右九兵衛暗殺計画~水底の死地

    作者:佐伯都

    「先日のご当地怪人との同盟を断った件だけど、基本的に邪悪であるダークネスとの共闘を避けるべきという判断は妥当だったんじゃないかな。わかりやすい脅威は少なく思える勢力だけに、難しい所だったと思うけれどね」
     そう前置きした成宮・樹(大学生エクスブレイン・dn0159)は、ただ、とやや目を細めた。
    「そのかわり援軍なしで、アンブレイカブルを吸収した六六六人衆とその同盟先の爵位級ヴァンパイア、この三勢力とやりあうことも確定した。ダークネスの手を取るわけにいかなかったとは言え、武蔵坂単独で三勢力相手に事を構えるのは至難だと言っていい」
     元々これらはただでさえ精強な組織だ。そして特に銀夜目・右九兵衛の暗躍も大きい。学園の内情に通じる彼の存在は、今までにない脅威だ。
    「そういうわけで、こちらからその同盟に楔を打とうかと」
     ルーズリーフの後方の頁を開いた樹の声は低い。
    「同盟の立役者、銀夜目・右九兵衛を灼滅する」

    ●右九兵衛暗殺計画~水底の死地
     現在、銀夜目・右九兵衛は互いの同盟を進めるため六六六人衆の拠点のひとつに身を寄せている。爵位級ヴァンパイアに属する彼の行動を直接予知することはできないが、六六六人衆と接触を持ったことで動きを掴めるようになったのは不幸中の幸いだろう。
    「右九兵衛の拠点は田子の浦沖に沈没中の『軍艦島』を改造した、旧ミスター宍戸ルーム。旧軍艦島そのものにも戦神アポリアをはじめ、複数のハンドレッドナンバーや護衛が配置されている」
     戦神アポリアは爵位級ヴァンパイアとの交渉を担いつつ、右九兵衛の護衛及び監視を行う立場であるようだ。また、田子の浦周辺にはロードローラーが控えており、いつでも援軍を出せる体勢を整えている。
     旧軍艦島が沈んでいる海底拠点の規模はかなり大きく、ある程度の戦力を投入しなければ攻略は難しい。さらに侵入経路も特定されるため、拠点を制圧できる戦力の大部隊を派遣すれば、右九兵衛をはじめ有力な敵に簡単に撤退されてしまうことはすぐに予測できる。
     旧軍艦島拠点を攻略したうえで銀夜目・右九兵衛を灼滅するには、緻密な作戦と連携を駆使した精鋭部隊による特殊作戦が必要だ。
    「今ロードローラーが軍艦島にいないのは、どうも万が一灼滅者が攻めてきた場合に挟撃して撃破するためのようで」
     灼滅者がロードローラーに気づき充分な戦力を投入してきたなら、軍艦島を蜂起して撤退。逆に、気づかず少数精鋭部隊での強襲だったなら、ロードローラーの増援を送りこみ灼滅者を全滅させるという流れを想定しているのだろう。
     ……ので、これを逆手に取る。
    「少数精鋭で強襲してロードローラーの増援を発生させ、その上で本体を灼滅し分体もろとも消滅させるための陽動作戦を頼みたい」
     右九兵衛暗殺計画の第一段階であり、その成功のためにはもっとも重要となる、軍艦島への正面からの陽動作戦だ。
     重要拠点の軍艦島海底拠点に正面から攻め込むことになるため、激しい迎撃が予測される。さらに戦闘中にはロードローラー分体の増援があるため危険度は非常に高く、かつ敗北は免れないはずだ。
     しかしこの陽動が成功しないかぎり、暗殺計画自体の成功もない。
    「軍艦島からの迎撃を打ち破りロードローラー分体の援軍を呼び寄せ、さらに可能な限り長く戦い続け、一体でも多く分体を灼滅する。……本当に、口で言うのは簡単、って言葉がこれほど似合う作戦もそうそうないと思うけど」
     しかし、その困難な作戦を完遂することでロードローラー本体への奇襲攻撃を援護できれば、陽動としては最良の結果を引き出せたことになる。
     激烈な戦いが予測される以上、闇堕ちもやむをえない場合はあるかもしれない。しかし多くのダークネス組織が灼滅者を脅威とみなしている今、闇堕ち灼滅者が取り込まれ戦力化されてしまう状況はこれからも続くはずだ。
     仮に作戦が成功し右九兵衛やアポリア等を灼滅できたとしても、第二第三の彼らを出してしまえば意味がない。可能なかぎり闇堕ちには頼らずに、戦いぬければ理想だろう。
    「今回、皆には敵拠点へ無謀に突入する危険な任務を頼むことになる。その上で多数のロードローラー分体との戦闘がある以上、勝つのは絶望的だと言うしかない」
     それでもロードローラー本体の灼滅までなんとか戦いぬいてほしい、と樹は苦渋を呑みこむようにルーズリーフを閉じた。


    参加者
    赤槻・布都乃(悪態憑き・d01959)
    黒鐘・蓮司(グリムリーパー・d02213)
    近江谷・由衛(貝砂の器・d02564)
    楯縫・梗花(なもなきもの・d02901)
    篠村・希沙(暁降・d03465)
    不動峰・明(大一大万大吉・d11607)
    鈴木・昭子(金平糖花・d17176)
    エメラル・フェプラス(エクスペンダブルズ・d32136)

    ■リプレイ

     考えてみれば、存外灼滅者はこうして隠れる必要もなく表玄関から堂々と、という状況は意外に少ないのかもしれないと楯縫・梗花(なもなきもの・d02901)は思う。予測に従ってここから侵入すれば気付かれないとか、このルートなら発見されずにすむ、とか。
     見咎められる危険を考慮しなくとも良いのは気が楽だ。それは『どれだけ暴れても構わない』、ということでもあるので。
     夏の終わりの陽光がゆらめく海中、時折魚の群れが横切る田子の浦沖。そこに沈んだ軍艦島を目指し、フィンを着けたエメラル・フェプラス(エクスペンダブルズ・d32136)や篠村・希沙(暁降・d03465)が各々、つかず離れずの距離を保って海底を目指す。
     先頭を行く赤槻・布都乃(悪態憑き・d01959)に続いた不動峰・明(大一大万大吉・d11607)が青く暗い海底のほうに目を凝らすと、カモメのような――否、かなりの速さで海中を『飛ぶ』、眷属の吸血蝙蝠。すぐにここまでやって来るだろう。
     明が、自身のやや斜め後方につけていた黒鐘・蓮司(グリムリーパー・d02213)を振り返ると、隣の近江谷・由衛(貝砂の器・d02564)共々首肯を返してきた。
    (「……さて、それじゃ覚悟してもらいましょーか」)
     もっとも、『覚悟』と言っても蓮司が想定している相手はまもなく接触する吸血蝙蝠ではない。
     これは今日が銀夜目・右九兵衛最期の日となる、そのための陽動だ。自ら捨て駒になりに行くと表現してもいいレベルの、敗北必至の道行でもある。だから覚悟を決めてもらうのは右九兵衛の前の最大の障害であるロードローラー、そして右九兵衛当人だ。
     そしてその二者を討ち取れれば、この場でいくら敗退しようとも真の意味で勝利できる。
    (「行ってきます」)
     かたく拳を作った左手甲。どこか祈るように閉じた瞼へ押し当てて、そして目を開き顔をあげた希沙の表情にネガティブな空気はない。迷いなく【雨鳴】の銃身を引き起こし、進む布都乃の行く手を阻もうとする吸血蝙蝠へ向けた。
     全四段階の初段。避け得ない、近い未来に待つ三勢力との激突を思えば決して失敗は許されないミッション。その開幕を告げるように。
    (「……頑張ってくるね」)
     水中のせいかいつもより鈍い音、しかしいつも通りに轟然と発砲音を響かせ吸血蝙蝠が蜂の巣になった。後衛の蓮司や希沙、そして後衛ともども布陣の内側にいる由衛の援護を受けながら、鈴木・昭子(金平糖花・d17176)最低限の露払いで済ませて軍艦島への接近を急ぐ。
     事前の申し合わせ通り進路上にいるものだけ、必要最低限の撃破にとどめ、布都乃の目は青く暗く浮かび上がってくる巨大な島影――今は海底に沈んでいる軍艦島、の偉容をとらえはじめていた。
    (「大きい」)
     戦闘に何ら問題ない程度での明るさはあるが、ぐんと青みを濃くした水中にぼわりと浮かび上がってきた軍艦島は、さながら名の通りの沈没艦か幽霊船か、という印象がある。
    (「近づけば、迎撃が来る、ようですが――」)
     視認できる範囲にはほかの陽動班を確認できないが、水中を滑空するように動き回る吸血蝙蝠の数は存外多い。……ということは、おそらく問題なく全班が軍艦島に接近できただろう、と昭子は考えた。軍艦島へ接近する速度は緩めず、進路上に群がっている邪魔な眷族を次々と撃ち落としていく。
     最低限の戦闘のみで軍艦島へ接近し迎撃をつり出す方針であることはほぼ全班の共通項でもあったので、視認できないとは言ってもよほどの誤算がないかぎり全班は今、同じような距離で軍艦島の周囲に展開しているはずだ。
    (「迎撃はまだか。……ロードローラーのほうは今はどうなっている」)
     そこまで考え、ふと明は何か重大な隙を残してしまっているような、そんな予感にかられる。それとほぼ同時に、布都乃が何度か大きく右腕を回した。あらかじめ決めておいたハンドサインではないが、恐らく迎撃の姿を視認したのだろうと明は判断する。
     ぼやりと薄暗い海底から上がってきた巨躯。除霊結界でまとめて数体を打ち払った梗花が前へ出てきた。特に目立ったダメージもなく十分に余裕を残している様子なだけに、明は余計なにか大きなものを見落としている気がしてならない。
     道中、前衛を菱形に配しその内側に中衛や後衛を置いて突破力を重視した布陣を敷いていた。いやそこはいい、と明はどこか見慣れた感のある、水底からゆっくりと浮上するように迫ってくるデモノイドを見下ろす。
     不意に複数方向からの衝撃を食らい、エメラルは軽く頭を振った。大丈夫だ、さほど強くはないと表現されていた通り、動けなくなるほどではない。
     しかし強敵であるデモノイドはもう目の前に迫っている。接触し戦闘が始まる前に前衛の細かな傷を先にまとめて癒してしまおうと思い立ち、そして。
     エメラルはその瞬間、氷の手に心臓を握られたような、そんな錯覚を覚えた。何に対してかはわからない、わからないが、しかし。
    (「待って、これって、これって――」)
    (「この状況は」)
     水中を突き上げるように繰り出されてきた一撃を、明はかろうじて躱した。ぎりぎりで外したという事実とは別の事実が、その背中を冷たく這い上がる。
     ……確かに、この後のロードローラー強襲や右九兵衛暗殺のためにはなりふりかまわぬ奮戦が求められる、元々そういう内容ではあった。その覚悟もしてきている。
     迎撃として軍艦島から出撃してきたデモノイドへ向け、昭子は【鈴咲】を振りおろした。しかし杖を振りきるその前に二の腕へ痛みが複数走る。ばっと煙幕のように海中へ広がっていく血潮のむこう、昭子はいくつもの黒い影を見た。
    (「眷族、が、こんなに」)
     足止めを食らいロードローラー分体出現までの時間をリスクと考え、突破すること最優先させれば。それはそのまま、多数の眷族を周囲に残したまま強敵であるダークネスをつり出すという意味でもある。
     戦闘がそこで終わればいいだろう、しかしこの先には、無数とも言っていい分体の増援とそれ相手の戦闘も待っているのだ。
     さすがの梗花もその恐ろしい想像に表情を硬くする。
     ……もし分体の降下までにこのデモノイドや眷族を掃討できなかったら、その時自分たちの周囲はどうなっている?
    (「――いいや、違うな」)
     とても理想的でわかりやすい袋叩きの光景を想像し、そしてすぐに蓮司はその想像を打ち消した。水中でも動きに何ら鈍っている部分はないように思えるデモノイドの猛攻。しかしそれは灼滅者だって同じだ。
    (「今は少しでも多く時間を稼ぐ。何も変わらない」)
     戦術的には確かに眷族の大多数を残したままだったのは大きな失策だったかもしれない。しかし代わりに、暗殺作戦全体で言えば陽動班が出しうる最善のカードを間違いなく切れたはずだ。
     最善の結末を引き寄せるがために最悪の戦況と戦場を選んだ、と思うのなら。
    (「……嫌やわあ」)
     ならばそれは、最初に陽動班すべてが覚悟した戦いと何も、どこも変わらない。変わっていない。
    (「そんなん最初っからわかっていた事やないの」)
     橄欖石の瞳にぎらりと闘志を燃やし、希沙は一瞬怯んでしまったことを自嘲するように笑う。少しくらい水の抵抗が仕事してくれてもいいのに、という勢いで殴り飛ばされた由衛の穴に入り、意趣返しとばかりに鬼の腕で殴り返してやった。
    (「すぐに治すよ!」)
     ろくに聞こえぬとは理解していつつも、エメラルが由衛へ叫ぶ。
    (「さすがは馬鹿力」)
     後衛ならともかく、前衛が直接殴りに来られる立ち位置でさすがに自己回復をひとつも持ってこなかったのはまずかったかもしれないと一瞬考えながら、由衛は【朱散花】を構えた。
     しかし殴られた衝撃でぶれていた視界がエメラルのラビリンスアーマーで瞬時に戻り、後悔などしている暇はどこにもないと思い直す。すでに賽は振られたのだ、あとは死にもの狂いで戦闘を引き延ばし戦い抜くだけ。やがて頭上からやってくるだろう分体を、そんな自体は想定外と言わんばかりの驚愕の表情で、腹の底ではもっと来いとほくそ笑めばよい。
     そう考えれば、あらためて由衛の覚悟も決まる。
     さんざんに毒を、氷を、足止めと混乱をばらまき嫌がらせをしてやればいいのだ。由衛が責務を全うすれば前衛の負担は減り、結果的には長期戦を戦いぬけるだろう。
     大丈夫だ、致命的な失策は何も思い当たらない――苦戦などむしろ上等。ついてこい、とばかりに布都乃は相棒のサヤと共にデモノイドへ殴りかかった。覚悟はいつだって決まっている。
    (「いつも通りの死闘、だろ? 上等!!」)
     目標も状況もこれまでになく重すぎるが、しくじれば後はない。ならば腹をくくる、それだけだ。
     群れる眷族をも巻き込んでの、怒濤のデモノイドへの反撃。
    (「誰かのため、では、ありません」)
     昭子が陽動作戦への参加を決定したのは、誰かのためでも誰かのせいでもない。小柄で細身な体躯から繰り出される、4000台にも迫ろうかという尖烈のドグマスパイクが体力自慢なデモノイドを叩きのめす。
    (「わたしがそうしたいから」)
     ふ、と頭上が一瞬かき曇ったような錯覚で、昭子は反射的に上を見上げた。
    (「そうすると、決めたのです」)
     あかるく見える海面に、無数の黒い点が増えている。
     突破の途中に残してきた、多数の吸血蝙蝠も引き返してきていた。がつり、と一瞬目の前が暗くなるような打撃がきて昭子はひとつ頭を振る。
     倒れた先に道がつくのならばそれで充分。無謀など最初から知っている。
     後方の希沙からの援護を受けながら、昭子は無心に眷族を影の刃で切り伏せ、デモノイドを打ちすえた。いっそう激しくなる眷族の斬撃、いつも通りにしぶとい事が微笑ましくすら思えるデモノイド、そして。
     とりどりの色の分体が迫り、デモノイドのほうは布都乃と明に任せ、梗花はその矢面に立った。盾役は慣れている。でも、果てない全力が許されるのは久々かもしれない。
     何かの冗談のようにロードローラーの車体へ貼りついた人頭が笑っているのが見えた。それこそが梗花の待ち望んでいた表情であるなど、分体はきっと最期までわからないのだろう。そう考えるとどうしても笑ってしまいそうになるので梗花は懸命に呑みこむ。
    (「……こ、これでいいのかな。なんか変顔になってる気がする」)
     無理矢理呑みこもうとした結果、表情が歪んでしまったのを分体は都合よく受け取ってくれたようだ。耳がまともに機能していない水中でもなお、哄笑らしき声音を梗花は聞く。
     除霊結界、蛇咬斬と梗花がサイキックを放つうち、だれかの血が赤く海中を染めはじめていた。苦戦を装うためフェイクの血糊を持参してきた者は多かったが、この赤さがフェイクなのか、それとも本物なのか梗花には判然としない。
     残り体力の少ないものから順に各個撃破、という方針が脳裏から吹き飛ぶようだと明は思う。
     一手でも間違えば即座に瓦解がはじまる詰め将棋に似た、そんな感覚だ。
     同じ所をぐるぐる回っているような、それでいて長大な時間を圧縮させたように濃密な、そんな奇妙な感覚。
    (「――何分経った」)
     無数の眷族、いつのまにかどこかへ消えうせていたデモノイド。
     希沙や蓮司を守らなければと思いつつ振り返ると、ぐらりと上半身を反らせて海中に漂う布都乃がいた。主人を守るように、相棒のサヤが分体の体当たりを受けて消えていく。
    (「何分経った?」)
     エメラルが必死に回復をまわしているのは理解できる。
     昭子が満身創痍で分体を葬り続けていることも。でなければ、足元の先、海底に積み上がって見えるやたらとカラフルな残骸は何だ。
     突然明の目の前が暗転し、そして唐突に昭子の横顔が分体に押しつぶされるように視界から消えた。そして忽然と紫の分体が赤と黄色のものを従えてすぐそこで笑っている。(「あと何体だ」)
     一瞬たりともよそ見は許されなかった。
     血煙に濁る海水、そのせいかどこか暗くなったように思う海底。そして自分が凌駕を何度も繰り返していた事実を認識するのと同時に、明は意識を手放した。
    (「いつまで持ち堪えられる?」)
     オールレンジパニッシャーで分体をひとまとめに混乱に陥れ、それだけでは飽き足らぬとばかりに由衛は次の標的を探す。探すが、分体の数が多すぎる。
     ならば、と布都乃へ追い打ちをかけんと迫る分体へ、黙示録砲を撃ちこんだ。その隙に分体の集中砲火を耐えつつ梗花が祭霊光を、エメラルのイエローサインが布都乃の意識を覚醒させる。
     目を醒まし、そして布都乃はなおも戦い足りぬとばかりに分体へ向かっていった。満身創痍という単語が生易しく思える、これほどの修羅場はそうそうないだろう。
     そして。
     ふと我に返った蓮司と希沙が見たものは、海底へうずたかく積まれた、分体のものと思しきカラフルな瓦礫の山とぼろぼろの前衛。いつのまにやら、最前線で戦い続け戦闘不能に陥っていた明を牽引ベルトで己の身体に結びつけている由衛。
     がんがんと蓮司の両耳が鳴っている。水中呼吸を行える防具を選んできたので息苦しくはないはずだが、妙に息が切れていた。
     深呼吸しようとした口元からぶわりと血煙が広がって蓮司は眉を顰める。おかしい。口の中にまで血糊は仕込んでいなかったはずだが。
     分体からの攻撃はなぜか、止んでいる。
    (「絶対に、一緒に帰るよ……折れたりなんか、しないよ」)
     エメラルは布都乃の腰に牽引ベルトを結び、いまにも意識が途切れてしまいそうな己を励ましながら由衛へ治癒を施した。右腕がだらりと垂れ下がった昭子が、全身をひきずるように左腕だけで泳ぎ来て、梗花に並び立つ。
     梗花はもとより昭子もとっくに限界を越えていた。次の攻撃で間違いなく撤退を決断しなければならない、そんなほの暗い絶望が希沙の頭の中を冷やしていく。
     じんわり指先から這い上がってくる不吉な痺れを、希沙はもう動いていない気がする左薬指の硬い感触を確かめることで払拭した。
     やがて分体のうちのひとつが身じろぎ、ひゅ、と蓮司が喉を鳴らした気がした、瞬間。
     このままなぶりものにされるよりはと由衛が飛び出す。
    「……こ、のォッ!!」
     その叫びだけは、なぜか海水に濁ってもなお梗花の耳にはっきりと届いた。弾かれるように身体が動き、灰色の分体へ縛霊手を叩きおろす。
     一方由衛の手には確かな手応えが返っていた。そして返される刃で己の戦闘不能を確信し目を閉じるも、予想していた衝撃はいつまで経ってもやってこない。
     薄目を開けると、細く、黒い炎のようなものが無数に揺らめいている。海底を埋め尽くしていた瓦礫は今や、どこにも見えない。分体の姿も、どこにもなかった。撤退という文字が先の絶望とは違う安堵を伴い希沙の胸の中を満たしていく。
     ――終わった。そう思った。

    作者:佐伯都 重傷:赤槻・布都乃(渇求の影・d01959) 不動峰・明(大一大万大吉・d11607) 
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2017年8月31日
    難度:やや難
    参加:8人
    結果:成功!
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