民間活動~血みどろベートーベン

    作者:四季乃

    ●Accident
     ――夜になると音楽室のベートーベンが血の涙を流す。
     果たして誰が最初に言いだしたのかは分からないが、この学校にはそんな七不思議が存在した。
     確かに音楽室にはベートーベンの絵画が飾られている。黒板の上部に取り付けられた時計の左隣という、最も目立つ場所に。それから後方の壁にも名前はよく見聞きする有名どころがずらりと規則正しく並んであった。そのせいだろうか、音楽室は少し居心地が悪いのだ。前後から舐めるように見られているような、そんな気持ちになってしまう。
    「ほんとに見たんだって! 絵画から上半身が飛び出してるベートーベン!」
     ブレザーの襟元を両手で引っ掴み、ガクガクと身体を揺らしてくるのは小学校から付き合いのある友人だ。彼女は三年生を送る会で演奏することが決まっているので、その練習で遅い時間まで学校に残っていたらしい。そこで、両目から血の涙を流すベートーベンに襲われたと言うのだ。
     そのベートーベンは音を外した時に現れたという。いや、元々そこにベートーベンは『在った』ので、絵画から『出てきた』と言った方が適切かもしれない。まるで怒りを表すかのように両目から血涙を流すベートーベンは、額縁ごと壁から離れると指揮棒を振り乱して襲い掛かってきたのだそうだ。
     それを目撃したのは彼女だけではない。演奏メンバー全員が見たと言う。だが、それを信じる者は少なかった。集団ヒステリー、あるいはメンバー内で起こった何かを隠すための演技ではないかと、先生たちはそう判断した。
     けれど恐怖で色を失う彼女の顔を見るたびに思うのだ。
     学校で一番可愛いと評判である彼女の頬に走る赤い無数の線。細い何かで叩かれたようにしか見えない蚯蚓腫れを、果たして七不思議という不確かなもののせいにするのだろうか、と。
     こんなに怯えきって家に引きこもってしまった友人の恐怖が背筋に冷や汗を垂らしていく。気が付けば、自分の指先は小さく震えていた。

    ●Caution
    「サイキック・リベレイター投票の結果により、このたび民間活動を行うことになったのです」
     五十嵐・姫子(大学生エクスブレイン・dn0001)が言うには、サイキック・リベレイターを使用しなかった事で、エクスブレインの予知が可能になったのだが、その結果タタリガミ勢力の活動が明るみになったそうだ。
     どうやらタタリガミ達は、エクスブレインに予知されない事を利用して学校の七不思議の都市伝説化を進めていたようなのだ。学校内という閉鎖的な環境でのみ語られる七不思議は予知以外の方法で察知する事が難しく、そのせいで多くの七不思議が発生しているという。
    「今回予知したのは、とある高校にある音楽室の七不思議です。夜になると壁に飾られたベートーベンの絵画が血を流すのだとされています」
     その高校では二月下旬、卒業する三年生の為に送る会が予定されている。そのプログラムの中で吹奏楽部による演奏があるらしいのだが、そのために暗くなるまで練習する生徒が居るらしい。
     その生徒が、七不思議に襲われてしまったのだ。
    「怪我で済んだのが不幸中の幸い、と言ったところでしょうか……これら七不思議は可能な限りの予知を行い、撃破していくことになります」
     そのためには、皆さんの協力が必要なのです。姫子は胸の前でぎゅうっと両手を握り締めた。

     七不思議の都市伝説は、どうやら額縁ごと動くらしい。絵からベートーベンの上半身が立体化して飛び出た姿を想像してもらえると分かりやすいだろうか。手には楽譜とペンを持っているが、それらを投擲してきたり、指揮棒で荒々しく鞭打つように叩き付けてくるそうだ。
    「額縁は自在に動き回れるようですが、自身の背中……つまり額縁の裏側は目が届かないため死角になっているようですね」
     被害者が音を外した時に動き出したと言っていたそうなので、もしかしたらそれがトリガーなのかもしれない。血の涙というのは無念などではなく、怒りの涙なのだろうか。姫子は頬に手のひらを当てると「ベートーベンは二面性があったと言われてますからね」と小さくため息を零した。
    「ですがこれまで激戦を乗り越えてこられた皆さんには、強敵ではないでしょう。今回は目撃者が必要なのです。それも出来るだけ、多くの方の。もちろん周囲に被害は出ない範囲内ですよ」
     と云うのも、この民間活動の主軸は、直接じぶんの目で都市伝説やダークネスの事件を目撃することで、一般人の認識を変えていくことにあるのだ。例え目撃しても、それを誰かに話したところで信じてもらえる確率はうんと低いものだろう。だからこそ、多くの人が自分自身の目で膚で触れることで、事実として現実を認識する。
    「その事件が自分にとって一体どのようなものであったのか。灼滅者という存在が、なぜこのような活動をしているのか」
     指示や説明の仕方次第で印象は変わってくるだろう。相手は高校生。どのような呼びかけが効果的か、そして今後どのような行動を取ってほしいかなど、気持ちを伝えるのも良いだろう。
     一般人にとって灼滅者とは『不思議な力を扱う者』だ。事件解決へ導く自分たちを信用してもらうにはどのような振る舞いが必要か。じっくり考えてもらいたい。
    「それなりの演技や演出でカバーできると思います。皆さんどうか、頑張ってくださいね」


    参加者
    神鳳・勇弥(闇夜の熾火・d02311)
    丹生・蓮二(エングロウスドエッジ・d03879)
    祟部・彦麻呂(快刀乱麻・d14003)
    壱越・双調(倭建命・d14063)
    鈴木・昭子(金平糖花・d17176)
    志穂崎・藍(蒼天の瞳・d22880)
    ヴィア・ラクテア(ジムノペディ・d23547)
    ルイセ・オヴェリス(白銀のトルバドール・d35246)

    ■リプレイ

    ●崩れる日常
    「私達はこうした事例に対処するボランティアをしています」
     倍は近い年嵩の大人たちに向かい、堂々たる態度で身元を明かす彼は神鳳・勇弥(闇夜の熾火・d02311)と云うらしい。彼は人好きのする笑みを浮かべたかと思うと、部員たちと津軽三味線を通して交流を図る銀髪の青年の方を視線で指し示した。
     惑いのない滑らかな指の動きが部員たちの音楽好きという心を揺らしているのが見てとれる。彼――壱越・双調(倭建命・d14063)と云ったか、青年は部員たちがなぜこの時期に演奏の練習をしているのかをするりと引き出し、流れるような容易さで、けれど決して部員たちの自尊心を傷つけることなく、先日起こった出来事を聞き出したようだった。
    「上級生を送るためにがんばっていた皆様が、心を荒立てたり、嘘を吐くとは思えません、よね」
     触れれば手折ってしまいそうな繊細さを滲ませた少女だった。神秘的な灰の瞳に慰められ、かつ親身に話を聞いてくれる者の存在に安堵からくる溜め息が静かに落とされる。鈴木・昭子(金平糖花・d17176)と名乗った少女は、「ちゃんと真相があるのです」と言った。
    「ほんとうのことは、自分の目で見なくては、わかりません」
    「気になるなら今夜、部室に来てみませんか?」
     昭子と双調の言葉に顧問と部員たちは恐々と顔を見合わせあった。

    ●侵食する
    「皆さんに私達の行動を見てもらうのって初めて。ちょっと照れますね」
     何だか歩む足取りも浮ついたものになってくる。
     志穂崎・藍(蒼天の瞳・d22880)は交流を終えた生徒たちが見聞きしたものを伝えに走ってゆく背中を見送り、そんな風にひとり呟いた。
     ふと中庭を挟んだ反対の校舎に視線を向けたとき、二つに結いあげられた赤茶の髪がぴょこぴょこと揺れ動くのを見つけた。別所で各メンバーの行動を確認し、伝え回っているルイセ・オヴェリス(白銀のトルバドール・d35246)の報告によれば、あちらは祟部・彦麻呂(快刀乱麻・d14003)が向かっているらしい。
     さて、音楽室の中が見やすい場所はないかと歩を進めていた藍の前方に、女子生徒に囲まれたヴィア・ラクテア(ジムノペディ・d23547)と丹生・蓮二(エングロウスドエッジ・d03879)の姿を見つけた。
    「あの事件、実は七不思議の所為って本当らしいですよ。本当に動くなら、見てみたくないですか?」
     ヴィアの顔は無表情で言葉の節々も淡々としているが、横で「俺の連絡先だって教えちゃうよ。君からの連絡、待ってるし。あ、写真とか撮っちゃう?」なんて随分と軽いノリで誘う蓮二の言動も相まってか、随分と彼女らの気を引いたようだ。
    「夜になったらそこに来て、音楽室を見て」
     そう言って走り書きしたメモには、音楽室を覗くには安全な場所が記されてあったのだそうだ。

    ●これが日常だった
     陽がとっぷりと暮れたにも関わらず校舎は生徒で溢れていた。
     開け放った廊下側の窓から団子になって覗きこむ者、向かいの校舎から天体用の望遠鏡を使って覗く者、それからベランダに密集する者とギャラリーとしては十分なほどだ。
    「サクッと片付ちゃいましょう!」
     にこりと笑い、傍らに並ぶ灼滅者たちを見やった彦麻呂は、ギターを構え一歩前に踏み出したルイセに激励の言葉を投げかける。その明るくも力強い言の葉に一つ頷いたルイセは、数多の視線が自身に突き刺さるのを感じながらそっと睫毛を伏せた。
    (「血涙のベートーベンか。よくある怪談じゃあ済まないのが厄介だけど」)
     ベートーベンの絵画に近い位置取りでギターの弦にピックを添える。小さく息を吸う。敵はかの有名なベートーベン。ならばこの曲しか、ないだろう。弾かれる弦、零れ満ちる音は激しさを孕む『運命』である。最初の音が溢れた瞬間それは生徒たちの心をグッと鷲掴みにした。例えそれがデスメタル調のアレンジであったとしても変わらない。
     音の洪水がルイセの荒々しくも力強い指先によって音楽室という小さな空間から溢れていく。束の間、自分たちがなぜこの場に居るのかその目的すら忘れてしまうほどに圧倒された。
     もっと音色を聞いていたい。そう感じた、矢先のことだった。
     キィン、と妙な音が耳朶を突いたのだ。それは音楽に携わる者だけではなく、常人が聞いても分かるほどの、そう、ミスだった。音が外れたのだ。誤魔化せるようなものではなく、明らかに外したと分かるような、意図的なミス。
     ――ずるり。
    「出ましたね」
     出入り口を遮るように布陣に当たっていたヴィアの銀色の髪が徐々に黒く染まってゆく。深い色を宿した瞳が真っ直ぐに捉えるは、絵画から伸びる一本の腕。それはゆっくりと指先から肘、肩まで出ると、ずるりと頭部が前面に抜け出してきた。
     そうして持ちあがった頭部、男の眦からは真っ赤な血が流れ、頬を滑り顎を伝ったそれは磨き上げられた音楽室の床に雫を落とすのだった。幾つも、幾つも、とめどなく。
     瞬間、きらり、と光が瞬いた。それは男の手にあったはずのペンが放つ光だった。真っ直ぐに寄越されたそのペンが、ルイセの腕を傷つける。音を外す腕など落としてしまえとばかりに。
     だが、ルイセは軽やかなステップで敵から距離を取り、エンジェリックボイスで自己回復しながらもその表情に一片の不安を浮かべはしない。と、それまで静かに事の成り行きを見守っていた藍が駆け出した。と思った時には、その細い拳には雷に変換された闘気が宿っている。パリパリと小気味良い音を立てて、薄暗い夜すらも引き裂くような眩さを込めた拳を、彼女は迷うことなく突き出した。
     飛びあがりながら繰り出されたアッパーカット。受けたベートーベンの口から苦しげな声が漏れ落ちる。綺麗な弧を描いて音楽室後方へと吹っ飛ぶその絵画お化けの軌道上に居た彦麻呂は、ニッと唇を持ち上げて笑うとマテリアルロッドを大きく振り被って――。
    「いっくよーー!」
     飛んできたベートーベンの顔面、横っ面を殴り倒してみせたのだ。
     しかも殴り付けると同時に流し込まれた魔力は内側から爆破するという代物だ。殴られた箇所に手を添えてのた打ち回るベートーベンに勇弥は小さく目を眇めた。
    「ベートーヴェンは癇癪を起す度に弟子のツェルニーの腕を噛んでた、っていうが」
     霊犬、加具土がいつでも回復できるとばかりにフンフン意気込んでいるのを横目に、彼は嘆息する。ベートーベンは床に手を突いて起き上がると、次の瞬間、至近に居た前衛たちに向かい、数え切れぬほどの楽譜の雨を降らせたのだ。それはただの舞い上がる楽譜ではない。一枚一枚が研がれたナイフのような鋭さを孕んでいるのだ。目も明けていられぬほどの暴風を伴う攻撃に、勇弥は叫ぶ。
    「あの人間出来たお弟子さんみたいに、やられて笑ってるのは無理だっての!」
     彼はクルセイドソード『Flamme』の柄をきつく握りしめると、その剣に刻まれた祝福の言葉を風に変え、傷付いた味方に向けて解き放つ。
     七不思議のそれとは違い、優しくもあたたかな勇弥の風は傷付いた肉体を見る間に癒していく。その心地よさを実感しながらも、敵からは決して視線を逸らさぬ双調は、その片腕を異形巨大化させると、ベランダのギャラリーたちに向かって威嚇のような表情を見せたベートーベンを食い止める蓮二とちらと視線を交わし合う。鬼の片腕でベートーベンの顔面を鷲掴みにして、女の子たちの壁となる蓮二が、その拳で敵を床に叩きのめした、そこへ双調の鬼神変が振る舞われた。
     容赦のない、そして確実な意志を持って繰り出された一撃に、生徒たちは息を呑んでいる。言葉もない様子だった。
     漆黒に染まった髪がするすると武器を形作っていく。ヴィアはその武器を手に取ると、聖歌を口ずさんだ。幾人かの生徒がその歌声に気付き、ヴィアを見る。彼はその視線の一つが、自身が先刻声を掛けた女子生徒であることを知り、双眸をそっと、細めた。
    「僕達は少し不思議な力があるだけの、貴方達と同じ学生で、人間で…」
     ふいに言葉が、途切れる。髪が武器になる、だなんて想像したことがあるだろうか。目にした事実を、彼女らはどう捉えるだろうか。
    (「って伝わってくれたらいいんですが…」)
     ヴィアは前を向くと、仲間に襲い掛かるベートーベンの背中――絵画の裏側に向けて、黙示録砲の砲弾を撃ち込んだ。目が眩むような光に、ギャラリーたちが目を眇める。しかしその強き光は、背面に直撃したベートーベンに確かな打撃を与えたのだ。しかもそのお化けが吹っ飛んだ方向が、ベランダにいる生徒たちに向かっていると分かるなり、まるで自身の身体を壁とするように、盾となった昭子の細い背中に、小さく悲鳴が落ちた。
     正しくはヴィアと掛け合った言葉にそって、軌道上を読んだ昭子が、到着点にて先回りして縛霊撃の一撃で弾き飛ばしたのだが、戦況を全く読めぬ一般人の目にはそこまで分からなかったようだ。安心させるように、昭子は小さく微笑んで見せた。
     と、その後方でひゅんひゅんとペンが乱れ飛んでいるのが見え、生徒たちの顔が真っ青になる。灼滅者の身体を傷つけるそのペンの切っ先は血に濡れて、不気味さに拍車をかけた。そこで垂れた耳を揺らして颯爽と駆けたのは加具土だ。加具土は浄霊眼で傷を負った彦麻呂を癒したのだが、その小さな身体で奮戦する姿はどうやらよきものとして目に映ったらしい。ワンちゃん負けるな、と声援が飛び交っている。その言葉たちに何だか嬉しくなった勇弥は、胸が熱くなるのを感じて、小さく吐息を漏らした。
    (「俺は、バベルの鎖で誤解されたまま苦しんでた人を知ってる。歪んだ価値観の下、灼滅者だからと迫害された過去を持つ親友がいる」)
     お化けをやっつけろ、と叫ぶ女子が居る。彼女を泣かせた男をとっちめろ、と拳を振り上げる男子がいる。飛び交う一般人たちの、声援は割れんばかりに満ち溢れ、それは灼滅者たちの肌に沁み込むようだった。
    (「少しずつでも良い。そんな世界を変える、俺達が受け入れられる為の一歩だ」)
     ぐ、と唇を噛み締めた勇弥は、敵に向かって突っ込んでいく蓮二にシールドリングを放つった。そのサイキックエナジーの小光輪を前にして横目で礼を口にした蓮二が、炎を纏う脚を持ち上げ、先ほどとは反対の頬を蹴り飛ばした。衝撃に耐えきれず激しい音を立てて床に顔面を擦りつけるようにスライディングするベートーベンは、手を突いて何とか起き上がった様子だが、
    「ふっふっふー。もう終わりって思ってないよね?」
     にこにことフレンドリーさを滲ませる彦麻呂の手には一本の槍。螺旋を思わせる捻りを加えられたそれは、丁度ベートーベンの心臓中央を穿ってみせた。
     貫かれ身動きが取れぬ間に双調が繰り出した神薙刃が身を引き裂いたかと思えば、ルイセの破邪の白光を放つ強烈な斬撃に交わるように突き出された藍の螺穿槍と、死角に回り込んだ背面からヴィアのティアーズリッパーが、七不思議の躯体に襲い掛かる。決して逃しはしないと、無言の迫力を持っていた。
     鮮やかな手捌き、連携、そして隙を許さぬ確実な攻撃が、彼を追い詰めていく。苦し紛れに振り乱された指揮棒を肩口に受けても、絶え絶えな楽譜の嵐に包まれても、勇弥と加具土がすぐに対応し、一般人に危害が加わりようものなら蓮二や昭子といったディフェンダーたちが必ず護る。
    「大丈夫です。だから最後まで目を逸らさないでください」
     穏やかな声音でそう呼びかける双調の言に、逆らう者は居なかった。
     もはやただの紙切れと化した楽譜をはらりと床に落とした昭子は、灰の瞳を持ち上げるとそっと、囁いた。
    「終幕に、致しましょう」
     途端、彼女の足元にあった影が蠢き、素早い動きでベートーベンを絡め取った。影に縛り付けられた七不思議は、何か言葉を発したようだったが、懐に飛び込み、息が触れてしまいそうな至近に現れた彦麻呂と視線を交えると、小さく、息を止めた。
    「その血を、乾かしてあげる」
     言葉と共に訪れた鈍く重たいものは果たして何だったのだろう。彼女の周囲を何かが蠢いていたように思われたが、口にされた七不思議奇譚のそれは一般人の耳には届かず、ただかつて確かに偉大であったはずの男の耳朶を細く掠めていっただけだった。
     彼の耳が聞こえていたかどうかは、分からない。

    ●明日への希望
     音楽室は隙間もないほど生徒たちで埋め尽くされていた。
    「ここに居ない被害者の方に、この顛末を知らせてもらえませんか? 怪我の本当の理由を信じてもらえずに否定され続けるのは……辛いから」
     勇弥は取り出した名刺を一人ひとりに配り、不安そうな顔をする者が居れば「もしこの後も妙なことがあったら、また駆けつけます」と力強い言葉をかけてみせた。その傍らでは集まる女子高生たちに蓮二が人好きのする甘い笑みを浮かべている。
    「怖い、なんかすごい、変な人(顔がいい)が居た、何でもいいよ。見たこと感じたことを疑わないでいてな」
     その言葉は軽やかなものだった。そのはずなのに胸をつくこの感覚は何なのだろうか。決して彼らが生半可な道を歩んできたのではないと、そう感じさせるものがあったのだ。
    「謎のヒロイン…じゃないですよ。私達はこういうものです」
    「落ち着いたら読んでみて!」
     藍と彦麻呂に差し出された手引書にはダークネスと呼ばれる存在がいること、灼滅者と呼ばれる能力者がそれと戦っていることなどが簡潔に分かりやすく記されてあった。
     敵を倒しているのは普通の学生であること、恋をして、大事な人がいるから戦うのだ。その人の居場所を、その人が大事に思っている皆を、そして、同胞だと思っている人間を――。
    「きっとこの先もしかしたらまた不可解な出来事と遭遇してしまうかもしれない。その時は僕達の事を思い出してください」
    「連絡先もお教えします。だからどうか、何かあれば連絡してください」
    「質問があれば遠慮なくどうぞ。満足いくまでお答えいたします」
     ヴィアの物静かな言葉が、ルイセの優しげな言葉が、双調のたおやかな言葉が、まるで水が沁み込むように心に入ってくる。
     現実だった。嘘じゃなかった。信じてもらえた。思い思いの気持ちがその瞳たちに宿っている。
    「知らない世界を知ってもらうのは、とてもとても、むずかしい。わたしはそれを知っています。まずは、そのための努力をできることから、ひとつずつ。不条理も理不尽も沢山あって、でも、それに負けたりはしないのだと、ずっと戦ってきたひとたちがいます」
     わたしたちが何なのか、どうか、見たあなたたちが、考えてください。
     そう締めくくられた昭子の言葉がリフレインする。
     違った思いを抱いた者もいるかもしれない。ぐるぐると巡る思いが行き付く先が、平等に訪れる明日を繋ぐ架け橋になったらいい。今はそう、願うばかりである。

    作者:四季乃 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2018年1月31日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 4/感動した 0/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 0
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