リライト

    作者:日暮ひかり

    ●???――所謂、ありがちな話
     人生をやり直したい。
     そう思ったことはないだろうか。
     
     仕事で失敗した。友達と喧嘩をした。
     家族が病気になった、恋人と別れた、大切なものを失くしてしまった、もう何をやってもうまくいかない、思考が泥沼に落ちていく。
     きっかけは、ほんの些細なことに過ぎないかもしれない。
     見えていたはずの道をことごとく踏み外してきたと気付いたとき。
     まったく全てがくだらないと思えてきた、そんなとき。
     人生をやり直したい。
     誰かが、そう思ったときだ。
     日常に転がるあらゆる絶望のすきまから、『やあ』とでも言うように、奴が顔を出す。
     
     そいつは、突然現れる。
     家の寝室に、会社の物置に、街の空き地に、教室の片隅に、森の奥深くに、白い砂浜に。
     君には危険な起爆スイッチに見えるかもしれない。
     或いは、無害なバスのブザーにでも見えるかもしれない。
     ――リセットボタンだ。
     それはそういう名札をつけているわけでもなければ、喋って自己紹介をしてくれることもない。
     しかし何故だろう、君は考える。
     馬鹿げたこととは知りながら、思い、願うだろう。
     このスイッチを押せば不毛で退屈な今を滅し、己に都合の良い人生を新しく築き上げることができる、と。
     
     リセットボタン。
     そうだ。君がそれを押してしまえば、望み通り一瞬ですべてが終わる。
     幸せだろう?
     なにも戻りも、始まりもしなかったとまた絶望する前に、そのくだらない人生ごとおまえを消してやろう。
     
    ●warning
    「――、お聞きの通りまあつまらん話だ。だが、こいつが都市伝説として実際に具現化したとなると……どうだろうな」
     鷹神・豊(高校生エクスブレイン・dn0052)は、幼さの残る顔に特徴的なすれた笑みを浮かべ、教室の窓の外を見る。六月。天気予報では晴れだったというのに、空は今にも雨が降り出しそうな曇天だった。
    「いいか。己の生きざまを誇れぬ者たちの哀れな願望が、都市伝説『リセットボタン』を生みだした。こいつは浅かれ深かれ『人生をやり直したい』と願う者の前に出現し、その命を奪う」
     今回、とある寂れた商店街の一角にこのリセットボタンが出現するのを予知したと、鷹神は眉を歪める。
     リセットボタンなどとは名ばかりで、実際には押すと大爆発が起こるのみ。巻き込まれれば、死は免れない。
     つまり、押さなければ特に問題はないのだが、見れば不思議と押したい衝動にかられるのだという。
    「その心理作用はESPのようなもの。君達灼滅者には効くまいが、どちらにしろ、ボタンは押して貰わねばならん」
     この都市伝説が出てきたということは、出現させた一般人が現場付近に現れるということだ。
     ただ追い返してしまっては、また別の場所にリセットボタンが現れるだけ。追い返す前に先回りしてボタンを押し、破壊せねばならない。
     幸いにも、出現場所や時刻は正確にわかっているようだった。
    「安心しろ。君達なら、爆発の直撃を受けても死ぬことはない。……とてつもなく痛いとは、思うが、君達は絶対に死なない」
     エクスブレインは無表情に言う。
     強気な彼の願望や虚勢ではなく、ただの事実として述べている。
     つまりは、そういうことだった。
    「更にな、この鬱陶しいボタン、それのみで終わりではないのだ。爆発で死にきれぬ不可解な人間と見れば、変身を解き本性を現すだろう」
     その本性、とはなにか。
     問われたエクスブレインは再び眉を歪め――『得体の知れない禍々しい何か』、と答えた。
    「……しいて形容するとすれば、『影』だ。とにかく、俺の語彙では表現しきれん気味の悪い何かだと言っておく」
     ただの都市伝説風情、極端ではないだろうがそこそこの敵だとはいう。
     けして油断してはならないだろう。
     
    「説明はこのあたりでいいだろ。……で、ついでだし聞く。君達、人生をやり直したい、と思ったことはあるのか」
     例えば俺にいきなり爆発して来いと言われて、死ぬほど痛い思いを強いられる毎日。
     疑問はないのか、と問う彼は無表情で、冗談か本気かよくわからなかった。
    「……。まぁ、君達の中にも様々な苦労をしてきた者がいるだろう。どう思おうが俺は知らない。だが、俺の話を聞いたからには退却の二字はなしだ」
     常のように勝気な笑みを浮かべなおすと、エクスブレインは教室の窓を開ける。
     ざあざあと耳をかすめる微かな音。傘を持ってくるのを忘れたと言い、彼は小さく舌打ちをする。
     校舎には、雨のにおいが漂い始めていた。


    参加者
    日渡・千歳(踏青・d00057)
    蛙石・徹太(キベルネテス・d02052)
    櫛名田・まゆみ(八咬・d03362)
    久織・想司(妄刃領域・d03466)
    流鏑馬・アオト(蒼穹の解放者・d04348)
    時諏佐・華凜(星追いの若草・d04617)
    村山・一途(硝子色の明日・d04649)
    関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)

    ■リプレイ

    ●1
     足元には水が溜まり、霧のような雨粒が音もなく頬を濡らしていく。薄灰色に霞んだ商店街は人気も僅かで、風が吹けば消える幻のよう。
     人の苦難の一端とは、きっとそんなもの。ただ、時折このように育ち、滞ってしまう。空を映さぬ泥水だまりに目を落とし、日渡・千歳(踏青・d00057)は紫陽花の双眸を伏しがちにした。
    「降ってるな……」
     蛙石・徹太(キベルネテス・d02052)の遥か頭上を覆う雨雲も、煮え切らぬ澱んだ灰色をしている。俺はこの位なら濡れても平気だと関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)が返せば、徹太は一息間をおいて呟いた。
    「雨は嫌いだ」
     心なしか早足で歩く彼は、今は前にも脇にも人を置きたくないように見えた。その徹太の足がぴたりと止まる。彼の示した先に、久織・想司(妄刃領域・d03466)がぼんやりと視線を向けた。
     惹き寄せられるように『それ』に歩み寄っていく想司を、仲間達は言葉無く見守る。
     姿を変じさせる奇妙な都市伝説は、今は非常ベルとなり電柱に貼りついていた。
    「ボタンが有れば押してみたくなる人間の心理を利用するとは……」
    「ええ。好奇心は猫をも殺す、と言うけれど」
     峻と千歳が小さく息をつく。そう信じられるものではない筈だ。
     全てを無かった事にし、何もかもを良いように塗り替えるリセットボタン。
    「いかにもご都合主義で……詮無い噂だわ」
     本当に、せつないくらいに――続く千歳の細い声は、濡れた空気に散った。
    「考えなかったといえば、嘘になりますがね」
    「残念ですが、やり直せる過去なんてありません。取り返しのつくことなんて、何もないんです」
     一言零す想司へ、村山・一途(硝子色の明日・d04649)が後ろから答えを返す。そのまま視界を妨げる外套のフードを外し、音を遮断する結界を巡らせた。
    「忘れたって殺したって死んだって。……だから、そんな仮定に意味なんてありませんよ」
     跳ね除けるようでいて、どこか含みのあるその声。一途の言葉に頷き、想司は皆の方を振り向く。
    「準備はいいですか」
     頷かない者は居ない。
    「アイ。こういう役回りを任せっぱなしにするのは性分が許さないんでな」
    「俺はMなので多少は大丈夫です!」
     冗談めかして笑う流鏑馬・アオト(蒼穹の解放者・d04348)を一瞥し、徹太は帽子を深く被る。
     ボタンを押す想司と共に爆風を受ける。全員で、だ。
     慎重策でもあったが、それ以上に痛みを分かち合いたい想いがあった。
    「お背中、支えさせてください、ね」
     時諏佐・華凜(星追いの若草・d04617)が優しく頬を緩ませる。恐怖が無いと言えば嘘になるが、彼女の後ろで腕捲りをしている櫛名田・まゆみ(八咬・d03362)を始め、仲間達の存在を想うと不思議と不安は和らいだ。
     仲間達に小さく会釈をし、想司はボタンを向き直る。
     濡れたボタンに指先が触れた。強く押す、と書かれている。
     一瞬、生じた間は躊躇いではなく、叶わぬ憧憬が生んだ恍惚。
     すべて、何もなかったことに。
     所詮は、夢。
     それでも。

     この殺人妄想が常に頭蓋を反響することなく、ふつうの学生として何も考えず想わず。
     人並みの幸福の中を生きる人生があったのだとしたら。
     どこにでも居そうな少年の細い背で渦巻く業は、どす黒く、罪深い。
    (「それでも。今までがあって、今があるから」)
     どこか頼りなげな笑みを浮かべると、妄想殺人鬼は一息に強くボタンを押した。

     ――――。

     鼓膜が震えた。世界を砕くような白の閃光が走る。
     刹那に顧みたのは、誰かの黒髪。面影はやがて炎に包まれ、消えた。

    ●2
     四肢を裂く程の衝撃と、細胞の一欠けも残さず炭に変える熱。それらがもたらす強烈な痛みと共に、灼滅者達の身体は後方に吹き飛んだ。
    「…………っ」
     視界を妨げる閃光と黒煙の中、華凜の胸に何かが飛び込んでくる。打撃でえづきそうになるも、それが誰であるかを知っているから耐えた。自分を更に受け止めるだろう、頼もしい腕の存在も。
     想司、そして彼を抱えた華凜のクッションとなったまゆみは地を跳ね転がり、何度も身体を打った。
    「……ッハ! こりゃあリセットどころかシャットダウンじゃねえか」
     痛い。けれど、身体に残るのは微かな火傷のみ。オレ達も化けもんじみてきたモンだ――そう、思う。
     飛ばされながらもどうにか受身を取り、徹太が、千歳が立ち上がる。
    「……これしきのこと。ただの前座よ」
     ねえ、と落とされた呟きに、想司は頷いた。
    「ああ。これで目が覚めました」
     さあ、はじめましょうか――未だ痛みと熱が残る掌を、想司は静かに握りしめた。
    「……リア充じゃ無いのに爆発してしまった……」
    「オイ嫌な遺言聞かせんな。立てるな?」
    「ああ……」
     頭の帽子をより深く被ると、徹太は近くに倒れていた峻を引っ張り上げる。リアクション芸人気分を味わいながらも、不穏な気配が濃度を増しているのを峻も感じた。即座に人避けの殺界を巡らせ、襲撃に備える。
    (「死ぬ程痛いっていうなら、それは死ぬ気で頑張れという身体からの警告なんだ……この痛みからも痛みを与える存在からも逃げたりなんかしない……!」)
     痛みは傷の位置を教えてくれる。その言葉を思い起こしながら、アオトは痛みに耐え歯を食いしばった。
    「皆、下!」
     気付いた。足元に、奈落のような底無しの黒が広がっている。駆けつけた相棒スレイプニルに飛び乗ると、アオトは後方へ疾走した。追いつかれたら吞まれそうだ。仲間達も痛む体を押して走り、適当な位置につく。
     やがて影は形を成す。ある者には顔に見えるそれは、別の視点では動物にも、剣にも見えた。騙し絵――それに近い、何か。蟲のように蠢く影にぷつぷつと無数の眼が浮かんでいく。そのおぞましい変貌を眺めながら、一途はスレイヤーカードを取り出す。
     過去が消えるわけでも、やり直せるわけでも、死ぬわけでもない。
     まして普通の痛みでは手放す事の叶わぬ身体。けれど、だから。
    「『格好つけて生きて、潔く死にましょう』。」
     数え切れぬ程の眼が、その生き様を愚かだと嗤う。それでも、擦り傷の残る手で彼らは武器を握った。

     ブラックライトのように暗い光が辺りを包んだ。前衛を飲み込む闇の光を切り裂かんとばかりに、徹太のライフルから狙いすました炎の弾丸が放たれた。
     前線の峻は燃える敵影を見る。これは、人の逃避願望の塊だろうか。
     仮にそうなら安易だ、と思う。過ちや理不尽を忘却しても、自分が自分である限りまた同じ事を繰り返すだろうに。今望むような道にはけして進まない。乗り越えてきた過去が白紙に戻った場所に、今の自分は居ないのだから。
     良しも悪しきも受け止め、繋いできた道の先へ行く。今だけを見ればいつもの峻でいられた。この影が灼滅する対象である、解る答えはそれのみでいい。
     影を焦がす炎を目印に、峻は杖での追撃を見舞った。返礼の大爆発が走った直後、催眠がもたらす頭痛で視界が揺らぐ。
    「……く……っ、トラウマじゃないだけマシか……」
     ふと某事件が頭をよぎり、心の傷が疼いた。あれだけは可能なら忘れたい気もする。
     前中衛が中心となって何かに攻撃を叩きこむ。同時に広がる雨とは異質の霧が峻達を包み、疲弊を癒す。続いてスレイプニルに回復を命じ、アオトは影を見て言った。
    「人生をやり直したいと思った事、ある?」
    「どうだったろうな。覚えてない」
     隣の徹太はそれのみを返し、微かに視線を落とした。
     眼鏡の外で世界がけぶる。質量の無い霧雨が肌を濡らす度、罪悪感が重く重く心に降り積もっていく。奇妙な黒い泡がこぽこぽ浮かび、身体にまとわりついていた。
     敵の攻撃。いや。これはきっと、ずっと頭の隅に浮いていた灰汁だ。除こうとも、見ようともしてこなかったもの。
     皆に顔を見られてはいけない。きっと、無力さに苛まれひどく惨めな顔をしている。
     アオトは彼の答えを黙って聴き、一つこぼした。
    「俺は……そりゃ勿論あるよ」
     そして、笑って首を振る。
    「でも本気で全てをなかった事にしたいなんて思わない」
     強い姉の背を一途に追い続け、護られるのみの存在からの脱却を願い、気付けばここまで駆けて来た。今の彼は前線に立つ皆を後方から支え、護る者。その自覚が彼をまた強くする。この痛みを乗り越えれば、また一歩姉さんへ近づく。受けた傷さえも味方にして立ち上がる――それはきっと、そういう事だ。
    「今まで積み重ねた経験、出会った人々……リセットさせたくないものだって、俺にはいっぱいあるんだ!」
    「蹴躓きながらもそれに真摯に向き合った記憶があるからこそ、困難を越えて行けるんじゃないか」
     ナイフを構え、峻も言った。紅の刃に未だ重ね見るものはあるけれど。
    「あがこう。何度でもな」
     帽子の鍔が作る影の下から敵を見やり、徹太は再度照準を合わせる。胸に沈む痛みは消えない、が。
    「だな。とっとと済ませて帰って寝るぞ」
     口元に浮かぶのは微かな笑み。そうだ。今はこうして、勝ち取ってきたものもある――だからやはり、やり直しは無しでいい。

    ●3
    「人生と言う名の物語。ボタン一つで終えてしまう、なんて……悲しい、から。都市伝説と言う名の、物語の中に、返って下さい、ね」
     華凜の繰り出す蒼硝子の三叉槍が、荒波のようにうねり雨粒をかき分ける。華凜が退く傍ら、まゆみは刀を握り影に斬りかかった。刹那、割り込んだスレイプニルのボディに刃が食い込んだ。ぎょっとして前を見ると、その向こうに想司が居る事に気づく。
    「やられたか……すまねぇ」
     状態異常への耐性を高め、トラウマには特に注意していたものの、初めに喰らった催眠がしつこく残っている。『苦しいことがあるのが当たり前』と、仏の教えは常に頭に置いているまゆみだ。殺人衝動を知る前に戻れたら――その一抹の煩悩に足を掬われたわけでもないだろう。だが、『何か』は気のせいか獣の形をしているように思えた。
    「カードドロー、聖なる盾を発動」
     トレカ仕立ての護符の山札をさっと切ると、一途は一枚のカードを引きまゆみへ飛ばした。カードに宿る霊力がまゆみを強く護るのを確認し、一途は得体の知れぬ敵へ目を向けた。
    「どんな些細な事でもやり直しは出来ない。それは、都市伝説として生まれたあなたが、結局は消し飛ばすことしか出来ないのを見ても、わかります」
     何かの返答はない。ただ、急にぐおんと大きく縦に伸び、目の前に居た想司を一瞬のうちに頭から押し潰した。ごきり、嫌な音。
     足元の泥水に滲む血の量に、千歳は目の覚める感覚を覚えた。
     血の色はやがて泥に吞まれ、消えた。苦難は次々に人を飲み込んでいく。今日の日を晴れにやり直せるとしたら――それでも、無かったことにはしたくない。
    「過ごした日々を享けた自分すべてと引き換えて幸せが約束されているだなんて、虫の良い話じゃなくて?」
     そう言い、影に吞まれた想司へ癒しの符を飛ばす。
    「……お生憎様。安くはないの」
     囁く声は静かなれど、その強き意思は曲がらない。惑いの霧を突き抜け、救いの一矢となる。
     清涼な風が気怠い雨の気配を祓い、影を散らす。倒れた想司は、少し笑っていた。与えられた痛みを噛みしめ、楽しむが如くに。願うのはもっと鮮烈な上塗り。過去さえ塗り潰せるイマを。ゆらりと立ち上がり、百裂の刃と化した殺意を何かにぶつける。
    「チャンスだ! 突撃しろ、スレイプニルッ」
     続けざま破壊力を増したスレイプニルの突撃が浴びせられ、峻の紅いナイフが惑いなき三日月の弧を描いて敵を抉った。何かの力では重ねた強化を砕く事が出来ない。戦況は段々と灼滅者側に傾いている。
     得体の知れない何かは再生を始める。雨を浴び、徹太の与えた炎の中で今までとは違うかたちに生まれ変わろうとするそれは、どこか幻想的にも見える。
     これもまた一つの物語だから、だろうか。それとも――胸中を支配する甘い共感が小さな痛みを生み、華凜は翠の双眸を微かに曇らせた。
    「辛い事、悲しい事。積み重なったらやり直したい、って。そう思う気持ちは、解ります」
    「まぁ、な。だが生きてりゃ思うようにならねえことなんて幾らでもあるんだ、一々やり直してちゃキリねえだろ。リセットした人生がいままでと同じとも限らねえし、上手くいく保証もねえ」
     書き換えを終えようとする何かに向け、まゆみは走りだした。
    「やっと此処までたどり着いたってのにまたやり直しだなんてオレは御免だぜ。だったら、突き進むしかねえだろう?」
     言葉通り一直線に死角へと飛び込み、敵を切り裂く。己の言葉が真実であると示すように、その一太刀は再び影に深い傷を刻んだ。彼の背を見て、華凜は想いを確かにする。
     ボタンを押せば、消えるのは悲しみや辛さだけではない。それ以外も全部、ということだ。
     痛みも苦しみも、全て私だけの物語。そのページを途中で破り捨てる――そんなのは、嫌だから。
     何かの再生力は既に灼滅者達の破壊力を下回っている。一行が休まず攻撃を続けても、何かは焦るでもなく泥濘のように不気味に蠢きながら、奇妙な攻撃を繰り返すのみだ。
     今なら見える。騙し絵のような何かは、小さな小さな黒い人影の集合体だ。徹太は黙って、一段と強く炎の弾丸を叩きこむ。
    「いいかげんにして下さい。カードセット、堕天使の誘惑」
     囚われた何かたちに引導を渡すべく、一途はカードをドローする。千歳もそれに合わせ、符に祈りを籠めた。安息へと導く二つの符が、忌まわしい影の動きを鈍らせる。
    「やり直せるなんて夢物語は、夢のままでいいんです。……さようなら」
     一途は心なしか俯き、呟く。
     華凜は花纏う弓を構えた。狙うは、敵の中心部。そこにボタンを思い描きながら、魔力の矢を生みだす。
    「痛みも、辛さも、ほら、今みたいに……皆と一緒なら、大丈夫」
     影の向こうの誰かへと語りかけるように、彼女は言う。一人じゃなくて、皆でこれを乗り越える事にきっと意味がある。
     支え、支えられる、その『皆』の中の一人でいたい。
    「……だから、ね、ボタンさん。貴方の役目は、いらないよ」
     想いと共に放った矢は何かを貫いた。刹那、得体の知れない何かは恐ろしい叫び声をあげ、一瞬のうちに消し飛んだ。
     勝った。不要となった防音結界を解除すると、一途は未だ曇った空の向こうを見上げる。
    「それに、戻りたい過去なんて、ないんですよ。……一つだって」
     あまり覚えてもいないから。
     嘘つきな転校生は黒い眸を伏せ、そう言って寂しげに笑う。
     その笑い方にはどこか見覚えがあった。徹太も同じように、灰色の雲を見上げる。
    「さて帰るか。あいつには余裕だったっつってやろう」
     戦士たちは商店街を後にする。残ったのは、嘘のような静寂。がらんとした街、僅かな雨音。けして上書きされる事の無い闘いの記憶がまたひとつ。
     それが何をもたらしたかは、これからの話だ。

    作者:日暮ひかり 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年6月20日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 10/感動した 1/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 3
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