カナシミ・ララバイ・ブルー

    作者:日暮ひかり

    ●scene
     深く、暗い海の底を、女はひとり歩いている。
     水とも砂ともつかない闇の中を、ぐるりと緩慢に影が旋回していく。
     体が透けたもの、目が退化したもの、顎がはずれたようなもの。
     何かが足らないまま生まれ落ちてしまったようにも見えるし、余計なものすべてを捨て去った合理的な造形にも思える。
     深海魚。
     光の届かぬ深海に棲まう、奇妙なものたち。
     いずれにせよ、女がそれが美しいと感じることは変わらなかった。
     
     ――おいおい、これがオレかよ。もっと格好良く描けなかったのか?
     ――やっぱりなぁ。お前には、才能が無いんだよ。決定的にな!
     
     ユーモラスに顎をがくがくと震わせ、魚の一尾が嗤った気がした。女は力なく笑み、こくりと首を縦に振る。鮮やかなマリンブルーの絵の具で、彩り豊かな珊瑚礁を描くことが、かつては好きだった気もする。
     深い海の底を好んで描きだしたのは、いつからだったろう。意識して変えたのでなければ、案外記憶には残らない。
     むかしは使わなかった灰色めいた冷たく澱んだ青を、ララバイブルーと呼ぶのだといつか知った。その呼び名が、今はいたく気に入っている。
     
     努力をしなかった訳ではない。情熱がなかった訳でもない。
     惰性で中途半端な高みに達してしまったからこそ、見えてくる現実は透明で、残酷だった。
     薄々察してはいたのだ。けれど、好きだから諦めきれなかった。
    「そう。私には才能がない。皆と同じところには立てない」
     ――だから?
    「同じところ。いいえ」
     そのとき海が震えた。ばくりと地面が割れ、巨大な海溝が現れる。女の見やる先には、水底に体を横たえたもうひとりの女が居る。
     眠っているのだろうか。彼女は身じろぎもせず静かに谷に呑まれ、その先へと消えていった。底の見えない闇を虚ろな目で覗きこみ、女は呟く。
    「もっと下まで落としてやればいい」
     
     魚ががくりと顎をはずすのを見て、耳を塞いだ。私はこんなにも惨めで、寂しくて、汚い。自分で分かっているのだから、もう何も言わず放っておいて。
     どうして深海魚が水底で暮らすか、貴方はそのわけを知っているでしょう、魚。
      
    ●warning
     水槽のろ過装置と、ヒーターが静かに動く音が放課後の喧騒に紛れてそこにあった。
     教室のすみに置かれたそれの中には、めだかが何匹か泳いでいる。小学生が理科の授業で使ったものだろう。鷹神・豊(中学生エクスブレイン・dn0052)は、暫し魚達が泳ぐのをじっと見ていた。なにかを考えているようだった。
    「シャドウ」
     浅く息を吐いて、その名を口にする。
     
     シャドウ。
     憑代とする人間の精神世界を悪夢で満たし、荒廃させ、死に至らしめるダークネスの名だ。
     ソウルボードと呼ばれるその世界に居る間は大した脅威ではないが、現実に現れた時の力は筆舌に尽くし難い。
    「闇堕ちした一般人がいる。17歳で、芸術系の高校の生徒。名前は……緒方南。受験を控えて自身の才能に絶望し、追い詰められた彼女は、同級生の友人の精神に巣食い、破壊して、未来を奪おうとしている」
     彼女の友人は静かな街外れのアトリエに籠り、作品制作に励んでいる。
     眠る度に見るようになった、深い水の底へと永遠に落ちていく夢。そのせいで被害者はどんどん憔悴しているという。
    「現実世界で戦うには分が悪い。俺の指定した日時に現地へ向かって欲しい。彼女の後を追う形で悪夢に潜入し、」
     南はシャドウハンターと咎人の大鎌に似た技を使い、魚は個体毎に異なる攻撃をしてくる。
     初期配置では、一番奥側に南が。
     その手前に眠っている被害者が、更に手前――灼滅者達の傍に、魚が居る。
     敵を抑え、動けない被害者を保護せねばならない。
     魚が、南がどう動くか。注意が必要だ。
    「灼滅してもらう。救出も……出来なくはないが」

     皆、薄々それを感じていた。
     鷹神は一瞬眉を寄せ、息を呑みこんでから、言った。
    「彼女を救うのは難しいだろう」
     灼滅者の一人が乞うような声で問う。
     まだ間に合うのだろう。なにか糸口は。可能性は。
     問われても、彼はよくわからないと首を振った。
    「だが、これは言える。もし緒方殿の闇堕ちが完全なものとなれば、早急に灼滅するしかない。力をつける前に、潰す。合理的な判断だ」
     感情を殺した彼の言葉は平坦で、棘もなければ情の類も感じない。
     けれど、僅かにやり切れないような瞳で、教室の窓の外を見る。
    「幾ら切望しても、掴む事の叶わぬものが有ることを……俺は否定はせんよ。頑張ればなにかが変わる事もまた、あるのかもしれんが」
     君達がどちらを信じるかは、俺の干渉すべき所ではない。
     だが一つ心得て居てくれ。
     常に全てを掴めるほど、俺達は強くないのだと。
     
     窓の外から、彼の視線は再び水槽の魚へと向かう。
    「『どうして、深海魚が水底で暮らすのか』……あるとすれば、その答えが鍵なのかもしれないな」
     無責任に頑張れ、とは言えない。
     俺にはここまでしか分からなかったからと、鷹神は軽く首を振った。
     ただ、それでもどうか手を貸して欲しい。どうか、言わせてくれ。
    「全てを望まなくてもいい。君達にしかできない。だから…………」
     あまり深刻な顔すんなよと、労わるように笑う。
     話を終えたエクスブレインは、深く瞑目し一礼する。


    参加者
    萩埜・澪(糸繰人形・d00569)
    玄鳥・一浄(風戯ゑ・d00882)
    忍海・航平(あおい深海・d01185)
    蛙石・徹太(キベルネテス・d02052)
    紫空・暁(霄鴉の絵空事・d03770)
    煌・朔眞(シークレットドールズ・d05509)
    関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)
    鈴鹿・巴(吶喊型鉄拳少女・d08276)

    ■リプレイ

    ●1
     水のゆらぎ方が変わった。
     深く、暗い海の底は、確かに南の縄張であった。
     即ち、何者かが、領海を荒らそうとしている前触れ。

     南がそれに思い至るよりも、一寸先に影は動いた。
     闇に見慣れぬ輪郭を数えるより早く、紅の十字が彼女に傷を刻む。深海にはけして届かぬはずの、厚い木の葉の擦れる音。
    「……暗いねぇ」
     榊の枝を振り終え、玄鳥・一浄(風戯ゑ・d00882)が遠くに立つ南へ微かに笑んで見せる。
     南は彼を見てはいなかった。友人へ向け一心に駆ける鈴鹿・巴(吶喊型鉄拳少女・d08276)を見ていた。
     迷いなどない。絶対に悲劇を止めねばならない。真っ直ぐな眼で巴が見据えていたのは、それだけ。
     ゆえに南は心得た。この外敵は、己の凶行を阻止するべく来た疎ましいものたちと。
     横たわる友人の真下に、ゆっくりと海溝が開く。悪夢の主たる南は侵入者を想定してはおらず、人が落ちれる幅が出来るまで幾らか余裕があった。
     一番先手を取りやすい巴を救出に配した事は最善だった。巴は彼女の元へ滑り込み、落ちる前にその身を抱きかかえ、離れる。
    「来るなら来なよ。絶対に守り切って見せるから……!」
    「随分、威勢が良いのね」
     憎くて、おぞましいわ。その、自分の力を信じ切っている眼が。
     南がすっと指をさし、魚に命令を下す。
    「お前も落ちろ」
    「させるか『プランジ』!」
     蛙石・徹太(キベルネテス・d02052)、続いて紫空・暁(霄鴉の絵空事・d03770)が注意を逸らそうと魚への射撃を試みる。萩埜・澪(糸繰人形・d00569)も捕縛の糸を放ったが、いずれも空を切り深海へ消える。
     なにが原因でもない。神の気紛れが南に悪運を与えたにすぎない、が。
     顎を伸ばし、身体を輝かせ、棘を撃ち出し魚達は力の限り巴を襲った。加えて強力な南の黒弾が彼女を貫く。精神世界とはいえ、本物の痛みに巴が軽くうめく。
    「――ッ」
     今飛び込まねばと思ったのに。徹太の後ろで暁がひとつ息を吐き、肩の力を抜いて笑んだ。
    「大丈夫、落ち着いて行きましょ。次は当てるわ」
     外したらあのコにも笑われちゃうものと、暁は忍海・航平(あおい深海・d01185)に目配せをする。未だ持ち慣れぬ弓をじっと見ていた航平が、視線に気づき顔を上げた。
    「そーだよ。頼りにしてるぜメディックさん?」
    「あらあら、スナイパーさんの期待には応えないとねぇ」
     交わされる軽口は互いへの信頼の証。灰の海の中へあっても褪せない色を紡ぐのは、何も彼らの握る絵筆のみではない。友の言葉は張り詰めた心をほぐし、挫けぬ力となる。
    「……応えてやろうじゃないですか」
     だが、早急に魚を抑える手筈が、やや遅れを取ったのは確かだ。航平が巴の元へと向かうのはまだ頃合いでない。
     提灯魚を相手取る関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)へ援護の黒弾が向かった。怯んだ魚の腹を、ガンナイフの刃が的確に抉り取る。峻の眼差しには、強く敵を射るのみではない温度があった。
     ――辛いだろうな。
     己を傑物と位置付ける峻ではないし、だからこそ挫折の苦も知り得ている。けれど他人を羨み、傷つけてどうする。自分が惨めなだけではないか。
     やりきれなさを言葉にしようと、南を見た。
     いや。
     彼女は、そんな事痛い程知っているだろう。解ってしまうのが、つらい。

    ●2
     綺麗だね、と。
     目の無い魚に対峙する煌・朔眞(シークレットドールズ・d05509)は、素直にそうもらした。
     ある種場違いな無邪気さに触れた南は軽く眉を寄せ、気を遣わなくても良いのよと吐き捨てる。朔眞は少し悲しげな顔をした。
    「朔眞たち聞いたんだ。『どうして、深海魚が水底で暮らすのか』、緒方さんは答えを言える人を探してるって」
    「……ふぅん。正解は無いけど。でも、聞いてあげてもいい」
     どうせ、どちらかがここで消えるなら。
     朔眞が握った菫色の刃が走る。斬られた魚は身をよじらせた。
    「んー……恥ずかしい自分の姿を暗闇に隠しちゃうのかな? 勿体ないね」
    「何故?」
    「朔眞には、みんなキラキラ輝いて見えるから」
     朔眞は魚の一つ一つに視線を巡らす。敵とは理解していても、今はソウルボード上の世界への好奇心が恐怖や気負いに優っていた。どうして、こんなにも懐かしく感じるのだろう。
     深海を美しいと思うのは、澪も同様だった。
    「わたし……あなたと話しに、来たの……同志……なのかも……」
     硬い表情をフードで隠し、抑揚のない声でぽつぽつと語る。そんな己に少なからず引け目を感じていた。
    「人より劣っていると思い込んでいるから……隠れたくて……溶け込みたくて……日に当たっている存在から逃げたくて……」
     沈むの。最後の言葉は海底に落ちる。
    「ふふ、そうね。貴女、此処で暮らしたそうな顔してる」
     こっちに来れば?
     遠くで南が手を差し伸べる。首を振るのが躊躇われた。
     駄目だ。強い感情の渦に、吞まれてしまう。
     その力を本当は恐ろしいと、羨ましいと思っていても、澪は心の揺れを上手く感じる事が出来ない。
     閉ざされた海は、胸に劣等感を抱く者にとって想像以上に。
    「心地良いだろうな。ここは」
     銃を構え、眼前の魚を牽制しながら、峻が低く呟く。
    「流す涙も周囲に溶けて、誰にも見られる事は無い。そんな陽の無い所でしか生きられない者もいる」
     一見すると取っつき難い空気を纏う彼が、共感にも取れる言葉を発したのは南にも意外だったようだった。何度か瞬きをし、問う。
    「貴方、眩くない光を探せたの? 生きる為の道が見えた?」
     峻は押し黙る。けれど、この場合沈黙は答えとなるだろう。
    「分からない」
     せめて南のように、殻を閉ざした貝にはならない。そうでないと届かないと思ったのだ。
    「あかんなぁ。届かへんなら墜ちてまえ、て」
     光の届かぬ、誰の干渉も受けぬ闇の底で、憂き世の屍を餌とし生きるもの。
     深海魚とシャドウの在り方は、どこか似ている。
     見方を変えれば、それは絶望を知った者のみが至る、焦がれるほど美しい幻想だろう。
    「突き放した心算で逃げて。でも、ほんまに望んでる訳あらへんやろ」
     はんなり流れる一浄の言葉に、責める色はない。それはむしろ南を、皆を深海よりすくう問いであった。
     南の顔に僅かに動揺が走ったのを見逃さず、再びゆるりと十字を切る。まだ魚は5体残っていた。
     巴は波状攻撃に備え、衰弱した被害者を癒そうと試みた。
     しかし反応はない。意識不明の一般人は、戦いで戦闘不能となった灼滅者と同程度消耗していると考えて良いようだ。
    「ちょっと、ヤバいかも……」
     珍しく弱音が零れるのは、ひとえに巴の状態異常を治癒する手段が無いことが原因だった。ポジションや盾の強化で衝撃自体は軽減できたが、それの及ばぬ毒やトラウマが痛い。だめ押しに、南の咎の波動が前衛を狙う。一浄、徹太、峻に武器を縛る呪いがかかる。
     巴に向け、癒しの力を使おうとした暁は痛恨の事実を知る。
     戦況を覆す命綱であったろう、他者回復の術が活性化されていない。苦々しげに笑みを浮かべるも、紫水晶の瞳は自身への痛憤で静かに煮えていた。
     峻の持つ技は個人を癒すには向かなかった。迷ったのは航平だ。
     被害者の引き受けと、巴の回復。
     両方を一度にこなす事は、出来ない。

     ここに至るまでのすべての不運が招いた、悪戯な偶然。
     初戦場でこの選択を引き当てる運に航平は苦笑し、苦境を察した徹太がいよいよ指を噛む。
     大事なものが多すぎる。強くないからって、諦められるはずがないじゃないか――。

    ●3
     暁の放った漆黒の弾丸が、峻の眼前へ駆けた。
     泳いでいた提灯魚が力無く水底に落ち、泡となって消える。
    「逃がすわけにはいかないの」
     苦い笑いは失せていた。柔和な物腰に秘めた芯の強さが、上を向かせる。
     南の世界に光が射すことはない。自らとの違いを見せつける苦しい物だから、だろうか。憎んですらもいるかもしれない。
    「さぁ、これからよ――前だけ向いて行きなさい」
     暁の言葉を聞いた航平が意を決し巴の元へ走る。鋭い棘と光の刃がなおも迫っていた。その先の友人が南の目的なら、傷を癒すより保護を優先すべきだ。
    「鈴鹿……」
     かける言葉が見当たらない。一浄がどうにか射線に滑り込み、被弾を免れる。どうか暫く耐えてくれと、それのみを願う。
     航平の後ろで、海溝が大口を開けていた。生物が生きる所で最も深い場所。これより下は無い。
     見なくていい。聞かなくていい。皆醜いから、自分も醜くていい。
    「アタシ達もね、絵を描くの」
     暁の言葉に、南が顔を上げた。
    「なら教えて。貴方たちは、才能という泥沼に囚われたことはないの?」
    「……あまり考えたことがないの。ゴメンね。アタシはただ世界を描きたい、それだけだわ」
     南は苦々しく笑う。そこの、私の『元』友人も同じような事を言ったの。
    「だから殺したくなった。わかる?」
     対して、航平は曖昧に頷く。
    「全部じゃないとは思うけど……いるじゃん、ピカソの絵を見て俺でも描けるって言う奴。でもさ、うっかりこのセカイに踏み出すと判る」
     手の届きそうなそれがどれほど遠いか、実際に近づいた事が無いから彼らは知らない。間にある、底知れぬ溝を。山の高みを目指す為に越えねばならない谷はあまりに深く、うっかり落ちたら、真っ逆様。
    「けど、こんなユニークで個性的な所も他に無いだろ。だから俺は絵の世界が好きだ」
     一心に絵への想いを語る二人を、南は羨むような遠い目で見つめた。
    「……もういいわ。貴方たち、眩しすぎる」
     その矛先が巴に向かう。
    「ダメっ!!」
     朔眞の声が響く。丁度、澪の紡いだ糸が二体目の魚を吊った時だった。
    「緒方さん。キミは、他者からの干渉を快く思わないのかもしれない。でも、ボクは信じてる。嫉妬と自分の不甲斐無さからくる怒りに、ダークネスがつけこんでるだけだって」
     悲しい物語を止める道。最後の瞬間巴は回復を棄て、残る力の全てで魚に光線を放った。
     一斉攻撃の合図は――3体目の魚が落ちた時。巴の体力は既に限界以上まで削れ、今はただ精神力で身体を支えている状態だった。
    「みんな、後は任せたっ!」
     虚空の刃が海を裂き、意識を失った巴が夢より弾き出される。巴程では無いが傷を重ねていた峻を庇いながら、徹太は為すすべ無くそれを見ていた。
    「……絶望して欲しゅないなぁ」
     白い頬を滴る血を拭い、一浄が嘆息する。
    「あの海溝は、君の心に開いた淵そのものなんやろね。ヒトを墜としても君が浮上できる訳やないのに」
     埋まらない溝は確かに在るだろう。どれ程嘆いて悩んでも留まる事を許されないから、時としてただ悪い方へ流される。人の世界とは、海に似ている。
    「……やめて」
     南の声が震える。朔眞が残る魚の抑えを受け持ち、皆が南へ攻撃を開始した。魚が残る限り近接攻撃の動線を確保する事は出来なかったが、逃げる気配はない。
    「何をやっても、上手くいかないのね」
     彼女は、諦めている。
    「ワリ。ちょい時間くれ」
     ずっと押し黙っていた徹太が、皆に言った。銃を胸に抱き、真っ直ぐに南の目を見る。そのために帽子は置いてきた。抱えきれない感情が目から零れても、どうか隠して。峻の言葉を借りるなら――ここは深海だから。
    「もう一度描いてくれ。心の色、全部ぶちまけてさ。答えが違ってもどうしようもないことはねえだろ」
     どれ程生きて欲しいと願っているか、届けなければ。胸の内に残る誰かへの悔恨が、心の奥を掠めて泳いでいく。
    「焦がれて潜ったって辿り着けねえのに、こんな風に映し出せるあんたの絵は綺麗だろうな。守ろうとしたのは、好きってその気持ちじゃないのかよ」
     崩れかけの心で折れた筆を握って、それでも海を描いたのは何故か。
    「俺の答え、まだ聞いてねえだろ。『そこでしか生きられないから』だ。言ってやる。何を捨てても、全ての敵から底へ逃げた弱虫だって!」
     目指すところへ頑張れること。ただ好きな世界を泳げるというだけのこと。
     誓ったのだ。その小さく大切な喜びを感じる心を、捨てさせはしない。
    「いやあああああああ!!」
     深海に一筋の、あまりに明るい光が射した。
     光線の中に南が消え、用を失った魚達が泡となる。
    「…………!」
     いかないで。もうひとりの、わたし。
     崩壊する水底で、澪は無意識に手を伸ばした。澪の服の端を、朔眞が強く握りしめる。
     そうでもしないと、彼女も自分もこの渦に流され、取り残されてしまいそうと思ったからだ。

    ●4
     アトリエの白い壁には、大きなキャンバスが立てられていた。
    「私、死に損なったみたい。どうしよう?」
     緒方南はその前に友人と巴を寝かせ、寒そうねとタオルをかけ、私も少し休むわとへたり込むように床に座った。澪が、寄り添うように隣に腰を下ろす。

     悪夢が崩壊しても、南が灼滅される事は無かった。一行はひどく安堵し、また辛勝への悔いを抱え疲れてもいた。外で買ってきた熱いお茶を、皆で啜る。
    「どうして深海魚が水底で暮らすのか……だったわね。『襲われるのが怖いから』よ。本当に弱い生き物なんて、そんなもの」
     他人から突きつけられる事を恐れて弱さや醜さを認め、どれだけ寂しく生き辛かろうと敵のいない底を目指したのに。
    「貴方たちってとんだお節介揃いね」
    「おおきに。よう言われますわ」
     冗談めかして一浄が言えば、食えない人ねと南は少し笑う。
    「けど、いざ自分の弱さを突きつけられたら……やっぱり痛かったけど、悔しくて。どれだけ焦がれても、私は深海魚にはなれないみたい」
     清々しい、どこか哀しげな顔だった。それを見た朔眞が、近くのクロッキー帳と鉛筆を手に取る。
    「あのね、朔眞は絵が苦手なの」
     お魚さん、と言って見せた絵は何故か頭が猫で、シュールさに南が思わず吹き出す。
    「は、反則よ……」
    「えへへ。緒方さん、お手本見せて?」
    「あ、俺も緒方の絵、見たいな!」
     俺達美術部だから、今度遊びに来ないかと航平が誘う。
    「このコ、海の事話し出すと止まらないんだから。帰れないわよ? ……アタシにも、いつか南の世界を覗かせてね」
     暁が柔らかく微笑めば、あまり綺麗な絵は描けないけどと南は俯いた。朔眞が首を振る。
    「ララバイブルーが緒方さんの心の色でも、やっぱりキラキラしてると思うな!」
     皆が、優しい。南は背を向け、窓の外を見る。

    「先生に聞いたの。優等生だけがいい教師になるわけじゃないって。優秀すぎると、どこがなぜ分からないのかが分からないから……なんだって」
     私の痛みがわかる貴方たちも、強いばかりじゃない。きっと同じ事なのねと、南は泣いた。
     徹太がイーゼルにかけてあった自分の帽子を取り、ぽんと彼女に被せる。
    「お帰り」
     今度はもう沈ませない。
    「今は、ララバイブルーの向こうに見える新しい色もあるはずだ」
     だから浮上してみないかと、峻が添えた。
     帰ろう。水が無くても、涙が隠れる場所へ。

    作者:日暮ひかり 重傷:鈴鹿・巴(吶喊型鉄拳少女・d08276) 
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2012年12月24日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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