雨が降ったから

    作者:牧瀬花奈女

     一雨来そうだ。
     縁石に腰掛けていた少女は、暗い空を見上げて溜め息を吐いた。紺色のプリーツスカートに覆われた膝の上では、黒猫が耳を動かしている。
     制服姿を見るに、少女は近くの中学校の生徒だろう。下校時間はとうに過ぎていたが、彼女は通学鞄を道路に置いたまま、縁石の上から動こうとしない。
    「帰らなきゃ……」
     呟く少女は俯いて、膝に乗せた猫の背に指を滑り込ませていた。一人と一匹は面識があるらしく、猫は寛いだ様子で彼女の手を受け入れている。
     ぽつん、と、空から雨の滴が落ち、アスファルトに黒い染みを作る。濡れるのを嫌ってか、猫は少女の膝から軽やかに飛び下りた。雨脚は見る間に強くなり、猫と少女を容赦無く叩いた。
     暗闇に溶けそうな毛色の猫が、道路の真ん中へと駆ける。
     大型のトラックが騒々しく走り込んで来たのは、その時だった。
    「あ……」
     危ない。そう口にしかけた少女が、縁石から立ち上がった刹那。
     ぼん、と、思いのほか小さな音を立てて、猫が飛んだ。そのまま近くの電柱にぶつかり、ずるずると地面へ落ちる。
     気付かなかったのか、大した事とは思わなかったのか。猫をはねたトラックは、止まる事すらせずに交差点へと走り去って行く。
     猫は動かない。
    「う……うう……」
     ふらふらと猫へ近付いた少女が、両手で顔を覆った。唇から零れた声は、彼女の中で何かが限界を越えてしまった証だった。
     白く細い少女の手が、痙攣じみた震えと共に青く変じる。それに伴って、小柄だった彼女の体は、次第に無骨な異形へと姿を変えて行った。
     そして、デモノイドに変じた彼女は、トラックの走り去った交差点へと駆けた。
     雨に濡れたその交差点が、鮮やかな紅に染まるのは、それから間もなくのこと。
     
     白石めぐみ。
     それがデモノイドへと堕ちてしまう少女の名前だと、五十嵐・姫子(高校生エクスブレイン・dn0001)は灼滅者達に告げた。
     中学1年生の彼女は、可愛がっていた野良猫がトラックにはねられた事をきっかけに、デモノイドとなってしまう。
    「きっと、以前から、色々な事で悩んでいたんでしょうね」
     何となく、クラスに馴染めないでいたとか。何となく、家族と巧く行っていなかったとか。一つ一つは、よくある、些細な事であったに違いない。
     けれどそれが幾つも積み重なった結果、少女の心は闇へと引き込まれてしまった。姫子の未来予測では、デモノイドとなった少女はトラックの走り去った交差点へ飛び込み、そこにいる人々の命を奪ってしまうという。
     彼女を助けてあげてくれませんかと、姫子は言った。
    「デモノイドになったばかりの状態なら、多少は人間の心が残っている事があります。その心に訴えかける事が出来れば、灼滅した後に、デモノイドヒューマンとして助け出せるかもしれないんです」
     救出できるかどうかは、少女がどれだけ強く人間に戻りたいと願うかにかかっている。もしもデモノイドとなった後、人を殺めてしまったら――彼女の人間に戻りたいという願いは弱くなり、助ける事は難しくなってしまうだろう。
    「デモノイドとしての彼女の能力は、デモノイドヒューマンの皆さんが扱うものと同じです。威力は、ずっと高いですけどね」
     戦いの場となるのは、とある中学校近くの道路。下校時間は過ぎているため、戦闘中に人が通りかかる心配は無い。
     現場に到着する頃、デモノイドとなった彼女は、交差点へ飛び込もうとしている所だ。灼滅者達はデモノイドの背後から戦闘を仕掛ける事になる。
     まずは注意をこちらに引き付け、デモノイドの意識を交差点から逸らす必要があるだろう。
    「現場には雨が降っています。戦闘に支障はありませんが、濡れるのが苦手な方は気を付けてくださいね」
     お帰りをお待ちしています、と、姫子は灼滅者達に微笑んだ。


    参加者
    セリル・メルトース(ブリザードアクトレス・d00671)
    一・葉(デッドロック・d02409)
    立見・尚竹(貫天誠義・d02550)
    霜月・薙乃(ウォータークラウンの憂鬱・d04674)
    天野・白蓮(斬魔の継承者・d12848)
    獺津・樒深(燁風・d13154)
    綺堂・ライ(狂獣・d16828)
    南谷・春陽(春空・d17714)

    ■リプレイ

    ●凍雨
     静かに降る雨は冷たかった。
     現場へと急ぐ灼滅者達の頬や肩を、雨は無感情に叩き、濡らして行く。向かう先にいる少女は、何を思って一人で雨に打たれていたのだろうか。
     友達と言える誰かが居れば、変わっていたのかな。六花を秘めた槍剣の柄を撫で、セリル・メルトース(ブリザードアクトレス・d00671)はそう思う。
     もしも、心に押し込めたものを分かち合える相手がいれば――そう考えかけて、首を振る。見なければならないのは、過去ではなく、未来だ。
    「さ~て、今回はうまく救えるといいんだがね」
     ぱしゃん、と水溜りを靴底で叩き、そう言う天野・白蓮(斬魔の継承者・d12848)の眼差しは、口調とは裏腹に真剣だった。
     いた、と声を上げたのは誰だったか。交差点の方を向いたデモノイドの青い背を目にして、灼滅者達は足を速める。
    「めぐみちゃん、待って!」
     天星弓を強く握り締め、叫んだのは霜月・薙乃(ウォータークラウンの憂鬱・d04674)。
     まだ、間に合う。デモノイドと化してしまったこの少女は、まだ人に戻れる可能性が残っているのだ。
     灼滅者達にとって、目の前の異形は、白石めぐみだった。助けを求める、中学1年生の女の子だった。
    「止まって、白石さん!」
     薙乃の後ろに足を止めた南谷・春陽(春空・d17714)が、素早くバイオレンスギターをかき鳴らした。音波に打たれ、めぐみがぴくりと足を震わせる。その隙に、セリルが脇をすり抜け、彼女の前に立った。丁度、交差点への進行を阻む位置だ。
    「待つんだ、白石めぐみ!」
     唸るめぐみの名を呼び、セリルの隣に立見・尚竹(貫天誠義・d02550)が並ぶ。とん、と軽い音を鳴らして彼の横に位置を取ったのは、一・葉(デッドロック・d02409)だ。
    「わりぃが、こっから先は通せんぼだ」
     葉の持ち上げた槍の穂先を見て、めぐみは首を巡らせる。
     行く先を塞いでいるのは、3人の灼滅者。デモノイドの力を得ているとはいえ、易々と突破出来る壁ではない。尚竹の放つ殺気の効果もあって、万が一にも一般人が通り掛る心配も無かった。春陽が重ねて、戦場内の音を遮断する。
     熄、と静かに紡いだ獺津・樒深(燁風・d13154)は、解体ナイフを手に薙乃の前に立った。白蓮も、めぐみを囲むように前へ出る。
     仲間達が陣を取る中、綺堂・ライ(狂獣・d16828)が向かった先は道路の端。身を屈め、彼はトラックにはねられた野良猫へ手を伸ばした。
     ほんの僅かでも、命の灯火が残っていれば。癒しの力を乗せたオーラが、濡れた黒い毛並みに触れる。
     ぴく、と、緩く曲がった猫の足が動いた。
    「生きてる!」
     ライの叫びに、安堵の空気が広がる。めぐみだけではなく、救える命ならば救いたい。そう願ったのは、彼だけではなかった。
    「おい! こいつをそのままにしておくのか!?」
     猫を抱き上げ、ライはめぐみに呼び掛ける。それでいいのか、と。
     青い喉から唸りが漏れ、盛り上がった腕から強酸性の液体が飛ぶ。
    「やっぱり、簡単には行かないか」
     液の当たった法衣の肩を少しだけ押さえ、セリルは捻りを加えて槍を繰り出す。柄に伝わった手応えは重い。
     雨の中で紡がれる物語は、まだ序章だった。

    ●氷雨
     葉の槍が閃いて、めぐみの腱を切り裂く。足取りが僅かに鈍った。
    「お前には誰も殺させねぇし、何も傷付けさせねぇよ」
     俺が闇堕ちしてダークネスになった時、アイツ等はどんな気持ちだったンだろうな。足元で鳴る小さな水音を聞きながら、葉は心の片隅で思う。
     好き勝手にやってくれた、という気はするけれど、彼らの声はちゃんと葉に届いていた。
    「上手くいかねぇことばかりで、消えてしまいたくなんのも分からなくねぇが、お前はちゃんと此処に居るんだ。簡単に消えるなよ」
     めぐみに、この声は届いているだろうか。
     悪い事は重なると言うが、それが限界を越えてしまったのだろう。螺旋を描いた槍の穂先で青い肩を抉りながら、尚竹は目を僅かに伏せる。彼が振るうのは、人を活かすための剣。その力を活かす時は、今だ。
     猫、と静かな声音で紡いだのは、樒深だった。
    「アンタ、猫好きか?」
     彼の手首がしなり、ウロボロスブレイドの刀身が鋭く伸びる。
    「何も知らない様で、実は知っていて。ただ寄り添ってくれた大切な友人だろ」
     その友人が危険な状態なのに。激情に飲まれて、良いの、と、樒深は猫に目を向けた。
     巧く行かない、心細い日常の中での、唯一の友。最後の糸が切れてしまう程の絶望は、どれだけの物か。
     加速で威力を増したウロボロスブレイドが、隆々と盛り上がった二の腕を裂く。
    「寄り添う為に、諦めずに命救う為に、その足は動く筈だろう」
     ぐ、とめぐみの喉から、苦鳴じみた声が漏れる。
     その真っ黒な気持ちに負けないでと、薙乃が声を上げた。細い指先が弧を描き、赤の逆十字がめぐみの足元に現れる。
    「あの子を好きで、大事だった気持ちをなくさないで」
     いっぱい傷ついてしまうのは、心が柔らかいから。そして、たくさん傷付いているという事は、誰かの痛みも分かるという事。そんな、柔らかで優しい心を、誰かを傷付ける事で壊してしまいたくない。
    「今は嫌なことや、上手くいかないことがたくさんあるかもしれない。でもその綺麗な気持ちがあったら、きっと誰かを……自分の日常を、大事に思う日があるよ」
     逆十字が青い体を内から裂き、めぐみがたたらを踏んだ。
     今その衝動に身を任せたら、あの子との関係も黒く染まっちゃうんだよと、薙乃は赤茶の瞳を悲しげに細める。
     春陽の傍らから分裂したリングスラッシャーがふわりと舞い、セリルの元へと飛んだ。
     落ち着いて、とめぐみに呼び掛ける彼女の声は、仲間を癒す光と同じように優しい。
    「急にそんな風になって驚いた? 怖い……よね」
     今のめぐみの姿は、いつの日か春陽が陥るかもしれない姿。そう思えば、本能的な恐れに震えそうになる。けれど、彼女にめぐみを放っておく事など出来なかった。
    「でも、その闇に呑まれちゃ駄目よ。あなた自身を見失わないで、人の心を失わないで!」
     大丈夫、大丈夫と、胸中で繰り返す言葉は、春陽自身に言い聞かせる呪文にも似ていて。
    「お前さんは復讐がしたいのか?」
     バベルの鎖を瞳に集め、白蓮もまためぐみに呼び掛ける。
     お前は今、あの猫を轢いた奴と同じ事をしようとしてんだ。そう言う彼の方へ、めぐみが顔を向けた。
    「あいつは俺が治す! そんなんじゃもう抱っこできねぇぞ!」
     はねられた猫への応急処置を終えたライが、薙乃の隣に位置を取る。手に握り締めたガトリングガンから、雨のしずくが滴った。
    「なぁ……それでいいのか! 皆殺しにしてぇぐらい憎いのか? 違うだろ!」
     白石めぐみは、小さな生き物を可愛がっていた。巧く行かない日々の中で、寂しさを一人きりで抱えていた。
     そんな少女が、残酷な復讐など望む筈が無い。
    「このまま人でなくなって良いの? キミはまだ、何かを始めてすらいないんだよ」
     セリルのマテリアルロッドがめぐみの背を打ち、流し込まれた魔力が青い体の中で暴れる。
    「俺達の声が聞こえるンだったら、そんなモンの中に閉じ籠もってねぇで、そこから、前へ踏み出せ」
     一歩で良いからと、葉は槍を振るう。
    「ほら、こっちに手を伸ばせよ」
     螺旋を描いた穂先に穿たれて、めぐみが水溜りを踏み締める。体勢を立て直し、持ち上げられた青い腕は、しかし武器の形を取らなかった。
     いびつな形をした手が、ゆっくりと灼滅者達へと伸びる。
     助けて。
     ぎこちない発音で紡がれた言葉を、彼らは聞き逃しはしなかった。
    「助けるよ!」
     薙乃が叫び、天星弓を握り直す。
     彼らの言葉は、声は、めぐみに届いた。
     必ず助ける。灼滅者達の眼差しに、決意が宿った。

    ●天泣
    「君の運勢、俺の剣と仲間達で切り拓くぞ」
     尚竹の太刀が雨を弾き、死角からめぐみの腿を斬る。白蓮は金剛の名を付けられた霊樹の刀を上段に構え、真っ直ぐに振り下ろした。
     ぱしゃりと響いたのは、樒深が水溜りを踏んだ音。収束したオーラを纏う拳に殴打され、めぐみの体が揺れる。
    「とまれねぇなら、俺らが相手してやる!」
     ライの掌から酸を含んだ液体が飛び、青い胸板を強かに打つ。薙乃は足元から影を伸ばして、めぐみの足を絡め取った。春陽も寄生体の肉片から液を作り出し、彼女の装甲を溶かす。
     めぐみの右腕が振り上げられ、めり、と耳障りな音が鳴る。巨大な砲台と化した右腕は毒を孕む光線を放ち、樒深の腹を打った。
    「ホラ、戻っておいで。愚痴でも何でも聞くからさ」
     一度全部吐き出しちゃえと、セリルはマテリアルロッドを振るう。ばちりと爆ぜた光は、白い雪の結晶を思わせた。
     ひゅ、と葉の槍が風を切る。腱を切られていためぐみの足取りが鈍り、穂先が同じ場所を抉った。尚竹は螺旋を描く槍を回転させ、妖気のつららを撃ち出した。青い肌が仄白い氷に包まれる。
    「俺らは灼滅者! 涙を狂気に変える魂に、火を灯す者だぜ!」
     白蓮が鞘に納めた刀を抜き放ち、氷の上からめぐみを斜めに斬る。降り止まぬ雨の中に、氷のかけらが飛び散った。
     内を蝕んだ毒の痛みをやり過ごして、樒深はめぐみの側面に回り込んだ。固く握った拳が、脇腹を強かに打ち据える。
     薙乃の指先が戦場の一点を指し、そこから急激に熱量が奪われて行く。めぐみの体を覆う氷が厚さを増した。
     ライは己の寄生体にガトリングガンを呑み込ませ、腕を砲台へと変化させる。放つ光線は、先程めぐみが撃ったものと同じ、毒を抱いた死の光束だった。
     春陽はリングスラッシャーを舞わせ、盾の役を担わせた光輪で樒深を蝕む毒を取り除いた。
     吼えためぐみの声は苦しげで、刃へと変えた腕を振る動きにも乱れが見える。セリルと葉が立て続けに拳を叩き込み、めぐみの体がぐらりと傾いだ。
     もう一押し。そう判断した尚竹は、日本刀を鞘に納め軽く腰を落とした。
    「雷光よ雷光。我が活人剣の理をここに示せ。居合斬り――雷光絶影!」
     雨の中、美しき刀が閃く。
     雷の如き一閃を受け、倒れた青い体がぐずりと溶け崩れた。

    ●慈雨
     溶け崩れた青い体の中から現れたのは、制服姿の女の子だった。ゆっくりと頭を振り、道路にへたり込む彼女を、春陽がぎゅっと抱き締める。
    「大丈夫よ、頑張ったわね」
     助けられた。優しい心を失わないでいてくれた。その事が、何よりも嬉しい。
     いっぱい濡れちゃったねと、雨を含んだ髪を払い、薙乃がめぐみに笑いかける。
    「でも、この雨もいずれやむし。それに雨の日も、素敵だって思う日もあるもんね」
     今日のところは、早く温かくしないとだけど。そう続ければ、めぐみは弱々しいながらも微笑んだ。
    「運が上向く事の1つになるのか分からないが……まずは良ければ俺と友達になってくれるか?」
     そして俺達の学園に来て、その力を活かして欲しい。尚竹がそう言うと、めぐみはきょとんと瞬きを繰り返した。
    「私……役に、立てますか……?」
     眉を下げて俯くめぐみに、大丈夫と樒深が告げる。
    「小さな命を大切に出来るアンタは、優しい。勇気出して一歩踏み出してみろ」
     きっと猫も共に添ってくれるんじゃねぇかな――彼が目を向けた先では、ライとセリルが猫の様子を見ていた。
    「容態はどう?」
    「もう大丈夫だ。元気に動き回るには時間がいるけどな」
     ライのポケットから顔を覗かせた仔猫が、ぴくぴく前足を動かす黒猫に鼻先を近付けた。これにて、一件落着だなと白蓮が笑う。
    「この傘、お前にやるよ。どうせ持ってねぇンだろ」
     葉が差し出したのは、雨上がりの空に似た色合いの傘。今更、傘を差す意味も無いかもしれない。けれど、心に降る雨にだって傘は必要だろうから。
    「ありがとう……ございます」
     傘を受け取るめぐみの声が震える。
     一緒に行っても、いいですか。そう問う彼女を、春陽は更に強く抱き締める。
    「私達と一緒に、生きていきましょう?」
     少女に降る雨は、もう冷たくはなかった。

    作者:牧瀬花奈女 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年6月20日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 1/素敵だった 15/キャラが大事にされていた 1
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