獣に声を

    作者:牧瀬花奈女

     明かりを消した部屋の中で、少年は体を丸めて布団に潜り込んでいた。
     布団の端を握り締め、ゆっくりと深呼吸をする。それを幾度も繰り返していたが、彼に根を張った恐怖は少しも和らいでくれなかった。
     自分の中に、獣がいる。
     少年がそれに気付いたのは、ごく最近の事だった。
     一週間前、彼の通う小学校で飼われていた兎が、誰かに傷付けられる事件があった。大型のカッターナイフのようなもので、背中を切り裂かれていたのだ。
     幸い、発見が早かったお陰で、兎たちは一命を取り留めた。けれど、犯人は今でも見付かっていない。
     あいつがやったんじゃないの。
     少年を指してそう言ったのが誰だったのか、もはや知る術は無い。いつの間にか囁かれた疑惑の声は、瞬く間に広がり彼を孤立させた。
     獣が少年の中で存在を主張し始めたのは、それからだ。
    「うー……」
     自らの内側で獣が吼えた気がして、少年は布団の中に深く潜り込む。
     暫くそうしていた少年は、しかし不意に布団を跳ね除けて立ち上がり、部屋の外へと飛び出した。
    「航! どこに行くの?」
     母の声にも答えず、彼は家を出て道路を走る。脇目もふらず、ただひたすら一点を目指して。
     走って、走って、走って――そうしてたどり着いた先で、少年は人ではなくなった。
     
     新田航。
     五十嵐・姫子(高校生エクスブレイン・dn0001)曰く、それがイフリートになろうとしている少年の名だという。
    「一週間ほど前に、航くんの通う小学校で、飼育されている兎が傷付けられる事件がありました。航くんはクラスメイトから、その事件の犯人ではないかと疑われていたようなんです」
    「一体、どうして……?」
     霜月・薙乃(ウォータークラウンの憂鬱・d04674)の問いに、姫子は瞳を僅かに伏せる。
     新田航は、兎の飼育係だった。係の仕事は真面目にこなしていたけれど、彼はクラスメイトに度々こう言っていたらしい。
     兎なんか好きじゃない、と。
    「航くんが飼育小屋の鍵を持っていた事も、疑われる原因になったようです。実際は、鍵は壊されていたんですけどね」
     面倒を見ていた兎たちが傷付けられた事と、その犯人と疑われた事。二つの要因によって、少年は闇に堕ちてしまった。彼は今、家を飛び出して、通っている小学校の裏山でうずくまっている。獣と化す恐怖を抱えて、一人きりで。
     今は人の姿を保っているが、遠からずその身は、燃え盛るたてがみを持つ獅子へと変貌する。
    「航くんはまだ、完全なイフリートにはなっていません。もしも、助けられるようなら……皆さんの声を、届けてあげてくれませんか?」
     新田航は、裏山の頂上にいる。山に人気は無く、彼がいる場所は広場のようになっているため、見付けるのは簡単だ。
     灼滅者達がそこに着いてから少年が獣の姿になるまで、それほど長い時間は残されていない。声を届けられるのは、僅かな間だ。少年が獅子となってしまった後は、もう戦うしかない。
     けれど、灼滅者達の言葉が心に届いたなら、獣となった彼の力は通常よりも弱まるだろう。
    「航くんは、人の姿を見るとその場から逃げ出そうとします。イフリートの姿になるまでそれほど時間はありませんから、見失う心配はありませんけど……」
    「声を届けたいなら、その辺りにも気を配る必要がありそうですね」
     灼滅者達が新田航を見付けるのが難しくないという事は、彼からも灼滅者達を簡単に見付けられるという事だ。こちらに気付かれた後の、最初の言動が重要になるかもしれない。
     薙乃の言葉に頷いて、姫子は説明を続ける。
    「イフリートとしての航くんの攻撃には、全て炎の効果が付いています。気を付けてくださいね」
     獣となった新田航は、獅子の爪で近くの一列を薙いで炎で包む他、任意の一点に炎の柱を出現させる能力を持つ。また、咆哮を上げ、自らの傷を癒す事もあるようだ。
    「力が弱まったとしても、炎の威力は侮れません。油断はしないでくださいね」
     お帰りをお待ちしています、と微笑んで、姫子は灼滅者達を見送った。


    参加者
    リズリット・モルゲンシュタイン(シスター・ザ・リッパー・d00401)
    宗谷・綸太郎(深海の焔・d00550)
    陽瀬・瑛多(中学生ファイアブラッド・d00760)
    椙杜・奏(翡翠玉ロウェル・d02815)
    霜月・薙乃(ウォータークラウンの憂鬱・d04674)
    埜口・シン(夕燼・d07230)
    安藤・燐花(紺碧の機銃・d17984)
    大和・蒼侍(炎を司る蒼き侍・d18704)

    ■リプレイ


     裏山はまだ蒸し暑かった。少し前に雨でも降ったらしく、傾斜の緩い坂を踏み締める度、湿った音が鳴る。
     幼さ故の残酷さ、とはよく言うけれど。最後尾を歩きながら、安藤・燐花(紺碧の機銃・d17984)は思う。闇堕ちへ至るほど追い詰められたのは、子供達の仕打ちがそれほど無慈悲であったのか、それとも新田航の心がそれほど柔らかかったのか。
     いずれにせよ、惨い事件である事に変わりはない。
     彼の心の傷にならなければ良いけど。椙杜・奏(翡翠玉ロウェル・d02815)の視線の先では、先頭を歩く霜月・薙乃(ウォータークラウンの憂鬱・d04674)が開けた場所に足を踏み入れた所だった。
     新田航は、広場のようになった場所のほぼ中央にいた。ぎゅっと膝を抱いてうずくまった少年に、灼滅者達は足を緩めて近付いて行く。
     足音が耳に届いたのか、俯いていた航がふと顔を上げた。その瞳が灼滅者達を捉え、小さな体が立ち上がる。
    「待って! わたしたち、航くんが犯人だなんて思ってないよ。お願い、話を聞いてくれないかな」
     駆け出そうとした航に、一歩前へ進み出た薙乃が声を上げた。踵を返しかけた格好のまま、少年は動きを止める。
    「迷える子羊の行き先を照らす光、神より遣わされたシスターです」
     リズリット・モルゲンシュタイン(シスター・ザ・リッパー・d00401)が、もの問いたげな航の視線を受けて小さくお辞儀をする。
     後ろに控えた灼滅者達の中で、宗谷・綸太郎(深海の焔・d00550)は彼との距離を目で測っていた。もしも彼が逃げ出してしまったとしても、すぐに後を追えるように。
    「……おれのこと、知ってるの?」
     少し掠れた声に頷いて、薙乃はもう一歩、航に近付く。
     10歳にも満たない少年は、とても小さく見えた。こんな幼い心で、悲しい想いを沢山背負ってしまったのだ。
    「今、怖い想いをしているよね。そのことについてもわたしたちは説明できるし、助けられるから……わたしたちのこと、少しだけ信じて欲しい」
     一つ一つ、少年の心に刺さった棘を取り除くように、薙乃は優しく言葉を紡ぐ。
     航は瞬きを繰り返していたが、やがて体を灼滅者達の方へ向けた。ひとまず、逃げ出すのは後回しにしたらしい。
    「やっていないのに犯人扱いされて、辛かったよね」
     陽瀬・瑛多(中学生ファイアブラッド・d00760)の瞳には、気遣わしげな色が浮かんでいる。
     やっていない事を自分にせいにされて。しかもそれが大切にしていたものなら――尚更辛いだろう。
    「でもここで自分の中の衝動に負けたら、真犯人にも負けることになっちゃうよ」
     兎を守ってあげられるのは君なんだよと、瑛多は航の目を見る。
    「なんでおれを信じるの」
     誰も信じてくれなかったのに、と呟く少年に、リズリットが穏やかに口を開いた。
    「貴方が犯人か否か。貴方が何をしたのか。それは貴方がいちばんよく知っているはずでしょう?」
    「兎を大事に世話してた君が、本当は優しい子だって私たちは知ってる」
     だから――君を救いに来たんだ。埜口・シン(夕燼・d07230)の重ねた言葉に、航の瞳が揺らいだ。
    「炎に捕らわれる気持ちなら、分かるよ。俺も同じように、炎を宿しているから」
     そして俺達は、その獣を消す方法も知っている、と奏は落ち着いた声音で続けた。
    「おれ……人に、戻れる、のかな」
     みし、と何かが軋む音が鳴り、少年の腕がいびつな形に変化する。
    「戻れるよ。君が、獣に負けなければ」
     咎人の鎌を手に、シンは中衛に位置を取る。航の周囲に、細かな火の粉が舞った。
    「逃げて……!」
    「まだ分からないのか? 俺達はお前を助けに来たんだ!」
     前に進み出た大和・蒼侍(炎を司る蒼き侍・d18704)が、日本刀の鞘を払う。瑛多がその隣に並んだ。
    「よーし、安心して。俺達強いから大丈夫!」
     軋む少年の体が肥大化し、見る間に獣へと変じて行く。
     そして、巨大な獅子の咆哮が、裏山に響いた。


     腹の奥底を震わせるような音声が響き、燐花の足元から火柱が噴き出す。
    「熱っ! うわ、絶対髪焦げたよこれ……」
     肌を炙った熱に顔を顰め、燐花は軽く首を振る。一つにまとめた髪が、その動きに伴って揺れた。素早く持ち上げられたガンナイフの切っ先から、暗き想念を宿す弾丸がまっすぐに飛び、獅子の前足を撃ち抜く。
     胸元に下げた十字架のネックレスをそっと握り、リズリットは軽く目を伏せて相対する獅子に祈りを捧げる。
     しかし、その目が再び開いた時、赤い双眸には好戦的な光が宿っていた。
    「灼滅するぞコラァ!」
     きん、と冷えた音を鳴らして、日本刀が引き抜かれる。前へ踏み込んだ姿勢は、今にも獅子へ切り掛からんばかりだ。
    「リズリットさんは回復役なんじゃ?」
    「そうでした」
     隣の燐花の一言で、リズリットは姿勢を正す。今日の彼女はメディックなのだ。
    「あれ食らったら、きつそうだね」
     ローブの裾を翻し獅子へ接近した瑛多が、マテリアルロッドを叩き付ける。彼の言葉に頷いて、綸太郎は手の甲に触れエネルギー障壁を展開した。
    「でも、威力は落ちてるみたいだ」
     がつっ、と手に伝わった衝撃は、盾が獅子の体を抉った証。鋭い眼光が怒りを宿して綸太郎を射抜いた。
     カチリ。歯車の音は、奏のハルベルトから聞こえた。炎に揺らぐ穂先が獅子の足に突き刺さり、火の粉を散らす。
     薙乃が紡ぎ出したのは、赤の逆十字。血の色に似たオーラに裂かれる獣の声を聞けば、胸の奥に鈍い痛みを覚える。
     叶うならば、傷付けたくない。けれど、航を救うためには、目の前の獅子を倒さなければならないのだ。
     シンの鎌が風を切り、獣の肩を深く穿つ。死の力に蝕まれる獣の体を、蒼侍の刀が斜めに切った。
     獅子の前足が、怒気を孕んで地を叩く。炎の柱が貫いたのは、綸太郎だった。リズリットの掌から夜霧が溢れ、彼を包んだ炎を鎮める。
     轟、と唸りを上げたのは燐花のガトリングガン。瞬く間に撃ち込まれた弾丸に、獣の身を包む焔が勢いを増した。
     必ず助けるよ。そう言う瑛多の拳にオーラが満ち、獣の脇腹を打ち据える。
     誰も信じてくれなかった。それは、どれほど辛く苦しい事だろう。
     綸太郎の指先が、揺れる琥珀にほんの一時だけ触れた。言葉にしなくても、信じてくれる人がいる。綸太郎には、それを教えてくれた友がいた。その存在に、いつも救われている。
     新田、と拳に輝きを宿し、綸太郎は獅子へ呼び掛ける。
    「君は、独りじゃない」
     体重を乗せた一撃が、太い足の側面を強かに打った。
     子供の気持ちを全て理解出来る訳ではないけれど。ハルベルトを振り上げる奏の瞳が、獅子の目を見上げる。
     こんなに悩む君は、優しいんだろうね。獣を抉る切っ先が、また新たな炎を生む。
     逃げて。
     獣に変わる直前、少年はそう言った。
    「航くんも、戦ってるんだね」
     薙乃は獅子との距離を詰め、バスターライフルの銃口を押し当てる。緋色のオーラを宿した弾丸が、獣の力を吸い上げた。
     ひらり。シンの足元から黒影の蝶が生まれ、鋭い刃と化して獅子を裂く。
     負けるなと、蒼侍が声を上げた。
    「その恐怖に負けたら、お前は二度と家族に会えないぞ!」
     自分と同じ境遇にはしない。
     刃が決意を秘めて、まっすぐに振り下ろされる。
     応、と、獣が吼えた。


     咆哮によって獅子にもたらされた癒しの力は、灼滅者が想定していたよりは強くなかった。打ち込まれた断罪の刃が、うまく効果を発揮しているらしい。
     燐花がガトリングガンのハンドルを回し、弾丸を連射する。リズリットの足元から伸びた影に、巨大な獣の体がばくんと呑み込まれた。
    「自分の中の衝動に負けるな!」
     瑛多のマテリアルロッドが寄生体に飲み込まれ、彼の腕が巨大な刀に変化する。青い刃は鋭い音を奏で、獅子の腹を切り裂いた。
    「新田、孤独を感じないで」
     綸太郎が日本刀を上段に構える。
    「クラスの奴が信じなくても、俺は信じてる」
     振り下ろされた刀の軌跡は、言葉と同じくまっすぐだった。清冽な光を放つ刃が獣の爪を傷付け、硬い音を響かせる。奏のハルベルトが弧を描いて、獅子の足元に逆さの十字を紡ぎ出した。薙乃がバスターライフルの引き金を絞り、同じ十字を重ねる。
     ぐう、と絞り出された声は苦悶か怒りか。
     内に潜む闇に怯えるのは、シンも同じだ。けれど、この力が誰かを守るために使える事を、彼女はもう知っている。
     だから、君にもどうか。
    「航、自分の中の獣に負けないで!」
     ゆらめく炎のたてがみを掻い潜り、シンは縛霊手を振り上げる。紅の縅が火の輝きを受けて、夕日めいた色に踊った。
     獅子の前足を捕らえた腕は網状の霊力を放ち、獣の身をきつく縛る。戻って来いと、蒼侍が炎を宿した斬撃を叩き込む。
     獅子の体から新たな炎が噴き出して、霊力に戒められた足がふらつく。しかし獅子は唸りを上げ、獣の爪を横に振り抜いた。前衛を担う灼滅者達が炎に包まれる。
     燐花はガンナイフの切っ先を獅子に向け、引き金を引く。乾いた音を立てて発射された弾丸は、獣の足の付け根を貫いた。リズリットが霧を呼び、仲間を炎から救い出す。
    「君の心を焼き払わせて貰うよ」
     クラスメイトに疑われ、傷付けられても。真面目な彼は、仕返しなんて事は思わないだろう。優しい少年の心に、獅子など必要無い。
     奏の一撃が、獣の脇腹を深く抉った。
    「大丈夫、あともう少しだよ。だから負けるな!」
     瑛多のマテリアルロッドから獅子の体に魔力が流れ込み、内側で暴れる。
     苦しみの全てを理解する事が出来なくても、その気持ちを分かり合いたいと思うから。綸太郎の日本刀が、獣の瞳に向けて構えられる。
     帰っておいで。
     曇り無き一閃が獅子を裂き、巨体が地に倒れ臥した。


     獣の姿が消えた後、その場には少年の姿があった。
     助けられた。その事実に、蒼侍は胸を撫で下ろす。他の皆も安堵の息を吐いて、力尽きたようにへたり込んだ彼の側へ駆け寄った。
    「お帰り、新田」
     身を屈め言う綸太郎に、ただいま、と小さく航が答えた。
    「大丈夫、貴方の中の獣は、もういない」
     もう怖くないとリズリットが柔らかな声で口にすれば、瞬きを繰り返した少年の瞳から涙が零れる。シンは彼の頭を優しく撫でると、ハンカチでその頬を拭った。
    「……うさぎ」
     ハンカチに刺繍された柄に気付き、航が呟く。灼滅者達を見上げる眼差しからは、もう怯えの色は消えていた。
    「さあ、元気を出していこうよ」
     ちゃんと話せば周りも分かってくれるよと、瑛多は明るく笑う。
    「戻るのが辛いなら、俺達の学園においで。同じように捕われた人が沢山居るから」
     新たな場所で、また一から始めるのも、一つの手だろう。奏はそう思う。もちろん、決めるのは航自身だけれど。
    「ボク達の中にも、『獣』がいるんだ。だから君とおんなじ」
     君が苦しんでた事も分かるよと、燐花はパーカーのフードを被った。
    「おいで、一緒に行こう」
     シンが柔らかに紡ぎ、薙乃が彼にそっと手を差し伸べる。
    「これからも、みんなで一緒に頑張っていこう?」
     一度。二度。
     深い呼吸をした後で、航はためらいがちにその手を取った。
     一緒に、生きたい。
     それが、獣から人に戻った少年の答えだった。

    作者:牧瀬花奈女 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年9月14日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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