漆黒を舞う蝶は、久遠の唄に身を焦がす

    作者:猫乃ヤシキ

    ●『蝶は血に濡れて、美しく舞う』
     チチッ、チチッ――
    「……なん……だよ?」
     青年が怯えながら、後ずさる。
     目の前に現れたもの。本能が告げる、畏怖すべき存在。
    「ふふっ。兄さまでしょう?」
      ――ヂッ。
     耳障りな雑音とともに、あたりの街路灯の光がかき消えた。
     小気味よい下駄の音が、カラン、と漆黒の闇に響く。
     やがて、薄ぼんやりとした月明かりに目が慣れてきた頃。
     青年の目に、再び「それ」の輪郭が明らかになる。
      ――それは、咲き乱れる緋牡丹に、翅を広げて舞う蝶々。
      ――それは、暗がりの中に閃く、血のような真紅。
    「兄さま、見てくださいまし。私、こんなに上手に踊れるようになりました」
     カラン、コロン。
     深緋色の振袖のたもとをゆったりと翻しながら、美しい少女が笑う。
     幾多のひとを殺めた白く細い指先が、なめらかに返される。
    「兄さま、おうたを」
    「……うた?」
    「ふふっ。蝶蝶は、兄さまのお唄が、いっとう好きなのです」
     青年が狼狽えて、救いを求めるように暗がりの向こうを見やる。
     けれど、そこにあるのは救いではない。ただただ、混沌とした絶望。
     人形のような整った端正な少女の顔が、不機嫌に歪む。
    「どうして、唄ってくださらないのですか?」
    「だから、俺はアンタの兄さんなんかじゃ……」
     しかし青年の無実を訴える声は、闇に抱かれた少女に届くことは無い。
    「兄さま、兄さま、……兄さまアアアアア!!」
     闇月夜に、絶叫の奔流が轟いた。

    「嗚呼……。また、兄さまじゃなかったのだわ」
     足元に転がる屍を打ち捨て、血に濡れた親指をなめながら、少女が虚ろにつぶやく。
     求める兄は、もう何処にもいないのだということを――蝶蝶はまだ知らない。
     
    ●『ひとに住まう闇を知る者たちは、その哀しみを聞く』
    「天紅・蝶蝶(てんべに・ちょうちょう)さん。それが、闇堕ちした少女の名です」
     黎明寺・空凛(木花佐久夜・d12208)が、集まった灼滅者たちに静かに告げる。
     空凛は先日、闇堕ちした一般人を救う、という依頼に出かけてきたばかりだ。
     その時に救った少年―今では彼女の弟子となっている―が、津軽三味線の奏者であったこともあり、しばらく日本の伝統文化に関する情報にアンテナをはっていた。
     すると、ある情報筋から、失踪した兄妹の噂が舞い込んだのだ。
     日本舞踊を愛する妹の蝶蝶と、長唄をうたう年子の兄・久遠。
    「兄の久遠さんがヴァンパイアとしてダークネスになり、妹の蝶蝶さんもそれに引きずられるように闇堕ちしてしまったようなのです」
     五十嵐・姫子(高校生エクスブレイン・dn0001)が、うなずきながら、その後に続けた。
    「蝶蝶さんは、兄の久遠さんの唄に合わせて、踊ることが大好きだった。それなのに自分のそばから消えてしまったお兄さんを探し求め、夜の街を徘徊しています」
     しかし相手が自分の探し人でないことに気付いては、凶行を繰り返している。
    「これ以上、被害を拡大させるわけにはいきません。蝶蝶さんを闇堕ちから救い出し、一刻も早くこの惨劇を終わらせて欲しいというのが、今回のお願いです」
     闇堕ちした人間を救うのには、方法は1つ。戦い、相手を倒すしかない。
     その時点で完全にダークネスとなってしまえば、彼女は灼滅される。しかし灼滅者としての素質があれば、灼滅者として生き残る道が残されている。
    「蝶蝶さんは、まだ人間としての自我を喪っていません」
     ダークネスとしての戦闘能力を持って一般人に危害を加えているものの、完全なダークネスになりきっているわけではない。
    「蝶蝶さんは、もうお兄さんがいなくなってしまったことを、まだ知りません。お兄さんを強く求める心が、彼女を突き動かしています。どうにか彼女を納得させることができれば……心が揺らぐかもしれません」
     姫子が、そっと目を伏せる。
    「少女とは言え、相手はダークネスになりかけている身。けして油断することの無いようにお願いします。これ以上、悲しみの連鎖が続かぬよう……皆さんの手で、この物語に終止符を打ってください」


    参加者
    十七夜・狭霧(ロルフフィーダー・d00576)
    ミケ・ドール(凍れる白雪・d00803)
    ミルドレッド・ウェルズ(吸血殲姫・d01019)
    桜木・栞那(小夜啼鳥・d01301)
    倉科・慎悟朗(昼行燈の体現者・d04007)
    渡部・アトリ(高校生ダンピール・d10178)
    黎明寺・空凛(木花佐久夜・d12208)
    紅月・リオン(灰の中より生まれいずるもの・d12654)

    ■リプレイ

     チチッ、チチッ――。
     閑静な住宅街をぼんやりと照らし出す街路灯が、耳障りな雑音を立ててながら、不気味に明滅している。
     新月の夜である。
     今。そのもとに八人の灼滅者たちが集い、周囲の気配をうかがっていた。
     丸い眼鏡にはめ込まれたぶ厚いレンズの端をくっと持ち上げながら、渡部・アトリ(高校生ダンピール・d10178)がつぶやく。
    「ヴァンパイアの闇堕ちは、いつも痛ましいね」
    「そうですよね」
     柔らかな光の宿る金色の瞳を哀しげに細めながら、桜木・栞那(小夜啼鳥・d01301)が小さく相づちを打った。
    「自分が堕ちる時に、大事な人も道連れにしてしまう。そんなこと、絶対に望んでいないはずなのに」
    「……そうだね。だからせめて。彼女だけでも助けてあげないと」
     アトリの言葉に、栞那がはっきりと強い意志を持って、深くうなづく。
     そう。この戦いは、蝶蝶のためだけではない。 
    (「久遠さん。あなたのためにも、蝶々さんは必ず助けます」)
    「もういない人を求め続けるのは悲しいよね」
     闇に溶けそうな漆黒の、ゴシック・ロリータ・ドレスの裾をひるがえしたのは、ミルドレッド・ウェルズ(吸血殲姫・d01019)である。
    「わかるよ」
     人形のような相貌をした少女が、冷たいソプラノボイスで応える。ミケ・ドール(凍れる白雪・d00803)。ビスクドールを思わせる整った顔立ちに、アイスグリーンの瞳がよく映えている。
    「でも、お兄さんを慕う心からきたものでも、やっぱりこういう事件は許せないね」
     無表情で穏かに語るミケだが、その言葉にこめられた心情は本物だ。
     赤と緑の視線を互いに交差させながら、ミルドレッドも改めて決意を口にする。
    「うん、お兄さんはもういない事に気付いて、受け入れてほしい」
     そのかたわらで、十七夜・狭霧(ロルフフィーダー・d00576)が、スレイヤーカードを宙に放った。
    「大事な家族が突然いなくなったら、寂しいっすよ」
    「ええ。心情はわからなくもないです」
     穏やかな倉科・慎悟朗(昼行燈の体現者・d04007)の言葉に秘められた、本当の意味を、みずから補足する狭霧。
    「でも、やっぱり人様に迷惑かけちゃダーメ! っすね」
    「そのとおり。一旦大人しくなっていただきます」
     狭霧がサウンドシャッターを発動させる。周囲に戦闘音がもれぬようにするための配慮だった。
    「そっすよね! 早く目を覚まさせてあげないと!」
     肯定の返事の代わりに、慎悟朗がそっと目を伏せた。
     狭霧にならうようにして、黎明寺・空凛(木花佐久夜・d12208)も、周囲の人通りを気にかけながらESPを発動させる。
    「一般人の方が来られると、巻き込まれますから」
     ふんわりとした美しい顔立ちからはかけ離れた、怖気をともなうような気が、空凛を軸とした同心円状に広がってゆく。すっかり人の気配が消えてしまった中、ためらいがちに口を開いたのは紅月・リオン(灰の中より生まれいずるもの・d12654)だ。
    「私の愛しき妹が堕ちた時、私も彼女と同じように妹を求めた記憶があります」
     聞き入る空凛もかつて、大切に想った婚約者を喪ったことがある。
    「深い想いゆえの闇堕ちする気持ちは……、私にも痛い程よく分かります」
    「しかし、なればこそ思うのでございます。闇に堕ちた愛しきものは別物であると」
     それはまったくもって、揺るぎない真実である。
     リオンの言葉をかみしめるようにしながら、空凛が目の前の虚空を見据えた。
    (「天紅様のことは、絶対に救って差し上げたい」)

     ――カラン、コロン。
     よく乾いた木の板が、アスファルトを打つ音が響いた。
     その音の正体が何であるか。
     相手の姿がまだ判然としなくとも、慎悟朗にもとうに判断はついていた。
    「…………」
     いつものように小さく、声にならないため息をつく。
     この行為は、慎悟朗にとって戦いを始める前に必要な儀式である。
     余分な感情を捨て、目的を果たすだけのモノになるために。
    「……ふふっ」
     暗い街灯の下にその姿を見せたのは、兄を恋しく思うがゆえにさまよい続ける、美しい少女。天紅・蝶蝶(てんべに・ちょうちょう)だった。指先は、真紅に濡れて染まっていた。またどこかで、兄ではない誰かを、殺めてきたばかりなのだろう。
    「こんばんは、綺麗な蝶々さん。こんな所で、何をしているんですか?」
     栞那が一歩前へ踏み出した。怖がらせてしまわぬよう、小さく首を傾げて問いかける。
    「ふふっ。兄さまを探しているのです」 
     栞那が、金色の瞳でまっすぐに蝶蝶を見つめる。
    「あなたはお兄さんのこと、大好きなんですね」
    「はい。兄さまと、兄さまのお唄が、いっとう好きなのです」
    「……だったら、こんなことをしては駄目」
     栞那の言葉にわずかに蝶蝶の面差しが険しくなった。周囲の空気が、肌をビリと震わせるものに取ってかわる。
    「このままだと、お兄さんを思っているキミ自身も、いなくなってしまう」
     ザリ、とアスファルトの表面を鳴らして、ミルドレッドが栞那と並んだ。
    「そうしたら、キミの心からも、お兄さんが消えてしまうんだよ」
     蝶蝶が頭を抱えて、思考を拒絶するように左右に振る。
    「兄さま、兄さま、……兄さま、いやあああーッ!!」
     蝶蝶の絶叫とともに。爆風が衝撃波となって、灼滅者たちを覆った。
    「うおッ……!」
     白刃散華を構えた腕で、狭霧が顔を覆う。しかし視界の端にひらめく緋色を認めて、アスファルトの上を横転する。次の瞬間、狭霧がいましがたまで立っていた場所に、漆黒の刃がドゴンと音をたてて突き刺さった。
    「……意外と、えげつな」
    「ちッ……」
     不意打ちにしくじった蝶蝶が、忌々しげに狭霧をにらみつけて後ろに飛んだ。
    「まったくもー。そんなに人様傷付けてると、お兄さんも出るに出て来れなくなりますよ?」
     狭霧の軽口を少しも意に解する素振りも見せず、たもとから伸びる黒い影を練るように操る蝶蝶。
    「君の心の影は、どんなのかな」
     しかし次の手が出るよりも早く、飛び込んだミケの拳が蝶蝶の腹をえぐった。
     その動きは、まるで猫のように俊敏でしなやかだ。蝶蝶の小柄な体が夜の闇の中を舞い、アスファルトに叩きつけられる。
    「……っぐう!」
    「会いたい、会いたいって。他人を傷つけてちゃ。自分だって傷つくばっかりだよ」
    「これは、どうでしょうか!」
     倒れた蝶蝶が起き上がるよりも早く、慎悟朗が縛霊手を振り上げた。除霊のための結界がまばゆい光を放ちながらアスファルトを滑り、蝶蝶の四肢に襲いかかる。しかし蝶蝶が大地を蹴り、宙高く飛び上がる方がわずかだけ早い。光の波はアスファルトを流れて闇の向こうへと消えてゆく。
    「ごめんね、ちょっと痛くするよ!」
     右手にチェーンソー剣、左手に咎人の大鎌。小柄な身体に不釣合いなほど巨大な二振りの刃を振り上げるのは、ミルドレッド。しかしその重量に振り回されることない。蝶蝶と同じ高さまで飛び上がり、凶悪な一撃をたたき込む。
    「今は少しだけ我慢して。これは君を止めるために必要なことなんだ!」
     続けざまに、もう一撃をたたき込もうとしたところで、蝶蝶がデスサイズのごとき影を形作って振り上げる。攻勢にたじろいだ瞬間、ミルドレッドの眼前に栞那が飛び込み、代わりにその刃を受ける。
    「あなたの心に残る唄声も……お兄さんの面影も。このままでは全部消えてしまう」
     刃が栞那の腕を喰らっていた。赤い血潮が黒いアスファルトに、ぽたぽたと吸い込まれてゆく。苦痛に顔を歪めながらも、栞那が穏やかな声で告げる。
    「……大切なものを護りましょう? 舞いも、思い出も、あなたの心も」
    「貴方の探しているモノはこの地上のどこにももう存在いたしませぬ」
     続いて投げられる言葉に、蝶蝶が栞那から離れて後ろへ飛び、リオンをにらみつける。
    「それはもう、形を変えてしまっているのでございます」
    (「……そう私の愛しき妹のように」)
     大切なひとを喪い、自分も闇堕ちした過去を持つリオンにとって、今回の依頼は他人事とは思えてない。そしてそれは空凛も同じだった。肩掛けにした八重桜を斜めに構えながら、悲痛な想いで蝶蝶の姿を見すえる。
    (「天紅様が、自分の意志で強く踏み出せるように。自分に手を差し伸べてくれた人達のように、今度は私がその役目をになう番です」)
     アトリが飛び出し、蝶蝶の体を抱きあげるように高く持ち上げ、地面に叩きつける。爆発の衝撃があたりに響く。
    「ぐ……っ!」
    「お兄さんがいなくなって辛いのは分かるよ。でも今のままじゃお兄さんを探すことも出来なくなってしまう!」
     仇敵を見つけたかのように、蝶蝶が立ち上がる土煙の中から灼滅者たちをにらみあげていた。

    「ちょーっと痛いけど、我慢してっ」
     狭霧の手のひらから放たれのは、花や蔦、蝶をかたどった雅な影。
    「君を倒す……それが俺達の任務だから」
     影は、蝶蝶を捕食するように包みこむ。
    「確かにお兄さんはいないかもしれません」
     はっ、と蝶蝶が顔をあげる。慎悟朗が一連の動きの間隙を縫って前に出ていた。
    「ただ、貴方はお兄さんの唄に合わせて舞った舞踊までも手放すつもりですか?」
     重たい縛霊撃に殴りつけられ、衝撃に蝶蝶の体が飛ぶ。しかし地面に叩きつけられる直前、かろやかに身をひるがえし、下駄の足でアスファルトを蹴る。
     カカンと高鳴る乾いた音。赤い十字の光が夜気を裂く。
    「僕たちなら君の力になってあげられる。だからもうこんなことはやめるんだ!」
     頬をかすめてゆく真紅の光条を後ろに見送りながら、アトリが宙高く飛び上がる。
    「これでも喰らってみなよ!?」
    「うぐあっ!」
     アトリの強烈な蹴りに倒され、地面に伏す蝶蝶。ミルドレッドのチェーンソー剣が繰り出され、蝶蝶の身体をズタズタに切り裂いてゆく。
    「わたしは、あなたが光の中で舞えるように…あなたを止めます!」
     容赦なく細い四肢を断つ、栞那の紅蓮斬。そこへ空凛の放つ魔法の矢の連撃ーーマジックミサイルも、たてつづけに蝶蝶の体をもてあそぶように穿って行く。
    「貴方の愛しきお兄様は闇に堕ちられております。故に、血のつながった貴方は今苦しまれている」
     ギルティクロスを放ちながら、リオンが苦しげに叫ぶ。まるで自分が、この凶行の当事者であるかのように。
    「このまま闇に堕ちては、もう取り戻す事が出来ません。どうかその闇と戦い勝って下さいませ……!」
    「いやですいやですそんなのいやですうそです絶対に――……ッ!」
     蝶蝶が絶叫し、漆黒の刃を振り上げて飛び込んでくる。真っ向から受け止めたのは、ミケの縛霊手だ。ギリギリと力が拮抗しているところに、視界いっぱいに赤い光が炸裂する。蝶蝶のギルティクロスがミケの土手っ腹に打ち込まれ、力負けして吹っ飛ぶミケ。
    「大丈夫ですかっ!?」
     空凛がエンジェリックボイスを唱え、傷ついたミケの体を癒す。
    「……天紅様、しっかりしてくださいませ」
     キッと蝶蝶に向き直る空凛。 
    「大切なお兄様を想う気持ち、私には痛い程良く分かります。だからこそ、貴女を止めにきた」
    「ありがとう、助かったよ」
     治癒されて起き上がるミケは、人形のような無表情と穏やかなソプラノボイスを、しかし少しも変えることなく。
    「でも痛かったなぁ、今の……お返しするね」
     続けて振り下ろされるのは、ミケの振りかぶった黒死斬だ。
    「お兄さんはもういない。手の届かない場所へ行ってしまったんだよ」
    「兄さまは……兄さまはッ!」
     蝶蝶の言葉を塞ぐのは、地面を蹴った狭霧のティアーズリッパーの凶刃だった。
    「もう薄々、気付いてるんじゃない?」
     切り裂く刃に絡め取られながら、蝶蝶が咆哮する。
    「こんな事しても、お兄さんと会える訳じゃないって」
    「……そ……んなことっ……」
     蝶蝶の瞳が、わずかに、そして確実に揺らいでいた。
     ミルドレッドがチェーンソーの回転を止めた。
    「残念だけど、お兄さんはもういなくなってしまったんだよ」
    「でも、君にその気があるのなら。俺達の仲間になる事だって出来る」
     狭霧がそう続けるのに、ミケもうなづきながら言葉を紡ぐ。
    「目を覚まして。私たちの手を、取って」

     天紅・蝶蝶はさめざめと泣いていた。
     黒々と濡れる瞳には、しかしもはや虚ろは無い。
     彼女に残されたのは、兄を喪ってしまったという受け入れがたい事実だけだった。
    「兄さまは……もう、二度と『戻らない』のですね」
    「それでも。いつかお兄さんと出会う事もあるかも、しれません」
     蝶蝶に語りかけたのか、独り言だったのか。
     慎悟朗のつぶやきは蝶蝶の耳に届いてはいた。
     けれど、久遠の唄を聞ける日は、二度とこないということを、蝶蝶は既に理解していた。
    「この後どうするかは蝶蝶ちゃん次第。さーて、君ならどうする?」
    「ねえ。新しい心の支えなら、私達がなりましょう」
     空凛が優しく笑いかける。リオンも穏やかな表情で、あごをひいた。
    「よろしければ、学園へ参りませぬか。共に兄妹を闇から取り戻すよう、頑張って参りましょう」
    「がく…えん?」
     小首をかしげる蝶蝶に、栞那が教えてやる。武蔵坂学園のこと、灼熱者という存在のこと。
    「だから、一緒に来てくれたら、嬉しい」
    「君が兄さんを見つけられるように手伝うよ」
     丸眼鏡のふちを、くっと持ち上げるアトリ。
     そしてミケは、始終変化の無かった無表情をたもったまま。
    「今はもう会えないけど。もしもその気になって私たちの手を取るのなら、お兄さんをいつか探し出すこともできるかもしれない」
     それはすなわち、大切な兄をみずからの手で灼滅する瞬間だ。
     たとえ、そうであったとしても。
    「この手を取ったこと、いつか感謝する時がくるよ」
    「一緒においでよ。お兄さんのこと……ずっと、忘れないためにも」
     ミルドレッドが、ゆっくりと手をさしのべる。

    『ふつつか者とは存じますが……どうか、よろしくお願い申し上げます』

     これは、とある新月の夜。
     大切な人を喪った一人の少女が――哀しい過去を背負いながら、それを克服するために。みずからの足で進むことを決意した瞬間の、物語だ。

    作者:猫乃ヤシキ 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年2月19日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 4/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 7
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