいくらでもいるだろう。脚力、体力のある者はこの機会を十全に生かしてもらいたいし、長距離の技術がある者は是非とも範を示してもらいたい。とにかく学園が望むのは記録と記憶に残るレース展開。
    「10キロとはいえマラソンだ。ペース配分とかももちろん勝負の一環」
     コースは市街地、公園、駅前と状況も多彩。どこでペースを上げるか、スパートをかけるかで順位は大きくかわるだろうし、これだけの集団が一気に駆け抜けるとなれば、位置取りにも気を配る必要がある。また、市街地はアスファルトやレンガ道、足首を痛める可能性もなくはない。
    「一応要所要所に先生とか生徒会の奴らがいて、コース間違いとかは無いようにしてくれるし……」
     給水ポイントも2,3キロごとに設けてある。熱中症とか脱水症状などへの対応も万全といいたいところなのだが……
    「何しろこの人数だろ、混雑するって可能性もあるからな」
     その点も含んでおいてもらいたい――ヤマトは続ける。給水所には共通の水やスポーツドリンクの他に個人のオリジナルドリンクをおいておくことも可能だ。だが狙ったものを走り抜けながら取るとなると、案外技術と運が必要かもしれない。
    「まあ、その辺のことはこのコース解説見て、じっくり研究してくれ」
     ヤマトは薄いパンフレットのようなものを示した。遠足のしおりのような手作りの冊子で、マラソン大会実行委員が実際にコースを歩いてまとめたレポートのようなものらしい。これで事前情報は全員平等。後は当日の作戦を練るばかりである。

    「こういうわけだから、当然エスケープする奴はいないよな」
     再び一同を見渡すと、ヤマトはにやりと笑ってみせる。
    「灼滅者たるもの、精神の健康も重要なんだろう?」
     そうたたみかける。確かに心を鍛えるのも灼滅者には有効なこと。闇落ちを阻止するのも最終的には心のありよう。ならばマラソン大会の充実もまた、この世の平穏に貢献することにほかならない。
    「ま、サボる奴には魔人生徒会からのお仕置きが待ってんだけどな」
     素直に走った方が身のためだ――言葉にはならなかったけれど、ヤマトの表情にははっきりとそう書いてある。
    「ともあれ、秋の武蔵野路。ゴール目指して駆け抜けろ!!」
     ゆく路はただ1本。王道あるのみ――。


    ■リプレイ

    ●号砲、そして始まり
     時は秋、結実と収穫のとき。武蔵野の空は抜けるように青く、風はゴールへ向かってふき始める。なよやかに咲くコスモスさえも今日ばかりはランナーの後を慕うかのように。そう、今日は武蔵坂学園恒例のマラソン大会。10キロのコースを沢山の生徒が駆け抜けていく。あたかも自身が一陣の風と化した如くに――
    「いくぜーーっ」
    「「おお!!」」
     葛西の掛け声1つ、チーム【3-0】の面々は円陣を組んだ。上位を狙うメンバーも完走狙いの者達も等しく心地よい緊張を味わうスタート前。
    「京夜の金メダルチョコも葛西のジュースも、俺がいただくぜ」
     千早も気合十分に拳を握れば、京夜はチームトップの者の為に作った金メダル――何と中身はチョコレートらしい――を掲げて見せ。その他足用冷却シートやら何やら色々賞品が積み上げられたその傍らでは、靴紐をしっかりと結びながら実と近衛が火花を散らしている。
    「ってか、皆の目が凄くガチな気がするんだ」
     場違いだったかな……一瞬京夜の胸を過ったのはそんな不安。そんな仲間の肩に黎嚇はそっと手を乗せた。その指がさす方向にはスターターが空高くピストルを構えており――。
    『タァン!!』
     澄んだ号砲が秋の空に響き渡ったのは10時ジャスト。広い武蔵坂学園の校庭を埋め尽くしたランナー達が一斉に動き出した。
     まるでヌーの大移動の如く、大地が鳴った。あたかもランナー達にも蹄があるかの如く。その怒涛の先頭をまず取ったのはハイプ。
    「そう簡単には遅れをとらないぜ!」
     愛犬と共に鍛えた足は今日も健在。トップという言葉を使うのは余りに早すぎはするけれど、確かに彼の言葉通り最初のダッシュは重要だ。のんびりと走っていたら身動きが取れなくなる事は必定。これだけの人がひしめく中をすり抜けていくだけの技術を持たない者は当然彼1人ではない。麻美も懸命になって集団の前に飛び出した。
    「優勝商品の聖剣はアタシのものよ!」
     そんな妄想たっぷりの声だけを残して。僅かに置いてきぼりにされた格好の五葉は思わず困惑の表情を深くしてしまったけれど、そこはそれ、数瞬で心の態勢を立て直す。
    (「まずは集団に飲みこまれないこと……」)
     最初に良い位置をキープすればいずれはペースを落ち着ける事もできるようになる筈。淡々と機会を狙うのが五葉だとすれば、朝嘉はファイトむき出して己の位置を確保した。やるからには優勝を――誰もが持っているだろう思いを彼女もまたふんだんに持ち合せていた。今ここで頂点に立つ必要はないけれどいずれは……そう考えをめぐらせた刹那、するりと小さな影が脇をかすめる。
    「え?」
     と呟く間もなく小学生らしい男の子が一瞬振り返った。
    「余は王だ。すなわち……余の歩く道こそ王道」
     アルの宣言は厳かそのもの。周囲は呆然とその小さな背中を見送った。少年は明らかに走っているし、そしてこれ以上にない位器用に、集団の隙間をすり抜けて行っている。王道を堂々という割には随分とテクニシャンなように治胡には思えてしまうのだが。
    (「ま、何はともあれマイペース」)
     治胡には【戦闘部】のメンバーというライバル達がいる。彼らが今どこにいるかなど、すでに判らなくなってしまっているけれど、ここはまずしっかりとついていく事を……。
     校庭を埋め尽くした集団はやがて門を出てロードへと飛び出していく。門を出れば間もなく道は急な坂となる。白焔はともすれば飛んでしまいそうになる足を懸命に制御し始めた。ストライドも呼吸も隅々にまで気を配り、早すぎず遅からずのラップを刻む。レースは始まったばかりとて集団のあちこちから雄叫びにも似た声が立ち上ってきているが、彼の心がそれに乱されることはない。
    「うぉぉぉ、やぁぁぁってやるぜぇぇぇ!」
     見ざる聞かざるの強者がいるならば、調子者もいるのがこの世の習い。優勝してカッコいい所をアピールすれば、下はロリから上はお姉さんまで俺の魅力にメロメロ――そんな妄想に坂道を下る足は羽が生えたかの如く。もっともヒーロー妄想は彼の特権ではなく子羊も同じなのだけれど。
    「北国のニュー☆ヒーロー、羊飼丘子羊 参上!」
     坂の途中であるにも関わらず、既に自分のペースをつかみつつある。恐るべし、小学1年生――余市は舌を巻きつつも、しっかりと自分の時計に目を落とす。走りを乱されない為にはこれが一番。確かに機械は正確だ。ただしすぐ傍を走る蓮璽の笑みに見惚れさえしなけければ。
    「負けませんよ」
     彼に囁かれて余市の頬は耳まで朱色。さてはて2人のこの勝負、これからどんな展開を迎えようというものか。

    ●街並みをゆく風になれ
    「今日は茜も琴音もライバル!」
     勝てるように頑張るよ――町中に入り、ランナーの集団は道路に合せて細く長くなってくる。最初のダッシュを成功させたアナスタシアは自分のペースを作ろうと試みる。さっきまで近くを走っていた筈の茜が数メートル遅れ始めていた。人込みを避け、危険な小石など等も綺麗に避けた茜であったけれど、流石にアナスタシアの脚力にはついていけそうもない。
    (「見事ね……」)
     先頭集団を形成しつつある仲間達。そして後から後からやって来ては前へ前へと貪欲な者達。街並みを走り抜ける集団は早くも熱を帯びたかのような……
    「やーりぃ!」
     そんな集団の先頭に津比呂が躍り出たのは坂道が終った瞬間だった。最初からラストスパート――とばかりに全力、前回の津比呂の前に人影はない。1位という響きがアドレナリンとなって彼の全身を駆け巡る。
    「ペース配分!? そんなもの鳩の餌だ! 投げ捨てろ!」
     意気揚々の叫びは天高く。だが優勝へとひた走らんとする灼滅者の集団はそんな放言をやすやすと容認する筈もなく。瞬く間に集団は彼を飲みこもうと牙をむく。
    (「やれやれ……」)
     初っ端の凄まじいヒートを目の当たりにしつつ、睡蓮が愁眉を開いたのはそれから間もなく。何とかペースが落ち着いた先頭集団の最後尾に位置を確保した辺りの事。その間にも沢山のランナーが飛び出しては飲まれ、また飛び出しては飲まれを繰り返している。だが今はまだ飛び出す時ではない。睡蓮は耽々と周囲を見渡した。爽やかなものとはいえ風もある。陽射しも長距離を走るには暑すぎる。前をゆく面々には十分に盾の役を果たして貰わねばなるまい。一見非道にも見えるけれど、それはレースならば当然の作戦。柊夜もスタートダッシュでトップ集団に紛れ込む事に成功すると、その位置を巧みにキープして。市街地には当然車通りが多い道もある。この位置からならば前方の連中の様子が手に取るようによく判る。柊夜がトップに立つのは彼らがコースに負けてからでも遅くはない。
    (「あれ……」)
     已鶴はいつの間にか浪と逸れてしまっている自分に気がついた。つい先程までかの海色の瞳に笑みさえ交わす余裕があった筈なのに。負ける訳ねーだろ。吠え面かかせてやる――そんな浪の台詞もはっきりと耳に残っている。それなのに。
    (「人ごみに流された?」)
     どうやら自分達の間には沢山の人が壁となってしまったようだ。大集団のレースとはかくも過酷なものなのか。
     確かにレースは過酷であった。たかが10キロとはいうけれど、複雑な市街地を駆け抜けるには余程の鍛錬と計算が必要になる事は早くも実証済みである。【天文台通り中1-A】の永嗣はすぐ前にたなびいていた筈の灰色の髪があっという間に見えなくなった事に呆然としていた。自分のペースが遅すぎたのだとは思わない。だが  神音の刻むリズムは彼のそれをはるかに凌駕していたのだ。武蔵野路を駆け抜けていくその軽快な足どり。だが恐らくそのペースを保ち続けるのは至難の業。
    「厳しいな……」
    「一緒にゴールしようねなんて甘っちょろい事は言わんとですよ」
     一人ごちた神音に恵理の檄が聞こえてくる。確かにそうでもなければ学園のトップを張ろうなんて事は夢のまた夢。ここはもう全力全開と行くべきなのだろう。

    ●風は炎をあおるもの
     集団は怒涛の如く市街地を走りさる。アスファルトをとどろかす足音と周辺住民の割れんばかりの拍手とがあいまって、祭りのような熱気に包まれていた。
    (「そう来ないと……」)
     璃耶はチーム【青薔薇】の先頭でその熱気を全身に受けていた。今は彼女のチームは先頭集団――と呼ぶには数百はありそうな巨大な集団であったが――の中程につけている筈だ。少々後方に追いやられてしまったらしい朗や深雪の姿はすぐに確認する事は叶わなかったが、クラリーベルは何とか彼女についてきている。このままの位置をキープしつつラストまで走り抜けるのは容易ではあるまいが、ともあれベストを尽くせる位置にはいるわけだから――。
    「挑ませて頂きましょう」
     まずは目の前を走る【ひなたぼっこ部】に狙いを定め……後方から追い抜き狙いをかけられている事など露知らず、美咲が目指すのは次なる目標の井の頭公園。スタート30分前に摂ったスポーツドリンクとバナナがいい感じに吸収され始めたのだろうか、彼女の走りは風そのもの。
    「体力だけは昔からあるからなー! 全力全開だぜ!」
     そう言っていた緋世子は少し遅れているようだけれど、彼女の足の速さは誰よりも美咲がよく知っている。いずれ追いついてくる……そんな信頼を心に彼女もまたペースを上げ始めた。
    「むう……」
     懸命に走ってはいても由良と煌介のストライドには歴然の差。膨れた彼女の可愛さに煌介は我知らず苦笑を浮かべ。
    「由良、そんな顔したってこれだけ身長違えば……歩幅違って当然すよ」
     そう言われても彼女の機嫌は直るべくもない。負けませんわよ――かえって炎を滾らせてしまったのかと、怯んだその瞬間、由良の姿がするりと人波に消えた。
    「え?」
     余りに見事に人波をかき分けたその技術に彼はただ目を白黒させているばかり――始まったばかりのレース、始まったばかりの2人の思い。だが前途はまだまだ遼遠のようだ。
     人ごみの中にといえば杏も御同様。スタートダッシュでは妹を寄せ付けもしない実力を誇る彼だったが、この大集団の中においては小さな妹、蒼月・悠の方が遥かに小回りが利いたらしい。最初の給水地点で悠はパシャリと水をかぶると、一気に人波の中に切り込んで行ってしまったのだ。小学生と一緒だとお互いに辛いからゴールで会おう――レース前にはそんな事も約束していた兄妹であったのだが、どうやら結果は予想を大きく覆しそうである。
     同じ頃先頭集団の中でも更に先頭に近い位置では【戦闘部】の面々が死闘を繰り広げようとしていた。最初期から治胡がかなりいいペースで引っ張ってくれたお陰を被って、煉夜は着実に自分のペースを組み立てつつあった。そうなれば周囲を分析する冷静さも自然と働くようになってくる。もう暫くすれば最初に無理なスパートをかけた面々がばててくる。追い抜きをかけるのはそれからでも遅くない。
    「俺のハートが真っ赤に燃える! 間乃中爽太、燃えていくぜ!」
     爽太の飛ばし具合は少々気にはなるが、その足取りは確かだし、治胡姐だけには負けないっす――喋る元気も十分にある。これならばうちのチームはかなりの成績を残せるはず。
    「皆凄いね」
    「うん、凄いですね」
     そんな先輩達を観察しているのは歩と空。だがしかし応援客に言わせるならば、こんなデットヒートのトップ集団に涼しい顔をして混ざっている小1・小6コンビの方が脅威という事になるのだが。まあ、何はともあれこれが武蔵坂学園のマラソン大会。年齢差も性差も関係なし。大雑把と切って捨ててしまえばそれまでだが、味わい深いといえば確かにそういう面もあるのだから――くすりと来栖は笑みを零した。初めてのマラソン大会。それがここまで混戦であるとは正直予想してはいなかったけれど、
    (「……僕は負けるのが大嫌いなんだ」)
     それは自分自身に告げる言葉。最後の瞬間に笑うため、彼は今我慢の時をひた走る。

    ●炎達が奔る
    「おめぇら、任せたぜ!【武刃蔵】の力、見せてやんなぁ!」
     重太郎の声がかき消されるように後方の集団の中に飲みこまれていった。恐らくは天高くサム図アップをしているのだろうが、刃兵衛と友衛はただ互いをちらりと見やっただけで、振り返る余裕は持っていなかった。先頭の大集団から遅れること数秒、こちらの集団は前のそれにまして巨大なものだった。この調子で10キロを走りぬくとは無謀のようにも思える刃兵衛。だがこれもまた鍛錬と思えば何やら楽しくなってくるから、灼滅者というのは手に負えない。実際友衛は先程から更に前へ行くタイミングを目で測っている。
    「ここでついて行けない様ならば、所詮それまでだろう」
     きっぱりとした宣言はいっそ天晴れ。にっと笑う友衛に刃兵衛もまたにこりと笑みを返す。この勝負どうなるかはまだ見えない。だが必ず走り抜けてみせよう。
    「みゃーっ」
     走りには個性が出る者というならばこすずの走りは間違いなく彼女の性格を物語っていた。
    「負けませんみゃッ! 正々堂々勝負ですみゃッ」
     敵にだって塩を送るみゃ――小うるさい程の元気さで放り投げたのは特製スポーツドリンク。とはいっても単に粉を溶かしただけのものなのだが、彼女に言わせれば気合入れて溶かした、のだとか。
    「おうよ、バトルしよーぜ!」
     塩を送られた敵――誠の方もドリンクを一口飲むと、ポンと飴を放ってよこす。
    (「仲がいいことだ……」)
     後方でその現場を目撃したクラスメイト、鏡はくすりと笑った。ああやって切磋琢磨していれば自分達のクラスの成績も上がるだろう。無論鏡とて彼らに後れをとるつもりは露程もない。よし行くか――漲る気合は十分以上。こすずと誠が互いに気を取られている隙に、さらりと抜き交わしてくれよう。ここにまた1人ライバルが誕生した瞬間である。
     クラスメイト、恋人達によって繰り広げられるマラソンという名の語り合い。不甲斐ない結果だけは絶対に避けようと瑛も一生懸命だ。何しろ負けた者に授けられる栄誉というものが……セーラー服姿だというのだから。疲れても下を見ずただ前だけを――そうすれば酸素沢山取り込める。そんな知識を反芻しつつ、瑛は足を動かし続けた。
     片やセーラー服を恐れるものあり、片や着物で風となる武者達あり。そろそろ井の頭公園が見えてこようかという地点で、晶はそれまで共にいた修をちらりと振り返った。レース前に打ち合せた拳の熱は未だそこにある。だが修にはこれ以上のペースアップは難しいように思える。
    「手足の長さで負けても、足の速さでは負けないよ」
     張り上げる声は確かに元気そのもの、着物の袖も小気味よく翻ってはいるのだけれど。晶にしてみれば前をゆく連中に今こそ最初の揺さぶりをかける時。勝負は勝負。悪いなと一言声をかけると彼は着物の裾をきりりとからげた。公園に入ればまた別の駆け引きが始まる。その前に少しでも順位を――修もそんな彼の背中をとんと押した。頼む――そんな言葉は紡がなかったけれども。

    ●公園は別れの場と聞くけれど
     井の頭公園でボートに乗れば恋人と別れる――そんな都市伝説が生れたのはいつごろだったのだろう。だがこの秋、この日の公園に押し掛けたのは恋人達ではなく武蔵坂学園のランナーの群れ。まあその中には恋人達もいたには違いないけれど。混戦レースの第2の山は脱落騒ぎとペース配分。ここまで結構な距離を走ってきた生徒達の一部は栄養補給と称してお弁当に走る者がでてくるし、エスケープを試みるのもまずはここが第1番目という訳で。だがトップランナーを目指す者にとってそんな道は邪道もいい所なのだが、何しろ急にコースを外れられたり、ペースを乱されたりと影響が出ない訳ではないのだ。
    「けど、当然2人でゴールイン目指すぜ!」
     雑木林に入ると黒虎の足元がふわりと柔らかくなった。それまでの固いロードと比べると雲泥の差に思われる。ここは是非とも速さをと傍らに目をやれば琥珀の真っ白な鉢巻がしっとりと汗に濡れている。大集団の中を走り続けた事が彼女の体力を相当奪っていっただろうとはすぐに見て取れた。何と声をかけたものか一瞬迷った黒虎に気づき、琥珀は塩飴を口に放り込んで笑って見せる。黒虎さんもいかがです――問われて彼は迷わず口を開けた。
    「俺にもおくれ! はい、あーん」
     琥珀の顔が真っ赤に染まったのは無論汗のせいばかりではない――。恋人達もかくやの光景に忍と陽菜は何も見ていないふりでするりと脇を駆け抜けた。
    「ぜーったい負けないんだからね、忍おにーちゃん!」
     陽菜が可愛らしい声をあげたのはわざとだったのか違うのか、それは判然とはしなかったけれど。見事なダッシュをかけた彼女の背を忍も懸命に追いかける。
    「元には気を付けて、転ばないようにねーー」
     それは遠くなりつつある彼女への応援でもあり、自身の戒めでもある。足元には木漏れ日がちらちらと。木の根っこもそれなりにあることだ。この公園でトップランナー達は柔らかい土のありがたさ時の根や石といった障害物の迷惑とを同時に相手にする事になるのである。
     だが走り難いコースというのは同時に巻き返しのチャンスでもある。序盤ランナーの多さに思うようにダッシュをかける事ができなかった翔。お弁当におやつにと脱落者が出始め集団が細るや、彼は本来の走りを取り戻した。事前の入念なコース研究の成果が出たと言い換えてもいいだろう。ともすれば足を取られがちな雑木林でも、ジョギングを重ねてきた彼にしてみればもう足が覚えているレベルである。だいぶ後方ではあったけれど、円もまた公園内でペースを組み立て直した者の1人だ。
    「うう……腹痛ェ」
     10kmとかマジ苦行すぎる――走る前から弱音を吐き、走る途中では胃痛に悩み、全く彼にとっては散々の大会ではあれど、ここに来てからの彼は快調に順位を上げている。脱落を選んだ者は差っ引くにしても、まじめにこつこつ積み重ねてきた走りに漸く体が順応しつつあるのだろう。自分の体力・体調と実によく相談したペース配分はなかなかどうして。どうやら目標『ビリにならないこと』は自身の努力で勝ち取る事ができそうだ。
    「雑木林はそろそろ……」
     ヴァイスの赤い瞳が林のお終いの輝きをとらえた。順々に列をなしていた筈のランナー達もここを走っていくごとに少しずつ姿を消していく。お陰で彼女は存分に走り、順位を上げる事ができた。その影には彼女の絶妙なランニング・テクニックが存在したことは言うまでもないことだが。もうすぐコースは秋の陽の元に晒される。林に慣れた目にはこの時期の陽光でもかなり眩しく映るだろう。ヴァイスは薄く目を伏せた。そのまま数歩進んだその刹那、彼女の全身を暖かな光が包み込んだ。

    ●煌めきの水を乗り越えて
     水の煌めきは容赦なくランナー達の目に刺さる。穂邑・悠の足が一瞬止まった。それまで結構なスピードにならされていた足がかくんと崩れる。思いがけない罠に彼は1人苦笑い。せっかく積み上げてきたリズムが崩れてしまったのではないかと、不安が疼く。
    「後半ちっとキツイか?」
     だが弱気な呟きはほんの一瞬のこと。前方では翡翠の灰色の髪が金の陽射しを浴びて輝いている。そう、彼の前にはまだまだ人がいるのだ。悠はすぐに気持ちを立て直すとテンポよいリズムを刻み始めた。後方からの追い上げに気がついたのか翡翠もまたペースを上げて。長閑にボートなどが浮ぶ井の頭公園。その水とランナー達の散らす汗と。どちらがより輝いていたものか、それは神のみぞ知るといったところだろう。
     後方からの追い上げが急激に盛んになるならば、前方の方にも同じ現象が起きるのはごく普通。脚力の割に運よく先頭集団に紛れ込むことができたタバサ。今彼女は水を得た魚のように生き生きと池の端を走り抜けている。給水に栄養補給にランナーが出たり入ったりし易いこの区間、1つ判断を間違えば大きく水をあけられてしまう区間でもある。タバサの作戦は周囲のリズムに合せていけるところまで行く事。途中で体力が切れるならそれもまた運命。
    「多分今は……20~30位前後」
     レースを1時抜けた者の数は大体――ここでのタバサの観察眼は実に的確だった。そしてその対処方法も。たるいたるいと言っていながら、何が彼女を動かしたのかそれは計り知れない深遠の中。
    「あ~、給水~」
     生き返ったような呟きを零したのはちから。給水のテーブルに近寄ると聡美の投げてよこしたペットボトルを一気に煽った。スタイルは勿論正統派。腰に手を当てて太陽の方を向いてイッキ! 殆ど同時に給水所を通過した蓬が心配そうな色を金の瞳に浮かべたが、力はそれに気づくことなく。この後彼女に壮絶な腹痛が見舞われることになるのだが、それは蓬の手の施せる範囲ではない。
    「そろそろラストに向けて……」
     力を蓄えておくべきところ。蓬は慎重にペースを作り直した。体を休め、かといって冷めさせず――その難しいコントロールを彼女は完璧にやってのけた。
     公園内はあえてコースを違えている者も多い。正規のコースは一番短いものではあるけれど、それが単純に走り易さにつながるとは限らない。殊に水辺は眩しい事もあるし、つい和んでしまうという理由で避ける者もいた。井の頭公園の長い池の辺もいつかは終る。涼しい風に汗を冷やしたランナー達はいよいよ、武蔵野市最大の繁華街へ向けての疾走を始めることになる。

    ●一足早い紅葉に
     林を抜け、細長い池を長々と巡って、ランナー達がやって来たのは北の森。紅葉や楓がふんだんに植えられたその向こうには吉祥寺駅を望むビルの数々が見え始めている。このあたりの紅葉には今少しの時を必要とするかのようだが、気の早い桜は葉を落とし始め、ドウダンツツジには染まり始めたものもあった。
    「あら……まあ!」
     公園で憩いの時を過していた人々から、微笑ましげな視線が贈られているのはアルカンシェル。誠心誠意、一意専心の走りを見せているにも関わらず、彼女がそんな笑みで迎えられるのは九尾の狐の衣装故。和風の袖を翻すその後からゆらゆらとついていく9本の尻尾。
    (「あれじゃなかったら、もっと早いと思うんだけど……」)
     公園内は調整の意味も込めてペースを落としていた水華は何となく釈然としないけれど、別にあれで真剣勝負が阻害されている訳でなし。ともあれもうすぐペースアップの時がやってくる。公園内に設けられた給水所。ゆったりと喉を潤してゆく水が、体の隅々にまで行き渡るのを彼は静かに感じ取る。さあ――ここからは後半戦。この先は更なる緻密なペース配分でアルカンシェルを打ち負かすつもりであった。
     楓が1枚はらりと落ちた。赤みを帯びたその葉が浮んだ水を捨六が手に取ったのは全くの偶然。真剣勝負に難くなっていた彼の表情が一瞬柔らかく綻ぶ。だが彼は急いでその場を立ち去った。ここは見物客も多ければ、給水に寄るランナー達も最も多い。足を止めればせっかく緻密に積み上げてきた努力が水泡に帰してしまう。
    「よし!」
     捨六は再び時計に目を落とし、後半戦へのダッシュを決めた。現在彼が属している先頭集団は数十人にまでその数を減らしている。そろそろ優勝候補も絞り込まれてくるに違いない。
     トップ集団を見送れば、給水所には次々とランナー達が駆け込んでくるようになる。水を用意するもの、頼まれたスポーツドリンクを渡す者、裏方の仕事もいっそうハードになってゆく。勲はそんなランナー達に熱い視線を送りつつ、職務を全うしていった。
    「陽花……大丈夫?」
     水を渡してやりながら黒々は共に走ってきたパートナーを気遣った。公園内では水辺の気持ちよさにつられるように結構ペースを上げてしまったけれど、果たして彼女は――。
    「心配しすぎ!」
     陽花はくすくすと笑って一刀両断。曰く一千段の階段登って神社に通ってる足腰なめんなー、だそうで。これには黒々もつい噴出して。そっちこそ、わざわざ合せてくれて辛くないのかな――上目遣いに問うてくる彼女に返された答えは無論NO。ならばここからは2人、思い切りゴールへ向かって。
     ここまでレースが進んでくれば起きる事件もドラマも十人十色。
    「おい、ヤバいだろ」
     譲は蜂蜜入りのスポーツドリンクを煉火の手に。受け取る彼女の手は微かに震えていた。どうやら彼女は前半、かなりのスピード勝負をしてしまったらしい。この給水所の手前で譲が追いついた時の顔色は紙のように真っ白だった。
    「――同情は別に要らん」
     彼ら2人、このマラソン大会は雌雄を決する真剣勝負と位置付けてきた。だから煉火としてはここでやめては女がすたる――そんな気分である訳で。パンと彼女の目の前で譲は掌を打ちつける。
    「勝負はついたみてーだからなっ!」
     1人じゃ張りがねーだけで、し、心配しちゃいねーよ!――できる事なら無茶はすんなと続けてやりたいところであったけれども。だが彼女は静かに唇を引き結ぶ。
    「せめて歩いてでも完走はしようかね」
     いや、勝負がついた事を分かってるなら――呟きにくしゃりと髪が撫でられる。優勝は遠くなるけれど、これもまた1つの勝負の形。

    ●人と人と風と人と
     コースはいよいよ折り返し。懸命にゴールを目指すトップランナー達はいよいよ吉祥寺駅前という難関に差しかかる。大きな駅舎は威風堂々、車道には車が溢れ。道をゆく人々も何事かと感心しきり、行事の内容を知れば立ち止まって声援を送ってくれる人もいる。勝負が駆け引きとイコールであるならばこの地こそ、もっとも駆け引きを必要とするところかもしれない。走れる道路が狭くなった分、当然ランナー達の体は近くなる。肩も触れよう、息もかかろうかという近さになって翼は初めて走り難さを意識した。スタートダッシュもペース配分もここまで順調に来ただけに、中々前へ行けないもどかしさは心を逆なでしていくようで。
    「ここは体力温存かな」
     誰にも聞こえない声で吐き出す。ライバルの瑛多はここにきてかなり離されている様子。井の頭公園からが本番と彼は言っていたような気がするが、果たして彼のダッシュがこの道路で通用するだろうか。まあ何はともあれ、ラストの坂を越えるまで油断など決してしない事。瑛多に抜かされるのだけは御免こうむりたいところだから……翼に忍耐の時がやってくる。さて忍耐の時といえばこの時より更に後、優衣がはまっていたのも似たようなものだったかもしれない。井の頭公園では断腸の思いで散歩中のワンコをもふもふする誘惑を振り切ってきた彼女であったのに、今度は目の前を人の背中が埋め尽くす。おまけに駅前の店から甘い誘惑に満ちた匂いがそよそよと。
    「……が、がんばりますよ」
     決断する語尾が震えていたのは同情に値する。給水所から手にしていたペットボトルをちびりと一口。彼女のロードは向かうところに余りにも敵が多すぎた。

     対照的に人ごみを器用にすり抜けて見せたのは山桜桃。ダッシュこそかなり見劣りしたものの、彼女のペース配分と人ごみの僅かな空間を見分ける観察眼は特筆に値すべきだろう。この辺りのビル風は時にランナー達の嫌われ者となるべく吹き過ぎる。体の小さなものなら押しとどめられ、背の高い者なら煽られて――山桜桃はそんな風が作り出す隙間を縫うように通り過ぎていく。
    (「日頃のくせが……」)
     前をゆく青年をすらりと避けて彼女は顔を伏せた。男性恐怖症気味の性格は決して歓迎しているわけではないけれど、案外役に立つときもあるものなのか。

     目標は『力を出し切ること』『最後まで走ること』。それのみを念頭に茉莉はレースを組み立ててきた。その甲斐あってか現在も先頭集団に食らいつくことができている。
    (「残りは……」)
     縦に伸びた集団を1人1人とかわしながら、茉莉の頭脳は残る距離数と時間とを音の速さで計算していた。この先はロードばかり。少々煩わしい事があるとすれば人をかわしていく術か――。勿論これは茉莉に限ったことでない。彼女が抜き去っていったライバル達を続いて抜き去ることになったアシュもまた抜くに抜けないジレンマに神経をすり減らす事になる。
    「大事なのは周りに乱されない事」
     自分に言い聞かせるようにアシュは声を出した。それまで楽しくリズムを刻んできた呼吸を改めて整える。僅かに開いた人垣にするりと忍び込む――それは風が草の葉の間を吹き抜けてゆくのにも似て。

     吉祥寺の駅へと向かう道に何やら名もしれぬ葉がしきりと舞い落ちる。ランナー達の足音をしきりと喜んでいるように。僅かな距離を隔てた線路には遠く山の国へと向かう特急列車が滑り込んできていた。

    ●何よりも速く、何にも負けず
     駅前を走り抜けるのは絹子にとっても決して楽な仕事ではなかった。おまけに今まで特に目立っていなかった【井の頭イッキュー】と【武蔵境イッキュー】が初めて正面からの対立を迎えたのである。ここまでくれば優勝を諦める者は諦め、リタイアする者はリタイアを考え始める。勝負に拘り続ける者達の執念は半端ないものである事は容易に理解できるだろう。
    「皆ーがんばるを!」
     仲間達の周囲をくるくる回りながら走る絹子。それだけでもかなり目まぐるしい印象を与えるだけに、桜花の視覚的疲労は尋常ではない。常に動くランナー達の背中、隙あらばかわしていかねばという緊張感。
    「プロレス部で鍛えているのに……」
     体力には自信があっただけに、このダメージは地味に効く。仲間の1人が崩れれば連鎖が起きるのも無理からぬこと。鞠藻もペースも先程からなんとはなしに乱れがち。一番遅い人に合わせて……というのは鞠藻の作戦であり、思いやりでもある訳だが、この調子では1年9組(イッキュー)勝負の結果が思いやられる。
    「でも、なんとしても武蔵野境キャンパス1年9組には勝ちましょう!!」
     鞠藻の檄に千巻が応えた。
    「クラスの仲間が賭けられた勝負だもんねぇしゃーない……」
    いっちょ全力出してやりますかぁ! ――足音1つ立てずに千巻は前をふさぐ若者達の1角を指さした。行くよ……声になるかならぬかの掛け声でするりとすり抜けて見せる。ついてきて――振り返った彼女の瞳が明らかにそう語った。

     駅を利用する客でもっともごった返すところを抜けると、ランナー達の間に一様に安堵の雰囲気が広がった。ランナー達が通り抜けるまで一般人は遠慮に配慮を重ねてくれているとはいえ、他の選手の肌の熱さまでが感じ取れるような距離はやはり相当のストレスとなっていたのだ。
    「よっしゃ、そろそろいこか」
     神経の切れそうなところを漸く通りぬけて、シジマは大きく息をついた。心技体バランスよく整った彼ならがここから挽回を図ることも夢ではない。あまり持久戦向きではない自覚はあるけれど、そこは工夫で乗り切って行こうではないか。幸い風もさやかに天気も上々。
    「風が気持ちいいな~」
     結果として致し方のないペースダウンも飛鳥にとってはいい休憩になったよう。前半はやや飛ばし過ぎてしまったかもしれないけれど、まだまだ先頭集団に追いつける余地はあるはず。
    (「そうだよな……これからだよな」)
     周囲の呟きは眞の耳にも素直に届く。マラソン大会はようやく折り返し点が過ぎただけ。眞にはまだまだ体力も瞬発力も存分に備わっている。
    「行けるか?」
     新九郎の問いに沙花は青白い顔でうなずいた。
    「偲咲は体力ないなァ~。普段の運動しなさっぷりがよく出てる。すっごい出てる」
     呆れたような響きを新九郎は込めたけれど、むしろ日頃の彼女からすればこの距離でのこの位置は大健闘だと言えるだろう。順位は決して高いとは言えないけれども。
    「お前ならここからでもいけるだろう?」
    「リタイアするのか?」
     心なしか新九郎の声が低くなる。だが沙花がはっきりと首を横に振った瞬間、その表情が和んだ。
    「先に行け――」
     沙花の顔にも微かな笑みが浮かぶ。彼に引っ張られての参加ではあったけれども、事ここに至ったからにはある程度以上の上は目指したいものだから――。

    ●目指すは天の高みまで
     再び戦闘集団に目を戻せば一行は吉祥寺駅前を通り抜け、この街一番の繁華街にさしかかろうとしていた。ここも駅前に負けず劣らずの狭い道。人々の歓声も間際に聞こえ、ランナー達の集中力が最も問われる場面でもある。
    「流れにのって。流れに――」
     風の流れと人の流れと、緋色の目に映るのはどこか似ていてまるで異なる2つの流れ。わずかに開いた間隙を縫うようにして就学したばかりといってもいい少女がロードを駆け抜けていく様は、この夏のロンドンを見ているような気さえして。大多数のも者にとっては鬼門のように見えるこの流れも、緋色は鮮やかに制しきり。体力の点で青年達にかなわないのは致し方ないとはいえど、彼女の頑張りはチーム【HEROES】にとっても希望の星。
    「テンションあげていこうか」
     折角上位数十のうちに入っているのだから――星空の顔から疲れの色がはじけ飛ぶ。つい先程の給水にやや手間取ってしまったのは返すがえすも悔やまれるけれど、まだまだ決着はついていないのだと小さな仲間に教えてもらったのだから。
    「おーう。勝ってモテモテのためにもな」
     太一の陽気な返答に周囲のランナー達からも苦笑めいた笑い声。不思議なことにこうして長い距離を共に走っていると、形のない連帯感が生まれてくるものらしい。共に支えあうチームも、競い合うライバルもこうして一緒に笑いあえればそれは何よりのリラックスとなる。
    「頑張りましょう、きっともうすぐゴールですよっ」
     ドリンクも一杯貰ってきました――晶子の放ったペットボトルは秋の陽射しに綺麗な宝物線を描いて仲間達の手に渡る。首筋に当てればひんやりと疲れがどこかへ消えていく。さあ、ここからはロング・ラストスパートへ――。

    「にしても……中々引き離せませんね」
     やや疲れが見え始めた口調で優雨は走り続ける。【武蔵境イッキュー】の中でも抜群のダッシュ力とコーナリング技術を持った彼女。このままいけば入賞も夢ではないと思われる位置につけながら、ライバル【井の頭イッキュー】をなかなか振りきれないことに焦燥でも覚え始めたのだろうか。
    「負けたら俺が向こうで正座して金魚鉢台にされるとか言われてんだよなあ」
     どこかのんびりとした虎丸のいいように捨六もレイシーもからりと笑った。だが眼だけは明後日の方向を向けたまま。
    「絶対に負けられねえな!!そうだろ、みんな!?なんで目をそらす!?」
     そうはいっても虎丸の金魚鉢台など想像するだけで緊張の糸が切れてしまいそうなのだ。一体誰がこんな和む罰ゲームを思いついたものやら、それはやはり、ライバルチームに聞いてみなくてはなるまい。【井の頭イッキュー】のトップを切って走っているのは黒白。こちらはこちらで負ければ彼が賞品扱いされるとあって気合の入れようも尋常ではない。なるべく落伍者が出ないよう気を配って走っては来たけれど、ここまでくればチームの誰がどこを走って入るのか俄かには判断しがたい。
    「こーなれば行くしかないっスね」
     先に全員がゴールした方が勝ちということになっているけれど、こうなったらとにかく先頭集団のライバルにだって負けたくはない。
    「当然だよね」
     紫が紫の髪をかきあげれば、ほぼ並走していたツェツィーリアも給水スポンジを手渡しながら頷いて。ひんやりと冷たい感覚が火照った肌に心地いい。
    「水分補給がこんなに有難いと思ったのは久しぶりかも……」
     紫の呟きにツェツィーリアもにっと笑った。ランナー達の一行はいよいよ吉祥寺駅前を離れて学園を目指そうとしている。

    ●賑やかに華やかに
     武蔵坂学園のマラソン大会はいよいよ佳境とも呼べる段階に入ってきた。繁華街を駆け抜けるランナー達は買い物客達の好機の的。応援の人並みやら小さな路地やらを利用してのショートカットもできなくはないエリアでもあり、そろそろ単調といえば単調な景色にそろそろ飽きが来る時間でもある。
    (「マジ飽きてきた……天気もいいしどっかで昼寝してぇー」)
     暁仁は自らの苦しさに反比例するような街の賑やかさが何となく恨めしい。王座を射止めるのはまず無理と判る順位にあっては、井の頭公園ののんびりとした景色が何とも美しく魅力的に思えてくる。だからといって戻るのは面倒だし、結局は走り続けることになるのだが……。トップランナー達が通り過ぎてしまえば人々の横断もしげくなる。
    「……走りにく」
     ルイーザは走りながらため息をついた。ただでさえ大きな胸を晒しに押し込める苦労をしている上に、人々の間をすり抜けねばならないこの気苦労。おまけに異国の血の混じった容貌はただそこに立っているだけで衆目を集めてしまう。
    「とっととここを抜けてしまおう」
     いきなりの声かけにルイーザが振り向くと、見知らぬ青年が走り寄ってくる。名を優志というのだということは後で知ったことではあったが。
    「ここさえ抜ければ後はラストだ」
     しかし誰がこんなコースをかんがえたんだが……恨み言なのか苦笑なのか何とも判らぬ口調ではあったけれど、とにかく人込みを通りぬけるのが得意な者同士、知力体力の限りを傾けて。
     さて後方が後方らしい苦労をしているとき、前方でやはり熾烈な争いが繰り広げられている。何をどう取り繕っても語っても、覇者ならぬ王者がゆくべきはやはり王道1本あるのみ。
     ライラは順調にランナー達を抜き去り、5本の指に入ろうかというところまで迫っていた。同じクラスの希や茉莉とは当の昔に距離が開いてしまった。
    (「……二人には悪いけど、負ける気はない、よ」)
     スタート前に宣言したことが思い出される。だがライラは続けてこうも言ったのだ。お互い全力を尽くして頑張ろうね、と。多分彼女達もその言葉を守ってくれている――そんな信頼を心に抱いて彼女は更なる高みを目指す。
     ライラが気にしていた2人がその頃何をしていたかというと、希と茉莉は仲よく(?)給水を終えて繁華街にさしかかっていた。今日だけはライバル――そんな宣言も爽やかに武蔵野路を駆け抜ける2人。その背景に実は『互いの着せ替え権』があることなど一体誰が知っているであろうか。
    「勝って普段は見られない希ちゃんを見るんだからね」
    「ぜってー負けねーぞ!」
     マラソン大会がこんなネタになっているのを知ったら学園長は哀しむだろうか。さて、それは神のみぞ知るといったところだろう。
     トップがいてブービー組がいるならば当然その中間も存在するというわけで。歩夏と春仁はどことも言いにくい微妙な位置で互いの勝負に没頭していた。こちらの勝負にかかっているのはなんとラーメン。いやいや俗っぽいとお嘆き下さいますな。青春真っ盛りの彼らにとってこうした賭け事もまた明日へのエネルギー源なのだから。
    「げっ、マジかよ、絶対ぇ抜いてやる!」
     いつの間にやら水をあけられつつあることに春仁は慌てて腕まくり。渾身の力を込めて走り続けるも、歩夏の巧みなペース配分に揺すられっぱなし。このまま負けては男がすたる――スポーツドリンクを一口含むと、春仁は新たな気持ちでダッシュをかけた。
     こんなそんなで吉祥寺の繁華街は勝負事のるつぼと化している。龍堂・飛鳥も時にはそんな騒ぎを横目に楽しみながら、賑やかな町を走り抜ける。トップを狙うにはいささか距離が空き過ぎてしまっているけれど、これでも十分上位といえる位置につけている彼女である。爽やかな空気に響く自身の靴音を楽しみながら、龍堂・飛鳥は一路彼女のゴールを目指す。

    ●ブランドは自分の中に
     吉祥寺の繁華街は有名ブランドショップや気さくなお店が並ぶ人気スポット。秋晴れの平日、それほどごったがえしていないストリートは華やかでありながら、平穏な落ち着きを見せていた。そこをきりりと眉も勇ましい生徒達がプロのアスリートもかくやという出で立ちで走っていくのだから、物見高い人々にはさぞや愉快な土産話ができたことだろう。もっとも当の学園の生徒達の中でさえ、のんびりとオープンカフェなどで栄養補給しているような人もいないわけではないのだが――だが現在このブランドショップ街を走り抜けている龍宮姉妹にはアクセサリーもバッグも宇宙の彼方の住人にも等しい。
    「お姉ぇが一緒にいる以上はギブアップしないわよ」
     互いに励ましあいながらここまで足を運んできたのだが、実のところ巫女の方にはまだまだ余裕があった。このマラソンのために2人してかなり練習もつんできたし、彼女達は山育ちでもある。
    「ちょっと遅れちゃったかな」
     前方を見はるかすようにした神奈。このあたりまでは体を慣らす感じでと互いに約束してきた。となればそろそろロングスパートをかける時が来ているのではないか。
    「行くか?」
     ぶっきらぼうにも聞こえる姉の声に、妹もしっかりと頷いた。2人の本当の戦いが今この瞬間から始まろうとしている。 
     桜の色をした髪をなびかせて依鈴がさっそうと駆けると金色の目に映るのはハロウィーンの飾りも美しいショーウィンドー。楽しく走れればいいと思っていた依鈴も『負けたらおごり』の一言の前には闘争心を燃え立たせずにはおかなかった。
    「壱先輩には、負けられない」
     背後に紅蓮の火焔でも背負っていそうな勢いに、蛍は気取られぬように噴き出した。なんだかスズが燃えてるなあと思うと、何とはなしに自分も頑張ってみようという気持ちになるから面白い。実際、依鈴は全先輩見習うとかで2キロごとのラップを取りつつ、実に熱心に歩を進めている。
    「でも、先輩たちいないよね」
     イチさんに出逢ったら足の1つもひっかけてやろうと思っていたのに――物騒なことを呟く蛍。だがまあ、全と壱は一体どのあたりにるのだろう。確かあの2人も勝負に加わっている筈だけれど……この時の2人は無論知る由もない。彼らが遥か後方で完走レベルの争いを繰り広げていることを。それはそれで、ものすごく真剣な勝負となってはいるのだけれど。
    「ほんとに興味深いお店ばかりですよね」
     淡々と歩を勧めつつ、彼方は微かに笑った。店はレポートにあった通りの構えで並んでいた。このブランドショップでペースアップ、こちらの店でタイムを計り――徐々にペースを上げて行こうと画策する彼にはなんと都合の良い街だろう。確かに良い店ばかりが並んでいる。けれど、今彼らに必要なのは他人のブランドではなく自分自身。このブランドを磨くことによってしか、勝利はありえない。ならば、目指そうラスト、坂の勝負を迎えるその時までに先頭集団をつかまえることを――彼方のペースが更に上がった。

    ●再び戻る坂の街へ
     繁華街最後の給水地点はその終焉の地に設けられていた。いよいよ最後の難関、上り坂を控え、ランナー達は次々に水を含む。ここからは本当に気力の勝負。繁華街に別れを告げ日常の街へ戻るその道筋が、今はとてつもなく遠く、長く灼滅者達にのしかかる。
    (「10位前後……か」)
     識は前をゆく人影をざっと数えた。できることなら5位圏内に入っているのが理想であったが、これはこれで満足すべき状況だろう。少なくとも今は。この順位で終盤にさしかかれば給水もそれほどの技術は必要ない。だが識は一切の無駄のない動作で水を取った。そんな彼の前方から甲高い、けれど元気な声が響いてくる。
    「小学生だからって負けないぞー! ちょー頑張るー!」
     あああれはとても小さい赤茶の髪の男の子――付近を走っていた者達の頬がゆるんだ。小学3年生というハンデをものともせずに見事上位に食い込んできた俊輔。小さくて軽い体は青年達の間をすり抜けるのには役に立っても、基本的な体力を問われればお話にならないことは当たり前のこと。それでも懸命に走る少年に誰もが心からの尊敬を覚えていた。優勝タイムは30分台の後半になるかと予想されているが、この少年ももしかしたら――そんな期待が徐々に徐々に膨らんでいく。
     上位から遅れること数分、丹はようやく繁華街の終わりをその眼で見た。前半からダッシュもペースも十分以上にやれている自身はあったけれど、混雑に巻き込まれてしまったことが彼の最大の悔いである。
    「できればさあ道勝負は避けたいし……」
     ならばここから市街地を駆け抜けるそのときこそ、丹が巻き返す最大のチャンス。すでにレースの大方を終えたとは思えない程のダッシュで彼は日常の街へとか知りこむ。
     市街地は往路で走ってきたのと同じように心地よい平穏と暖かな応援に包まれていた。アスファルトを打つ靴音も先のようにとどろくことはなく、街全体が今日の勝者を迎えようと固唾をのんで見守っているようにも見えた。
    「……さて、そろそろ先行かせて貰おうか」
     それまで何くれとなく仲間を気遣っていた葵の眼が最後の坂を目前に控えたあたりできらりと光った。先頭集団を王にはいささか距離が空き過ぎてはいるけれど、朔之助、史明たちとの勝負は未だ有効。葵が一気にスパートに踏み切ろうとする刹那、
    「ちょ、おま……あおちゃんずりぃっ!」
     朔之助が慌てふためく。
    「急に加速するとバテるぞ?」
     逃げ切れるとは思わないことだ――史明もまた冷静に突っ込むが、葵は余裕たっぷりに2人を振りかえった。人の心配をする暇があるのか、と――。その一言が2人を発奮させたのは言うまでもない。
    「こうなりゃ…最後にゴールした奴はジュース奢りな!」
     朔之助の提案は自虐の結果として受け入れられた。葵曰く『何を奢って貰うか考えておこう』。また史明曰く『負けると分かっててそんな賭けを?』。なんたる2人の余裕だろう。だがこうなれば3人が思うことはただ1つ。勝つしか、ない。
    「お……ま……え……ら……っ! ぜってぇ負けねぇーっ!」
     闘志とはかくも熱いもの。そしていつでも燃え上がらせることができるもの。マラソン大会はいよいよ大詰めを迎えようとしていた。

    ●天へ向かって登れ
     学園前の坂は下から見上げればまるで小山のように思えた。普段通っている時にはさほどにも感じないものを、こうして長い距離を走ってきた身にはそれは根性悪の集大成のようにも思える。
    「いよいよ……か」
     長く多彩なコースを越えて智巳の10キロが今最後の難関を迎えている。ここまで抑えてきた力を徐々に徐々に解き放つ。位置的には第2集団というところか。ならばこの上は1つでも順位を上げるべし。
    (「後方や前方の敵など、気にする必要はない。我が道を、ただひたすらに走れ!」)
     疾走。疾走。そして疾走。ラストスパートと名付けるにこれほどふさわしいものも、まず滅多に見ることはできないだろう。その智巳のやや前方では魅那斗と龍夜もまた本気の時を迎えていた。吉祥寺エリアからスピードアップにスピードアップを重ね、ここに至る頃にはまるで短距離走の風情さえ漂わせていた魅那斗達。互いに面識はないはずだがこうして並走していると長年の知己のようにも思えてくる。研鑽し琢磨し、そして慎重にスパートのタイミングを計る。この坂は上るとなれば案外長い。最後まで力が切れぬよう、無様な真似にならぬよう――その一瞬を待つ時はもしかしたら永遠ではあるまいか、そんな錯覚に魅那斗は囚われかけ、龍夜は熱中症対策にとつけていた冷たいタオルをかなぐり捨てた。重いものはいらない。ただこの体とこの心に見えない羽が生えてくれれば――祈りにも似たスパートが始まる。
     そして遥か前方坂の上では舞斗がそれこそ懸命の走りを繰り広げていた。彼の前にある戦果は僅かに3つ。素人ランナーとしては40分台の記録を目標にしていた舞斗、その目標記録はもう更新されることが決定的である。にもかかわらず前をゆくあの3人は……。
    「ケニア人でも……いるんでしょうか」
     前をゆくうちの1つは黒々とした肌の女性、もう1つはいかにも幼い子供の背中だ。追いつけそうでいて、決して大きくはならないその背中は6位につけている勇也からでもよく見えた。
    「ここまでよくやったよな、俺」
     謙虚な気持ちで――と念じて走っては来たが思った以上の成果は勇也を舞い心地にするには十分だった。何しろ見た目は大人びていても彼はまだ12歳。流石に高校生らとまじって入賞するのは難しいだろうと思っていたのである。前をゆく本当に小さな小学生と比べれば驚きは小さいのかもしれないが、この小学生たちの将来は一体どんなものになるのだろう。そこがこの学園の計り知れない所なのかもしれない。

    ●デッドヒート、坂の中
     上位を争う者達のラストスパートは殆どがロングスパートの形をとっていた。ゆえに長い坂道の中腹ではランナー達の熱い息遣いが、さながら風の如くに彼らの耳朶を打っている。
    (「慌てない……」)
     璃理はここにきてもなお自身への信頼を揺らぎなく持っていた。空気の流れを読み、人の動きを読んで自分のペースを作り上げてきた彼女。目指すのは『いちばん凄い』。真剣勝負を挑みつつの土星人美少女パフォーマンスは確かに見る者の度肝を抜いたし、驚かせもしたけれど。だが見る者が見れば彼女がきざんで来た神技のようなラップこそが最高のパフォーマンスといいたいのではあるまいか。そんな彼女のすぐ後ろを走るのはウツロギ。土星よりの使者の後に続くのが全身黒タイツだとすれば、見物客達は自分の目を疑う思いをするだろう。ウツロギの存在感は無論スタート時からその衣装の特異さと無駄に美しいフォームとで異彩を放っていたけれど、それがことに輝いたのはやはり吉祥寺以降のこと。肘は直角に曲げ太ももも地面と平行に――後半戦に入ってもまるで乱れることを知らなかったフォーム。それが彼女を22位という驚異的な位置にまで押し上げてきたのだ。
    「……なに、あれ」
     登り坂の入り口に差しかかった駆は誰にともなく問いを発せずにはいられなかった。遠めに見ていてもその完璧さがよく判る。
    「あんなのがいるのか~。やっぱマラソンって楽しいよねー」
     そういう彼女は、胸はゆさゆさ、お尻ふりふり。ぶっちゃけエロすぎるだろとだれもが口を揃えたくなる。まあそれはおいておくにしてもあの体型ではダッシュというのも大層難しいに違いない。だがまあ、ラストはラストどうか駆も心ゆくまで走ることを楽しんでもらいたい。
     上位陣がやがて坂を上り終えようとする頃、文ら50位台をキープしてきたランナー達が最後の難関にあえいでいる。あれだけの多彩なコースを戦ってきた文は正直もう限界に近かった。このまま坂を転がり落ちていけるならどれほど楽か、そんな考えが頭をかすめたのも一再ならず。
    「でもリタイアはしたくない、自分で限界決めたくないです!」
     そう口に出すことで足を前に出すことができる――そんな彼女の思いを弦真と勝魅はほぼ自分の感覚として理解できた。坂の下から殆ど並んで走ってきた2人。上からこぼれてくるのは前をゆく者の激しい息遣いと汗の匂い。苦しいだろう、足を止めてしまいたくなるだろうと、弦真は思う。だがあの人がそれを決してしないだろうということもまた、よく知っていた。
    「そんな事よりも俺は勝ちたい……の戦いに勝ちたいんだ…!」
     誰に聞かせるつもりもなかったその台詞に、勝魅も殆ど反射で返事をしていた。
    「ああ、リタイアなんて情けない終わりは御免なので……」
     どこまでやれるのかこれは自分への挑戦に他ならない。倒れるのならば走りきったあとで、崩れるのならば王道を制覇したその後で。2人のシューズが奏であう足音に焔も静かに笑んだ。苦しい息であることは前をゆく人達と変わりはない。ただここまで思い切り駆け抜けてきた者だけが味わえる感動の中に彼女もまた確実にいたのである。1歩1歩刻んでゆくごとに青い空はますます遠く、ほんの短い地平線の向こうに学園が見えてくる。
    (「残る力を全部だして――」)
     焔の願いに応じたように雲が切れた。秋の陽射しが一筋彼らの走る道を眩しくまぶしく照らし出す。

    ●栄光は誰の手に
    「さあ、後ちょっと」
     坂を上り終えたところで▼なのはは後ろを走る▼鋼を振り返った。なのはの黒髪からは絶えず零れる光の雫。頭からかぶった冷水はこの上り坂の途中で熱い雫に変わっている。だが鋼にはそんな彼女が今までで一番きれいに見えた。再びゴールへと向き直った背中が見る間に小さくなってゆく。
    「……ふふ。さあ、あそこまで」
     鋼は最後の呪文を呟いた。くじけそうになる度に『せめてあの建物まで』『次はあそこの電信柱まで』と自身を叱咤してきた言葉の数々。なのはが最後に残してくれたの思いは多分――次はあそこの学園まで。視界が急に揺らいだ。それが涙のせいであることに彼女が気がついたのは【武蔵坂学園ラグビー部】の部員達が彼女のために張ってくれた白いテープを切ったずっと後――。

     ライラ、俊輔、舞斗、優雨らで争われた優勝の栄誉。構内に入ってからのライラと淼のデッドヒートは後々までの語り草となった。繁華街を抜ける頃にはすでにトップ争いに名乗りを上げていた淼。その後も順調に走りを進めていった沈着さは脱帽に値する。ペース配分など技術という点ではライラの方に一日の長があったことは確かだったが――。
     最初のランナーを校庭に迎えた学園は大きな拍手に包まれた。しかもそれは1人ではなく、次から次へと姿を見せるのである。
    「……短距離だな」
     背中に迫りつつある複数の足音を感じながら淼が大きく腕を振った。坂道では小刻みにしていたストライドを再び大きく戻し――百メートルを何秒で走った計算になるのか、実のところはっきりと覚えているものは少ない。ただとても速かったこと、ゴールの白いテープが白い鳥の羽のようにふわりと宙を舞ったこと――そんな光景が皆の眼に焼きついただけで。
     ゴールの祝砲が高らかに鳴り響く。2位のライラ、3位の俊輔とかわす握手も走っていた時の熱のまま。淼は軽いウイニングランを終えると、後から来る仲間達を出迎えた。次々と受ける祝辞に心からの感謝を返して――走り終えた勇也はごろんとグランドに大の字になる。未だ早鐘のように打ち続ける心臓の音が、そのまま大地の言葉のように聞こえた。健闘をたたえて覗き込んでくれる皆の顔の向こうに青い空が綺麗だった。多分この空を忘れない――そんな思いのする深い青。

    「他の奴らはどうした?」
     冬崖とほぼ同時にゴールを決めた瑞樹が尋ねると、冬崖は自信なさそうに首を振った。
    「九條が走りにくそうだったのは確認したが……」
     だがその後どうなったのかはまるで様子が判らない。彼らにしても最後の坂道では沈着さを保って走るのが精一杯で正直他を気にする余裕はまるでなかった。
    「でもちゃんと走ってくると思うんだ……ほら」
     ゴール地点にまず姿を見せたのは火槌、その影を踏むようにして歴。そして遅れてやってきた流を待っていたものは真っ白なゴールテープ。そしてなのはにふわりと掛けられた陽射しの匂いのするタオルだった。
     学園にランナー達が次々に帰ってきた。皆一様に疲れ、けれどとても晴れ晴れとして。順位に満足するもの、物足りない者、勝ちたかった者、負けたくなかった者、色々違いはあるけれど。蓮次は遅れてやってきた遥とにぐっとこぶしを突きだした。ガツンと打ち返されたその音でようやくレースの終了を実感する。2つの校舎の1年9組も最後のランナー桜花を暖かく出迎え、そして最終のランナーを迎え入れる。再び大きな拍手が校舎を揺るがせた。罰ゲームだのおごりだの、裏では色々あったマラソン大会。
     だが今はこうして皆が完走できたことを喜ぼう。健全なる精神の元に、こうして1つになれたことをことほごう。この秋の陽の限りなく高い空に、颯爽と吹く風のもとで――。

    作者:矢野梓 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2012年10月31日
    難度:簡単
    参加:356人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 59/感動した 9/素敵だった 19/キャラが大事にされていた 11
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