白球を追いて

    作者:佐伯都

     かきぃん、と青空に白球が舞い上がる。しかしながら綺麗な放物線を描いて落ちてきた先は、外野のグローブの中央。
     外野フライに討ち取られ三者凡退となった選手たちが、落胆の色を隠せないまま一塁側ベンチに走っていく。
    「いいねぇいいねぇ青春だねえ! あおいはるだねえ!」
     流れる汗と薫る風! 青空に太陽、キンキンに冷やしたスポーツドリンクがうまい!
    「せいーっしゅんはーぁ、あっおーいはるーっとかっくーのさー」
     出鱈目な歌を口ずさみながら、青い芝がまぶしいグラウンドへ踊るように踏み込む。どこかの中学の野球部、見るからにどちらも弱小っぽい雰囲気満々なほのぼの練習試合。
     いいねいいね、ぴゅあぴゅあな若人がいっぱいだね!
    「はーるーをうーるっとぉー、かーいちゃっ、だめぇー」
     ノンノン、それ犯罪。
    「ちいっさーいはーると、かーいてぇーも、だめーっ」
    「あの、すみません。観戦希望ですか? 今試合中なんですけど……」
     試合中の野球グラウンドに歌いながら入ってきた闖入者へ、顧問とおぼしき四十代ほどの男が声をかける。紺の襟に白の二本線、何かごわごわして見えるスカーフはエンジ色。
    「なっぜなーら、ちいーさーいはーるはっ」
     セーラー服姿の女子高生、としか見えない彼女は無造作に右手を閃かせた。顧問の首がごとりと音を立てて地面に落ちる。 
    「こっはーるちゃーんーの、なーーまえーだーから♪」
     
    ●白球を追いて
     とある中学で行われている野球部の練習試合に六六六人衆が現れる、と眼鏡のエクスブレインが端的に語った。その序列は六〇七番。
    「野球場はボールが飛び出さないよう高いフェンスで囲まれていて、霜月・小春(しもつき・こはる)は本塁付近の出入り口から内部へ侵入する」
     コピー用紙に扇状に広がった見取り図を描いたエクスブレインは、弧になった部分の中央へサインペンの先を置いて眉をしかめる。
    「物騒な事件も多いからな。仕方ないっちゃ仕方ないんだが、この野球場への出入り口は小春が侵入する本塁付近と、この外野……センター付近のもう1箇所しかない。さらに悪いことに使用中は不審者を防ぐために南京錠で施錠される決まりになっていて、野球部員たちは一方的に殺戮される、ってわけだ」
     ……このまま放置するならな、と低い声で告げてからエクスブレインが顔を上げた。
    「そして霜月・小春はお前達が来るのを待っている。最近の六六六人衆の流行りだな」
     灼滅者を闇へ突き落とせるかどうか、それすら楽しむ悪趣味極まりない殺人遊戯。キュ、と音を立ててサインペンのキャップをしめながらエクスブレインは続けた。
    「フェンス内にいるのは補欠含めた野球部員13名ずつと引率の顧問2名ずつ、審判が各塁に1名ずつであわせて4名、それから保険室顧問が1名で計35名」
     フェンス外には観戦中の一般人もいるが、小春が最初の犠牲を出した後に逃げはじめるので考慮の必要はない。小春自身も逃げ場を失った野球部員達を虐殺するほうが楽しいようなので、フェンス内の対処に注力すべきだろう。
    「バベルの鎖をくぐれるタイミングは、小春が逃げまどう部員を追って二塁付近まで進んだ時しかない。その時にはもう数名の犠牲が出ているはずだから、死者をゼロに抑えることは不可能だ」
     生存者は小春に追われ全員外野方向へ向かっているので、本塁側の出入り口から侵入するのは簡単だ。そして、カードを解放した灼滅者ならフェンスは苦もなく飛び越えられる。
    「もちろんフェンスを蹴破ったっていい。生存者の保護のために何人かで分散して残りは入り口から、ってのも当然アリだ。そのあたりをどうするかは任せるが、状況が状況だけにどの案も一長一短になるだろうな。だから、よく考えてほしい」
     小春は解体ナイフと影業、および殺人鬼のサイキックを行使して殺戮の限りを尽くす。
     彼女の真の狙いは灼滅者の闇墜ちなので、無理に灼滅しようとはせず撤退に追い込めれば成功と言っていい。だが、闇墜ちをしなかったとしてもあまりにも犠牲が多い場合は、言うまでもないだろう。
     ま、難しく考える必要はないさ、と言いおいて眼鏡のエクスブレインは表情を和らげる。
    「大事なのは、犠牲が少なく済むよう力を尽くすってだけだ。結果なんて、あとからついてくる」
     その上で、奈落に墜ちる者がいなければ望ましい。ただ、それだけのことだ。


    参加者
    科戸・日方(高校生自転車乗り・d00353)
    カマル・アッシュフォード(スケベ大王・d00506)
    ミゼ・レーレ(訃音を告げし鴉・d02314)
    雪片・羽衣(朱音の巫・d03814)
    桃地・羅生丸(暴獣・d05045)
    シア・クリーク(知識探求者・d10947)
    神楽・紫桜(紅紫万華・d12837)
    曙・加奈(雲に手を伸ばす氷華の道化・d15500)

    ■リプレイ

    ●壱
     野球場へシア・クリーク(知識探求者・d10947)達が到着した時には、むせ返りそうなほどの血と何かの臭いが漂っていた。
     反狂乱になって逃げていく生徒や保護者とおぼしき人の波をすりぬけ、ミゼ・レーレ(訃音を告げし鴉・d02314)はふと仮面の感触を確かめる。この仮面を外すことは、可能なら避けたかった。
     本塁付近で何かの冗談のようになっている顧問らしき男性。そこかしこにもう生きていようはずのない人体やその一部、そうであったはずの雑多なモノ、がぶちまけられ血溜まりが広がっている。
     聞こえてくるのは完全にパニックになっている多くの悲鳴と、でたらめな歌声。
    「女の子と戦うのは趣味じゃないんだが……まあ、ちっとばかしやりすぎだわな、ありゃ」
    「グラウンドを血に染めるたあ、野球好きとしては許せねえ所業だ……オイコラァ! 残ってる奴等に手出しはさせねえぜ!!」
     カマル・アッシュフォード(スケベ大王・d00506)が呟く横で本塁側の出入り口に手をかけ、殺戮者の気を引くように桃地・羅生丸(暴獣・d05045)が大喝した。ぱっと黒髪をひるがえして小春が振り向く。
    「やあお嬢さん、俺達を待ってたんだろ? じゃ、始めようか!」
    「きったねーきたきった、すーれいっやあー!」
     相変わらずのいいかげんな節回し。
     曙・加奈(雲に手を伸ばす氷華の道化・d15500)が神楽・紫桜(紅紫万華・d12837)に続いて突入していくのを横目にしながら、シアは突入したことを告げ携帯の通話を切る。これで外野付近に潜んだ科戸・日方(高校生自転車乗り・d00353)と雪片・羽衣(朱音の巫・d03814)も動き出すはずだ。
    「おっじゃましまーす、ボクたちとセーシュンしようよ!」
     破砕音を立ててシアがフェンスを蹴破ると、……なぜだろう、目が合った。
    「小春ちゃんだっけ? ゲームの招待状、ありがとうね。いっぱい遊ぼう!」
    「……あっはぁ?」
     すっと周り空気が冷えるような、血が下がったような、何ともいえない嫌な予感。
     小春の様子に何かを感じつつも、羅生丸は殺界形成を発動させつつ一直線に二塁方向へ走る。
    「よう、かわいこちゃん! そんなゲームなんかより、俺と一緒にデートしねえか?」
    「でーえとっは、ひーっとりぃじゃ、でーきなーいーのーっ」
     突入の瞬間にはなかった、恐ろしいほど艶然とした笑顔。
     小春は本塁側から突入した六名の灼滅者を一瞥すると、そのままセンター付近で混乱と恐怖のあまり足腰が立たなくなっていた部員のひとりへ踊るようなステップで近寄り、無造作に喉元を抉る。
     エースナンバーをつけた少年が首元から血泡を噴いた。
    「だーってだって、まちあわせーは、じゅっぷんおっくっれー」
     ……紫桜は思わず目を見張る。その歌詞は。いや、まさかそんな。
     何分遅れで突入、などと申し合わせていたわけではない。現にたった今、十分などと悠長なことをせず日方と羽衣がフェンスを蹴破ったところだ。
    「ほんっと絶対、青春を履き違えてるわ……さあこっちよ! 逃げて!」
    「よーういしてーいたー、さっぷーらいずーはーっ」
     漠然と感じていた嫌な予感、が今具現化しようとしていることをミゼは唐突に思い知らされる。
     待ちやがれ、と喉元まで出かかった羅生丸の声は消えた。永遠に。
     南京錠を破壊しようと施錠された出入り口に駆け寄った羽衣が見たものは、どす黒く不吉な殺気の奔流。そのサイキックが何であったかを思い出す前に、羽衣は自分が絶叫をあげたことを知る。
     羽衣への鏖殺領域の巻き添えを食らった野球部員の血を点々と張り付かせ、殺戮者は肩越しに振り返った。その視線はまっすぐに灼滅者を射抜いている。
    「おーあずっけみったいーね、まーいだーりん♪」

    ●弐
     奇襲とは相手の隙や不意を突く、あるいは奇策を用いることで成立する。しかし小春はそもそも灼滅者が来るのを待っていたのだから、灼滅者の来襲は想定していて当然だったのだ。
     今更ながらそのことに気付き、加奈は歯噛みする。
    「あっは、さすが半端者。なにもかもちょぉ半端!」
    「おしゃべりしていていいのかよ、楽しいゲームの時間なんだろ!」
     カマルと羅生丸が猛然と仕掛けてくるのを素早い動作でかわしきり、小春は唐突に笑顔を消した。
    「さっきから何言っちゃってんの? 楽しんでいいのはあたしだけでしょ?」
     見下す傲慢でも、平常心を突き崩す煽りでもない。心底から文字通りにそう思っている、といった風情で小春が呟いた。背を見せていたタイミングでミゼがデスサイズを叩きつけるが、セーラー服の肩を裂かれても殺戮者は止まらない。
    「俺らチョー強いしケータイで連絡しあってちょっぱやで片づけるし! なぁんて甘いよね? だだ甘だよね? そう思うよね?」
     んふーん、とミゼに向き直った小春がアヒル口で笑う。加奈の斬弦糸も思うようなダメージが入っているとは思えなかった。
     フェンス際、何もかもが桁違いにすら思える鏖殺領域を真正面から食らった羽衣へ、日方がワイドガードで傷を癒す。
     そして、巻き添えになった部員にもし命があればこれで、という一縷の望みもことごとく潰えた。目の前で仲間を不可解な力で惨殺され、さらに部員に恐慌が広がる。
     灼滅者ですらこれだけのダメージ量だ、一般人なら食らった瞬間サヨウナラ、という事だろう。
    「これ以上、誰の命も心もこぼしてたまるか……!」
     すでに人の形状を成していないものも多く、日方は死者を最初から除外し生存者のみを数えた。小春がカマルを影縛りでグラウンドへ縫い付けた瞬間を狙い、羽衣は地面を蹴って飛び出す。今度こそ失敗は許されない。
    「早く逃げるのよ! 立って、ほら!!」
     自分の腕を伸ばすことすらもどかしく、羽衣はリングスラッシャーで南京錠を力まかせに叩き切る。赤錆の浮いた扉が甲高い音を立てて開き、その音で半数ほどがそちらを向いた。
    「動ける奴! フェンスの穴でも出入り口からでもなんでもいい、外へ逃げろ! 立て!」
    「走って! 前だけ見て、逃げる事だけ考えて!」
     こちらからだと委細はわからないが、二塁付近での足止めに失敗し小春は外野の中央部分を射程内におさめている。まずは一秒でも早く射程外へ逃がさなければ。
     日方と羽衣の懸命な叱咤が実を結んだらしく、生存者たちがようやくフェンス外へと動きはじめた。35名だった一般人は、今の時点で25名。
     うち8名ほどが、ライト、レフト付近で恐慌状態で動けなくなっているか、小春がセンター方向へ進んだことで本塁方向へ逆進している。それを全員誘導するのに成功したとしても、攻撃が漏れればデッドラインにはぎりぎりか。
     ……俺は能力も心も強くない。だからできる事は全力で全部、やってやる。
     脱出口周辺の誘導を羽衣に任せ、日方はレフト方向へ走った。本塁側の6人だけで長時間小春を押さえ込むのは至難の業だろう。広範囲に散らばった生存者の回収を急がなければ、それだけ戦況が小春に傾くのは火を見るよりも明らかだった。

    ●参
     立てた作戦にどんな綻びがあったのか、それを検証して悔やむのなんて後回しでいい。視界の端で日方が走っていくのを捉えた紫桜は、羅生丸ら前衛のダメージ量を冷静に見極めて回復を飛ばす。
     今はとにかく、堪えることだ。
    「野球少年なんかほっといて俺達と遊ぼうぜ!」
    「あのさぁ……」
     邪魔だと言わんばかりに血濡れた髪をひとつ振り、小春はカマルを肩越しに見上げた。
    「あいつら殺されたくなくて必死なのはわかってるからさぁ」
     至近距離からのレーヴァテインは、わずかな身体のこなしでかわされる。その勢いを殺さず反転するようにして繰り出された小春の下段回し蹴りには、黒死斬が上乗せされていた。
    「さっさと墜ちたら楽になれるよ?」
     何人か墜ちたら、多分さくっとあいつらなんとかなるよ?
     片脚がそっくり全部持って行かれたかと思うような衝撃に、カマルは瞠目する。
     灼滅者とて、己の耳で自分の片脚が粉砕される生々しい音を聞くことなど滅多にないだろう。すぐに紫桜からと思われるシールドリングが施されるが、カマルは振り返りもしない。
     見返る暇があるなら、小春を止めるほうが何倍も先。
    「……へっ、そうこなくっちゃ面白くねえ。もっと熱く激しく殺り合おうぜ!」
     意識し外野方向を背にする位置取りで、羅生丸は己の血にまみれながらもひたすら小春を攻め立てる。墜ちればなんとかなる、口惜しいがそれは真実で、真理だ。動かせぬ現実と言ってもいいかもしれない。
     しかしそれだけは羅生丸の信義に悖る。闇墜ちを良しとしたら最後、それは羅生丸にとって己の弱さを肯定することだ。
     それだけは灼滅者である羅生丸には譲れない。絶対に、譲るわけにはいかないのだ。
     あらためて眺めやれば、誰もがいつのまにか無視できない傷を負っている。ただでさえ強敵と表現される六六六人衆、それを相手にして長い時間これだけの人数で抗きれるものではない。
    「ふふ、愉しいね。どっちがゲームに勝てるかな?」
    「球児たちの青春を台無しにした報い、受けていただきます」
     やや離れた位置からシアの制約の弾丸が撃ちこまれ、羅生丸に解体ナイフを向けようとした小春の目が一瞬不自然に揺れたのを加奈は見逃さなかった。カマルが体勢を立て直そうと数歩距離を置いた所へすべりこみ、封縛糸で追い打ちをかける。
     振り下ろされようとしていた小春の右腕ががくん、と急停止した。
     なぜか大きく回り込む形で立ち位置を変えたミゼが、その喉元に咎人の大鎌『紫翼婪鴉の紅嘴』を向ける。
    「時機弁えず問う」
     彼の問いは確かに、タイミングを全く考慮せずに発せられたものと聞こえた。日方と紫桜、そして小春を挟んで反対側に立つカマル以外には。
    「その襟巻が血で糊付くまで、一体何人屠った?」
    「ハァ? 何言ってんのあんた、わけわかんない!」
    「血桜を舞わせる生臭き春風、と言う所か」
     あらかじめ用意していた返答。小春から真意を聞くことなど、はなから意図していなかった。
     小春の肩の向こう側、日方がわずかにミゼへ視線を投げて離脱してゆく。恐らく小春の射程ぎりぎりだった、最も外野側出入り口から離れて動けずにいた生存者を抱えるようにして。
    「実に醜悪だな」
     射程から完全に外れたのを見届け、ミゼは小春の喉元を掻き切るかのような黒死斬を仕掛ける。封縛糸がまだ残っていたのか、身をよじるようにしてクリーンヒットこそ避けたものの、小春はそこで初めて苦痛の叫びを上げた。
    「これ以上、殺させはしませんよ?」
    「……調子にっ……乗ってんじゃないよ!」
     獣じみた咆哮だった。だらだらと鮮血を流す喉元へ指先を這わせ、小春は頬を歪めるようにして笑う。まだ笑う余裕があるのかと一瞬紫桜は考えるが、すぐにそれを改めた。
     余裕、ではない。そんなものではない。
    「あっははは、もうやめ、やーめーた。ぜんぶこーろす」

    ●死
     余裕などよりもっとタチの悪いもの。殺人技巧を極めた者たちの本気、あるいは怒り。
    「闇堕ちさせたいんでしょ? ほらほらっ、楽しませてよ!」
    「しにたいか」
     明らかに小春の様子がおかしいことに気付き、羅生丸はシアへ歩み寄ろうとした小春の進路を塞ぐように立ちはだかった。
    「お楽しみはまだこれからだぜ、もう少しつきあってもらおうか」 
     血に濡れ、乱れた髪の間から、ぎらりと尋常でない眼光が覗く。
     小春を中心にして巻き上がった風の音、と思われたものは数多の怨嗟の声だった。烈風、ならまだ可愛いほうだと言えただろう。
     耳を聾する轟音、と聞こえるほどの呪詛の叫びなど、灼滅者の誰もが耳にしたことなどなかった。
     一直線に灼滅者達を襲ったヴェノムゲイルの毒嵐は、小春の六六六人衆として背負ってきた怨嗟の深さを知らしめるに十分すぎた。至近距離で直撃を浴びた羅生丸は言うに及ばず、線上にいたカマルとシアがなすすべもなく膝をつく。
     全身の血液が沸騰しているようだ。目すら開けていられない。
     すぐさま紫桜がフォローに回ろうとするが、ヴェノムゲイルの前から長いことダメージを蓄積していた羅生丸の回復量がどう考えても足りなかった。
    「行かせぬ」
    「ああ、……」
     そういえば、と気怠い様子で小春は新たに立ちふさがったミゼと加奈を眺めやる。
    「もとはまっしろだった」
     黒とも思えるようなエンジ色。襟元を禍々しく飾るスカーフをつまみあげ、小春は妙に平坦な声音で続けた。
    「いつも、ふく」 
     何を拭いた、と考えた一瞬に、血濡れた指先がひどく華麗に舞い上がる。鏖殺領域。
     羽衣の慟哭に似た叫びがやけに遅れて聞こえた。その意味は、彼女を見ずともなんとなく理解してはいる。熱に似た焦燥感が突き上げてきた。
    「わたしの」
     わたしの、何を、拭いた。
    「行かせないっ……」
    「だから」
     無言のままミゼは力まかせに加奈の襟首を引く。今の状態で小春の黒死斬の直撃を受ければひとたまりもない、ならば少しでも命を拾う可能性のある自分が。
     叩きおろされた衝撃で膝が砕ける。乾いたグラウンドへ赤い雫が数え切れないほど落ちていき、あっという間に血溜まりを作った。
     加奈の声が遠くに聞こえる。スローモーションのようにミゼの眼前を小春が歩み進んでいった
     日方が、走り回って回収してきた生存者たちを、押しやるようにして出入り口へと急かしているのがわかる。
     何もかもが、もう、夢のよう。
    「必ず止めねばなるまい。虐殺も」
     もう鎌を支える力もない。仮面の下の呟きは誰にも聞こえない。
     混乱する脱出口へ小春が再度の鏖殺領域を放とうとした瞬間、ぶわりとミゼの黒衣が大きくはためいた。冷水を浴びせられた思いで紫桜が瞠目する。
    「馬鹿野郎がっ……!!」
     グラウンドに爪を立てて羅生丸が吠えた。
     知っている。その苦しみも痛みも全部知っている。その選択の重さもすべて知っている。
     かつて墜ちた深淵、あの淵を覗いた者の決意を、思いを忘れてはいけない。
    「迎えに行くから」
     ここからでは届かない。むしろもうその耳には聞こえていないかもしれない。
     それでもシアは喉も張り裂けんばかりの声をあげた。
    「必ず!」
     血まみれの指が、その単眼の仮面にかかる。にじみだすような浮き上がるような、不思議な高揚感を誘う闇の匂い。
    「あっはははは! はは、ははは、あっはははは……!」
     小春が肩を震わせて笑っていた。
    「必ず、迎えに行くから……!!」 

    「誰も堕ちて欲しくないが故、私が堕ちる……矛盾は承知の上、自己犠牲などとは言わん。……これが私の意思だ!」

     ふと灼滅者たちが我に返った時には、小春の姿はもちろんミゼの姿もどこにもなかった。
     残ったのは惨劇の爪痕と喪失感。 
     そして長い長い、帰りを待つものの、涙まじりの祈り。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:ミゼ・レーレ(メタノイア・d02314) 
    種類:
    公開:2013年8月4日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 16/感動した 2/素敵だった 2/キャラが大事にされていた 1
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