肉色の苦輪

    作者:君島世界


     耳がいいことが、彼女の自慢だった。
     例えばそれは、部室から出る時にモニターが付けっぱなしだったことに僅かなノイズで気づいたり、修学旅行で見回りに来た先生の気配をいち早く察知したりと、そういう風にいつでも彼女の役に立ってくれた。
     だから、周りの音に耳を澄ましながらの行動は、無意識的な癖であった。塾帰りの夜道を歩く今も、彼女は周囲の様々な音を拾い続けている。
     不意に、聴き慣れない音が路地裏から聞こえた。カラカラという車輪が空回りするような音と、それに紛れて小さく、ぴちゃ、ぴちゃと、粘ついた液体の音がする。
     気になって覗き込むと、奥の空き地に上下逆さまに置かれた自転車が見えた。サドルの方は角に隠れて見えないが、どうやらあの音は、この自転車の辺りから聞こえているらしい。
    「何だろう……? パンクの修理とか、オイル挿しとかかな」
     考えている間に音は止む。その正体を突き止めようと――もしかしたら巡り巡って自分の利益になることかもしれないし――彼女は路地裏に足を踏み入れた。
     中ほどを過ぎても、あの音がまた聞こえてくるようなことはない。さらに空き地へ近寄ると、彼女は新たに二つの情報を感じ取ることができた。
     何者かの気配と、悪臭。
    (「誰かいる……けど、この臭いはなに?」)
     生理的嫌悪感を催すその悪臭に、彼女は踵を返してその場を離れようとする。そして踏み出した脱出への一歩を、彼女は運悪く蹴躓いてしまった。
     転ぶことはなかったが、バランスを直すのに一瞬の時間を必要とする。体勢を立て直して、不安から逃げるように駆け出した……しかし。
     何者かの悪臭を纏った腕が、彼女の口を抱えるように塞いだ。脱出しようにも万力のような力に太刀打ちすることはできず、悲鳴すら封じられた彼女はそのまま空き地の奥へと引きずられていく。
    (「なに、なに……なんなの!?」)
     乱暴に壁へと投げ出され、小さなうめき声を上げて彼女は崩れ落ちた。そして次の瞬間、彼女は全てを理解する。
     カラカラという音は、予想通り自転車の車輪のものだった。それとは別の、あの液体の音の正体は……。
    「いや……いや……!」
     タイヤを外された車輪に巻き取られた、誰かのはらわたから滴り落ちる血であった。
     そして同じ運命を、彼女は辿ることとなる。
     
     カラ……カラ……ピチャ……ピチャ……。
     

    「ごきげんよう、皆様。正体不明の『鬼』による殺人事件が、また、発生しましたわ」
     鷹取・仁鴉(中学生エクスブレイン・dn0144)は、集めた灼滅者たちを前に、ゆっくりと話し始めた。
    「犯人を鬼と呼称していますのは、外見がまさしく『地獄絵図に出てくる鬼』のような姿をしているからですの。その全長は2メートルを超え、不吉な青色の肌に巨大な刃物を携え、人を苛んで殺す……ええ、その犯行すらも、鬼そのもの所業ですわね。
     この件で被害に遭われたのは、これまでに三名。放っておけば間違いなくその数は増えていきますので、皆様に早急な対処をお願いいたしますわ」

     鬼は、とある繁華街の路地裏に現れる。人がどうにかすれ違える程度の道の奥に、今は誰も使っていない小さな駐輪場があり、鬼はそこを殺戮の場としているようだ。
     迷いこんだ被害者を拉致・殺害し、さらにそれ以上の損壊行為を繰り広げている。いわゆる狩りの為にその場を離れるよりは、留まって行為を続ける傾向にある。
     故に、鬼をその場に追い詰めることは難しくない。バベルの鎖により感知を避けるには、『周囲のビルの屋上から、鬼に気づかれぬように駐輪場へ飛び降り』て接触すればよいので、それさえ忘れなければ逃がすようなことはないだろう。もちろん、飛び降りる程度では灼滅者は一切ダメージを受けないが、その際は着地に専念したほうが良いと思われる。
     戦闘となれば、鬼は巨大な鉈のような刃物で襲い掛かってくる。使用するサイキックは、神薙使いと龍砕斧に相当する。
     また、取り巻きとなる亡者は存在しない。8対1の戦いとなるが、この鬼はダークネスに匹敵する戦闘力を保持しているので、油断をすれば手痛い反撃を喰らいかねない。
     
    「バベルの鎖の悪影響と、死後に施された忌々しい処置のせいで、被害にあった犠牲者の皆様は、おそらく永久に『行方不明』として扱われてしまうことでしょう。それを不憫に思うのでしたら、それに怒りを感じられるのでしたら、どうか皆様のお力をお貸し下さい。
     私も――気持ちは同じですわ」
     そう言って仁鴉は、深々と頭を下げた。


    参加者
    九条・雷(蒼雷・d01046)
    水綴・梢(銀髪銀糸の殺人鬼・d01607)
    八槻・十織(黙さぬ箱・d05764)
    佐竹・成実(口は禍の元・d11678)
    糾井・玖空(曖々昧・d12175)
    天空・青菜(死んだククルカン・d15703)
    椋・緋衣(高校生ストリートファイター・d18223)
    改・昂輝(灼紅鬼・d18542)

    ■リプレイ

    ●天蓋から覗く
     錆の浮いた扉を押し開き、夜の屋上へと進み出る。何年も閉じたままだったドアノブは、回すと砂のような感触がした。
     足跡すら付けられそうなほどに汚れたその場所は、周囲のビルを全て見下ろすことができる高さだ。音を外に漏らさず、また影や小石を下に落とさないように気をつけながら、灼滅者たちは屋上の淵に集った。
    「――よし。ここまでは気づかれてないようだな」
     屋上から僅かに身を乗り出し、口の中で呟いたのは八槻・十織(黙さぬ箱・d05764)だ。その覗く先では、確かに何者かが行動を続けていた。
     鬼、なのだという。鬼のいる場所、地獄への道行きは、まだその先を残している。
    「ここからは、二人一組で飛び降りることになるわ。エアライドを持った人が、そうでない人を支えてあげてくださいね」
     円陣を組んだ灼滅者たちに、佐竹・成実(口は禍の元・d11678)が作戦の確認を告げる。と、成実の腰を水綴・梢(銀髪銀糸の殺人鬼・d01607)が横から手を回して支えた。
    「成美ちゃんの着地は私に任せて。で、他の皆は――」
    「準備OK? それじゃ十織、おいでおいで」
     呼ばれた十織が渋々と向かう先に、お姫様抱っこの体制を整えた九条・雷(蒼雷・d01046)の姿がある。膝裏に触れ、雷は遠慮なく彼をリフトした。
    「っ……んー、まァ重いけど案外イケるもんだね」
    「なんにせよ、早いトコ行こうな……」
     一方、エアライドを持たない糾井・玖空(曖々昧・d12175)に肩を貸す椋・緋衣(高校生ストリートファイター・d18223)は、その場から着地地点の検討を行っている。
    「この位置からなら、影が鬼の目にはいることはないだろう。位置としては万全だぜ」
    「僕の方も大丈夫ですよ。装備も万全、合図さえあれば、今すぐにでも殺しに行けます」
     言った玖空は、視線で天空・青菜(死んだククルカン・d15703)に促しを送った。この降下に一斉の合図を送るのは、彼女の役目なのだ。
    「青菜、こっちだ。バランスとれ次第、号令を頼むぜ」
     改・昂輝(灼紅鬼・d18542)が青菜の名を呼び、その体を腕の中に抱える。小さく丸まった青菜は、そして笑顔のままで手を上げた。
    「お待たせしました。それでは皆さん、私がこの手を下ろしましたら、一緒に落ちましょう……あの地獄へ」
     そして間を置かず、青菜がその手を振り下ろす。四組の灼滅者たちがその身を虚空に踊らせた。
     蹴り飛ばしの足音も、裾のはためきも無い、隠密の跳躍。
     太股と空いた腕とでスカートを押さえた梢を最下に、彼らは一瞬よりも長い落下時間を通過していく。体勢に気恥ずかしさを感じている十織も、底が近づくにつれ、言いようのない感情が取って代わって心を占め始めた。
     見えるのは血液の赤。分厚く膜のように漂うその臭気を、飛び降りの勢いは散らすことすらできず、包まれるように突っ切る。
     地に着いた足裏は、粘る液体を分厚く踏み抜いた感触を彼らに伝えた。

    ●地獄落ち
    「――まったく、胸糞悪いことやってくれるなァ。これ全部、『そういうこと』なんだろ」
     雷が吐き捨てるように言う。十織を降ろし、ヒールに伝わる非日常の感触を、二度三度と踏んで確かめた。
    「駐輪場は、あんたのような鬼が居る所じゃないよ。とっとと元の地獄に帰んな」
     この地獄絵図の奥で、鬼はもうこちらに気づいている。気配を最早隠さずに、青菜は獲物を手に前へと進んでいった。
    「こんばんわ。鬼さんの遊びの時間はもう終わりですよ。私の遊びの時間が始まるんですからね。……ほら、鬼さん、こちら」
     青菜がチェーンソー剣のエンジンを起動させる。作業に没頭していた巨躯の鬼は、そしてゆっくりとこちらへ振り返った。
     言葉ではない唸りが、鬼の喉から漏れる。その身の丈に匹敵する異形の刃物が、鬼の影から姿を現した。
    「グフ、グフ、グォオオオ……!」
     斜めに構えられた凶器は、刃先から持ち手から、滑る血を垂らし続けている。血塗れと例えるに、それは一切の異論を許さなかった。
    「くそっ、こんなものが市街地に出るとはな……九紡!」
    「ナノナノッ!」
     サーヴァント・九紡と並んだ十織は、即座にサウンドシャッターを発動する。こんな怪物を、灼滅者ならぬ人々の衆目に晒すわけにはいかない。
    「開いちまった地獄の門、ここで閉じるぞ!」
     その強い言葉に呼応して、成実が殺界形成を使用した。狭い路地からは外の様子を見ることは叶わないが、これでこの場は外界から隔離される。
    「何処より迷いでたかは知らないけど、……これ以上、好き勝手はさせないわ」
     周囲の仲間にシールドリングを張り巡らし、成実は視線を鋭く尖らせた。一触即発の雰囲気に、昂輝は相手の出方を伺い、距離を保ったままじりじりと位置を変える。
    「――鬼。鬼か……、そっか」
     己の臓腑を鷲掴みにするような悪寒が漂っている。その先に踏み込むには、相応の覚悟の力が必要だろう。だから、
    「こんなのも、鬼か」
     だから、昂輝は炎剣を抜いて前に出た。朱の光熱が太い線を引いて奔るのを、梢の鋼糸が編みあげる銀閃が追っていく。
    「イラってするのよね、私。殺人鬼じゃないヤツに人殺しをされるのは」
     手に足に、霧のように濃厚な血の残滓が絡みつく――そして梢は宣言した。
    「この美少女殺人鬼が、じわじわと嬲り殺しにしてくれるわ」
     二者の攻撃、爆炎と束縛を受けて、しかし斧刃の切っ先が、ずい、と頭をあらわすところを、さらに玖空の黒い殺気が内に押し込めていった。
     その涼しげな横顔は、一分の歪みをも見せない。
    「……理由なき鏖殺ならば、僕の邪魔をしないで頂きたいものです」
     問われた鬼は、答えるでもなく本性をあらわにした。掲げられた腕は脈動と共に体積を増し、路地裏の狭い空を埋め尽くさんばかりの異形と化す。
     緋衣が、正面に立ち塞がった。
    「いいぜ、語れその拳で。その言葉、俺が受け止めよう」
     腰を落とし、迎撃の一打を放つ緋衣。衝突の激音と共に、死闘が幕を開く――。

    ●色錆びた死闘
     殴った。斬った。刺し貫いた。抉ってその肉を零させた。それでも青菜の眼前には、膝の一つも地に突かない鬼が、狂喜にその身を震わせている。
    「あはは、結構耐えるんですねえ? 弱い者いじめの鬼さんが、まさかそういうご趣味をお持ちでしたとは」
     返り血を払う青菜は表情を変えない――固着した笑顔を見せていた。
    「ではまあ、ペースを上げますよ。できればもうしばらくは、そのままの鬼さんでいてくださいね?」
     チェーンソー剣を吠え猛るままに引き、逆の手で提げる妖の槍を下段に構える。くん、と穂先を上げる軌道上から、青菜は数発の妖冷弾を打ち出した。
    「おおおおぉぉっ!」
     それらと同時に飛びかかっていくのは昂輝だ。三点、氷弾が食らいついた箇所を、一息の連打で重ねて殴る。
    「まだまだあっ!」
     拳の残身は、たださらなる連撃への溜めに等しい。どこを打てばバランスを崩すか、どこを崩せば芯まで響くかはさして考えず、昂輝はありのままに目の前の的を打って打って打ち重ね続けた。
    「りゃりゃりゃりゃりゃりゃあっ!」
     昂輝の肩から背中から、バトルオーラが炎のようにゆらめいて立ち上る。次の瞬間、昂輝の全身を透き通らせるような会心の一打が、思わず発射された。
     その強烈な攻撃を受け、わずかなよろめきを見せる鬼。それだけでも、緋衣にとっては十分な猶予であった。
    「その地獄もこの地獄も、終わらせてやるぜ、鬼よ」
     ドンッ!
     捻じ込みの鉄拳だ。常人ならば中身を丸ごと潰せるほどの腕力を、ただ一点に集中させ、緋衣は直撃からさらに全身の力を絞り出していく。
     その一点から、鬼の体が明らかに歪んだ。
    「グググ……ゴオオオォ……ッ!」
    「馬鹿の執念岩をも通す、だ」
     敵に対し、力を通すことだけを考えて実行するならば、どんな相手であれ全力を出すだけでいい……つまりは、執念だ。
    「もういいでしょう、退いてください――」
     と、抑揚のない玖空の声が響く。それと前後して、緋衣は手応えに僅かな押し返しを感じ取り、即座にバックステップでその場を離れた。
    「――喰らいつけ」
     後ろに傾いだ姿勢の緋衣、その足先を掠めるように、玖空の影業が円筒状に形成される。鬼の全身を包み込んだ影喰らいは頂点を鋭角に落とし、合わせて外壁部が裏返るように中の敵へと突っ走った。
     それ以外の何でもなかったかのように、玖空の殲術道具は元の影に戻る。幾何学的な変形劇は、内部に大きな打撃を与えていた。
     しかし、だ。
     しかし、鬼は笑わない。薄汚れた牙を剥き、目は互い違いにあらぬ方向を睨む。月光に照らされる老人めいたその顔肉は、感情を表すでも、ないし無表情でもない。
     ひたすらに恐ろしい、まるで絵巻物に描かれた悪鬼だ。その程度に怯む灼滅者ではないが、知らずその背中に冷たい汗が落ちた。
     鬼が一歩を踏む。威嚇するでも、気圧してくるでもなく、暴力の予告としての前進を、狙われた灼滅者は待ち、構えた。
     瞬く間に振りぬかれた腕が、刹那の内に彼女を薙ぐ。

    ●鬼と人
     敵の斧に全身を強かに打ち据えられた梢は、全力で己を横に飛ばした。路地の壁に肩をぶつけ、辛うじてその場に佇む。
    「ハッ、ハ、……ッ!」
     梢は呼吸を整えた。掌を当てた胸部の中央から、彼女を表すトランプのスート、灰色のハートが浮かび上がる。
     そして、殺人鬼が笑った。
    「ハハ……、いいわ。殺人鬼じゃないけど、人を殺す技ならまあまあ巧くやるじゃないの。
     ムカつくを通り越して、いっそ感動したよ。やる事は変わらないけど」
     前に泳がせていた手を、一気に腰後ろまで引く。痛いほどに握り絞った鋼糸が、一気に緊張して縦横無尽の斬撃を繰り広げた。
    「支援するわ、梢!」
     ガクガクと腕を痙攣させる梢に、成実がその力を飛ばす。治癒効果を持つ光輪の盾を、彼女の周囲にありったけ追加した。
     大輪の花が開くように、成実のシールドリングが展開される。それを見届けて、成実は足を止めた鬼へと接近していった。
    「負けない……負けさせない!」
     鬼を灼滅すること、仲間を守ること、そのどちらをも叶える為に、己の体をフルに動かす。仲間の意趣返しとばかりに、成実はその腕を異形巨大化させた。
     成実と鬼、人ならぬシルエットを見せる両者が交錯する。
    「オオォオオオオオッ!」
     鬼は、これまで聞かせたことのないような苦悶の声を上げた。当初から見せていたそのタフさにも、ここにきてようやくヒビが入ったらしい。
     手にした斧を滅多矢鱈に振り回し、アスファルトに深い傷を刻み付ける鬼。その周囲を、たつまきを放つ九紡が旋回を始めた。
    「ナノッ、ナアノーーォッ!」
    「了解だ、九紡!」
     続く十織の動きは、阿吽の呼吸を通じさせる両者ならではのものだった。十織は手元の黒箱――影業を解くと、四方から襲撃を受ける鬼の足元から影縛りを瞬時に伸ばした。
    「血の池地獄に蓮の花とは、お前なんかにゃ勿体無い気もするがな……」
     言葉の通りに、影で出来た蓮の花が鬼の全身を伝って絡みつく。その蔦は、汚れた地にも同じ色の花を咲かせていた。
    「少しはこいつで痛みってモンを知るといい。――そして雷よ、『さっき』の借りはこれで返したことになるかね」
    「あら、そんなに照れなくてもいいのよ? けどまァ、お膳立てとしては十分だよ!」
     名を呼ばれた雷が、その拳を逆の手のひらにパァンと打ち付けた。敵は弱り、さらに縛められ、これ以上はないような好機を前に、雷は意識を尖らせていく。
    「グフッ……グフッ……グウ……!」
    「鬼のあんたならどうせ顔パスだろうし、折角だから地獄の閻魔様に伝えておいてよ」
     雷はヒールの靴で震脚を踏んだ。細い踵は挫かれることなく正確にアスファルトを突き、地の底まで踏み徹すような衝撃を走らせる。
    「あたしはまだ、そっちに行く気は無いってねェ!」
     一気呵成の鋼鉄拳が、そして鬼のことごとくを砕ききった――。

    ●ある殺戮の終結
     己が殺めた犠牲者たちと同じように、物言わぬ肉塊となった鬼。まだ形を残すその屍を見下ろす玖空は、誰にともなく呟いた。
    「人を害すから人に排除される……。人を殺すなとは言いませんが、邪魔者は合理的に、合法的に排除されるということをお忘れなく……」
     その言葉を聞くべきだったかもしれない者は、もうここにはいない。鬼の命を終わらせてみて、その過程が楽しかったのか苦しかったのか――梢はその自問を途中で放棄した。
    「まあ私はイライラも解消できたし、だからそれでいいと言っても構わないわよね」
     結果良ければそれで良し。梢は気分を入れ替えるように、ん、とその場で背伸びをした。
     と、小さく音を立ててその場で手を合わせた者がいる。視線を向ければそれは、一礼をしている十織であったことがわかった。
    「…………」
     掛ける言葉もなく、弔うべき遺骸も見当たらず、十織は深く頭を下げる。改めてこの場には、犠牲者らしき姿が見当たらないことを自覚した。
     一面の血溜まりの他に、惨劇の痕跡は残されていない。残された自転車の車輪が、錆びてきいきいと音を鳴らすのを試す青菜は、それがどういう意味なのかを理解する。
    「この駐輪場から一歩も出なかった鬼が、死体を処理するならばどういう事になるか……まあそういうことでしたら、行方不明のままの方が幾分ましかもしれませんね」
     青菜は十織の真似をするように、笑み顔のままで拍手を一つ打った。
    「で、その犯人の方は……あァ、結局は溶けて消えるのね」
     鬼の死体を観察していた雷は、それが血の池の中にグズグズと崩れていくのを見て、小さくため息をつく。それは灼滅の証であると同時に、アレが一体何であったのか手がかりが、ここで一旦途切れることをも表してもいた。
    「なら、あたしはもうここに用はないよ。仕事が終われば速やかに撤退、帰還ってね」
    「……そうしましょうか。けど、あの鬼の犠牲者が増えるようなことがなくなったことだけは、素直に喜んでもいいと思いますよ」
     踵を返す雷の横に、成実が付く。言葉とは裏腹に成実の表情は、晴れやかさとは縁遠いものであった。
     緋衣も同じくその場を離れようとして、ふと鬼の死体に振り返る。
    「どうにかなったとはいえ、結局なんだったんだろうな、こいつ」
     戦いの最中、拳を打ち付けあったあの時、……言葉は、聞こえなかったような気もする。己の未熟さゆえか、それとも単なる気のせいなのかは、定かではないが。
     そして灼滅者たちの最後を、黙祷を終えた昂輝が行く。路地裏から出る直前に、昂輝は魂鎮めの風を背後へと吹き流した。
     もちろん、その風を受ける者はいない。それでも犠牲者たちの魂に、せめて穏やかなな眠りが訪れればと、昂輝はさらに祈るのだ。
     ――帰幽の道行、安らかならんことを。

    作者:君島世界 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年6月30日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 8/感動した 0/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 2
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