紅に咲く

    作者:佐伯都

     喉が渇いて、渇いて、泣きそうだ。
    「やだぁ……もうやだよぉお……」
     どれだけ水を飲んだところで癒されない。叩きおろすような渇望に頭がくらくらする。水じゃない、水じゃない、水なんてそんな苦くてまずいもの飲みたいわけじゃない!
     そう命のリズムにあわせて波打つあの暖かくて、とろけそうに甘くて、燃えるように赤くて。
    「やだ……やだやだ、もうやだぁ! もうやだこんなの!」
     たすけて。誰か助けて。浴びるほどに人の生き血をすすりたくてもう気が狂いそう。
     半狂乱になりかけながら駆け込んだ先は、もう営業している店舗を探すのも難しいような、斜陽に染まるうらさびれたシャッター街。何がなんだかわからないが、とにかく、とにかく冷静にならなければ。
     肩で息をしながら、ふとひび割れたショウウィンドウをのぞきこんだ彼女が見たのは赤い瞳。濡れた唇のすきまからは尖り伸びた犬歯が見えた。
    ●紅に咲く
    「みなさんに救い出していただきたい、闇堕ちしかけの高校生がいます」
     園川・槙奈(高校生エクスブレイン・dn0053)はそんな言葉で切り出した。
    「名前は水城・綾(みずき・あや)、三歳年上の兄の闇堕ちにひきずられる形でヴァンパイアへ堕ちかけていますが、まだ人間としての意識を残しています」
     兄は完全に覚醒しているため救うことはできないが、綾にはまだこちら側へ戻ってこられる可能性がある。
     しかしこのまま放置すれば遠からず闇堕ちは完成するだろう。
     激しく混乱しつつも、人を傷つけてはいけない、という一念で寂れたシャッター街へ逃げ込み必死に吸血衝動に抵抗している。
    「状況が飲み込めないままダンピールのサイキックと酷似した能力を駆使して襲ってくるでしょうが、さいわい言葉が届かないほどではありません」
     ゆえに何らかの説得を行い、闇への抵抗を後押しできれば彼女はきっと灼滅者として生きられるはずだ。しかしその心が折れてしまったなら、ヴァンパイアへ堕ちた彼女を灼滅するしかない。
    「……近所でも評判の、とても仲の良い、兄妹だったようです」
     痛みを堪える表情で、槙奈はひとつ溜息をついた。
    「ですが兄は心の奥底に、家族という単語を越えた感情を抱いていたようです。綾さんは己に起こった変化はもちろん、その感情がどんなものだったのか、そこに最もショックを受けています」
     大好きだった兄の真実と、ヒトの心を捨ててまでも道連れにと望まれた事実。
     決して受け入れることなどできない事実と、いつだって誰よりも親身になってくれた思い出が、綾の中で激しく衝突しているのだろう。
    「まだ闇堕ちが完成していないとは言っても、ヴァンパイアは非常に強力なダークネスです。決して油断のないよう、お願いします」
     灼滅か救出か。
     その分かれ道は誰にも見えていない。今は、まだ。


    参加者
    姫城・しずく(アニマルキングダム・d00121)
    皇・ゆい(血の伯爵夫人・d00532)
    宗谷・綸太郎(深海の焔・d00550)
    日野森・翠(緩瀬の守り巫女・d03366)
    柩城・刀弥(高校生ダンピール・d04025)
    シュネー・リッチモンド(にゃんぴーる・d11234)
    浅見・藤恵(薄暮の藤浪・d11308)
    北小路・綾子(二藍の音色・d16017)

    ■リプレイ

    ●かたわれ去りても
     どこかから、錆びついた扉かなにかが風に吹かれ、揺られてきしむ音がする。
     救出対象である水城・綾を刺激しないため柩城・刀弥(高校生ダンピール・d04025)は殲術道具を開放せずにいた。 徒手空拳のまま刀弥は斜めにさしこむ強い夕日に目を細める。
     エクスブレインの情報通り、シャッター街にはまるで人の気配がない。かつて多くの人が行き交っていただろうメイ ンストリートらしき通りを歩きながら、姫城・しずく(アニマルキングダム・d00121)は周囲を見回してみた。乾いた風が細かな砂を巻き上げる。
    「……静かだね」
     宗谷・綸太郎(深海の焔・d00550)の言葉にたがわず、本当に、誰もいない。どこかでひとり、突然突きつけられた真実と現実に泣きながら困惑しているはずの誰かを除けば。
     綾の通った痕跡を北小路・綾子(二藍の音色・d16017)が探すまでもなく、すぐ近くの脇道を入ったあたりから突然何かが倒れるような物音がした。
     はっと顔を上げた日野森・翠(緩瀬の守り巫女・d03366)に続いて、浅見・藤恵(薄暮の藤浪・d11308)が走り出す 。その間にも、すすり泣きの混じった細い声が聞こえた。いつでも引き抜けるよう袖口へ隠したカードの感触を確かめながら、皇・ゆい(血の伯爵夫人・d00532)は曲がり角の先へと走り込む。
     放り出された鞄の中身が、割れ砕けたショウウィンドウのそばにぶちまけられていた。いくつかの教科書、カラフルなポーチやルーズリーフにペンケース……。
     アーケードの庇はすっかり破れていて、雲一つない真っ赤な夕焼け空の真下にセーラー服の背中が見える。
    「……だれ……」
     不自然にがくがく震える自らの体をきつく抱きしめうずくまる、その細い肩越し。
    「だれ!? ……来ないで!」
     声をかけようとしたシュネー・リッチモンド(にゃんぴーる・d11234)の機先を制するかように、彼女は思いのほか強い声をあげた。
     真紅の瞳。わななく口元には牙が見える。
    「来ないで! 私に、近寄らないで!」
     ある日突然、災厄のように降りかかってきたこの世の真実。それを知る、すべての引き金となったそれぞれの過去を呑みこみ、綸太郎たちは慎重に言葉を重ねた。
    「大丈夫だよ、水城。落ち着いて」
     どれだけシャッター街をさまよったのだろう、綾の制服は赤錆や砂で汚れている。ひどく擦りむけて血が流れている膝を悲しくながめ、綾子はゆっくりと言った。
    「水城さんは……あなたは以前のわたし……今度はわたしが救ってみせます」
    「……」
    「すぐに信じられる話ではないかもしれないけれど、どうか信じて」
    「私も最初は受け入れ難かったのですが……私もあなたと同じ力を持っています。ダンピール、と呼ばれています」
     綾子の後を継いだ藤恵の言葉で綾が瞠目する。
    「何で……何でそんなことわかるの。あなた方は、いったい」

    ●この身裂けても
    「俺たちは皆、武蔵坂学園という学校に所属しているんだけど」
     混乱し、動揺しながらもなんとか綾はこちらの話を聞く気になったらしい。最初のハードルは無事越えた、ということだ。内心ほっと胸をなでおろしつつ、綸太郎は仲間たちを見やる。
    「そこの生徒は全員、俺たちのように、君のように、ダンピールやファイアブラッド、シャドウハンターといった何らかの能力を持っている。力に目覚めたきっかけや経緯は皆それぞれ、だけどね」
     人の魂の底で眠る、もうひとつの邪なる人格『ダークネス』。その宿主の精神が大きく揺らぎ闇へ墜ちるなら、ヒトの人格を破壊して肉体を奪い取る。精神が枯れない限り老いることすらない。
     そして欲望と渇望のままに力を……サイキックを振るい、無差別に大量の人間を苦しめ続けている。
    「しかし闇墜ちの危機に抵抗し、自我を保ったままサイキックを制御することに成功した者は」
     単語の苛烈さとは逆の、吐息をこぼすような柔らかな声音で藤恵は続けた。
     ――灼滅者。
    「武蔵坂学園に属する、私たち力ある者は、そのように呼ばれています」
    「……灼滅者……」
     震える指先を肩に置いたまま綾は呆然と呟いた。そして愕然として何かを悟り、その思いつきを否定するように激しく首を振る。
    「だって、それが、本当なら。私は、……ちがう、そんなの嫌!!」
    「水城!?」
     くしゃくしゃにもつれた髪を振り、綾は大粒の涙をこぼす。
     そして残念ながらしずくは綾の表情がどう呼ばれるのかを知っていた。
    「そんなの違う! だって、兄さんは」
    「落ち着いて。ねえ、いま君とても辛いでしょ? 僕は、……僕達がその状態から戻してあげる」
     彼女が何に絶望したのかはわからない。でも。
    「もうやだ! たすけて……もういやぁ……!!」
     綾自身、自分が何を言っているのか理解していないのだろう。うわごとのような、どこか悲鳴のような。
    「水城が兄を選ぶとしても、俺には止められない」
     自らの目的も他人から認められるようなものではないことくらい、理解している。ただその選択は本人の意志でされるべきであって、たとえ最愛の存在であっても他人が勝手に決めてよいはずがない。
     だから自分で、己の行く道を、選ぶために。今このときだけは。
    「闇を討つ刃を我に」
     耳を聾するチェーンソー剣の起動音。それが合図。
     じっと長いこと綾の様子を注視していたゆいの指先へ、スレイヤーカードが閃く。瞬時に解放された鋼糸が、大きく歩を踏み出した動きに乗せてたなびいた。
     もはや単語ですらない凄まじい金切り声をあげ、真紅の瞳がぎらりと灼滅者達をひと薙ぎにする。目の色そのままの逆十字が、しずくを守るために割り込んできたゆいへ襲いかかった。

    ●紅に咲く
    「ジン、皆を守って!」
    「ブリッツェン!!」
     説得のため前へ出ていた翠や綾子達と入れ替わりに、サーヴァントが前へ出る。
    「お兄さんのこと、想像でしかないけれど、君は一緒に行っちゃいけない!」
    「水城さんはまだ、戻ることができるんです!」
     しずくと綾子の声を背に、綸太郎による渾身のレーヴァテインを浴びた綾がたたらを踏んだ。
    「闇堕ちなんて、させない」
    「ガ、……アあァアッ!」
    「受け入れなくても良いんだ!」
     そうだ、その必要はない。それを悩む必要などない。
     いつからすり換わっていたのか、なんて本人にしかわからないことだ。
    「でも目を背けちゃいけない、水城を大切に思う気持ちは本物だったからこそ、誰よりもそばで君を守ってきたんだと、俺は思う」
    「う、ウうぅ、ァ」
     炎に焼かれ顔を歪めながら、綾が胸を押さえた。説得はほかのメンバーに任せるつもりなのだろう、ゆいはひたすらに綾をサイキックで攻めたてる。
    「わたしも、お兄さんが綾さんを大切に思う気持ちは本物と思います」
    「わからな、イ、……もう考え、たクナイ」
    「お兄さんのことが好きならーー」
     その先は、まだ翠には言えない。灼滅の言葉はまだ言えない。しかしせめてこちら側に引き寄せるための思いを、剣印に乗せて神薙刃を振るう。
    「吸いたいけど吸いたくないんでしょ? けれどここまで逃げて、吸いたくない、その欲望に抗って」
     うわごとのような悲鳴と、途切れ途切れの言の葉。自分はそこから闇に堕ちたが彼女は違う。まだ救える。だったら。
    「あたし達と学園に行こう?」
     しゃにむに突き出された傷だらけの拳。がつり、と鈍い衝撃がシュネーの腕にも伝わる。
    「何が起きてるかわかんない時は」
     真正面から視線が合う。同じ紅の瞳。
    「あ……」
    「自分が置いてかれたって泣いてるよりかは、涙流しながらでも動いたほうが、ずっとずーっといいんだって事!」
     瞬間、綾が後方へ飛びすさった。その死角から追い打ちをかけるように刀弥の紅蓮撃が襲いかかり、生命力を奪われなすすべもなく綾は膝をつく。
     さらにゆいの斬影刃と藤恵のフォースブレイクで、両手が地面に着いた。
    「あなたを向こう側に堕としてしまいたくないんです」
     血を吐くような思いで藤恵は唇を噛む。だから必ず連れて帰る。
     ゆら、と熱にうかされたような顔で綾が頭を上げた。肩で息をするその視線の先には、長い黒髪のダンピール。たとえどこかの誰かに恨まれても、人を救いたいと思うし救えると信じている。ゆるぎなく。
    「……『仲間は全員、生きて帰す』」
     そう、それが言葉であるか力であるか、ただそれだけの違い。
    「私も、そうしたい」
     色合いのよく似た視線が絡むその刹那、ゆいは迷いなく右手を振りおろした。
     どこか永遠にも似た一瞬のあと、意識を失って前へ倒れこんだ綾を藤恵が抱きとめる。もつれた髪を顔の上からどかしてやると、うすく開いた唇の間にもう牙は見えなかった。おそらくは閉ざされた瞼の下も、彼女本来の色を取り戻し ているはず。
    「……まずは私たちにできることから……、ですね」 
     傷ついた手を取り、藤恵は喉元まで駆けあがってきた熱い感触を押し殺した。

    ●こころのはな
     日なたを避けて運び込んだ、どこかの商店の軒先で綾はほどなく意識を取り戻した。ひどく汚れ、所々に鉤裂きまで作ってしまった制服が痛々しい。
    「色々と辛かったね。でも無事でよかった。大丈夫? 立てる?」
    「なんとか……」
     ふらつきながらも自分の脚でしっかりと立ちあがった綾は、痛みを堪える目で大きく息をつく。
    「どこか痛い?」
    「いえ。そうじゃなくて……」
     気遣わしげなしずくをふと見上げ、そして綾は顔を背けた。
    「ごめんなさい。こんなこと、言えた立場でないことはわかっています、でも」
     砂で汚れた頬を涙が伝う。
    「今からでも兄を救って、……いえ、兄はもう……」
    「……」
     説得の最中に綾が見せた表情を思い出し、翠は心臓が握りつぶされるような思いにかられた。
     一瞬だけ見せた、あの絶望の表情。
     いったいどんな状況で闇堕ちがなされ、いかに綾がここへたどり着いたかなどわからないが、完全な闇堕ちがどういうものかを彼女はどこか本能にも似た勘で理解したのかもしれない。
     救いにきた、ということは、救えないこともあるのだ、という意味なのだから。
    「ごめんなさい。お兄さんは……完全に闇に堕ちてしまわれて、助けることは……」
    「……思い出までも、否定してしまわないで。水城」
     最終的に彼が望んだ形は間違っている、間違っていたけれど、でも。
    「起こってしまったものはもう二度とやり直せない。水城とお兄さんの関係も、どうしたって戻らないんだ」
     そこから目を背けてはいけない。闇落ちの瞬間、兄妹の道は分かたれたのだ。ヴァンパイアとして覚醒したはずの兄、そして今はもうダンピールの道を選んでしまった妹、そこに相入れるものは何もないことを綸太郎は知っている。
    「でも、水城自身の思い出だって、大切な事実だよ」
    「……」
    「一緒に帰ろう」
     ……ならば前へ進もう、と。
     よく似た痛みを、思いを、涙を知る者がここにはいる。傷だらけになりながら、泣きながら、絶望しながらそれでも皆選んだのだ、その道を。灼滅者として生きる未来を望んだ。
     どちらか一つ選べと問われ、そして進んだ先。
    「……」
     そこには何が見えるだろう。倒さねばならぬ仇か、それとも命に代えても守りたい、救いたい誰かのため? 約束を守るため? それとも。あるいは。
    「心配はいりませんよ」
     綾子に柔らかく微笑まれ、ようやく彼女はぎごちない笑みを浮かべる。今はまだ、それで良い。
     ふと夕日も沈みきる間際の空を仰いだ刀弥の目に、気の早い一番星が見えた。今夜はきっと、良い星空を見られるだろう。そんな気がした。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年6月12日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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