水音

    作者:高遠しゅん

    「ねえ、遊ぼうよ」
     大きなクマのぬいぐるみを抱えた、まだ幼い少女がころころと笑う。
     景気の悪化により、放置されたリゾートホテル建設現場で。
     腰ほどの水に浸かった青年達が、寒さと恐怖に震えていた。
    「よそのおうちに行くときは、こんにちはって言わなきゃダメだよね」
     幽霊が出るという廃墟探検、ただそれだけのつもりだった。
     何故か水がはられたプールを見つけた時点で帰っていたら。
    「ねえ、泳がないの? マリーベルはお兄ちゃんたち、泳ぐところ見たいなぁ。ほら、クララも見たいって」
     抱えたぬいぐるみの手を動かす、無邪気な声。
     青年達は知っている。
     最初に力尽きた仲間が、水中に倒れ込んだ時。一瞬で全身がばらばらに切り裂かれ、肉塊となって水に浮かんだことを。周囲に漂うのは仲間の血肉だということを。
     疲れても寒くても、動くことも倒れることもできない。
    「ねえ、クララ。このお兄ちゃんたちぜぇんぶ死んじゃったら、マリーベルのところに来るのかな。灼滅者の人たち」


    「六六六人衆だ」
     前置きはなかった。一般人の命がかかった事態に、櫻杜・伊月(高校生エクスブレイン・dn0050)は余談を挟まない。
    「六六六人衆に悪趣味なゲームが流行していることは、知っていると思う。今回もそれだ。学園の灼滅者を闇堕ちさせるため、気まぐれに大量殺戮を企てる」
     手帳を開いた伊月は、挟んであった地図を広げて示す。
    「相手は六六六人衆、序列五七五位。マリーベルと呼ばれる、外見は……そうだな、愛らしい少女人形といったところだろうか。7~8歳ほどの金髪の少女だ。大きなクマのぬいぐるみを抱いている」
     灼滅者がそうであるように、ダークネスも外見年齢と実力は一致しない。
    「巻きこまれた一般人の数は七名。うち一名は既に落命している。全員が二十歳前後の男女だ。事態の収拾は、君たちの判断に任せる」
     感情を含まない声で、事件の一部始終を観たであろうエクスブレインは告げた。

    「マリーベルの能力は、殺人鬼のサイキックに加え、鋼糸と咎人の大鎌を使ってくる。現時点で、彼女を灼滅する力は我々には無い。それほどの実力を持っている」
     戦場は、コの字型に建てられたビルの1階部分、中庭にあるプールとなる。
     プールには鋼糸が張り巡らされ、人質となっている一般人達は水に浸かったまま座ることも移動することもできない。加えて、糸を切らなければ助けることはできない。
    「糸は、君たちが見たなら武器で切ることができるだろう」
     人質たちの体力は、限界に近づいている。
    「それから、これは利用できるかどうか分からない情報だが。彼女は抱えているクララと呼ぶぬいぐるみを大切にしている。もし君たちがぬいぐるみを狙って破壊したなら、激怒して隙が大きくなるだろう」
     あらゆる面で危険な賭けになる、と言い置く。
     彼女は指先一つで、人質を全滅させる力を持っているのだ。
    「今回の任務は、生存している人質六名の救出にある。また、マリーベルは闇堕ちが出た時点で撤退するが……」
     伊月は手帳を閉じ、言葉を切る。
    「私は全員揃っての報告を、待っている。以上だ」


    参加者
    泉二・虚(月待燈・d00052)
    白神・菊次(白菊・d00092)
    水瀬・瑞樹(マリクの娘・d02532)
    卜部・泰孝(アクティブ即身仏・d03626)
    九条・桃乃(原罪の悪夢使い・d10486)
    楓・十六夜(闇夜に虚ろう月の湖光・d11790)
    マリデンエール・クライスラー(デッキプリズナー・d14401)
    ベリザリオ・カストロー(高校生ファイアブラッド・d16065)

    ■リプレイ

    ●序
     建設中は活気があったかもしれないが、現在は剥き出しのコンクリートと錆びた鉄骨が、空しく地に影を落としている。
     響くのは少女の笑い声と、風に揺れる木々の梢の音。
     駆けつけて散開した灼滅者たちは、各々が動くに適した場所に潜んで機を待つ。
    (「こんな小さな娘まで……世も末だな」)
     楓・十六夜(闇夜に虚ろう月の湖光・d11790)は、壁の影からプールを伺う。
     六六六人衆、序列五七五位。マリーベルと名乗るのは、幼い少女だった。
     誰もが微笑みかけたくなるような愛らしい顔立ち、白い肌に青い瞳。金色の髪は緩く波打ち、絵画のような真紅のドレスに赤い靴。
     十六夜が視線を移せば、近くに潜む卜部・泰孝(アクティブ即身仏・d03626)の姿があった。同様に身を潜め、飛び出す機を窺っている。
     まだ水泳に適した気温ではない。プールはまるで水牢のようだと泰孝は思った。
    (「我等成すは、一意専心。個々の事例を阻止するのみ」)
     彼らの周囲に漂うは仲間の血肉。その恐怖はどれほどのものか。
    (「人の命を駒にする……いつか後悔させてやる」)
     水瀬・瑞樹(マリクの娘・d02532)は、プール際でくるりとステップを踏む少女に暗い紫の瞳を向ける。
     少女はなかなかプール際から離れようとしない。震える青年達の顔に水を跳ねさせたり、ぬいぐるみと踊ったり。かすかに歌声まで聞こえてくる。
     暇を持て余しているのか、それとも、待っているのか。
    『……!?』
     そこに姿をあらわにしたのは、泉二・虚(月待燈・d00052)だった。
     潜んでいる者たちは息を呑む。上空からの奇襲が強襲の合図ではなかったのか――?
    「こんにちは、お嬢さん」
     何気ない仕草で近づいてくる虚に、少女は満面の笑顔で応じた。
    「こんにちは、お兄ちゃん」
    「私は虚。名前を教えてもらえるかい?」
    「わたしね、マリーベル。この子はクララ!」
     プールサイドから離れ、クマのぬいぐるみを抱きしめ虚に近づく姿は、無邪気な子供そのものだ。
    「ねえ、お兄ちゃんが灼滅者?」
     虚は続ける言葉に詰まった。
     少女は続けた。こんなプールを見て、普通でいられるニンゲンなんて、いないもん。だったら、お友だちもたくさんつれて来てくれたんだよね。たとえば……
     真上を見上げるマリーベル。
     箒に乗り重力のまま垂直に降りてくる、マリデンエール・クライスラー(デッキプリズナー・d14401)と、はっきり視線を合わせた。マリデンエールの背筋に冷たいものが走る。
     次に走り出たのは九条・桃乃(原罪の悪夢使い・d10486)。
    「遊びたいなら、遊んであげるわ」
     微笑むマリーベルはぬいぐるみを抱いたまま、踊るようにステップを踏むと、どす黒い強大な殺気を膨らませた。まだ間近に一般人が、救出を待つものたちがいる。
    「まずい!!」
     一瞬の判断で白神・菊次(白菊・d00092)は刃を手にプールに飛び込み、ベリザリオ・カストロー(高校生ファイアブラッド・d16065)は、プールに張り巡らされた糸を断ち切るために影を迸らせた。
     六六六人衆は、番号を奪うために同じ六六六人衆で殺し合うダークネスだ。
     独自に編み出したあらゆる殺人技巧を同族に仕掛けあい、更に技を磨いてゆく。その性質から常に奇襲に備えており、エクスブレインの予測による隙を注意深く狙わなければ、襲撃も困難となる。
     戦闘能力は他のダークネス種族に比較しても高く、狡猾かつ凶悪。最も厄介な敵といわれている所以だ。
     幼い姿をしていても、その内側に存在する闇が同様に幼いわけではない。
     五七五位という序列は決して高い数字ではなくとも、その序列を保持しているという事実が、目の前のあどけない少女が持つ力量を物語っている。
     故に。
     エクスブレインの予測に沿っていても、タイミングのずれた奇襲は強襲にすらならず、端から崩れるように作戦は瓦解する。
     泰孝と十六夜、瑞樹が飛び出すと同時に、楽しげな笑い声と共に限界まで膨れあがった殺気が渦を巻き、四方に爆散した。

    ●破
     音を失った空間に、からからと箒が転がる音が響いた。
     女性二人をマリデンエールが滑空の勢いのまま両腕に抱えて逃れ、建物の壁際に折り重なるように倒れている。
     男性二人を抱えた菊次が、プール脇の瓦礫の影から何とか顔を出し――表情を歪めた。
     水面は黒みを帯びた紅に染まっていた。それだけで、意味は十分に理解できた。
     ベリザリオは、爪が手の平に食い込むほど拳を握りしめる。
     ダークネスの放つ殺気の直撃に耐え切れず、助けるべき男女二人が目の前で霧散した。肉体は原形を留めることもできず、水に溶けて消えた。
    「あああ!!」
     無念か、怒りか、悲しみか。
     桃乃が胸の奥から絞り出すように叫んだ。だが、身の内に宿る闇は魂を呑み込もうとしない。堕ちることができない。無念に再び喉が枯れるほどの声を上げる。
     虚が大量に血を吐いた。至近で浴びた殺気に膝が折れそうになるのを、意志の力で封じ込める。少女の心を知りたい、その一心の行動だった。
     組み立てていた歯車が少しずつ狂っていくのを、全員が肌で感じていた。
    「思考を停めるな。逃げろ!」
     少女を囲む陣を形作りながら、十六夜が叫ぶ。
    「お願い、しっかりして!」
     マリデンエールが痛む体を気力で起こし、女性二人の意識を引き戻そうと声を上げた。
     水蒸気を上げる白焔の翼を羽ばたかせ、菊次が庇った男性二人の体力を回復させる。
    「逃げろ、遠くへ」
     怒りに低く震える声に、二人はがくがくと頷いた。
    「ほら立って、逃げるのよ。ここから、早く!」
     マリデンエールに駆け寄ったベリザリオが、三人をまとめて癒しにかかる。女性二人は、我に返れば錯乱の悲鳴を上げるばかりだ。
     少女はその様子を、壊れた玩具を眺めるような表情で見ていた。
     殺気は晴れていたが、その代わり身の丈の倍はある無骨な大鎌を手にしている。血錆びた曲刃には、怨念じみた漆黒のオーラがまとわりついていた。
    「彼の者たち、追うか」
     泰孝が囁く。
    「成れど、さすれば我等の攻勢凌ぐは困難よ。汝が宝……」
    「わかんない。おじちゃん嫌い」
     高校生らしからぬ容貌から『おじちゃん』呼ばわりされた泰孝。一呼吸置いて、
    「追いかけてはダメです。お兄さんたちはとても強いので、マリーベルさんを邪魔しますよ」
     心持ち『お兄さん』を強調し、わかりやすく言い直す。
    「追いかけないよ。すぐ死んじゃうからつまんないもん」
     とん、と赤い靴が後ろに軽く飛ぶ。
    「人の生き死には、ゲームなんかじゃない!」
     瑞樹の鬼神変が空を切って地面を抉り取る。くるり回した少女の大鎌が、異形化した腕を軽く弾いた。
    「ゲームだよ? まけたら死ぬの。つよーい方が生きのこるの!」
     ね? と首を傾げる。ダークネスが戦う理由は、単純明快だ。
    「私達をおびき寄せるためとはいえ、こんな外道な遊び、私は認めない!」
     符を指に挟んだ桃乃が叫んだ。心臓が痛いほど高鳴っている。身の内の闇は何度呼んでも応えない。
     音立てて飛翔する符は、少女のドレスの裾を刻む。
    「来てってお願いしてないもん。来たら遊ぼうって思ってたけど」
     地団駄を踏むように足踏みし、
    「ねえ、遊んでくれるの。くれないの、どっち?」
    「遊んでやるよ。お前の相手は俺達だ」
     シールドを展開した十六夜が、低く言う。
     少女はぬいぐるみを抱きしめ、花のように笑った。
     
     再び殺気が渦巻くのを肌で感じ、マリデンエールは二人の若い女性に叫ぶ。
    「死にたくなかったら乗って!」
     急いでこの場を離れなければ。次も助けられる保証はない。
    「待って。わたくしが」
     二人が更に身を縮めるのを見て、ベリザリオがまるで重さを感じさせない様子で抱きかかえ、問答無用に箒に乗せる。清めの風は二人を歩けるまでには回復させていた。
     前に乗った女性を落ちないよう支え、後ろの女性にはしっかり腰に手を回させ。
    「私たちは味方。これだけは信じて」
     安心させるように囁き、マリデンエールは飛行を試みる。
    「早く行け」
     男性二人を前に菊次は強い瞳を向けた。戦闘が始まっている。合流が遅くなればなるほど、戦況は悪くなる。
    「走れ!」
     一喝され、奇妙な声を上げ男性二人が転がるように走り出す。その後を箒が追う。
    「俺たちも行こう。奴の好きにはさせねえ」
    「ああ」
     柔らかな物腰を一変させ戦闘態勢に入ったベリザリオに菊次は頷くと、跳ぶような勢いで地を蹴った。

    ●急
    「汝ら児戯に付き合う道理無し!」
     数珠を鳴らした泰孝のガトリングが大量の弾丸を吐き出した。少女は器用にぬいぐるみを銃弾から守りながら、大鎌を振るいはじき返す。
     ガトリングの影から身を低くした虚が飛び出し、中段の構えからひと息に刀を振り下ろした。
    「何故、人質を取ったのです。大切なものを知っているのではないのですか」
    「こんにちはも言わなかった悪い子だもん」
     刀を大鎌の柄で防ぐ、少女は笑みを浮かべたままだ。一瞬の後脇腹に熱を感じて身を返せば、鎌の刃が深く抉っていた。
    「お兄ちゃんはいい子、いっぱい遊ぼうね」
    「馬鹿にしないで。動きは封じさせてもらうわ!」
     頭上から桃乃の符が五星の結界を張る。うっとうしそうに少女は数歩下がった。
    「お姉ちゃんたち、ほんとにお友だち?」
    「何……」
    「息が合ってないよ。それに」
     初めて見せる暗い瞳。幼い容貌に潜むダークネスの本性。
    「たった七人で、マリーベルを殺すつもり?」

     雑木林の中、切れ切れの道を走る青年二人の後を、マリデンエールの箒が追っていた。
    (「思っていたより、スピードが出ない」)
     高度は上げられそうだが、青年二人を置いて行くわけにもいかない。必死に走る二人の背を見失いそうになる。
     前後に女性を乗せた箒の能力は、一人で乗る時の四分の一にまで落ちている。
    「安全なところまで、私が守るからね」
     必死にしがみついてくる手に、手を重ねる。
     やがて林が切れると、整備された道路に行き当たった。青年二人は脇に停めてあった車のドアを開けようとしていた。

    「自分が殺されるなんて、微塵も疑ってないんでしょう」
     瑞樹のナイフの刃が光る。身を翻そうとする幼い体に深々と突き立て、憎しみを込めて肉を引き裂いた。瑞樹の腕から逃れると、苦痛の表情すら見せず少女は大鎌を広く振り回す。
    「死ぬよ」
     全身に細い糸が絡みついていることに、瑞樹は気付く。咄嗟に離れるも、結界に弾かれる痛みが襲ってきた。
    「マリーベルも死ぬよ、つよい人が来たらね」
    「ならば今、死ね」
     首筋を狙った菊次の斬撃は、巨大な刃に阻まれる。返す刃もまた糸に絡め取られ、転がるようにして身を離した。睨む瞳に病毒の如き殺意を宿す。気圧されなどするものかと。
     何度符を放っただろう、何度風を吹かせただろう。ベリザリオは嫌な予感を抑えきれない。かつて大切な弟を闇に堕とした六六六人衆の殺戮ゲーム、同様の場に自分は立つ。
    「誰一人……堕としはしねえ」
     縛霊手の指先に光を灯し、唇の中だけで決意を呟く。
     十六夜も前衛で回復に回っていた。盾を広げ、気を集めて放つ事を繰り返す。それでも追いつかない。腰の刃は抜く暇すら無く、大鎌は容赦なく仲間を、己を切り刻む。
    「俺達は誰一人として堕ちはしない……絶対にだ」
    「ねえクララ」
     ひらりとスカートをなびかせて、ぬいぐるみに語りかける少女。
    「つまらないね」
     地面に大鎌の柄を突き刺すと、虚空に無数の刃が現れた。解き放たれた殺気は嵐のように渦を巻き、刃と共に降りそそぐ。
     刃の嵐が去った後は、虚が地に伏していた。最初にマリーベルの興味を引いてしまっていたからか、序盤から少女の鎌は虚をよく狙っていた。泰孝はガトリングで体を支え、十六夜と菊次も自己回復に集中せざるを得ない状態だ。
     ベリザリオは必死に回復を飛ばす。桃乃はブラックフォームを開放、前衛のフォローに入る。
    「後悔させてやる!」
     瑞樹の放った風の刃はあっさりと大鎌で弾かれた。
     少女はなおも笑う。
    「こっちにおいでよ。楽しいよ」
     堕ちろ、と。あどけない顔をした闇が誘う。
     表情を変えたのは、ほんの一瞬。頭上から降ってきた魔力の矢が、小さな体を何本も貫いた時だった。
    「何があったの」
     助けた一般人たちが車で離れるのを確認し、箒で一気に高度を上げ建物を越え、最短距離を戻ってきたマリデンエールが飛び降りた。
    「見ての通りさ」
    「そんな……」
     ベリザリオの言葉に顔色を失う。自分が一般人たちとここから離れて戻るまで、どれほどの時間が経ったのだろうと思い返す。
    「これが、五百番台……」
    「クララは痛いところない?」
     ぬいぐるみの無事を確認すると、少女は唄うように
    「みんなでマリーベルと踊ろ?」
     大鎌を手に地を蹴った。

    ●闇
     ここまで戦列を保つことができたのは、持久戦を想定しての準備が功を奏していたからだった。
     しかし八人でも撃破できない敵が相手であっても、持久戦を選んだ灼滅者たちに、戦場から撤退するという意思はなかった。
     少女が尽きることない殺気を振りまけば十六夜が、大きく鎌を振るえば菊次が力尽き倒れる。
    「まだ、遊びは終わってないわ。そうでしょう?」
     胸元にスートを浮かばせた桃乃も膝を付いている。
     少女は灼滅者達を見渡した。
    「じゃあ、これでおしまいにするね」
     軽い足取りで、少女は倒れたままの虚の髪を掴んで持ち上げた。大鎌の刃を首筋に当てる。虚は苦しげに刃を押しやるが、抗う力は残っていない。
    「このお兄ちゃん、マリーベルにちょうだい」
     新しい玩具を前にした子供のように、邪悪な少女は無邪気に笑う。虚の首筋に赤い線が入った、その時。
     じゃら、じゃらり。
     数珠を摺り合わす音が微かに響いた。続いて、珠が地面にぱらぱらとこぼれ落ち転がる音。漆黒のオーラをまとった泰孝が、ゆらり立ち上がっていた。手にしていた数珠が、ちぎれて地面に転がっていた。
    「止む無し、か」
     薄ら笑うその頭には、鋭利な黒曜石の角。
     少女は瞳をきらめかせ、掴み上げた虚を無造作に放り投げた。
    「鬼ごっこ、おじちゃんが鬼!」
    「お兄ちゃんって呼べ、最後まで付き合ってやるからよぉ!」
     泰孝は利き腕を異形化させると、少女の頭上高く振り上げる。少女はぬいぐるみを抱きしめ、強く地面を蹴った。異形の爪は深く地面を抉り爆ぜる。
     小さい体は瞬く間に廃墟を登り、最上階の鉄骨に立つ。追う泰孝は、一度だけ仲間を振り向いた。
    「どうして……」
     呆然と桃乃が呟く。誰も言葉を継ぐことができない。
     泰孝が笑った気がした。
    「仕方ない。学園によろしく言っといてくれ」
     そうして、一人の羅刹となった泰孝は闇に消えた。
     
     血に染まった虚にベリザリオが近づく。宙を仰いだ桃乃をマリデンエールが支えに行く。
     か細くすすり泣く菊次の声が聞こえ、十六夜は無言で仰向き空を見上げた。
     見上げる空は赤く、血の色を映しているようだった。

    作者:高遠しゅん 重傷:泉二・虚(月待燈・d00052) 
    死亡:なし
    闇堕ち:卜部・泰孝(大正浪漫・d03626) 
    種類:
    公開:2013年5月25日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 10/感動した 0/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 3
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