白と白と白のcounseling

    作者:一縷野望


     白。
     白はどんな色にも染まるコトが、できる。

     ある時、そのテノールは柔らかにリュウマへ問いを作る。
    「今日は相談日じゃないけど、辛いコトでもあった?」
    「……睦月さんが俺以外の女を愛してるって」
     前髪で顔の大部分を覆った青年に篭もるのは、疑念と期待と恋慕。
    「僕はカウンセラーだからね、時に相談者(クライエント)にそのように取られることはあるよ」
     彼の答えはリュウマの疑念を覆すモノでは、ない。
    「……俺も、ただのクライエントの一人なの? ……やっぱり、女の方がいい?」
     返ってきたのは笑み声、やっぱり答えじゃ、ない。
     ――あけることのない『引きこもりの闇』から救ってくれた彼に、俺だけを見て欲しい。

     ある時、そのテノールは厳かにリツコを打った。
    「俺を疑うのか?」
    「私に黙って朱川や本田と逢ったじゃない!」
     爪を噛む唇は真っ赤。語られるのは彼の生活の逐一を監視しているようなプライベート暴露。
     そんな女を張り飛ばす、痛みを感じた刹那に微笑むのは織り込み済みで。
    「ひどいわ睦月、カウンセラーにかこつけて……」
     かこつけて依存しているのは、私。
     ――DVを繰り返す恋人から別れるきっかけをくれた睦月の愛を独り占めしたい。

     ある時、そのテノールは軽妙にエミの耳に響く。
    「愛してるよ♪」
     ショートヘアをパッションピンクに染めた少女は、えへらっと嬉しげに口角をあげた。
    「って言ってくれる人、見つけられたぁ?」
    「やっだ、睦月ちゃん知ってる癖にぃ。エミが誰から言って欲しいかなんてさ」
     はぐらかすように続くは世間話。
     でもネグレトされたエミはこんな些細なお喋りが嬉しい、でも。
     ――エミとだけお喋りしてよ。

    (ある時、そのテノールは……)

     このように。
     白の壁に囲まれた部屋で月を背負う『カウンセラー』岩居睦月という人間は、妙に気配が定まらぬ男だった。
     もちろん意図的に、彼は演じているのだ――彼らが求める『彼』を。
    「じゃあ……」
     その後、彼がクライエントらに告げた締めのセリフは全て同じ。
    「選ばせてくれるかい? 『あなた/お前/キミ』を」
     そう言って、玩具達に短い銀の刃を握らせる。
     

    「カウンセリングを受けている内に疑似恋愛に陥るとはたまに聞くが……」
     神崎・ヤマト(中学生エクスブレイン・dn0002)は憤懣を口元に携え続ける。
    「それをわかって感情操作。counselor(カウンセラー)……心の導き手としてやってはならぬこと」
     ぐしゃり。
     彼の手元で丸められたクロスワードパズルの雑誌がひしゃげた。
     エクスブレイン――サイキックアブソーバーの声を聞き灼滅者の生存経路を伝える、そんな導き手を自負する彼としては、この度の中心人物は矜持にいたく反するのだろう。
    「だからお前達に灼滅して欲しい、この許されざる甘言の罪人を!」
     もう戻れない所に来ている彼を。
     罪人の名はカウンセラー岩居睦月。
     その能力はダークネスには及ばぬものの、容易く御せる敵ではない。彼は『魔法使い』と『影業』のサイキックを使用する。
    「奴はクライエントを依存させ弄ぶだけで飽きたらず、殺し合いをさせるのだ」
     カウンセリングルームのある雑居ビルの妙に広いエントランス、それが愛を勝ち取るクライエント達の戦場。
     睦月は奧の一室、薄い鉄の板を隔てた先で争う者達の怒号と悲鳴にほくそ笑む。
     ……そうやって、自分の価値を計る。
    「憐れなる犠牲者候補は7人。彼らの能力は一般の人間となんら変わりない」
     だが恋に狂った彼らは正気を何処かに捨てている、殺人の罪を厭う理性はもはやない。
     故に――。
    「お前達がナイフを持って雑居ビルに乱入しても、新手と取るだけだ」
     つまり潜入は容易い。
     殺し合う彼らを気絶させるのも容易い、一般人だから。
     だが。
    「……急に争う声が途絶えたら、睦月は訝しがって逃げてしまう」
     つまり一般人保護の為、一斉に眠らせるなどの単純な処理は不可。説得して争いを止めさせるのは、悪手。
     ――あくまで睦月の部屋の扉をあけるまでは、エントランスを殺し合いの気配で満たしておかねばならぬのだ。
    「……確実に討ち取るのであれば、全員で睦月の部屋側から仕掛けるのが妥当だろうな」
     口にしたヤマトの唇は苦渋に歪んでいた、そのやり方だと一般人に死者が出るのが確実だから。生き残った者は全て殺人者というオマケまでつく。
    「一般人の生死は、問わない」
     そう囁いたヤマトはぐしゃぐしゃの雑誌を広げ……、
    「灼熱者達よ、お前達が彼らの最期にして本当の希望なのだ」
     教卓に叩きつける。
    「頼む! 行って偽りの希望など打ち砕いてくれっ」
     祈るように組まれた指の下、ヤマトの手首を飾る鎖がちりり儚い音を、たてた。


    参加者
    風雅・月媛(通りすがりの黒猫紳士・d00155)
    百瀬・莉奈(潰し屋本舗・d00286)
    苑田・歌菜(人生芸無・d02293)
    楠木・刹那(鬼神の如き荒ぶもの・d02869)
    アイティア・ゲファリヒト(見習いシスター・d03354)
    風波・杏(陣風・d03610)
    久遠・雪花(永久に続く冬の花・d07942)
    茨木・紫苑(トラワレビト・d11310)

    ■リプレイ

     彼らは知らない。
     縋ったモノは実はただの鏡でしかなかったのだ、と。


     夜。
     大欠伸した翡翠目の黒猫が雑居ビルの裏側へと音もなく歩いていく。その光景は何処にでも転がっていそうな日常。
     だが、
     罵りあう怒号と肉の割かれる音が、夜闇に吸われることなく外へ溢れてくるのは非日常。それは躾けのなっていない子供が玩具を散らかす様に似ていた。
     誰かが叱ってやらねばならない……いや本来は、カウンセラーたる睦月が優しく諭す役回りだったのではなかろうか、と、茨木・紫苑(トラワレビト・d11310)は憂うように双眸を瞼で隠す。
     児欲が騒ぐ中、紫苑の耳に砂崩すような音が届く、濡色髪の楠木・刹那(鬼神の如き荒ぶもの・d02869)が顔をあげたのだ。
     眼差しは最奥へ、争う彼らに紐付け遊んでいる睦月を射貫きたいという荒ぶりを抑え込み、ナイフを鞘から抜いた。
    「行こうか」
     被害者達を犯罪者にするわけにいかない。
     キィ。
     くるくるまわる回転扉。
    「俺も混ぜてもらうよ」
     紫苑は黒子の傍に病んだ恋慕を滲ませ嗤った。
    「彼に早く会いたいしね」
     嘘ではない、人の心を弄ぶ睦月に鉄槌をと気持ちは逸る。
    「ああ、睦月様……」
     その隣、刹那はナイフに舌を這わせると瞳を陶酔色に塗り替えて躰を滑り込ませた。


     黒猫が身を定めた窓枠、その傍らで薔薇が月明りを浴びて花開く。
    (La Vie en rose)
     力を招くキーワードを口ずさみ、百瀬・莉奈(潰し屋本舗・d00286)は今宵もどうか守護と慈悲をと星濤へキスを降らす。
     硝子戸の向こうで6人の灼滅者達の視線を浴びる睦月は、争いの瘡蓋、鉄扉へ向けた瞳をますます柔和に蕩かしていた。

     きっと辿り着いた『彼』が『彼女』が『その人』が、『俺』の『僕』の『私』の色を決めてくれる。
     ――嗚呼、だからだからはやくはやく、その鉄の板を開き血塗れ勝者の姿を見せておくれ。

    (気の毒な人間だわ)
     その身勝手で……ある意味繊細にして脆弱な睦月の性根を知ってか知らずか、身を倒す苑田・歌菜(人生芸無・d02293)の心には彼への蔑みが満ちていた。
    (こんな方法でしか自分の価値を確認できないなんて)
     我が儘をぶつけ合い争う相談者達が子供だとしたら、それ以下だ。
    (殲滅しなきゃいけないのは少し心苦しいけど……)
     莉奈の顔色が冴えないのは睦月の弱さに勘づいてしまっているからか。
    (絶対に許せないよ、まるでダークネスそのものじゃない)
     けれど隣のアイティア・ゲファリヒト(見習いシスター・d03354)の真摯な眼差しと硬い決意を前にすれば、解決への思いが改めて編まれていく。
    (こういう命を拾うために俺は学園に来たんだ。救ってみせるッ!)
     勘づかれてはならぬから声にはせずに風波・杏(陣風・d03610)はアイティアへ微笑みかける。
     一般人の生死は問わない。
     否。
     無辜の人の命ひとつ取りこぼさない――そのために戦うのだと、少年少女に宿るは同じ決意。
    (愛や恋は、雪花には……まだよく、分からない……感情、ですが)
     歪めた形で昂ぶらせて殺し合えと煽るのは間違っている、久遠・雪花(永久に続く冬の花・d07942)は、夜に溶けてしまいそうな亜麻を揺らし俯く。
     常に泡沫、そんな雪花にナノナノのしらたまは気遣うようにつぶらを瞬かせ寄り添った。
     黒猫風雅・月媛(通りすがりの黒猫紳士・d00155)は耳をぴくり、睦月の動きに注意を払うように身を伏せる。
    (依存心を持たせて殺し合いをさせようなんてね)
     本当に許されざること。


     ――!!!
     間。
     諍いが一瞬だけ収まり、
     ぎょろり。
     まるで虫の複眼のように7対の瞳が一斉に2人を、見た。
     品定め。
     でもそれは灼滅者側も同じ。
    「睦月様にふさわしいのは私だけ」
     刹那は顔を散々に斬られ一番弱っている青年の前に割り込み、攻撃者である年配の女を睥睨、一呼吸わざと置く。
    「あんたたちなんてただの客に過ぎないのよ」
     挑発で惹きつけられるだろうか?
     殺界形成は『殺意を満たす』面は当てはまるも、彼らがこの場を後にしてしまう可能性が高く睦月に気取られるだろう。6人が逃げ道をふさいでいるとはいえ、できれば使わず済ませたい。
    「あ・た・し、は睦月のパトロンなのよぉ?!」
     ――食いついた!
     刹那は紫苑と一瞬だけ視線を絡ませる。
    「勘違いして馬鹿みたい」
     逆手持ちのナイフで峰打ち、どおっと倒れる女性を踏み越え次の被害者へと向う。
    「睦月さんは俺のだあ!」
    「違うね」
     青年の足をひっかけ馬乗りになると、紫苑は背を刺す振りで意識だけを落とした。パニックテレパスは全員が戦意喪失するためやはり睦月の疑心を招く、使い処の見極めが肝要。
     ――ところで、いつ6人は突入するのか?
     二手に分れるのならもっと明確に条件を決めておくべきだったと、ちらり心に澱みがかかる。


     最良のタイミングは一般人を巻き込まぬ処理を終えた後すかさずの挟み打ちだろう。だが残念ながらその判断は此方側ではできない――。
     その懸念にまず連絡係の歌菜が気づく。
    「今さらジタバタしてもはじまらないよ」
     陶然とエントランスを見る敵を横目に杏が返す。
     確かにそうだ。攻めあぐねた結果悟られ、エントランスに行かれると最悪だ。
     歌菜は頷くと携帯でワンコール、刹那へ突入を知らせた。同時にアイティアが地を蹴る。
     ガシャン!
     闇でも光孕む翡翠一閃、安息導く杖は窓硝子を砕き続く仲間の標となる。
    「!」
     闖入者に睦月は驚愕するも、すぐに観察者の瞳へと変じた。
    「こんな事をして何が楽しいの? 何の意味があるの?」
    「楽しくありませんよ」
     まさか怒気に答えが返ると思わなかったアイティアは、一瞬だけ足を止める。
    「楽しくなんか、ないです。どうして、争いなんて……」
    「え……」
     目の前に居るのは己の行いの結果に恐れおののくただの子羊。
     アイティアは心で断じた『睦月には、救うべき余地も救われるべき余地もありはしない!』と。
     ――果たしてそれは本当? 彼はまだ救えるんじゃないの?
    「そうやって人の気持ちを弄ぶのね、許せないっ!」
     莉奈の凜然とした声に睦月はふるりふるりと首を揺らす。
    「弄んでないです。ただ僕は……」
     ――これぐらいの少女には幼い方が馴染みやすかろう、一人称は故に『僕』。
    「心を軽くしたかっただけ、カウンセラーとしての仕事をまっとうしただけです」
     ちくり。
     莉奈の心苦しいという罪悪感に睦月は針を刺した。悪意という糸で良心という布をぐちゃぐちゃに縫い染めんとする前に、
    「アイティア、百瀬は惑わされないでっ」
     破かれた窓をふさぐように立ち、杏は握り締めた解体ナイフを真っ直ぐに睦月へと突きつけ吼えた。
    「こいつは多数の人の命を危険に晒したんだ、この下衆がっ!」
    「……」
     醒めた瞳で杏の揺らぎを探すが見つからない。
    「シュヴァルツカッツェ タンツ……」
     呪文めいた声と共に足下に忍んでいた猫の像が揺らぎ、再び黒い猫の像を編んだ。ただし今度は二足歩行シルクハットにステッキのにゃんきぐるみ紳士。
    「カウンセリングは心を救う素晴らしいことなのに、悪用するなんて……」
    「ち、違う。悪用なんて酷い決めつけだ!」
     気の強そうな女性、猫? 心の泣き所は何処かと探りつつ、とりあえず今までの態度を続行する。
    「言い訳無用! 灼滅されなさい!」
    (気力に満ちている、面倒くさい)
    「引っかかる相談者もバカだけど、睦月、アナタの方がよっぽどバカね」
     気の毒との揶揄は表情に塗りつけて、歌菜は畳みかけた。灼滅者達の想いの方向性が似ると危険だからとあえて混ぜ返す言葉選び。
    「構いません」
     対する睦月は真っ当なカウンセラーの仮面を選ぶ。
    (どうして……あんなに……)
     ――彼は変われるのか。
     細い髪を靡かせ懸命に鉄扉へと走る雪花の紅は目的地ではなく、有り様を根底から切り替える睦月へと注がれている。
     光映さぬ瞳に浮かぶは、尊敬の念。一切偽れぬ自分にはできぬことを容易く為すから。
    「人間はバカの方が生きやすくて、心を病みにくいですから」
     年相応の彼の半身に影が掛かる、月の角度が変わった、か――?
    「……ッ」
     想うた刹那、月媛の漆黒毛皮が割かれ紅が散った。
    (面倒なら、実際に殺すまで。そして退路を開く。パーティの仕上がりを見ること叶わぬのは残念だけれど……)
     にぃと嗤う睦月に一同肝を冷やす。
     ――灼滅者8人全員で掛からねば返り討ちが関の山。現在、こちらは6人。
     けれど、エントランス組が合流するまでは誰一人として絶対に膝を折るわけにはいかない。


     アイティアは月媛に手を触れたのを契機に、一瞬呑まれかけた灼滅者側はすぐに行動再開した。
    「……しらたま、お願い……」
    「ナノナノ~」
     しらたまがハートで月媛を包むのを確認し、雪花は自分の足下から伸びる柳をそっとつまみ上げる。
    「切り裂け『雪柳』」
     柔らかな仕草と柳、硬質的な声、相反するモノ――それが少女のアンバランス。
     つ。
     雪花の指を離れた影か緩やかに撓り、睦月の頬に薄い傷をつけた。
    「今回復します!」
     杏は初手の予定を変えて光盾を月媛へ向わせる。
     他の面々が睦月へと攻撃を差し向けること、2回――もちろんその間に睦月も攻撃を重ねた――タイミングで鉄の扉が開き、紫苑と刹那が駆け込んできた。
     これで8人。
     だが彼自身は余り手傷を受けていない。間違いない、逃げを狙う彼のポジションは『ディフェンダー』だ。
    「あなた方が私を『取り』に来て下さった、わけではないようですね」
     ナイフを手にした2人に失望を向ける睦月は、本心からの寂莫を滲ませて俯いた。
    「誰がくるか楽しみだったんだけどなぁ」
     エミちゃんかな、リツコかな……指折り名をあげる様は子供のようで。
    「そうやって感情を弄んで……」
    「人のことなんだと思ってんだ?!」
     社会的地位をかなぐり捨ててただ彼を得たいと殺し合う元はただ心に疵を抱えた人達。その修羅場を目の当たりにした紫苑達の怒りが場を染めた。
    「人? 睦月のことを決めてくれる存在だよ」
     ――今はキミ達が睦月を決める存在。
     顕すように彼は守りから攻めへの気配へと変じた。
    「貴方が何を言ってるのか判らない」
     ぐっと奥歯を噛みしめて、アイティアが前にでる。
    「――判りたくも無いよ!」
     怒っていないと彼に光を注ぎたくなってしまう。
     彼には安息なる死を、死を、死を――言い聞かせるように、彼の胸を打ちつけ力を流し込む。
    「僕はあなたを理解りたい」
    「嘘吐き」
     柔らかな髪を耳にかけ、莉奈は鋭く斬った。
     彼は人の弱いところにつけ込む……いや、優しい心すら餌に蔓延ろうとする害虫だ。
    「莉奈の魔力を……」
     苦しげに口元を歪めるアイティアへ「間違ってない」と示すように、莉奈も同じ場所目掛け杖を引く。
     ……か、っ。
     白花の娘の杖に薄紅花の娘の杖が擦れた緻密な音。
    「たっぷり召し上がれ!」
     その先から迸るのは苛烈なる力。
     迷いが消えた白花紅花に、月は微苦笑に欠け唇から血を吐いた。
    「よくも自慢のきぐるみを破いてくれたわね。狙ったことを後悔なさい!」
     倒れる気はない、だが一番に倒れるとしたら自分だともわかっている月媛。
    「にゃんこさんたちが灼滅してあげるわ!」
     だから渾身の一撃、にくきゅうで睦月の頬を吹っ飛ばした。
    「今さらだけど、相談に乗ってもらえないかしら……」
     アナタを灼滅、したいのよ。
     歌菜は指輪をなぞると、初手で浴びせた制約を再び彼へとつきつける。
    「お姉さんはもっとのびのびと子供になってもいいと思いますよ」
     ――この制約はそのままキミの縛られた心じゃない?
    「子供? どの口が言うかっ」
     刹那は影にて彼の足を戒めた。
     無垢な心を弄び無に帰そうとした、無になれば人はなにも産み出せなくなる、それがどれ程罪深い事か。
     時に想定以上を産み出す人に惹かれる――そう謳い育てた羅刹の言葉は、刹那の胸に今も息づいている。
    「行けリングスラッシャー! アイティアを守るんだ!」
     杏は肩口でたゆたう光を纏め、守りの要へと解き放った。
    「おれ達は甘言に惑わされないっ」
     黒の瞳を険しく顰め睨みつけてくる杏、その弱味は簡単な見えない。
     鏡に映せる影が、ない。
     ふつうのこ。
     それがきっと杏の強さ。
     歪みも偏りもなく、真っ直ぐ当たり前に生きる――ダークネスが支配するこのひび割れた世界で、それは本当に難しい行いであり、為している彼につけ込む隙など、ない。
    「全てを」
     杏の輝きもまた自分が持たないモノだと、雪花は小さく息を吐いた――瞼という雪白の幕に隠された血だまりに、いつか光がうつる時はくるのか?
    「全てを、飲み込みます……」
     わからないから、今はただ、喰らう。
    「キミにも価値はあるよ」
    「……」
     これはマヤカシだ、こんな甘言今さら……。
    「貴方は此処から逃がさないよ」
     雪花の惑いを断ち切るように、紫苑が声をあげる。
     鉄扉を背に、死守するという気概で紅を細めた。この向こうには血に塗れた罪無き迷い子達が眠る。もうこれ以上彼らを玩具にさせはしない!
     紫苑の背に立ち上る煙、影は主の言葉を護るように睦月へと絡みついた。疎ましいと一瞬繭を顰めた後でカウンセラーは慮るように紫苑を見る。
    「背負いすぎると心が枯渇するよ?」
     そう嘯きながら、睦月の影が襲いかかったのは月媛。
    「させないよっ」
     咄嗟に動いた躰に食い込む影にアイティアは肝を冷やす。攻め手に変じた睦月の力、守りを高めた自分でなければ、危なかった。


    「風雅?!」
    「くッ……で、もそっちの負けは決ったも同然……よ」
     ようやく倒れ伏す黒猫着ぐるみ、月媛の凌駕は計算外。数を減らすのに時間を掛けすぎたことが睦月を負けへと追い立てる。
     灼滅者達が浴びせた戒めの毒は、時間の経過と共にじわじわと彼の影から動きを奪いつつ、ある。

    「知ってる? もう、アナタを必要とする人なんていないのよ」
     歌菜が振り下ろす言葉の鞭に、異を唱えかけた自分を見出す雪花。だがしらたまの純真な瞳につきあたり、ふるり首を揺らすとドレスの裾をつまむように柳を睦月へと投げ放った。
     できないことへ憧れた、でも間違いは間違い。切り分けないと。
    「そうか、な? そうかも……ね」
     誰かの心を支えられれば自分にも価値が宿ると信じた。
     月のように太陽の光を受ければ輝けると、信じた。
     でも。
     それだけじゃあ、価値を見出せなかった……。

     ――だって彼らは心を癒したら『睦月』から離れていってしまうから。

    「あなたの悪事は見過ごせないっ」
     それがどんな哀しみを土壌にしていたのだとしても、彼は薔薇色に咲く可能性を秘めた他の人生を、穢した。
     だから
    (ここであなたの人生は、終わりよ)
     莉奈が天へと翳した薔薇に裂かれ、睦月は自分の姿を見出す前に砕け散る。それはさながら、無残に砕かれ役割を果たせなくなった鏡のようだった。

    作者:一縷野望 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年1月12日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 8/感動した 1/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 3
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