昏きインスピレーション

    作者:夏河まなせ

     後輩が見せてくれた絵は、とても恐ろしかった。
    「怖い夢を見たんですよー。すっごく怖かったの。部室で思い出しちゃって、怖くて怖くてたまらなくなって、描いちゃったんです」
     ――とても恐ろしい絵。
    「そう、夢を見て描いたのね」
     ――私が見せた夢を。
    「千尋先輩、どうかな? ここ、もうちょっとにじませた方がいいと思うんですけど、うまくできないんです。メディウムの量がいけないのかな?」
     ――恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい………
     
    「シャドウに成りかかっている子がいるわ」
     時村・薫子(高校生エクスブレイン・dn0113)は、灼滅者たちを教室の一角に集めるとそう告げた。
    「千尋(ちひろ)っていう子。都内の高校の二年生で、美大志望者。そのための予備校にも通ってる」
     有名美大の志望者がそういう予備校で受験用のテクニックを習うのは結構一般的らしい。
    「千尋は割と裕福な家庭の子で、描くのが好きで、当然のように美大を目指して予備校に入ったわ。センスもいいし、技術も高いから、間違いなく志望校に合格するだろうと評価されている」
     素質にも、その素質を育てる周囲の環境にも恵まれている。一見、何も不満に感じることなどないような境遇だ。
     その彼女が内なるダークネスに侵食されるようになった原因は、通っている高校の美術部の後輩だ。名はマユという。
    「千尋は普段は予備校が忙しくて、学校の美術部はたいして重視してなかったみたい。でも、偶然マユの絵を見たら、平静で居られなくなった」
     言いながら、薫子はいつも抱えて歩いているスケッチブックを開いてみせた。
    「サイキックアブソーバーが私に描かせたの。こっちが千尋の絵」
     確かにうまい。センスも悪くない。技術も高い。灼滅者たちがそのページをよく見たことを確認すると、薫子はもう一枚ページをめくった。
    「これがマユの絵」
    「…………」
     灼滅者たちは何となく、千尋の苦悩を理解した。
     マユの絵は天性のセンスの塊のようだった。技術的にははっきりと下なのだが、それ以上に魅力的なのだ。
     自分はそれなりに描けると思っていた目の前でこれをやられたら、悔しいどころではないだろう。
    「マユはあっけらかんとしたものでね。ただただ好きだから描いてるだけで、自分は普通に下手だと思ってる。千尋のことも『美大に行っちゃうすごい先輩』って素直に尊敬して、教えを請うてる」
     かえってそれが千尋を追い詰めているというわけだ。
    「そういうわけで、千尋は夜な夜なマユのソウルボードに侵入しては悪夢を見せているわ。彼女の心を折ってしまおうというわけ。でも、彼女は夢で見た恐ろしい光景からインスピレーションを得て、あっとおどろく発想の絵を描いたりする。それがますます千尋をエスカレートさせる」
     そしてとうとう、千尋は決定的な行動に出てしまうことになる。
    「放課後の美術室。運の悪いことにその日はほかの部員も顧問の先生もいないの。千尋みたいに真剣に美大を目指す子も、マユみたいに熱心に描く子もほかにいなくて、美術部も活発じゃないのね」
     美術室には、マユが描いた絵が並べられている。千尋に見てもらうためだ。
    「そこに来た千尋は、マユの描いた絵を全部……」
     キャンバスは切り裂き、紙はビリビリに破いて、さらに水や溶剤をぶっかけて完全に駄目にしてしまう。
     その上で部員のたまり場である美術準備室で、連日の寝不足から机に突っ伏して熟睡しているマユのソウルボードに飛び込む。そして。
    「今度こそめちゃくちゃに破壊してしまうわ」
     シャドウにソウルボードを壊された人間の末路は、灼滅者の皆の方が知っているでしょうね、と薫子。
    「そして、人ひとり壊してしまえば……千尋も一線を越えてしまう」
     つまり完全なシャドウに成ってしまう。
    「新しいシャドウの誕生を阻止して。灼滅者にするか、灼滅して滅ぼすか。どちらかよ」

    「皆の方がよく知っているでしょうけど、ダークネスに成りかかっている人間を救うには、一度戦ってKOする必要があるわ。倒したとき、元の人格を保ったまま灼滅者になるか、灼滅されて消えるかのどちらか。どちらにしても戦闘は避けられない」
     また、戦う前や戦闘中、その人の『人間』としての心に訴えかける説得ができれば、元人格がダークネスの人格に打ち勝つ手助けができる。ダークネスは弱体化するし、灼滅者になれる人であればその可能性も高まるのだ。
     彼女に接触するタイミングは二つある。
    「ひとつめは、美術室で絵を壊そうとする寸前よ。かなり血迷っているけど、まだ決定的な行動に出る前だから、説得は比較的しやすいと思うわ。もちろん、いきなり『お前はシャドウに成りかかってる』なんて言っても信用されないのは当然だから……」
     そこは灼滅者としての経験を活かして、彼女が話を聞く気になるようにしてほしい。
    「千尋は追い詰められているあまり、自分が人知を超えた力を使っているっていう自覚が薄いから、そこから気づかせていくのもいいかもしれないわね」
     ただし、そこはソウルボードの外になる。成りかけシャドウとはいえ、ソウルボード外で戦う方がより手ごわいことは間違いない。
    「もうひとつは、千尋がマユのソウルボードに入ってしまった後よ。戦うのはこっちの方が圧倒的に楽。ただし」
     実際に大量の絵を駄目にしてしまった後だ。ここで思いとどまってもマユとの関係修復は難しいだろうこともあり、千尋自身が、もう後戻りできないという心情になってしまっている。
    「ヤケを起こして、その場でソウルボードを傷つけはじめるかもしれないしね」
     とはいえ、マユが無事なら、説得がまったく不可能というわけではないだろう。
    「…………そうね」
     薫子は一瞬目をそらした。
    「戦力的にいちばん楽なのは……ソウルボード内で、説得を放棄して速攻での灼滅に専念する作戦ね。八人がかりなら、油断さえしなければ勝てるでしょう」
     戦闘が長引かなければ、マユは助かるはずだ。
    「あくまで目的は『新たなシャドウの誕生を阻止すること』よ。それは忘れないで。でも私は予測することしかできない。実際に、痛い思いをして戦うのは皆だから」
     皆の納得できるようにして頂戴、と薫子は締めくくった。


    参加者
    アルヴァレス・シュヴァイツァー(蒼の守護騎士・d02160)
    レイン・シタイヤマ(深紅祓いのフリードリヒ・d02763)
    射干玉・夜空(中学生シャドウハンター・d06211)
    龍田・薫(風の祝子・d08400)
    御厨・司(モノクロサイリスト・d10390)
    茅・李狗(中学生ダンピール・d13760)
    嘉守・遙(デッドマンウォーキング・d17381)
    八祓・れう(機巧の奏者・d18248)

    ■リプレイ

     イーゼルに立てかけられたアクリル画のキャンバスの前で、千尋はペインティングナイフを握りしめた。
     考えなしな筆遣い。奔放なばかりの色彩。特徴はとらえているけれどどうしようもなく歪んだデッサン。
     ――なのに、目が離せない。
     自分には決して描けない絵。これからどんなに頑張っても。
     ――壊してしまえばいい。
    (「この世から消してしまえば、いい――!」)
     ナイフを握った右手を振り上げる。その背中に、龍田・薫(風の祝子・d08400)が声をかけた。
    「千尋さんですね」
     振り向いた千尋は、それこそ心臓が止まりそうな顔をしていた。
    「咎めるために来たのではない。だが、とても大切な話をしに来た」
     嘉守・遙(デッドマンウォーキング・d17381)が、少女を安心させようと穏やかな声で言った。
    「人の夢に入り込み、思うままに悪夢を見せることができる……それは常人には無い特異な力だ」
    「え? どういうこと」
    「おれたちも同じようなこと、できる……例えば」
     茅・李狗(中学生ダンピール・d13760)はジャージのポケットに突っ込んでいた片手を出すと、耳にあてた。いきなり千尋のポケットの携帯電話が鳴りだす。
    「今、おれがかけた。出てみたら?」
     わけのわからないまま千尋は携帯を開く。待ち受け画面に「非通知」の文字。
    「も、もしもし」
    「もしもし。聞こえるだろ?」
     李狗の声が、携帯からも目の前の彼からも聞こえた。ESPの「ハンドフォン」だ。
    「き、聞こえる……え? え?」
    「他にも、こういうこともできます」
     さらに畳み掛けるように、薫は「エイティーン」を解除した。長身の優男がいきなり小学生に戻る。
    「本当はこちらの姿なんです。ここは高校なので、小学生は目立つので……」
     だぼだぼの制服姿で薫は笑った。
    「――君は人の夢に入り込むことができる。それは常人のできることではない……気づいてくれただろうか」
     三人は、その異能がダークネスというものの力であることから話し始めた。
     人間の内側には、ダークネスという邪悪な別の人格が潜んでいること。千尋が知らないまま使っていた異能も、ダークネスの能力であること。
     ダークネスは、元の人格を絶望や狂気に追い込んで破壊し、その肉体を支配しようとすること。そうなってしまうと基本的に元には戻れないが、時折、元の人格のままダークネスを抑え込み、その異能を使いこなせるようになる人が現れること。
    「それが灼滅者……おれたちもそうだし、千尋もなれるはずだ」
    「だがそのためには、一度戦う必要がある」
     一度戦って千尋が倒れたとき、千尋自身の人格がダークネスに打ち勝てていれば、灼滅者として、これからも自分自身を保ったまま生きていくことができるだろう。
     千尋は三人の言うことを信じざるを得ない様子だった。異能を次々に実演してみせられたことはもちろん、人に思うままに夢を見せられるという今の自分の状態がそもそも普通でないことに、改めて気づいたようだ。
    「この部屋を荒らしたくないだろ? 外に仲間も待ってるし、外へ出ないか?」
     戦う、という未知の領域に戸惑いを隠せない様子ではあるが、千尋は李狗の提案に同意した。
     廊下に出ると、他の五人が校庭への出口付近で待っていた。
     千尋に微笑みかける八祓・れう(機巧の奏者・d18248)は「旅人の外套」を、レイン・シタイヤマ(深紅祓いのフリードリヒ・d02763)と御厨・司(モノクロサイリスト・d10390)は「闇纏い」をそれぞれ使っているが、解除するまでもなく、千尋はごく自然に彼らのことも認識しているようだった。やはり、もはや彼女は一般人ではないのだ。
     アルヴァレス・シュヴァイツァー(蒼の守護騎士・d02160)が頷いて見せ、射干玉・夜空(中学生シャドウハンター・d06211)が手招きする。ちょうどいい場所を探しておいてくれたのだろう。うまく千尋をマユと、マユの絵から引き離すことができたことに、灼滅者はひとまず胸をなでおろした。

     人間の精神世界に潜み、しばしば戯れに破壊して去っていくシャドウ。千尋の中にいるのはそのダークネスだ。
    「私が……シャドウ、っていうのに付け入られたのは……」
     校舎裏の目立たない小さな庭。
     灼滅者たちは彼女が嫉妬心から絵を壊そうとしたことを、ことさらに言い立てたりはしなかったが、彼女は、自分がシャドウに隙を見せた原因に自分で気づいた。
    「あの子には敵わない……、あれでテクニックも身に着けたらどうなるんだろ……そう思ったら……」
     マユの天賦の才を見せられたことで揺らいだ心が、シャドウの浸食を許したのだ。
    「でも、精神を壊すなんて……なんてことを……」
     血迷っていたとはいえ、自分がしでかしそうになった行為の恐ろしさを、今更のように千尋は自覚したようだった。
    「自分があさましいと思えるのは、それはあなたが正義を知ってる証です。あなたが気高い人だということだ」
     自己嫌悪に染まる千尋に薫が言う。
    「好きで続けていることなのに、もっと上手な作品を見せつけられたら、悔しいですよね……自分の気持ちが否定されてるみたいで」
     れうはせめて千尋の気持ちに寄り添いたいと思った。音楽と絵画の違いこそあれ、表現者としてそのつらさは理解できた。
    「悩むな、とは言わない。だが自分を責めてばかりでもいけない。むしろ、糧にするんだ……少しでも近づいてやろう、と」
     レインが諭すように言葉を続ける。
    「少しでも、か」
     千尋の声が地面に落ちた。
     彼女がこれから先、必死で努力しても、その壁を超えられるかといえば、わからない。そればかりは灼滅者たちにもどうしようもなかった。
     ただ、彼女が自分を必要以上に卑下したり、責めることはやめてほしいと思う。
    「自分の絵とか、これまでの努力とか……そういうのはちゃんと認めてやったらどう、だろう」
     李狗が言った。決して巧みではない語彙ではあったが、千尋への思いを言葉にする。
    「つぶすとかじゃなくて、マユの感性すら吸収して自分のものにしてやる…ってくらいの勢いでさ」
     その不器用な言葉に、千尋は笑おうとして失敗したような複雑な表情を浮かべた。
    「……いつかは、そう思えるようになるのかしら……」
     その瞬間。
    「――私、バカみたいじゃない? 自分より才能ある子に、真面目にアドバイスしてあげてるなんて」
     押し殺したような声が千尋の口から吐き出された。美術室で絵を切り裂こうとしていたときと同じ、血走った目が、灼滅者たちを射殺さんばかりに睨みつける。
     シャドウが再び彼女の身体を乗っ取りかけている。灼滅者たちに緊張が走った。
    「ずっと描いてきたのに……私はずっと真剣に描いてきたのに……」
     彼女の足元から黒い靄のようなものが滲み出し始めた。ダークネス・シャドウの不定形の闇。
    「あの子なんて、遊んでるだけじゃない!!」
     そして一気に噴き出した。煙のような、粘液のような。闇が千尋の身体をほとんど覆うようにまとわりつく。これが彼女の中のダークネスの本体の姿なのか、それとも成りかけゆえの不完全な形態なのかは定かではない。分かっているのは。
    「『その闇を、祓ってやろう』」
     まさに目の前に湧き出した闇を見据えて、レインが解除コードを口にする。
    「――『勧請』」
     薫の声が続き、清浄な気が少年の周囲を吹き渡る。
    「善き子の心悪しく荒ぶるを鎮め給え。朝の御霧を朝風の、夕の御霧を夕風の、晴らすが如く払い清め給え」
     他の灼滅者たちもすでにスレイヤーカードを解放して戦闘態勢に入っていた。
     霊犬のしっぺが駆け出し、司のビハインドが顕現する。二体のサーヴァントに加え、五人の前衛陣が不定形の闇にくるまれた千尋を取り囲み、中衛と後衛がその後ろで身構えた。
    「邪魔しないで! 二度と描けなくしてやるんだから!」
    「マユを潰しても、自分の腕が上がるわけじゃないよね」
     胸にダイヤのマークを描き出しながら、ずばりと夜空は痛いところを突いた。
    「うるさいッ!」
     千尋の顔はちょうど隠れ見えないが、おそらく醜く歪んでいるのだろう。声とともに闇の一部が球状に凝縮され、撃ち出される。しかしその黒い弾丸は夜空をつらぬく前に遙に阻まれた。
     そのまま遙の影業が長く伸びて、千尋を戒める。
    「貴女がぶつけられなかった物……僕等が受け止めてみせましょう」
     遙の影縛りに動きの鈍くなった千尋に、アルヴァレスが打ち込んだ。体重と魔力を乗せた一撃を振り下ろせば、不定形の闇の中に確かに手ごたえがあった。
    「アアアアアアアア!?」
     千尋の悲鳴が上がる。武器で打ちのめされる痛みなど初めてに違いない。しかしここで手を緩めるわけにはいかない。ダークネスに打ち勝つには戦って倒すしかない。
    「きっと貴女を助けます……いえ、助けさせてください!」
     そして、千尋が助かるためには彼女自身が内なるシャドウを抑え込まなくてはならないのだ。
     不定形の闇が鞭のようにしなり、今度はレインの身を切り裂いた。
    (「千尋の気持ちは、私にもわかる」)
     普段は飄々とした態度で超然として見える彼女にも、千尋にとってのマユのような存在がある。超えられない、そのやりきれなさを知っているからこそ、止めなくてはならない。
     後衛からの回復を受けながら炎を撃ち込むレイン。ほぼ同時に薫が仕掛けた。
    「壊しても楽にはならないですよ。苦しみの正体はあなたの中にある」
     自らが従える影を大きく広げ、千尋をまるごと呑みこむ。
    「傷つく覚悟で、一番向かい合いたくない物に向き合って初めて解放される………」
    「嫌ッ!」
     黒い塊の中から苦悶の声が漏れる。
    「あなたが向き合わなければならないのは……“凡庸な自分”かな?」
    「黙れえッ!」
     ヒステリックな叫びが上がり、薫の影業が振りほどかれる。放たれた黒い弾丸の直撃を、李狗が薫の代わりに受けた。
    「絵って、こう、内面が出るっていうだろ」
     触手めいて踊る黒い影を切り裂きながら、李狗もまた呼びかける。
    「今回つらい思いをしたのも、いいケーケンだったって思える日、くるんじゃねーの?」
    「芸術とは己の心を糧に芽吹く花のようなものだ。今は羨む気持ちがあったとしても、いつかはそれを糧に美しく咲く」
     同じことを遙もまた告げた。李狗は重ねて思いを声にした。
    「これからどんな絵だって描けるんだ、今シャドウになっちゃ、駄目だろ」

    「他人と比較することに何の意味がある」
     低く甘い歌声にのせて、司もまた、千尋のための言葉を紡ぐ。
    「自分を見失っては意味が無い――お前のやりたいことは何だ?」
    「千尋さんが本当にしたい事は……絵を描く事じゃないんですか?」
     アルヴァレスは何度も声を上げた。悲劇を悲劇のまま終わらせたくなない。
     不定形の闇の中から、千尋の白い手が見え隠れしていた。振りほどこうともがいているようなその指先が絵具に染まっているのを灼滅者たちは見た。
    「本当に描くことが好きなのだろう。ならば、感じたのは悔しさや嫉妬だけではなかったはずだ」
    「あなたの絵は、あなた自身にしか描けないものなんです……っ! だから……!」
     司の大人びた低音が響く。れうの声が澄み渡る。ふたりの力が立て続けに叩き込まれる。黒い塊がぐらつき、一瞬闇が薄くなる。好機と見て、夜空がバスターライフルの照準をぴたりと黒い塊の中心に合わせた。
    「エネルギー、フルチャージ!」
     瞬時に出力が最大に達した。引き金が引かれる。
    「シュゥゥゥトォッ!!」
     光弾が炸裂した。風船がはじけるように闇が四散し――、制服姿の少女がふらりと崩れる。
    「おっと」
     その身体が地面に落ちる前に、前衛陣がしっかりと受け止めた。
    「大丈夫、僕等の気持ちは分かって貰えたはずです」
     アルヴァレスはそう口にした。

     涼しい日陰に千尋を寝かせる。スカートからむき出しの脚がのぞくのを、れうが急いで脱いだ上着をかけて隠した。
     ほどなくして千尋は目を覚ました。
    「大丈夫ですか? 痛みは?」
    「……全然平気……不思議ね、あんなにボコボコにされたのに」
    「それが灼滅者だからね。そうそう倒れないようにできてるんだよ」
     上半身を起こそうとする千尋を夜空が笑いながら助けた。シャドウの気配が遠ざかっているのが感じられる。千尋自身が、内なるダークネスを精神の奥底に押し込めているのだ。
    「先ほどの話の続きだが……千尋、俺達と一緒に武蔵坂学園に来る気はないだろうか」
     千尋が落ち着いているのを確認し、遙が再度切り出した。
    「同じシャドウハンターもたくさん居ます。歓迎しますよ」
    「今は高校までですけど、ちゃんと大学もできるそうですし……」
     八人が口々に学園のことを教えるのを、千尋は真剣に聞いている。そこにレインが小さな疑問を口にした。
    「ところで、苗字は何というんだ?」
    「せんぱあい?」
     千尋がそれに答えようとしたとき、眠たげな声がした。寝癖をつけたおさげ髪の少女が、目を擦りながら歩いてくる。
    「あ……、マユ」
     千尋はその名を呼んだ。一瞬伏せられたその瞳は、しかし次の瞬間にはちゃんと後輩を見ていた。
    「先輩の鞄があったから探してたの……すみません、先輩来てくれてたのに寝ちゃってました……」
    「……今晩からは、もう悪夢は見ないから、よく眠れると思うわ」
    「せんぱい?」
     千尋の低い声にマユはきょとんと首をかしげた。周囲にいる、見慣れない八人組にも気付いて問いかけてくる。
    「先輩のお友達ですか?」
    「俺たちは……」
    「新しい学校の人。マユ。私、転校しないといけないの」
     どう説明したものかと思案する灼滅者たちの言葉を遮ったのは千尋だった。
    「千尋さん、じゃあ……一緒に来てくれるんですね?」
    「ええ、あなたたちの言うとおりにする」
    「え? 千尋先輩、なんで?」
     どうやら千尋は学園への誘いに応じるらしい。安心した一同とは対照的に、マユは眠気も吹っ飛んだ様子で、まさに寝耳に水という顔をしている。無理もない。
    「どうして? 先輩? どこに行くの? おうちの都合?」
    「説明するから……美術室に戻ろうか、マユ。――これ、ありがと」
     千尋は上着をれうに返すと立ち上がった。
    「はいっ。あの、一緒に行かなくても……?」
    「大丈夫。ちゃんと話してくるから」
     案ずるれうに、千尋は笑って首を振った。そのままマユを連れて戻っていく。背筋の伸びたその足取りは確かなものだった。
    「……心配、要らなそう、ですね」
    「そうだな」
     れうが安心したように笑った。司は無愛想なままに返しながらも、千尋の背中を見送る。美術室でふたりがどんな話をするかは知らないが、彼女はもう大丈夫ろう。
     灼滅者たちもそう思いながら彼女たちを見送った。
    「……苗字は、学校で聞けばいいか」
     レインは苦笑まじりにつぶやいた。

    作者:夏河まなせ 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年7月1日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 2/感動した 0/素敵だった 6/キャラが大事にされていた 5
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