琥珀語り

    作者:西宮チヒロ

    ●finale
     木製の扉を開けると、そこは琥珀色の空間だった。
     やや薄暗い店内を灯す、あたたかな洋燈。スポットライトを思わせる光に浮かび上がった上質な天鵞絨のスツールに腰掛けると、重厚な木製のカウンターの奥でマスターと思しき初老の男がひとつ微笑を返した。
     黒内朱塗りの、小振りの半月盆が静かに眼前に置かれる。ここのようなオーセンティックバーでも紙製のコースターを用いる店は多いが、どうやらこの店は一工夫しているらしい。
    「何になさいますか?」
     問われて、正面にある酒棚を見る。
     ウイスキー、ブランデー、テキーラ、ウォッカ。ラムにジン、そしてワイン。視線を移せば、カウンターの端にはオブジェのように美しく盛られた果実もあった。成程、客の好みとあらば、如何様にでも作れるということなのだろう。
     僅かに逡巡したのち、手始めの一杯を注文した。暫くして、「お待たせいたしました」と、朱の上にそっとグラスが置かれた。

     光に燦めく、美しい水の色。
     その水面に、ふと。あの日の記憶が蘇る。


    ■リプレイ

    ●2018年~2021年
     大戦終了直後の秋。
     大々的に行われた世界視察旅行が、榛名にとって初めての海外旅行だった。
     行き先はパリ。中でも、シルヴァンにエスコートされて訪れた、オペラ座として名高いガルニエ宮を思い出す。
     演目は、人形に恋をする男の話。紅色の天鵞絨に囲まれた上質なボックス席は、見晴らしの良さは勿論、ふたり小声で話をするにはぴったりの場所だ。
    「……榛名ちゃん」
     踊り手の動きと表情に物語の切なさが一層煽られ、不意に毀れる涙。自分ではどうすることもできないそれへと、そっと隣からハンカチが差し出された。
     伺うようにこちらを見つめるシルヴァンに、榛名は涙を溜めた瞳のまま、ふわりと笑う。
     子供だからこその愉しみ方を、いつか想い出として語る日が来るだろう。
     久しぶりだねって微笑む、変わらず綺麗なシルヴァンへ。
     娘に後を継ぎ、素敵なマダムになった榛名へ。
     笑顔で再会を祝して、約束をしよう。今度は互いの家族とともに、――また、遊ぼうと。
     2019年9月26日。空気の澄み渡った、心地の良い秋晴れ。
     バージンロードの終着点にある扉が開き、溢れる光の中から現れた花嫁に御伽は思わず言葉を失った。
     綺麗だ。浮かんだ言葉のまま微笑み、辿り着いた茅花と手を重ねる。
    「その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
    「誓います」
     明瞭なる答えは、御伽の決意。
     此処までの波乱すら必要だと解る。ずっと共にと願った日々が今へと繋がっている。共に紡いだ想い出が、胸を満たして溢れそうになる。
    「誓います」
     涙を堪えて返すと、茅花の左手の薬指へと御伽が静かに指輪を嵌めた。装飾品は苦手なのに、何故かこれは不思議と馴染む。
    「茅花さん、幸せにする」
     だから一緒に生きていこう。
     手を取り合って、これから先の長い道のりを歩んでいこう。
    「……っ、もう、幸せだよ……」
     囁かれた言葉が優しくて、愛しくて、震えた声でそれだけを返しながら、どうしようもなく涙が頬を伝った。「ほら、微笑って」そう雫を拭う指先に同じ指輪の光を見つけて、娘は思う。
     ――家族なんだ。
     それは恋人よりも重く、けれどそれまで以上に温かくて心地良い、これからのふたりの関係。
    『私がホワイトキーの2号店を!?』
     母からの言葉に愛莉が驚くのも無理はなかった。
     そも、四日市にあるこの母の店は、ダークネスの話が気軽にできる場として開かれたもの。それが評判となり2号店を出すことになったとは昨年聞いてはいたが、まさか店を任されるとは。
     確かに、店を持つことはずっと抱いていた夢だった。そのために母の店も手伝い、製菓専門学校で店舗経営学も学んだ。
     それでも娘が突然与えられた好機に怯んでしまうのは、ひとえに自信のなさだろう。そう察した雄哉が、穏やかに、けれど確りと言う。
    『愛莉なら大丈夫だ』
    『雄哉……』
    『ずっと見てきた僕が保証する』
     入籍したばかりだ。不安がないわけではない。それでも言い切れるのは、娘のことを誰よりも傍で見てきたからこそ。
    「お客さん、楽しんでくれてるようだね」
    「ええ。……あのとき、引き受けて良かったわ」
     2021年。まだ夏の名残のある9月の、爽やかな桑名市の青空の下。
     開店したばかりの店内を見渡しながら、雄哉と愛莉はそう心からの笑顔を交わした。

    ●2022年~2024年
     桜舞う麗らかな陽気とは真逆に、傍らに座る恋人は見るからに緊張していた。
     眼前にある菓子折は3週間もかけて選んだもの。鏡の前でこっそり台詞の練習もしていた。それを知るからこそ、俯き口籠もるみをきに壱は心中で狼狽する。
    「――い、っ」
     漸く発した一音に、息を飲む。
    「壱さんと……長らくお付き合いさせて、い、頂いております」
     絞り出した声は明らかに震えていて、思わず壱の眦が微かに緩む。
    「えー……てことなんだけど、みをきも卒業だし良い機会かと思って」
    「……今更?」
    「「…………え?」」
     瞠目するふたりを前に、壱の家族は愉しげに笑った。全部お見通しだったのだ。苦笑する壱に、みをきも恥ずかしさに頬を染めながらくすりと笑う。
     今日は一生忘れられないだろう。そしてきっと、これからも俺は片割れに振り回されるのだ。
     その先でいつか、互いに紡ぐ。
     ――家族になりたいんだ、みをきと。きっと賑やかで楽しいよ。
     ずっと考えていた、君にあげられるもの。全部あげると、誓った言葉。
     ――これからの人生も、壱さんと一緒に歩ませて下さい。
     ずっと思っていた。傍にいたいと。何があろうと、隣で共に綴る記憶。
     これからも続く、約束を。
    『人は文章を世に残す事でまた永遠性を得られる。それを憶えている人の記憶に存在できるから』
     ふと過ぎった恩人の言葉に、紗夜は木の葉舞う石畳を歩く足を止めた。
     古い文章を、著者を、確実に記憶に残してくれる人に渡す。
    「……そうか。古書店か」
     大学4年目にして漸く辿り着いた答え。ならば、善は急げだ。
    (「いずれちぃ君とも、酒でも飲みながら語らいたいものだ」)
     戯れに髪を浚う秋風は気にも留めず、紗夜は再び歩き出す。
     その翌年。『ちぃ君』ことチセもまた、ひとつの決断をしていた。必要なものを荷に纏めて、住まいを後にする。
     大学生の頃から活動していた、星占術師としての生業。
     そのままどこかに居を構えて、とも考えたが、自らの脚で触れに行くほうが今よりもっと世界を視透せるだろう。それに、様々な地の星も読んでみたい。
     そうして放浪の旅を選んだ娘が、髪が青い故か、童謡に謳われる鳥のように『出逢えたら幸せになれる占い師』と言われるようになるのは、もうすこし先の話。
     2024年、秋。
     久しぶりの我が家に希沙の『ただいま』が響いた。そして、腕の中の子にも。
    「おかえり、暁」
    「――おかえり。ここが暁の家だよ」
     待ち焦がれた勢いのまま家の中を案内するも、まだ朧な視力に気づいて小太郎が苦笑する。
    「……可愛いな……」
     まるでふたりの『幸せ』に命が宿ったようで、愛しくて堪らない。
    「家族が増えるってこんなに幸せなんやね」
     愛しい人が愛しい子を抱く。その光景だけで笑顔が零れた。これから沢山の愛情を注いで、共に成長していきたい。
    「希沙。この子を産んでくれて有難う」
     一緒に……長生きしよう。
     優しく毀れた涙声に、返せるのは唯、泣きそうな笑顔だけ。
    「あ……指握った……って、暁が先に泣いちゃった……!」
    「わっ、よしよし」
    「任せて、この泣き方は――オムツだ。……あれっ、違う?」
     ママヘルプ、なんて。縋るような視線を向ける小太郎に、
    「あ、あー…ふふ、お腹空いたみたい。パパ、お湯お願い!」
     涙を溜めた瞳を細めて、希沙はとびきりの笑顔を見せた。

    ●2027年~2030年
     百花は、いつでも泣き虫だった。
     2027年の春。娘の幼稚園の入園式でも、それは変わらなかった。
     嬉しさ半分、淋しさ半分。綯い交ぜになる心のまま息子を抱きながら泣きだした百花を慰めたのは、慌てるばかりのエアンではなく、娘自身だった。
    (「さすが俺の娘……」)
     そう感心するエアンの傍ら、感動のあまり百花の涙も引いていた。冷静なのは父親似なのだろう。心配をかけまいと堂々と入園式に臨む娘の姿は、誇らしくて胸を打つ。
     すべてが初めてで、戸惑うことも多い日々。
     けれど、子供たちの声と百花の笑顔に囲まれた賑やかな時間が、それ以上の幸せとなって毎日を色鮮やかに染めてくれている。
     これから先、子供たちが中学生、高校生になっても、悩みは尽きぬことだろう。
     それでもきっと、遠くない未来。
     渋みを増したエアンと、酒を交わしながら穏やかな微笑みで想い出を語るのだ。
     重ねた時間の愛おしさを噛み締めながら。
    「それにしてもカナとこうして酒を呑めるなんてな……恵理さんと知り合った頃は、まだこんなに小さかったのに」
    「父さん、おれそこまで小さかったら小人だろ」
     相変わらずのツッコミ気質に、恵理も思わず笑みを零した。テンポの良い会話はまさに、長らく共に過ごしてきた親子ならではのもの。
    「仕事は上手くいっているのか?」
    「まぁな。この間の入選作が切欠で、海外からも少しずつ注文が来るようになってさ」
     嬉しそうな叶の横顔。男と男の会話。邪魔かとも思ったが、矢張りついてきて良かった。そう微笑みながら、恵理はお腹にそっと手を当てる。
     折角のバーなのに呑めないのは残念だが、聞かせたかったのだ。ふたりの会話を、お腹の中の子に。
     名は望。昨日、自身の両親とここに居る3人で決めたばかりだ。
     男同士の語らいは、もう暫くは続くだろう。
     ならば、いつか――この子が成人した頃合いにまた、ふたりでここに来よう。
     そうして語らうのだ。魔女然とした活気と張りで、琥珀色のブランデーを片手に。
     きっと、結婚なぞしないのだろう。
     そう思っていたまり花の前に、10年前のあの日、一目惚れだ、と勇也が薔薇の花束を差した。
     それから幾度となく一目惚れをし、告白しては振られることを繰り返して10年を経た、2028年。
    「あんさんのやることには、もう驚かんと思うてはったけど……」
     指定のあったビルの屋上に轟くヘリコプター音。
     反射的に仰ぎ見た先、薔薇の花束と小箱――恐らく指輪だろう――を手にしたタキシード姿の勇也に、まり花は思わず瞠目した。
     聞けば、絶対に忘れられぬ日になるだろう、と3日間寝ずに出した答えらしい。
    「その熱意にはいつも驚かされるばかりやわ……きっとこれからも、驚かされはるんやろうなぁ」
     せやろ? と艶やかに微笑する娘へ、勿論だと男も頷く。
    「勇也はん」
     10年の歳月は裏切らない。そう思うからこそ、娘は言う。
    「きっと、幸せにしておくれやす」
    「約束しよう。必ず幸せにするよ、まり花」
     君が隣にいてくれるのなら、絶えず笑顔にしてみせよう。
     そのためなら、出来ぬことなどないのだから。
     偶然街中で再会したエマと叶、そして直哉は、手近な居酒屋で夕食を共にしていた。
     開口一番に伝えた直哉からの感謝を、ふたりは恐縮しながらも素直に受け取り、そして返した。互いに知り合えたからこそ、今こうして想い出を語り合えるというものだ。
    「そう言えば……エマ。コルネリウスの言葉を覚えてるかな?」
     ――ソウルボードに残る慈愛の心と皆さんの力が合わさり、全てが幸福になりますように。
    「俺たちはサイキックハーツになったけど、それは彼女の願いでもあったんだろうか……彼女との約束に近づけているのかな」
    「一般人の方たちも救おうと選んだ結果の『今』なら……他の選択肢よりはずっと、近いんじゃないでしょうか」
     それは、エマの願いでもあった。直哉の手の中にある、希望の欠片と同じように。
     そのお守りをそっと握りしめた男は、娘へと言伝を添えた。宛先は白い蝶へ。生きててくれてありがとう、と。
     それもまた、確かに彼女たちの願いだった。直哉には、そう思えてならなかった。
    「まずは、乾杯」
     クリスマスのイルミネーションを映したグラスを互いに掲げ、冬舞とエマは見合って笑う。
     互いに世界を渡る仕事を持つ身だけれど、だからこそこうして機を作って逢瀬を重ねてきた。――10年分。
    「……エマ」
     名を呼び、懐から取り出した小箱をそっと置く。
     いつも貴女に支えられてきた。そして、俺も支えたいと思うから。
    「愛しているんだ。……結婚してくれないか、エマ」
     染むような声音にひとつ瞬くと、娘は小箱を手に取りゆっくりと開けた。燦めく銀輪を映した瞳に、涙が滲む。
    「……夢じゃないよね?」
    「ああ」
    「幻でもないよね?」
    「ああ。――ほら」
     嬉しそうな、けれど泣きそうな頬に触れる指先。いつも傍にあったぬくもりに、娘は堪らず破顔して頷いた。
     そうして近く授かるであろう子供は、ミルクティ色の巻き毛の息子と、艶やかな黒髪の娘。何故だか白い蝶を追いかけ回す息子に、冬舞が頭を抱える日もそう遠くはない。
     家族4人で描く日々に、約束を交わそう。
     ――いつまでもずっと、傍に。
     2029年。
     1月の寒空の下、天音は3度目となるフランスの空気を胸一杯に吸い込んだ。
     目的は、2年に一度開催される、製菓技術を競う国際大会。
     移動の傍らに見た洋菓子店のウィンドウからでも解る質の高さに、思わず目を見張った。さすが優勝常連国。来るたびに、製菓の世界は進化しているのだと気づかされる。
    『それで? 結果はどうだったんだ?』
     数日後、ビデオ通話越しに逸る叶にひとつ笑んだ天音は、1枚の写真を掲げて見せた。
     それは、金メダルを首に掛け、笑顔の花を咲かせた記念写真。
    『お! 金メダル!!』
    『凄い……! 天音さん、おめでとう!』
     隣から顔を覗かせたエマにも礼を返すと、天音は懐かしむように写真を眺めた。
     国別対抗戦故に、全員同等の技術を求められるハイレベルの戦い。
    「今回は、あたしが一番年下で先輩方から多く学ばせて貰った。……だから、次はあたしが後輩たちに教えてく番ね。……あ、」
     その前に、ふたりにこのザッハトルテをあげなければ。
     そう思い至ると、天音はくすりと笑みを重ねた。
     翌年の暮れ頃。目的の店の扉を開けた瞬間、厳は顔を強張らせた。
    「いらっしゃ…………え?」
     腐れ縁の友人が独立したと聞き足を運んだのだが、その友人・希も、目が合うやいなや驚きを顕にした。『プラネタリウムカフェ』という小洒落た店の客層も知らず、堂々と『お一人様』で特攻した我が身が恨めしい。
    「…………珈琲を」
    「かしこまりました」
     漸くカウンターの隅で対面した相手からの注文をさらりと受けはしたが、そういう希も笑いを堪えるのに必死だった。見たことのない居心地の悪そうな顔に、つい笑みが洩れそうになる。
     それでも、その顔を見て張り詰めていた緊張の糸が解けたのも事実だった。そして、それを本人に教えない代わりに、希は極上の1杯をそっと厳の前に置いた。
     いつか見た星空と、希の言う『最高の珈琲』。
     仕事続きで疲れた心身が、どうしてもと求めたもの。
     喉を潤す酸味と苦味に、厳は微かに口端を上げた。静かに拳を差し向けると、希も瞳を細めて己の拳を軽く当てる。
     それは、言葉なき祝福。
     ふたりには、それだけで十分だった。

    ●2036年
    「お前は、いつになったら俺を殺してくれるんだろうな」
     6月も末。立ち寄ったバーでグラスを傾けながら溜息交じりにそう言われ、錠はバツが悪そうに一瞥した。
     なんのことかなぞ、聞かずとも解る。先日迎えた、葉の40歳の誕生日の一件だ。
    「……止めようとしてくれる輩が多過ぎる」
     言いながら首筋の刺傷に触れる。葉の家族、こんな碌でなしを慕う友人や従業員たち。過ぎった顔ぶれが何故か可笑しくて、錠の口端が微かに緩む。
     葉も、それは解っていた。老いを感じるようになれば、それだけ柵も増える。結局は今も同じ。まだ、死ねないのだ。
     それでも、後生大事に約束を果たそうとするこの男に、葉は感謝していた。
     カウンターに並ぶ、揃いのギムレット。
     『長いお別れ』を意味するそれを選んだ意図に気づいて、口許に苦笑を滲ませる。どうやら、最期の晩酌にはまだ早いと言いたいらしい。
    「まあ、気長に待ってるさ」
     言いながら一口呷る相棒に、錠も不敵に笑ってみせた。
     10代から大事に温めてた殺意。
     次こそしくじらないよう、計画を建て直そうか。
     やはり自分は、今のこの世界が好きなんだと周は思う。
     長らく携わってきた遺跡探査や保護も落ち着き、今度は地球外の遺跡を求めて宇宙へと飛び出した後。地球へと戻ってすぐに、エマのコンサートへ行った。
     学生時代から数え切れぬほど聞いた音色。
     変わらぬそれに再び浸り、改めてそう強く感じたのだ。
    「それで、火星ってどんなところなんですか? はっ! 火星人って本当にいたり……??」
     聞くことすべてが新鮮なのだろう。日を改めて再会したエマが瞳を煌めかせる。
    「ははっ。そうだな、火星は――」
     月日を経ても変わらぬ本質を垣間見て、周の声音にも嬉しさが混じった。夜の紅葉を映したバーボンの水面を揺らしながら、あの頃と同じように、他愛もない、けれど大切な語らいを重ねてゆく。
     そうして、娘はこの先も終わりなき闘いに挑み続ける。
     いつか迎えるであろう最期に、いい人生だったと言えるように。
    「……まさか、こんなところに呼び出されるたあな」
     ま、アンタの希望とありゃ仕方ねえわな。冬の雪山に散る赤を一瞥しながら、ダグラスはそう嘆息した。
     ――アンタが刃を置くなら、俺が牙を折ってやる。
     たった今、男はその約束を果たした。人との関わりから疎遠になっていた自分を度々引っ張り出してくれた、この男が。
    「さてと。ほら、行くぜ?」
    「っ……!?」
     自身も酷い失血だというのに、ダグラスは玄旺の腕を引き担ぎ上げた。崩れそうになる足に力を籠め、一歩、また一歩と帰路を辿る。
     置いていけ、いや、殺していけ。
     そう告げたかったが、途切れがちな呼吸がそれを赦さなかった。牙を失った獣が生きていけないことはこの男も心得ているだろうに、何故。
     ――殺す気なんざなかったからな。ケリをつけたかっただけだしよ。
     知りたかった答えが解るのは、それから数年後。その答えに玄旺は、低く笑うしかないだろう。
     そうして託すのだ。
     奪われた牙を、この先も戦乱に身を置くであろう男の、その墓場へと。

    ●2038年
     今年もまた、京が桜に染む季節が訪れた。
     祇園白川沿いに面したテーブル席でウィスキーを愉しみながら、緋頼は夜に灯る花へと双眸を細めた。ゆるりと視線を戻し、独り言ちのように対面に問う。
    「なんで、あんなわたしを好きだと思ったの?」
     今では感情も顕わになったが、昔の自分なら微塵も考えられぬこと。
     その自分が他人を意識し始めたのは、白焔に好意を示されたあの最初の京都旅行だ。
    「考えもしなかったな」
     気づけば絆されていたということか。知らぬ間に生まれていた己の強い想いを顧みながら、白焔は口端に淡く微笑を刻む。
    「私からも。――緋頼は何故、私に付き合っても良いと思った? 当時から私は危険物だっただろう」
     そう尋ねる真剣な眼差しに、娘はつい笑みを洩らす。
     考えるまでもない。簡単な答えだ。
    「だってさ、『わたし』自身に恋してくれたからよ」
     そんな危険物な貴方を、わたしは好きになった。
    「そうか」
     それだけを言うと、白焔は満足気に微笑んだ。
     ならば最初に掴まえたのは正しかったのだろう。緋頼に恋する男なぞ、幾らでもいるだろうから。
     夏の陽に照らされるベルリンの空の下、ステラが短く嘆息した。
     今やすっかり落ち着きを取り戻した欧州。最早形式的なものとなっている監視業務だったが、それでも議会への報告だけはなくならない。
     気乗りしない道のりを歩きながらふと目に留まったのは、手を繋ぎ語らうふたりの少女たち。
     片やエスパー。片方やダークネス。
     かつてダークネス灼滅派だった自分がこの光景に和み、その維持に尽くしていることは、ステラにとっても誇らしくあった。
     そうして少女たちの姿に重ね見るのは、己と、あの白い蝶。どうやら自分は思いのほかロマンチストらしい。
    「……まぁ、夢見がちなのも悪くないでしょう。そう思いませんか? フラウオンブラ」
     言いながら、隣を歩く娘へ笑み交じりの視線を向ければ、
    『ソウルボードもない今、ここで夢を見ないでどこで見るの』
     一瞥した娘は、そう言って手元の三段アイスクリームへと視線を戻した。
     いつもと変わらぬ日常の中。
     贈られたばかりの真新しい白いワンピースの裾が、ふわり夏の風に揺れた。
     月を背に、長く伸びた庭木の枝から朽ち葉が毀れ落ちた。
     ひらり。ひらり。右へ左へと舞う葉につられて踊るペンギンの『もこた』に笑っていた穣が、ふと声を潜める。
    「……なんか、実感ないっすね」
     デモノイドヒューマンたる自分の居場所なぞ、もうこの世界にないと思っていた。それが、今は普通に受け入れられてる。
    「はは、そうだな。……本当に長いような短い様な不思議な気分だ」
     もう頑固で融通の利かない自分はいない。穣とここで初めて逢ってから、ライルは変わった――変われた。
    「俺、幸せっす。ライル先輩に会えて良かった」
    「ああ、俺も幸せだ」
     自暴自棄になっていた自分を助けてくれたライルの言葉に破顔しながら、
    「勿論、もこたにも」
     構って欲しいのか、顔を近づけてきたもこたの頭をふたりで撫でる。
    「日本に来て本当に良かった……かけがえのない、大事な人生の相棒に出会えたのだからな」
    「先輩……今、相棒って……」
     見開いた双眸を潤ませる穣へ、ライルは慈しむように微笑する。
     本当に――本当に、この人生は幸せで贅沢だ。
    「僕らはいいから楽しんでおいで」
    「悪いな、慶」
     玄関口でそう言いながら、慶は子供たちを傍らへ抱き寄せた。
    「ほら、ひばりと誉も。いってらっしゃいは?」
     その声に愛らしく手を振る様に、都璃も笑顔で手を振った。そっと顔を近づけ、気をつけて、と軽く頬へ口づけを落とす。
     玄関を背に駅へと歩き出した妻の背を見送ると、慶はくるりと踵を返して子供たちを覗き見た。ふたりに相談がある。そう、真剣な眼差しでひとつ問う。
    「――晩ご飯はオムライスでいいかな?」

    ●そして、日常へ
     薄暗くも柔らかな燈のいろに染まる店内に、微かな談笑が定期的に湧き上がる。
    「あの頃は、チャイムが鳴ったと思ったら困り果てたエマがいたことも何度かあったっけ」
    「ふふ。あったあった。丁度、冬舞がいないときで、テンパっちゃって」
    「ふたり揃って、母親として先輩の恵理さんに知恵を求めたりな」
    「本当、恵理さんが居てくれて心強かった」
     灼滅者としてだけではなく、母としても。
     そうくすりと笑いながら感謝するエマに、都璃も「お世話になりました」と頭を下げる。
    「それにしても、叶君たちがこんな大家族になるとは驚いた」
    「おれだって驚きだよ。でも、みんな健康で健やかに育ってくれてるのも、恵理のお陰だ」
     な? と叶が傍らを見れば、一寸恥ずかしいんだけど、と口籠もりながら続ける恵理。
    「その……久しぶりにまた名前を考える事になりそうよ、5人目と6人目の」
    「え!? ……って、まさか……」
    「ええ、また双子なの」
    「本当ですか!? おめでとうございます!」
     はにかむ恵理を祝いながら、都璃は願う。
     気づけば長く、今や家族ぐるみの付き合いになった彼らとの縁。
     この歓びが、この先も続きますように。
     扉が開き、冷え切った夜気を纏った男が入店した。
     黒のコートと妙に長いカシミヤのマフラー姿の男――娑婆蔵は、それらを店員に預けながら、続く鈴音のそれも重ねて託した。天鵞絨のスツールへと腰を下ろし、最初の一杯を注文する。
     まずは酒杯を、と運ばれてきた対のグラスを掲げる。普段は組の衆と畳の上で日本酒だ。鈴音となら、偶にはこういう店も悪くない。
    「そういえば、たまに組員に恐れられてる気がするのよね」
    「アア、そりゃァ普通に事実でござんすよ」
     あの『大戦』を経験した世代だ。灼滅者だと伏せていても胆力は悟られるものだと聞かされ、嗚呼と嘆きながら鈴音は大きく空いた肩口を窄ませた。
    「8年前に久々に力出して抗争収めたの、広まってるのね……」
    「あの時のお前さんの七不思議、全く衰え知らずで正直ビビりやしたぜ」
     そう言う娑婆蔵を一瞥すると、鈴音は一気に酒を呷る。
     それもまた、構いはしない。畏れを利用して家庭菜園を個人占有地にできたのだから。
     ぼんやりとそう思いながら、女はゆるりと唇で弧を描いた。
     出逢って早26年。
     下戸だった相棒と、今こうしてバーを訪れているのだから不思議なものだ。
    「以前の俺は、アルコールにとても弱かったと記憶している」
    「酒もそうやけど髪もやろ? 銀が元の色や思うとったさかい、驚いたわー」
     そういう自分の髪も、製薬会社の顧問弁護士という職に合わせて桃から鳶色へと戻した立夏がけらりと笑い、その横顔に徹也は淡く口角を上げる。
    「今は、とても楽しいと認識している」
    「色々変わった事もあんねんけど、でも……徹やんと一緒居って楽しいって思うんは、わいもずっと変わらへんねんで」
     嘗ては、独りだった。機械になりたいと願い、一切の感情を捨てていた。
     けれど、今は隣に相棒がいる、憧れていたロボット工学の研究職にも就けた。――そして、自然に笑えるようにも。
     随分と変わったものだと、徹也は思う。それもすべて、
    「お前のおかげだ、斑目立夏」
     そうしてふたりは、グラスをそっと掲げる。
     これからも共に盃を交わそう。
     ずっと爺さんになっても飲みかわそうなあ。
     ――相棒。
     ふたりきりの外出はいつぶりだろうか。
     想希の眸に乾杯、と満面の笑顔でグラスを交わす悟に、月が綺麗ですね、と想希もくすりと笑う。
    「たまにはふたりで行って来い……なんて、優しく育ってくれましたよね」
    「子供の未来ってわからんもんやな」
     10年という月日は、知らぬうちに、けれど確かに世界を、日常を変えてきた。
     既に馴染みとなった猫カフェの波平にも、2代目、3代目が生まれた。そして、彼らの子供たちも。
    「これからどんな世界を渡っていくんやろ。……どこまで見られるか解らへんけど」
     そう遠くを見つめ未来を想い描く悟の横顔に、想希はふわりと眦を緩めた。応えるように、重ねた掌に力を籠める。
    「まだまだですよ。嫁さんや旦那も見極めないといけませんし、結婚式にはウェディングケーキ作ってやるんです」
    「おー! ほな俺もドリンクサービスしたらんとあかんな」
    「それに、孫だって見ないと」
    「孫……やと!?」
     描き始めれば尽きぬ未来。
     それがどんな世界であっても、唯々幸せであってくれたら。そう願いながら綻ぶ片割れの、その寄り添う肩をそっと抱いた。

     祈るように微笑みを重ね、光に微睡むあたたかな琥珀色を眺め見る。
     光と闇は、表裏一体。
     混沌たる闇は終ぞ消えた。ならば、これからは光溢れる日々が続くのだろう。
     ――きっと。

    作者:西宮チヒロ 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2018年12月29日
    難度:簡単
    参加:40人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 3/素敵だった 4/キャラが大事にされていた 1
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