ピグマリオンの魔法の言葉

    作者:日暮ひかり

    ●???――或る独白
     言うなれば、彼はごく普通の少年だった。
     普通の家庭に生まれ、普通の学校に行き、普通の友人を持ち、普通の人生を送っていた。
     彼の歩む道は、普通ではなく生まれた私たちからは、とても遠い場所にある。
     それは――私たちのうち幾らかにとっては、もしかしたら普通ではないのかもしれない、ほんとうにごくありふれた生活だったろう。
     
     ひとつ、普通ではなかったかもしれないことをあえて挙げるならば、彼は殺人鬼という存在にある種の憧れを抱いていたことか。
     世界中の猟奇殺人の事例を詳細に記した書。狂気に満ちた倫理観を振りかざす殺人鬼たちが、街を恐怖に陥れる映画のDVD。
     けして沢山とはいえないそれらの品を、彼はすべて巧妙に隠し、持っていた。この密やかな背徳を親や友人に知られることを、必要以上に恐れていた。
     彼は、ほんとうに普通だった。悲しいくらいに、普通だった。
     語れるほどの深い理由などどこにも存在しない、死という非日常への漠然とした畏れと、憧憬。
     それすらも、けして少なくはない数の人間が、胸の奥底に沈めているものだ。
     
     それでも。
     今、君はその手にナイフを握り、だれかを殺すつもりでいるね。
     
     認めよう。
     そのありふれた狂気を、私は君たちの望むように尊重する。
     だからこそ、人は誰でも、狂気に満ちた殺人鬼へと変貌しうるのだ。
     
    ●warning
     その日、イヴ・エルフィンストーン(中学生魔法使い・dn0012)は、珍しく落ち込んでいた。
    「イヴがお正月イギリスに帰っているあいだ、いろいろ大変だったのですね。大事なときに皆さんや鷹神さんのお役に立てなくて……」
     先日のイフリートの件を指しているのだろう。鷹神・豊(中学生エクスブレイン・dn0052)は黙して彼女の話を聞いていたが、やがて、静かに首を振った。
    「いちいち気にしても仕方無かろう。いいか。今からする話は、君の、君達のための取っておきだ。どうかご清聴願いたい。……ソロモンの悪魔に魅入られた、つまらぬ男の話だ」
     
     ……。
     
     その男は、とある少年のささやかな秘密をどこからか暴いた。
     ほんのわずかに猟奇趣味を持っている、という、ただそれだけの事だ。
     ある晩の電話でそれを告げられた少年は動転し、呼び出されるまま男へ会いに行った。
     
    『驚いたかい? 私は月の魔法使い』
     
     君は、伝説の猟奇殺人鬼の生まれ変わりなのだと男は言う。
     成長とともに、自らの殺人衝動を抑えることが出来なくなると告げる。
     男は少年に殺意を抑える方法を幾つか説き、運命に抗う気概を褒め続けた。
     
    『頑張ったね。これが最後の試練だ』
     
     ある日、男は少年に美しいナイフを渡した。
     これで誰でもいいから一人殺すのだ、と。
     そうすれば、君の中に眠る殺意は二度と目覚めることはない。
     なに、恐れることはない。ホームレスでも死にかけの老人でも構わないさ。
     
    『ばれやしない。君ならできる。さあ、お行きなさい』
     
     …………。
     
     鷹神は、厳しい瞳で遠くを見やる。
    「このばかげた男の戯言は、ほぼ全てが偽りだ」
     ゆえに正しく魔法使いである、という一点を除いて――そう付け加えた。
    「少年は、一週間後の夜に公園でホームレスを刺し殺す。止めてやれ。要点はどうすれば後腐れがなく、効果的か……ESPでのその場凌ぎのみでは、真の解決とはならないだろう。多少荒療治になっても構わんと俺は考えている」
     その後暫くすると、仲間を連れた男が公園に様子を見に来るという。
    「小細工せずに待つことだ。月の見える公園のど真ん中でな」
     さすれば、黒いケープのフードを目深に被った『魔法使い』は、礼儀をもって応えるだろう。
     彼は魔法使いの技のほか、7つに分けた月のような円盤で敵陣を薙ぎ払う技と、雷で敵を撃つ技を使用する。
     紫のローブを着た配下は3人。契約の指輪に似た技を駆使し、主を護る働きをする。
    「全員、悪魔に力を与えられているものの、一応人間に分類されるが……俺はこいつらを人とは思わない」
     私情ではあるが、気味も胸糞も悪い連中だよと、豪気なエクスブレインは吐き捨てた。
     
    「月……タロットでは恐れや迷い、不安定を表しますね」
     そして憧れも。イヴが、手元のカードを眺めながら呟く。
    「でも。悪いカードだって、逆さにするといい意味になります。イヴ、けんかは苦手ですが、悪い魔法使いにだけは負けるわけにはいきません」
     思い思いの反応を返す仲間たちを見て、頑張りますとイヴは気合いを入れる。
    「その意気だ。ところで、俺が君を日本に呼び戻さなかった理由はもうわかるな?」
    「……! はいっ! テキ……テキ……」
    「『適材適所』」
    「はい!」
     いつもの元気を取り戻したイヴを見て、鷹神は薄く、勝気に笑む。
     彼もそれなりに『魔法』は使えたらしい。
    「行ってこい。俺は自信を持っている。君達こそが、まことの魔法使いだとな」


    参加者
    七咲・彩香(なないろのこころ・d00248)
    イオノ・アナスタシア(七星皇女・d00380)
    九條・流(刃影・d01066)
    彩瑠・さくらえ(宵闇桜・d02131)
    刻野・渡里(高校生殺人鬼・d02814)
    九重・莉王(祈誓の護手・d02993)
    四月一日・いろは(剣豪将軍・d03805)
    天野・イタカ(忌垣八重垣・d10784)

    ■リプレイ

    ●1
     夜更けの街には静寂が訪れていた。挙動不審に辺りを見回しながら、少年は光を避けて歩いて行く。コートのポケットには何か入っているようで、彼は忙しなくそれを気にしていた。何かは触れるまでもない。
     ふと、彼は公園の入り口に誰かいるのを認める。白いコートを着た、雪うさぎのようにほわりと可愛らしい幼い少女。散歩中だろうか、犬と遊んでいて少年には気づいていない。
     少年は、何かを迷うように立ち尽くしていた。だから、囮の少女――七咲・彩香(なないろのこころ・d00248)は予定通り声をかけた。
    「や、こんばんはーなの。こんな夜更けにどうしたの? ボクもだけど、えへへー」
    「!」
     少年は声をかけられるや否や、走って逃げた。
    「えっ? なの」
     取り残された彩香は思わずぽかんとする。この後説得で制止を試みる予定だったが、囮が失敗した時どうするかは誰も考えていなかった。

    「ごめんなの……」
     建物の影や公園の茂みに潜んでいた仲間たちは、シルキーを抱いて肩を落とす彩香をめいめいに励まし、やがて言葉を失った。夜の街に、沈黙が落ちる。
     初対面でないから感じ得た事かもしれない。天野・イタカ(忌垣八重垣・d10784)が心の隅に抱えていた違和感は、実はとても大切な事だった。
    「……。教室でユタカ、こいつらヒトとは思わない、荒療治でもいい、言ってたけど。やっぱり全部気遣い、だったのかも……な」
     少年は、小さな狂気の露呈と膨張を恐れ、隠そうとするあまりここに至った。臆病、それゆえに慎重で、穏便な方法での制止が困難だった。
     優しい君達は、自ら残酷な手段を選ぶ事をしないだろう。
     だからエクスブレインは答えを示した。それでも、絶対こうしろとは言えなかった。
    「イヴ達が、自分では思いつかない、誰も傷つかない方法を探せる可能性を信じて下さっていたのですね……」
     イヴ・エルフィンストーン(中学生魔法使い・dn0012)が呟いた。荒療治と言っても、傷を負わせる事は回避できる道。それ以上があったかもしれない。
     示された方向性を避けるなら、魔法の内容と普通の少年の心理を慎重に読む必要があった。
     ホームレスの多くは定年前の中高年男性だ。この気弱そうな少年にとって、弱者の代名詞だろうか。弱者を示すなら女子供で済むのに、死にかけの老人と具体的な例を出すだろうか。
     『殺してもそこまで気に病む必要のない、早く死んだ方が或いは幸せかもしれない者』。
     この場合注目すべき共通点はそれだった。だから普通の少年はモラルという最大の壁を乗り越え、殺人者となりえた。
     さらに普通の感覚は、幼子を傷つける事を躊躇う。それが都市伝説やダークネスでも、君達の優しさがしばしば胸を蝕むようにだ。
     では殺害対象たりえぬ彩香が、普通に考えて何か。
     殺人を行う上で最も厄介な『目撃者』だ。ゆえに少年は犯行を諦め、逃げたのだ。

     四月一日・いろは(剣豪将軍・d03805)がイヴの肩を叩く。
    「イヴ、大丈夫。此方には正義の魔法使いと本物の殺人鬼が居るんだから」
    「……悪者と偽者には、負けちゃだめですね。はい。イヴ、まだ頑張れます!」
    「ああ。公園へ行こう」
     九條・流(刃影・d01066)が空に輝く月を見据え、双眸を細める。九重・莉王(祈誓の護手・d02993)は無言で頷くと、月明かりの公園に足を踏み入れた。

    ●2
    「誰かな? 何とも穏やかでない気配は感じるけれど」
     黒いケープの魔法使いは一行の元へ歩み寄ると、口元だけで柔和に笑みながら問うた。配下の姿はあれど、少年の姿はない。それが良いか悪いかは判断しかねたが、魔法をかけるのに弱気の言葉はいらない。ESPで色気たっぷりの豊満な美女へ変身したイオノ・アナスタシア(七星皇女・d00380)は、白い衣装のマントと金の髪をなびかせ、胸を張り宣告布告する。
    「星の魔法使い、とでも名乗りましょうか。あの男の子に掛けられた魔法を解きに来たわ」
     彼女の手に輝く弓を見て、男は笑む。月と星どちらが明るいか決める気かなと。流は戦場の音を遮断しながら、冷めた目で男を見やった。
    「何故『月』を名乗る。欺瞞に満ちた者が誰を導く事が出来ようか」
    「私は本当の事しか言っていないよ。……月はね、好きなんだ。月とかけて、謎ととく。答えは?」
    「……何れも『かける』物」
    「正解。そこにあるのに欠けて見える、月は嘘つきの『月』だね」
     貴様の心も欠けているようだとやや低く呟き、流は刀を構えた。イタカもむっとした顔をする。
    「……オレ、違う『月の魔法使い』、知ってる。おもいやりある、いいヤツ。……でもお前は、同じ月で魔法使いでも、悪いヤツ」
     見上げた月の柔らかで優しい光に、とても寒い夜に出会った暖かい人々の影を見る。何だか力が湧いてくるようだった。
    「ウソつき魔法使い、ぶっとばすぞ、イヴ」
    「はい!」
     フミカズ、シルキー、サフィアの霊犬たちがわんと吠えた。配下が魔法使いを守るため前へ出て、味方前衛もそれに倣う。彩瑠・さくらえ(宵闇桜・d02131)が広範囲に盾を展開し、石化や麻痺に備え治癒力を高める。
     先手を切るかと思われた魔法使いは様子を見ていた。配下の弾丸が3つ纏めて流の方へ飛び、さくらえと莉王が1発ずつそれを引き受ける。流が受けた傷と麻痺は、イオノが即座に癒した。
    「いたいのいたいのとんでけー、なんてね」
     彼女はウインクしてVサインを作る。18歳な彼女が気になったイタカはよそ見し過ぎて、危うく影縛りを外しかけた。
    「魔法使い、あんたの相手は俺がするよ」
     女性と見紛う容姿の刻野・渡里(高校生殺人鬼・d02814)が男言葉で喋っても、魔法使いはさして驚いていなかった。指から伸びる糸は守りに動く配下の間を蛇のように避け、男を絡め取る。
    「ねえ、君!」
     男は叫んだ。誰を呼んでいるのかと、虚ろな霧を展開しながら彩香は傾げた。そして、ぽんと手を叩く。少年君のことかな、と問われた莉王は難しい顔をした。来ているのか?
     肝心の少年を遠ざける事に思い至り、殺界形成は皆自粛した。幸いにも人払いの手は足りた。
    「この子たちは君と私の間の秘密をなぜか知っている。しかも、どうやら私を殺す気だ。悪魔だ。とても怖いよ……私を守ってくれないか?」
    「何を……」
     渡里は糸をきつく絞めながら怪訝な顔をした。
    「君ならできる。さあナイフを持って。君の中の殺人鬼を呼び覚ませ。君の邪悪なはずのその力は、今誰かを護る為使うことができる。素敵な事だよ。本当に素敵だ」
     反応はない。やはりいないのではないか? 一行は胸騒ぎを覚えつつ冷静に配下の相手を続けた。キュアの手段を豊富に用意した事で、行動を縛る攻撃もさして命取りとはならず戦況は安定を見せる。
     渡里の糸が2度目に魔法使いを捕えた瞬間、その時は来た。茂みから飛び出したのが『何』であるかを、さくらえは即座に理解し走った。指示を仰ぐつもりだったか、あの後大回りして公園へ戻ってきたらしい。
    「……刺して、みるかい? キミの中に殺人鬼が居て、その手を血で汚したいと思うなら」
     体当たりと共に突き出されたナイフを手掴みにし、優しく、真っ直ぐに語る。刃の主――名も知らぬ少年は一瞬だけ怯えの色を見せたが、大声で叫ぶ。
    「お、俺は殺人鬼だ! だからお前達には負けない……魔法使い様をッ、助けるんだ!」
     ピグマリオン効果、だね――いろはは呟いた。イヴの魔法弾で縛られた配下へと素早く距離を詰め、死角からの一閃を繰り出す。容赦なく首を狙った一撃で血飛沫が舞い、相手はたまらず癒しの力を使った。一連の様子を見ていた魔法使いは、可笑しそうに笑ってイオノに聞く。
    「彼を説き伏すつもり?」
    「そうよ。残念ね、私たち全員の魔法があの子にかかるわ」
     彼らはあくまで言葉による説得を望んだ。
     魔法使いはなおも可笑しそうにくすくす笑い、いきなり身を引いた。
    「!」
     配下に追撃を遮られ、皆がぎょっとする。馬鹿な。早すぎる。
    「助けを呼んでくる。必ず戻るから、頑張るんだ」
     何を思ったのかはさっぱりわからない。ただ、それも嘘なのだろうとは容易にわかった。
     公園内に隠れていた純血の殺戮者たる桃頭や義に咲く花の青年、西洋の血を継ぐ拳姫は即座に反応し、熱き空手少女や白銀の修羅達が封鎖した方向へ魔法使いを追い込むべく動いた。
    「止めてきます」
     イヴは上空に待機していた白鷹の魔術師に手を振る。彼の合図で一般人対応組も異変を察した。警官に扮した音を愛する好男子は自転車を飛ばし、地味めかした歌舞伎者も駒となるべく駆ける。
    「イヴ、皆さんが来るまで皆さんと頑張ります!」
     後で日本語を教えようと思いつつ、いろははよろしくね、とだけ言った。

    ●3
     ある者が、この戦いを映画顔負けの大立ち回りと表現した。
     言葉に言葉で立ち向かう姿勢は勇敢で美しく、語られる台詞の一つ一つが優しさに満ち、心を打つ言霊だった。大団円の幕引きは用意されていた。
    「それは自分で考えて出した答えなのかしら? そうでないのなら……貴方はどこにいるの?」
     詠唱と共に圧縮された魔の矢は、皮膚を破り血を撒いた。
    「信じるのは、魔法使いの言葉じゃないよ。キミ自身の内なる力」
     影の触手は身体を締め上げ、骨の砕ける音を響かせる。
    「人を殺した瞬間、お前はお前でなくなる。今までの日々には戻れない」
     武器に宿した業炎はローブに延焼し、一人目は転がりながら焼け死んだ。
    「我慢していたところに、殺れっていうんだ。中の殺人鬼は大喜びだろう」
     高速で繰られた糸は傷口をなぞり、叫び声が上がった。
    「畏れや憧憬、思いを必死に隠していたのは何故ですか? 護りたかった日常があったからではないですか」
     生命を奪う緋色が燃える毎に、その腕は段々と干からびていき。
    「……魔法使いの言葉じゃ、なく。オマエの言葉で、答えろ。それがオマエの力に、なる」
     巨大な腕に殴りつけられ、二人目は全身を骨折して死んだ。
     並べられたフィルムは、なにかが決定的にちぐはぐだ。
     彼らの大切な魔法は、唯一つとても大切な事を失念していたばかりに、全て覆った。

     三人目の配下がいろはの抜刀術で沈む。血濡れの刀を素早く鞘へ戻し、彼女は転がる三つの死体を見下ろした。足元に広がる血の海には、己の顔と月の幻影が浮かぶ。彩香のハンマーが排出した空薬莢が、月光を受け冷たい星のように輝き、寄り添っていた。
    「く、く、来るな!!」
     赤の斑が走る袴を怯えきった目で見て後ずさる少年は、本当に殺人鬼には不向きだったと悟る。もう口には出さない。
     渡里は己の過去を遡り、ようやく思い出し、血の凍る感覚を覚えた。
     忘れていた。すぐ隣で人間が次々殺されていく事が、人にどれほどの恐怖と衝撃を与えるかを。
     皮肉だった。眼前で暴行殺人を働きながら心や命の尊さを訴える矛盾こそが、まさに非日常への小さな憧れを粉々に打ち砕く狂気と映りえた事は。
     殺すしかない敵だとは事前に知りえた情報だ。囮の失敗は些細な事。その上で少年の相手を最後に回した事が、現場の状況や自分がどう映るかに心を向けなかった結果が、選んだ作戦と致命的に食い違い大きな傾きを生んだ。
     一本勝負が過ぎた事が、重ねた過失を動かぬものとした。生じうる失敗や不都合を想定し、予防線を張ることを誰かが何か一つでもしていれば、ここまで悪い方へ坂を転げ落ちる事もなかったかもしれない。
     殴ってでも、少年を戦場へは立たせぬべきだった。
    「××××し!!」
     少年は体中の至る所からあらゆる液体を垂れ流しながら何事か叫んだ。
     その場にいたイヴ以外の全員が、彼の呪文を聞いた。
     悪意など誰にもなかった。
     悲しい、本当に、悲しいすれ違いだった。
     流が前に出た。少年が半狂乱で振り回すナイフは本来胸に突き刺さる軌道だったが、かすり傷に留まった。彼がどれほど必死に斬りかかろうと、その切っ先が君達に届く事はない。流はナイフの刃を掴み、軽く取り上げ、無造作に打ち捨てた。
     この特殊な傷は、日常の向こう岸へ渡ってしまった者達の烙印だ。流の手をぽたり、ぽたりと滴る僅かな雫が、さくらえの胸を軋ませた。においがする。鉄のにおい。誰かの流すこの血のにおいは、非日常だと知っていたのに。莉王がいつになく思いつめた顔をして、尻もちをついた少年に歩み寄っていく。流はその背中に向け、声を絞り出す。
    「莉王、俺が」
    「私がやります。……お気遣い感謝します、流さん」
     ――刃は、振るえばこうして容易く皮膚を裂く。奪われた命は戻らない。そこまで解っていて、何故気付けなかった。
     だが、目は逸らさない。莉王は最後まで誓いを遂行した。
     刀の鞘で殴られた少年は、泡をふいて気絶していた。

    ●4
     馴染んだ武器が妙に重い。負傷の度合い以上に疲れた身体を根性で立たせ、一行はイヴの元へ急行した。回復援護の恩恵でイヴは意外と元気だった。伏兵に囲まれ魔法使いの退路はない。これ程仲間がいるとは思わなかったろう。だが魔法使いは笑っていた。
    「なあに、その顔。私は何もしなかったのに?」
    「あんたは……絶対に許さない」
     渡里が怒りとやるせなさを隠さず、手をひいた。マリオネットのように宙吊りになり、ぼろ布と化したローブが月夜にたなびいても、何が起きたか悟った男は完全に勝った顔だった。渡里の顔が歪む。
    「あんただけは、絶対に生まれ変わらせない」
     灼滅者たちは魔法使いを徹底的に斬り、殴り、撃ち、炙り、刻んだ。
     この悪意の塊が新たな悲劇を作らぬ為、殺し尽くす。出来る最善に、最後の死力を注いだ。
    「ほっといても共倒れしそうだし帰ろうと思ったけど、まァ良いや。こんな不幸な事故を拝んで死ねるなら、生きてきた甲斐があった!」
    「……下種がァッ!」
     抑えていた感情が声に漏れ、莉王が口を押さえる。
     彩香はパンク寸前の頭を頑張って回し、イオノは最後まで正しき魔法使いであろうとした。イタカは想いの行き着いた先に未だ胸を迷わせ、流の冷えた憤りは己自身に向きかけていた。イヴは皆の様子に戸惑い、いろはは彼女に語るべき言葉を探した。
    「それが、キミの本心なんだね……」
     反吐が出る邪悪を憐憫と無念の眼で見つめ、さくらえはとても綺麗に、寂しげに笑った。
     せめてあわれなキミが、次の世で罪を知ってくれますように。
     彼の影は黒い炎の形を成し、煉獄の熱を発しながら、月を縛って砕いた。

     ナイフは壊した。とても何かする気になれなかった。
     彼が目覚める前に、帰ろう。誰かが呟いた。
     少年の中の殺人鬼は消えただろうか。わからない。彼を傷つけまいとした殊勝な優しさは、いつか他の場所できっと誰かの心に届く事だろう。
     イタカは、闇路の先の二股路を見た。難しい事はわからない。皆の良い想いが、次は必ず良い道へ結びつくことだけを祈りながら、いつかの夜より寒い夜道を強く踏みしめた。

    作者:日暮ひかり 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年1月24日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 1/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 17
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