心に黒い小鳥が生まれる日

    作者:矢野梓

     小鳥が鳴いている。この冬のさなかに。ああ、もう朝。餌をまいてやる時間なのね――。

     夢うつつ、ベッドの中で熊谷洋子(くまがい・ようこ)は呟く。瞬間、ぱちりと目が覚めた。見慣れているはずの自室の天井。ふと脇へ視線をやればカーテンの隙間からは朝の陽射しが踊り。
    「なんか、生まれ変わったみたい」
     そっと起き上がって見れば体はふわりと軽かった。バレエで鍛えた体は肥満とは無縁。だが今朝感じている軽さは物理的なそれとはまったく違う感覚で……。
    「そう、今ならどんなステップでも踊れる気がする」

     ――3時間後、洋子はいつものレッスン場の床の上にいた。念入りなストレッチ、バーレッスン。体を温めてあの人が来るのを待つ。
    「勝負?」
     その人は洋子の申し出に小さく笑った。このバレエ教室きっての実力者。今度のバレエ団の公演では中学生ながら『白鳥の湖』の黒鳥役に内定しているとか……。
    「そうよ。私が勝ったらブラックスワンは私がもらうわ」
    「何をばかな」
     彼女にとってみても大人の実力者と同じ舞台に立てるのは非常に魅力的なことだ。おいそれと譲るわけにはいかない。
    「この世界は実力本位……ってあなたお得意の台詞だったわよね」
    「それは力があるものの話でしょう」
    「……私、生まれ変わったの」
     あなたを一生私の後ろで躍らせてやるから――。2人の少女の間に飛び散った火花は今にも音を立てそうな程。教師も知らぬところで行われたこの勝負。経過と結果を知るものは多くはない。ただ誰もが洋子の技量に目を釘付けにされ、心を奪われた――それは確かなことだった。それはまさしく王子を魅了する黒鳥のように……。

    「ああ、やっぱり。私は生まれ変わったんだわ」
     この動き、この力。1人残ったレッスン場で洋子は勝ち誇った笑みを浮かべていた。私の踊りを見て青ざめたあの人。こうなれば黒鳥役も辞退する他はないだろう。
    「15歳にして公式デビュー……世界のひのき舞台」
     素敵な響き。うっとりと洋子は足元を見つめた。夕暮れの陽射しに長く伸びた影が洋子の笑いに応えるように揺れている。それがありえないくらいに自律的であることに、洋子はもう気がつけない。心は徐々にダークネスのそれへと変質し始めているというのに――。

    「ブラックスワンで闇堕ち、なあ……」
     いかにもというべきか厄介なというべきか、水戸・慎也(小学生エクスブレイン・dn0076)はしばし黙考。灼滅者達が教室の扉を開けたのはそんな時だった。
    「お……っと、失礼しました」
     慎也少年は窓際の席から飛び上がると、ぴょこんと機械仕掛けのように頭を下げる。
    「今回の事件は淫魔……」
     少年はなんとか平静を装いつつ、システム手帳の開かれている教卓のところへ戻る。今回の淫魔はいわば闇堕ちしたて。まだ十分に人の意識を残した少女だ。名前は熊谷洋子、年齢は15歳。世界のひのき舞台で活躍するバレエダンサーを夢見て……とまあ人並みに夢を抱き続けていたらしい。
    「今ならまだ人の世界に戻すってーのもできるっちゃできる……」
     慎也の言葉はひとり言のように。その辺りは集まった灼滅者達とて百も承知。ただ、このところ妙に踊る淫魔の話を聞いているような気がするが……。
    「その辺のとこは今は措いといて、とにかく話を進めましょうか」
     慎也少年は小さく咳払いをした。

    「絶対に必要なのは彼女にダンス勝負を挑むこと」
     『です』――思い出したように付け加えて、慎也少年は灼滅者達を見渡した。介入するタイミングは洋子がライバルを完膚なきまでに下した後。それ以前だとバベルの鎖に引っ掛かってしまう可能性が大である。
    「淫魔に堕ちたとはいってもまだ人の心は残していますし……」
     誰よりもうまく踊りたいという気持ちに嘘はない。だから勝負を挑めば洋子が拒絶を示すことはないだろう。うまくダンス勝負に勝てれば、洋子を救える道も開けるというものだ。
    「問題はそれに勝てるか、という点ですが……」
     それは灼滅者達の腕次第というのは慎也にもよく判っていた。だがエクスブレインたるもの、そこは彼らを信頼するほかはない。
    「見事勝利をおさめられれば淫魔の本性も明らかに戦闘をしかけてくるでしょう」
     なにしろせっかく役を得たというのに、すぐに負けてしまったのでは彼女としても立場がない。どんな手を使ってでも負けをなかったことにしようとするはずだ。
    「つまり彼女を救う条件は2つ?」
     返されてきた質問に慎也ははっきりと頷いた。戦闘とダンス勝負と――これを同時に満たすとなると、なかなかに難しい依頼ということになるだろうか。
    「戦闘になれば洋子……さん、が得意とするのは当然ダンスです」
     振り付けは情熱的に、ダメージは遠くまで。加えて彼女のステップに合わせるかのように彼女の影までがどす黒い武器へと変わるのだ。
    「黒い小鳥のように――」
     舞い上がって斬りつけたり、かと思えば絡み付いてきたりと中々にバリエーションも豊富。小さな鳥に見えれば、大きな闇そのものとなって敵を飲みこみにかかることもある。
    「ブラックスワンだからって訳でもねぇ……無いんでしょうけどね」
     ただ幸いといえは幸いなことに、今回は配下の姿はまるでない。洋子との戦いに専念できるだろうし、ダンス勝負の時にはある種説得を試みることもできるかもしれない。
    「万一、ダンス勝負に負けたばあいは?」
     灼滅者の1人の問いに慎也少年は僅かに目を伏せた。勝負に負ければ勿論彼女を解放することは叶わない。だがそうなればこの世に覚醒しきったダークネスを1人送り込んでしまうことになる。
    「その時は全力で灼滅を……」
     完全に淫魔となった瞬間に、洋子は人ではなくなってしまうのだから。

    「あの人としても舞台を穢すような真似は本意じゃねえ……と思うのですけれどね」
     とにかくまずは洋子に勝負をいどむこと。たとえ技量で劣ることがあったにしても、今ならばまだ彼女は聞く耳も持っている。
    「場所はここ……」
     慎也はとあるレッスン場の地図を灼滅者達に渡す。舞台と同じ材質を使った床、高い天井、一面の鏡。戦闘するに広さは十分である。
    「硝子や鏡にはまあ気をつけてもらう必要がありますが……」
     ひび1つ入れるなと言うわけでもなし、とにかく今は任務遂行を第一に考えていくべきだろう。
    「あ~、じゃ、健闘を祈ります」
     回らぬ口調でそういうと、慎也は教壇を降りる。日頃の練習の成果だろうか、少年の一礼に見送られて灼滅者達は仕事に向かった。


    参加者
    私市・奏(機械仕掛けの旋律・d00405)
    仙道・司(オウルバロン・d00813)
    天鳥・ティナーシャ(夜啼鶯番長・d01553)
    白弦・詠(白弾のローレライ・d04567)
    望月・結衣(ローズクォーツ・d09877)
    雪椿・狗白(深海の探し人・d10523)

    ■リプレイ

    ●淫魔に堕ちる
     冬枯れの街に冷たい風が吹き過ぎてゆく。春まだ遠い並木道、花芽もまだ固すぎる桜の樹の上に薄青い空は寒々と。熊谷洋子のいるバレエスタジオまではもう幾らもない――そう思うとアインホルン・エーデルシュタイン(一角獣・d05841)は我知らず軽いワルツステップを踏んでいた。今日のためにと皆で積んだ練習が思い起こされる。今日の相手熊谷洋子は半闇堕ちの少女。ダークネスの灼滅を怖いと思った事はないけれど、彼女の命運――本当に淫魔に堕ちるか人に戻るか――は自分達の働きで決まる。考えようによってはその方が遥かに恐ろしい事ではあるまいか。
    「今日のために特訓してきたんだからね」
     アインホルンの不安を見抜いたのか、私市・奏(機械仕掛けの旋律・d00405)は半ば言い聞かせるように笑いかけ、件のバレエ教室の建物を振り仰いだ。
    「ええ、洋子さんには自分で踊り続けて貰いたいのです」
     天鳥・ティナーシャ(夜啼鶯番長・d01553)もきっぱりと言い切る。この頃学園内でよく聞くダンス絡みの淫魔事件。今回の件もその1つなのだろうけれど、裏に何があるにしてもまずはここで一仕事。
    「……洋子さんは、ここで堕ちてはいけない」
     軽く溜息をつくように白弦・詠(白弾のローレライ・d04567)もスタジオの建物を見上げた。
    「本当に好きで夢中になるものがある事は素敵な事だわ」
     淫魔になりかけている洋子も懸命に練習を重ねてきたに違いないだろうに――詠がそっと首を振ると、望月・結衣(ローズクォーツ・d09877)も頷いた。件の少女、洋子は今大切なものを見失っている。
    「……思い出させてあげなきゃね」
     このまま総てが黒になる前に。
    「ああ、黒ではなく白に戻れるように俺達が頑張らんと」
     こんな形での闇堕ちなど認めない――その意思も固く、雪椿・狗白(深海の探し人・d10523)は硝子扉を押した。外とは真逆の温かさはかえって灼滅者達の肌をさしに来るように思われた。

     まずはダンス勝負――灼滅者達はそれぞれの役割を最終確認。
    「踊りは専門ではないのだけれどね」
     黒い衣装を身に着けると詠の艶やかさは一段と引き立つ。普段のはかなげな笑みは黒鳥オディールという仮面の下に隠され、表層に揺らめくのは……
    「でも、王子様を魅了する役は……私にぴったりだと思わない……?」
     誘惑と魅惑。対照的に純白の衣装に身を包んだ結衣はオデット役。
    「オディールの愛が偽りとは言えないけれど……」
     けれどそれが幸福を得る結末はありえない。メイローズ・ハルメリア(宵星・d07835)はしっかりと頷きつつも、ボードの端に貼ってあった配役表をじっと見つめた。黒いマジックの手書きによる洋子の名前。消された印刷の文字がなんとも淋しげに見える。
    「行こうか……」
     仙道・司(オウルバロン・d00813)は熊谷洋子と誇らしげに書かれた文字をそっとなぞった。彼女は3階のレッスン場を占有しているらしい。まずは最初の関門へ――。

    ●黒い小鳥
    「あなたに見せたいダンスがあります!」
     いぶかしむ洋子を目の前に司の切り出しは単刀直入。ゆったりとこちらに向き直った洋子は威風堂々。すらりと伸びた手足の先まで自信で溢れているように見えた。
    「挑戦ととってもいいのかしら」
     無論それこそが自分達の望む事だと司は頷いた。始まる音楽は白鳥の湖第3幕。洋子の踊りは壮麗かつ繊細。王子を陥落させる黒鳥そのままに。
    (「音楽が……形になったような……」)
     奏の皮膚が粟立つ。華麗で他の誰をも寄せ付けないような威厳。ブラックスワンは悪魔の王女ともいうけれど。軸足のまるでぶれない32回転は神の技。女王の風格さえ漂わせ。
    「「成る程……」」
     確かにこれは――結衣と司は思わず互いを見やった。経験者だからこそ判るこの技量。洋子がどれ程真摯にバレエに取組んで来たかがよく判る。最後の一音節が余韻を残して消えて行くまで灼滅者達は食い入るように見つめていた。
    「洋子様、とても素敵でしたわ……」
     でも何かが足りない気がする――メイローズがその言葉を舌に乗せるには相当の精神力を必要とした。まして自分達の踊りを見ろと、黒鳥の女王に申し出るには……。だが今は全力を尽くすのみ。
     奏、ティナーシャ、メイローズ、狗白の白鳥のステップが稽古場の床に響く。短い練習期間でここまで揃えてこられたのは立派だというべきだろう。そしてそれは結衣のオデットと司にとよる王子とのパ・ド・ドゥへ……淫魔に囚われていたという経歴が経歴だけに結衣の踊りはこなれたものだった。対するジークフリード王子の動きも初々しくも情熱的に。
    「やめて。お話にならないわ」
     突然音楽がぶちきられた。洋子の眉間にはくっきりとした縦じわ、その声には疑いようもない苛立ちが。
    「アヒルの踊り?」
     あなた達2人は基礎があるようだけれど、私から役を取ろうなんてレベルじゃない――床に映った影がゆらりと大きく立ち上がる。
    ((「影業……」))
     灼滅者達の目が漆黒のその影に吸い寄せられる。そこにあるのは紛れもなくダークネスの表情。
    「そんなもので私に勝とうというの?」
     みるみる濃く深くなってゆく影。失敗かと灼滅者達の背がぞっとなったその瞬間、ティナーシャの歌声が響いた。それは高みをめざし、海を越える白鳥の歌――。

    ●舞い飛ぶ鳥達
    「……素敵な舞台はひとりじゃできないのです」
     さわりの部分だけを一息に歌い上げてティナーシャが口をきる。一瞬我を忘れたかのように聞き入っていた洋子の顔が再び険しくなった。
    「素敵な舞台?」
     それは主役だけが光り渡る舞台の事よ――洋子の厳しい決めつけに、灼滅者達は一斉に首を横に振った。ティナーシャの歌声が再び音楽を紡ぎ始める。のみならず詠のウィスパーヴォイス――囁くような歌声も重ねられ。それは人の声によるチャイコフスキー。それは最も素朴で底の知れない楽器だとは誰の言葉だっただろうか。
    「……」
     洋子は明らかに意表をつかれていた。これがもし本物のオーケストラとの共演であったならどれ程素晴らしい舞台になる事だろうか、と。刹那、司の足がジークフリード王子のステップを踏み出していた。遠い昔彼女の父親がスポットライトの中で舞っていたその踊り。幼い頃両親の踊りを見て始めたバレエで今、自分は瀬戸際の人を引戻そうとしている。指先まで張りつめられたその思いは不思議なオーラのようなものを見る者に感じさせた。灼滅者達の舞台を止める機会を洋子は完全に失っていた。
     多少のアレンジを加えつつ灼滅者達の『白鳥の湖』は進んでゆく。そこにあるのは調和。そして互いを支えあって海を越える鳥達の姿。やがて中央で舞い始めるオデット――結衣を囲むように狗白、メイローズ達の群舞が盛り上げる。技量の点から言えばそれは到底洋子のそれには及ばない。だが洋子を救いたい思いには嘘偽りはなく。
    (「……技術に溺れても道化と変わりはしない」)
     音楽もバレエも独りでできる事など多くはない。技術と技術以上の何かが無ければ――メイローズの、そして奏の思いは洋子の体を音もなく包み込んでゆく。彼女はただ立ちすくんだまま。

     やがて3幕。ばさりと翻る悪魔の外套。怯えて散ってゆく白い鳥達に代って座を占めるのはアインホルン演じるロットバルトと詠のオディール。続くパ・ド・トロワは王子を加えての3人の踊り。純真無垢な想いも悪魔の手にかかってはあっという間に黒い闇に染められてしまう。アインホルンが愛槍【魔女の指先】を振るう度に、詠の動きは華麗に蠱惑的に王子の心を壊してゆく。それは確かに黒鳥だった。洋子が最も得意とする――だが、そこにあるのは支配する一方の自分のそれとはまるで違って。洋子の唇がわなっと震えたのをアインホルンは見逃さない。
    (「黒鳥は白鳥と同じように、王子の事を愛していた。そんな解釈もあるのだけど、彼女は知っているのだろうか。黒鳥だって王子を求めない限り、振り向いて貰えないのに」)
     魔性の者に命じられて王子を奪うオディールは結局何も手には入れられない。洋子は求め方を間違ってはいないか、そんな気もするアインホルン。だから今見せつけるのは自らの意思によらず、踊り続ける黒い鳥。そしてそれを操る『魔』の存在である自分。
    (「よーこの心を、黒鳥に変えたのは、誰? どうか思い出して」)
     あなたの中に巣食うダークネスという闇を。洋子の腕はいつの間にか己が両肘をぎゅっと抱いていた。いよいよ王子はオディールへの愛の宣言を。黒鳥が本性を現す時が来て――。

    ●白と黒のせめぎ
     洋子の指が自らの髪をかき乱した。時折垣間見えるようになってきたのは人としての表情なのか。ティナーシャの歌声が更に哀切を帯び、詠の声もまた海を恋う人魚のように。物語は再び湖のほとりへ……。オデットと王子、2人のダンサーは最大の山場に差しかかる。最大限のアレンジを加え、黒鳥・洋子への思い込めたそのラスト。メイローズは群舞に徹しながら祈った。皆のこの想いがどうか伝わるように、と。
    「オディールよ、私はそなたにかけられた呪いも解きに来たのだ」
     すっと伸ばされる王子とオデットの腕。洋子の表情が完全に驚愕へと変わった。
    「誰かを蹴落とし得た場所は所詮泡沫。そうこの白鳥の湖の結末も告げているではないか」
     音楽と歌声と、舞と言葉と。それは不思議な融合だった。洋子の手が伸ばされかけたかと思うと、慌てたようにギュッと握られる。彼女の中で起きている葛藤を狗白ははっきりと見て取る事ができた。ちらりと司を見やれば彼女もまた微かに頷いて。
    「自ら楽しまねば美しく踊るなど出来ぬ。そなたは忘れていないか、踊る楽しさを」
     音楽が大いに盛り上がる。天使と人魚の歌声もしかり。オデットと王子のパ・ド・ドゥが愛の勝利を踊りあげようとしたその瞬間――。
    「やめて! ダメよ!」
     洋子の叫びが全てをかき消した。立ち竦む灼滅者達の周りで音楽の抜け殻だけが響いている。
    「認めたりなんか、しちゃいけないのよ」
     中央で踊る者のみこそ、価値はあるんだから……どんどん弱くなってゆくその声。それは先程までの勝者の声とはまるで異なっていて。

    「認めないわ……そうよ、認めないわ」
     心もそういっている――洋子の呟きと同時に漆黒の影が凶器へと変わった。空を斬って詠を狙ったその軌道に結衣が飛び出した。ぱっととんだ血飛沫に誰もが一瞬目を奪われた。だが結衣はゆっくりと頷く。単なるかすり傷に過ぎなかった事を知ると、詠は洋子に向き直った。
    「なぜ! 代りなんかいくらでもいるのに」
    「私達の踊りを見て分からない?」
     プリマ独りで、演目が完成するのかしら――それでも洋子は自身に言い聞かせるように、首を横に振り続けた。認めてはいけない、認めたら負けだ、と。終りのない葛藤の中、彼女の心に囁きかけているのは一体誰なのだろう。
    「Zauberlied、anfang」
     魔法の歌を今ここに――そこにいるのは灼滅者としての奏。その手に輝くのは契約の指輪。洋子の心が定まらぬ今、今こそが戦いの時である。
    「本物の悪魔退治と参りましょうか………Now The Time!」
     梟男爵の名に恥じぬ舞を――死角をついた斬撃に洋子の体が大きく傾ぐ。ティナーシャの神秘的な歌声も今は戦いの色をおびて、アインホルンの槍の冴えを彩る。
    「!!」
     苦痛に満ちた叫び声が消えぬ間に狗白の魔法の矢がその喉元を貫く。狙撃手の狙いは過たず、詠の槍も見事の一言に尽き。
    「弱くなっているのかな」
     小さな光の輪をばら撒いてアインホルンの守りを強めつつ、結衣は独りごちた。洋子の技は確かにダークネスのものなのに、手応えはなんともちぐはぐな。
    「……弱体化」
     奏の声は低かった。だが対照的に彼の闘気は増すばかり。胸元の刻印はトランプ。それは敵を完全に追い詰める意思の具現の如き。
    「……人に戻りつつあるのでしょう」
     メイローズの右手にも銀の細工。人差し指のサファイアの指輪もまた、魔法の弾を撃ち出す武器。
    「!!」
     狂ったように洋子は舞った。だが前衛陣にもたらされる痛みは常よりも遥かに弱くなっている。

    ●黒鳥は飛ばず
    「さあ、共に舞おうオディール。白き鳥も黒き鳥もない、皆が手を携え舞う光景は……」
     きっと美しい――司の槍は一瞬にして薄青い氷柱に変わる。詠のガトリングガンがスタッカートを奏で、アインホルンは洋子の死角で槍を薙ぐ。身を護るものさえも裂くというその一撃に、ティナーシャの盾と奏の弾丸とが追い打ちをかければ、洋子の体は右へ左へと踊らされ。
    「私は……中央へ行く為に……」
     洋子の独白に狗白は弓を大きく引き絞った。
    「後ろで踊っていても、主役以上に輝けるんだ」
     みにくいアヒルの子もいつか空へはばたくように――弓から飛び出す一条の矢はまさしく彗星。宛ら生れ変った命の如く。メイローズは暖かな癒しの光を生み出した。結衣の傷がみるみる内に癒えてゆく様を洋子に見せつけるかのように
    「それはあなたが主役だから、でしょう」
     そう問う声が震えていた。メイローズは黙って否定の意を示し、
    「舞台はね、一人だけのものじゃないの」
     皆で一緒に踊ってるととっても楽しいんだよ――結衣の声が稽古場に響く。

     ――洋子ちゃんはどうしてバレエを習い始めたのかな?

    「やめてっ!」
     それが何に向けられた叫びなのか、誰にも判らない。黒々とした影の腕がアインホルンを狙ったらしい事は確かだけれど、空しく消えてゆくばかり。刹那シャドウハンターの漆黒の弾丸が2筋、洋子を貫いた。
    「洋子さん。『そちら』へ行ったらもう……」
     癒しの歌声に乗るのはティナーシャのメッセージ。ダークネスに堕ちれば人としての心は死ぬ。そう聞かされた瞬間の洋子の顔を狗白は恐らく一生忘れまい。結衣のリングスラッシャーが輝き、詠の弾丸が炎の勢いを持って散る。
    「綺麗な人形のまま踊り溺れるのか、それとも血の通ったバレエを踊るのか」
     それは熊谷さん次第だ――ペトロカースに思いを込めて、奏が呼び掛けると洋子はふらふらと立ち上がる。焦点を結ばない瞳は本当に人形のようだった。だがそれはあと一息で生命を取り戻す人形なのだ。狗白とメイローズ、2人の魔法使いが放つ2条の矢。それは長い尾を引いて、淫魔の最後の抵抗を完全に打ち砕いた。

     稽古場の床に洋子が倒れ伏している。その顔にはもうダークネスの影はない。そこにいるのはただ踊りを愛し、夢を見る少女。
    「おかえりなさい、美しく優雅なバレリーナさん……」
     結衣は乱れた髪をそっと整えた。周囲をざっと片付けていた灼滅者達も、邪気のない顔で眠る少女をしばし見守った。暫くすれば洋子は胸の小鳥を再び奥底へ秘めて、歩き始める事だろう。本当の彼女の人生を……そう思える事が灼滅者達にとって、今は何よりの報奨となる――。

    作者:矢野梓 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年2月12日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 6/素敵だった 9/キャラが大事にされていた 0
     あなたが購入した「複数ピンナップ(複数バトルピンナップ)」を、このシナリオの挿絵にして貰うよう、担当マスターに申請できます。
     シナリオの通常参加者は、掲載されている「自分の顔アイコン」を変更できます。
    ページトップへ