背負うは弁天

    作者:立川司郎

     最初はほんの少し、悪ぶってみただけだった。
     喧嘩を繰り返して、族のメンバーになって、気付いたら自分はその族のミカジメを回収する側に立っていた。
     悪というには、こころが小心者である。
     背中に弁天を背負っているが、好きな女に贈り物一つ出来ない気の小さな所がある、だから小弁天。
     彼は小弁天と呼ばれた。
     呼ばれても、それを本気で嫌という様子もなく、上からも下からもからかわれ気味であった。
    「弁天、お前『こんなん』でどうするんなァ?」
     溜息をつきながら、兄貴分のロクが言った。
     彼はここ最近上がりが少ない事を気にしていた。警察の締め付けが厳しくなってから、族も減った。
     上がりは少ない。
    「お前の出来る事言うたらミカジメ集める事しか無かろうが?」
    「はぁ、そりゃあ皆にもよく言うとるんですが、最近景気悪うてバイク乗る奴も居らんのです」
     言い訳してみたが、かえって殴られた。
     殴りつけ、ロクは転がった弁天に言った。
    「弁天、お前を養う程うちも景気良うないんじゃ、代わりにお前のツレ預かる」
    「え? ちょっ……」
     弁天の抗議も聞き入れられず、弁天が高校の時から連れ添っていた女がロクの嬲り者にされた。
     気付くと、女はいつのまにかロクの後ろをついて歩くようになっていた。
     長年弁天の背中にしがみついていた女も、金と力には勝てやしない。
     ざあざあと降りしきる雨の中、弁天は考えた。
     考えに考えた結果、けらけらと笑い出した。
    「そうじゃ、わしが強うなったらええんじゃ。わしが強うなって、何もかも奪い返してやる!」
     弁天は叫ぶと、まず真っ先に事務所に飛び込むとロクに爪を立てた。頭に角を生やし、体は以前の倍ほどにふくれあがっている。
     手には鋭い爪が生え、ロクの肉を裂き血しぶきを上げる。血まみれになりながら、弁天はロクの血を飲み肉に食らいついた。
     ただ、女は悲鳴を上げてへたり込んでいた。事務所の若い連中や組長も呆然としており、逃げる気力すら無く弁天の歯牙に掛かった。
     そして、血と肉片の散乱する事務所にぽつん、と立ったのである。
     事務所を血まみれにし、肉を食らっても弁天の心は収まらない。手は震え、何かの衝動が突き上げていた。
    「足らん……わしの力は、まだこんなもんじゃない。わしの力……」
     弁天は、虚ろな目でフラリと歩き出した。
     
     神妙な面持ちで、エクスブレインの相良・隼人(高校生エクスブレイン・dn0022)は、白い扇子で膝を叩き続けていた。
     パシパシと乾いた音が、道場に響き渡る。
     あぐらをかいた隼人は、しばしそうしていたが、全員揃うとふと顔を上げて口を開いた。
    「実は、刺青を持つ者が羅刹化するという事件が起き始めている。その原因が何なのか、詳しくは分かっちゃいない。だが、その裏にゃ強力な羅刹の存在も確認されてるって話だ」
     強力な羅刹の介入は不安要素であるが、羅刹の被害は防がねばなるまい。
     隼人が話したのは、広島の中心部で起こる事件であった。元々暴走族からミカジメ料を取っていたヤクザの小弁天と呼ばれている男であったが、未来予報では羅刹化して事務所を襲撃するとされている。
     しかし、これでは事務所内での乱闘になるのか?
     灼滅者の問いかけに、隼人が首を振った。
     冷たい表情で、隼人が話しを続ける。
    「いいか、今回の事件はこの襲撃前に小弁天に接触する事から始まる。奴は広島の繁華街……流川あたりをウロウロしているから、どこか適当な所に連れ出して、まず殴り殺す」
     え?
     皆の声が揃った。
     今、隼人は何と?
    「殴り殺せと言ったんだ、耳かっぽじってよく聞け」
     隼人の提案に、あからさまに不信感をあらわにする灼滅者達。だが、やらねばならない。隼人の話はさらに続く。
    「奴はその後、羅刹として復活する。悪いが、事務所で血祭り起こすまで待っちゃ居られねぇんだ。そこでとっとと羅刹化させて、片付けてこい」
     しん、とその場が静まりかえった。
     隼人は扇子を弄びながら、口を閉ざす。
     それから、じっと皆を見まわした。
    「……実はこの一件、どうも強大な羅刹が背後をウロウロしている気配がある。あんまり長引いたり目立った行動をしてると、奴に気付かれちまう。出来るだけ目立たず、手早く片付けて帰って来い」
     その為に、小弁天を連れ出して復活させるのだと隼人は言った。
     手段は選んで居られぬ。
     そういう、事だ。


    参加者
    一・真心(幻夢空間・d00690)
    笠井・匡(白豹・d01472)
    森田・依子(深緋の枝折・d02777)
    片月・糸瀬(神話崩落・d03500)
    芦夜・碧(無銘の霧・d04624)
    戒道・蔵乃祐(酔生夢死・d06549)
    三園・小次郎(カキツバタの花言葉・d08390)
    朝霧・空(土蜘蛛・d15050)

    ■リプレイ

     流川は、広島市内の繁華街の一つである。一方通行の道の多い広島市内において、夜はこの流川も人で溢れる。
     携帯でマップを確認しながら、戒道・蔵乃祐(酔生夢死・d06549)はふと空を見上げた。曇天から零れるように、滴る雨。手を差しだして水が跳ねるのを見ると、片手に持っていた傘をパッと差した。
     行き交う人々も、雨の気配を感じて足を速める。
    「雨、降ってきましたよ」
     蔵乃祐が声を掛けると、道を確認していた森田・依子(深緋の枝折・d02777)が振り返った。まだ雫雨であるが、そのうち本降りになって来るだろう。
     依子は道を指して、先を急く。
    「この先のようです。地図でも集会所の傍に広場がはっきり見えますから、すぐ曲がったら見えると思いますよ」
     流川通りの傍に戦闘に適した場所があった事は、幸いであった。今は地図で上空からの写真も確認出来るし、比較的障害物のない駐車場や公園といった施設は見つけやすい。
     一・真心(幻夢空間・d00690)、笠井・匡(白豹・d01472)、片月・糸瀬(神話崩落・d03500)、朝霧・空(土蜘蛛・d15050)、そして依子と蔵乃祐の6名は、呼び出しを三園・小次郎(カキツバタの花言葉・d08390)と芦夜・碧(無銘の霧・d04624)に任せて場所取りに向かっていた。
     少し離れた所に交番があるのは気になるが、戦闘に入ればバベルの鎖の効果で警察の所まで情報が伝播する事はないだろう。
    「うん、良さそうだね。場所のアドレス、二人に送っておこうよ」
     真心が言うと、依子は周囲を見まわした。すうっと微笑して依子が軽く手を振る。
    「それでは私は残った人達を追い払っておきますね」
    「……ああ、それじゃあ手伝おうか?」
     手伝った方が良さそうだ、と依子の視線から察して蔵乃祐が歩き出す。王者の風の力を持ち合わせたのは、依子と蔵乃祐だけである。
     座って話していたカップルに声を掛けて丁重に追い払い、眠っていた酔っ払いには空が魂鎮めの風で眠らせた。
     蔵乃祐は碧にメールを送り、傘を肩に掛けた。
     雨脚は強まる一方で、小弁天が来る頃には本降りになっていそうだ。
    「そろそろ、接触出来たでしょうか」
     空が呟くと、傘を持ち合わせなかった糸瀬は舌打ちして溜息を漏らす。雨が凌げる立体駐車場でもあればと思ったが、平面駐車場はどこも埋まっているようだ。
     車を傷つけちゃめんどくさい、と呟く。
    「まだ来ねぇのか? 余計なのが来る前に片付けたいぜ」
    「そう……ですね」
     空はそんな事が無ければいいが、と思いつつも乱入者について考えていた。一体何がどうしてこうなったのか、自身が羅刹だった身としては気になって仕方ない。
     そこに潜む強大な存在を、恐れつつも興味を抱くのは恐らくここにいる灼滅者みなそうなのであろう。
     降り続く雨に目を細め、空はその時を待つ。

     その頃、小次郎は碧とともに小弁天を探していた。風貌については既に隼人から聞いている為、この流川通りから目的の人物を探すのはさほど難しくはなかった。
     何より、小弁天という名前を知る者もここには多い。
     時間の関係上バイクを持ち込む事が出来なかったのは残念だが、それ無くしてもこの近くまで連れて行く位は出来よう。
     意を決し、小次郎は足を踏み出した。
     背中を丸めるようにしてのそりのそりと歩く、その人影を正面から見据える。ジャージ姿にサンダル、というよく見るチンピラの風体をした小弁天は、小次郎と碧が立ちはだかるとじろりと睨み付けた。
    「……退け」
    「弁天さん、ですよね? 急にスンマセン」
     出来るだけ愛想良く、小次郎は声をかけた。
     小次郎の腕を組んだ碧は、片手で携帯を弄りながらちらりと弁天を見る。低姿勢で小次郎は自分の名を名乗ると、最近バイクを乗り出した事を告げる。
    「最近よそ者が増えてるらしくて、今もあっちに居るらしいんですよ」
     と、小次郎はメールで聞いた待ち合わせ場所の方を差す。
     自分達で袋だたきにして、バイクはバラして売ればいいと小次郎は話した。実際には小次郎も広島訛りのないよそ者である為、弁天に突っ込まれてヒヤリとしたが。
    「でもぉ-、弁天さんって凄い人なんでショ? 碧、強い人チョー好き」
     碧が話に絡むと、弁天はそれ以上突っ込む事はなかった。
    「まぁ、よそ者放っとく訳にもいかん。どこじゃ、案内せえ」
    「こっちだよ、弁天さん。コジくんも早く早くぅ」
     きゃらきゃらと笑いながら、碧が手を引いた。片手に持ったままの携帯電話で、仲間に連絡を取るのも忘れはしない。
     メール内容は……。

    「釣れた、だそうです」
     碧からのメールを、依子が皆に読んだ。
     ただ一言であったが、それで十分である。時間もさほど掛からず、連れだしに手間取る事がなかったと見える。
     ここから先は、出来るだけ目立たず速攻で。
     それが出来ねば、見えない脅威と戦う覚悟が必要となる。皆緊張を解かずに、小次郎と碧の到着を待った。
     差していた傘を畳み、蔵乃祐が顔を流川通りの方へと向ける。真心と蔵乃祐がすうっと離れた所にしゃがみ込んで身を隠すと、依子も携帯を仕舞って身を潜めた。
    「……来たか」
     糸瀬が呟くと、その横に匡が立った。
     雨の中、二人は碧と小次郎の連れて来た彼をじっと睨むように見つめる。睨みたかったのは、弁天よりもむしろ、その後ろで蠢く連中であったろう。
     楽しそうに笑い、匡が手を差し出す。
    「いらっしゃい、あんたが小弁天さん?」
     小弁天、と匡が言った事にカチンと来たのか、弁天は眉をつり上げた。威圧するように怒鳴り散らすが、匡はちっとも怖くはなかった。
     糸瀬は不機嫌そうにしていたが、それが弁天のせいではない事は匡は分かって居る。
    「何じゃワレ!」
    「そういう聞き飽きた台詞で煽ってくるの? もうちょっと利口にならないと、それだからロクに全部持って行かれるんだよなぁ」
     匡が話す間に、真心は静かに歩き出した。
     気付かれていても気付かれていなくとも、構わない。雨音が全てを覆い隠してくれていた。ゆっくりと刀に手をやり、そして慣れた手つきで真心は刀身を引き抜いた。
     刃が背中を抉る感覚が、伝わる。
     弁天はその時、後ろを振り返って真心を見た。
     そこにある、笑顔を。
    「やっぱり、弱いんだね」
     血しぶきを上げ、小弁天は為す術もなくぐらりと体勢を崩す。雨の中、脆くも弁天は突っ伏して倒れ込んだ。
     ただそれを笑顔で見下ろし、真心は刀を収める。
    「さて、それじゃあ本番かな」
     そっと真心は、肩から掛けた二眼レフカメラに触れると、それを濡れないように鞄にしまった。

     弁天は鬼になった。
     悔しさからか。
     それとも怒りから?
     それが運命だったといえば容易いが、弁天は頭から角を生やし、体は強靱で強大な鬼のモノと化した。
     降りしきる雨の中、むくりと起き上がってけたたましく笑い声をあげる弁天。
     彼の背後に立ったままの真心は、刀の鞘に手を掛けたままサウンドシャッターを使用する。音の消えた公園の周囲は人が通りかかるが、雨音や暗闇にかき消されて気付く事はない。
     気付かれても、恐らく単なる喧嘩だと思われて通り過ぎるだけであろう。
    「爆釣れだったな」
     小次郎が下を見下ろすと、雨を振るいながら霊犬のきしめんがしっかりと足を踏ん張っていた。両脇を依子、そして空、糸子が囲む。
     闇堕ちしたばかりの弁天は、我を忘れたように飛びかかってきた。
     きしめんは斬魔刀をしっかりと咥え、弁天の突撃に備える。弁天の拳を受けてきしめんがはね飛ばされるが、くるりと身を転じて着地した。
    「行くぞ!」
     小次郎の掛け声に応じ、着地した体勢からきしめんが再び駆け出す。
     あくまでも仲間の盾になる事が二人の役割、きしめんもそれを心得て仲間の前から決して退きはしない。
     きしめんが飛び退くと、真心は高速演算モードを使用して弁天の懐に飛び込んだ。一端飛び込んだのは、弁天の脇に回り込む為である。
    「私でもこれ位は、戦えるんだよ」
     スピードを生かして、弁天を引きつける真心。自身がまだ幼い体であると認識していて、それが弁天を苛立たせると分かって居るのである。
    「小学生に斬られるのは、悔しいよね」
     弁天を攪乱するように動く真心の背後に、碧が立つ。
    『ぐゥゥゥ……ワシを……馬鹿にしやがっテ…』
     怒りの為か、声を震わせ叫ぶ。
     碧は肩をすくめた。
    「コジくん怖い」
    「コジくん、僕の攻撃のタイミングよろしくお願いします」
     淡々とした碧の言葉に合わせ、蔵乃祐がさらりと言った。
     二人の軽口に、小次郎はふと表情を和らげた。蔵乃祐の視線から何か察したのか、小次郎は大丈夫と言ってのける。
     突撃した弁天の攻撃を、小次郎は真正面からしっかりとシールドで受け止めた。即時展開したシールドが、自分や仲間の前を包み込む。
     今の小次郎は、弁天を倒す事しか考えていない。
    「タイミング、よろしくされたぜ、かいどーさん」
     そう蔵乃祐に言い返した小次郎は、迷いなど無かった。だから蔵乃祐もリングスラッシャーを、まっすぐに小次郎の背を見ながら弁天へと放つ。
     畳みかけるように、碧がウロボロスブレイドを頭上で一閃させ、叩き込んだ。弁天はぐらりと一瞬体勢を崩したが、すぐに起き上がる。
    「ごめんなさい、とは言わないわ。だって、これは単なる自己満足だから」
     そう言いながら、碧は身構えた。

     歪に巨大化した腕を振り上げ、弁天は咆えた。
     がむしゃらに暴れる弁天は、立ちはだかった空にその腕を叩きつける。振るう度に力が増すようで、空はその痺れるようなパワーを真正面から受け続けていた。
     吹き飛ばされそうになるのを堪える空。
    「爆霊の羅刹……僕に近しいタイプですね」
     はっ、と気付くと弁天が腕を振り上げたのが見えた。霊力を含んだ弁天の腕が、がっしりと空を掴む。
     ぎりぎりと、弁天は空を霊力の網で締め上げていく。
     弁天の力は、空の力と同じ。空は弁天の攻撃を見ながら、どう反撃するか考えていた。ふ、と横合いから糸瀬が割り込む。
     縛り上げられた空の弁天の間に入り、風を巻き起こした。
    「ほんと、クソみてーな話だよ、畜生!」
     苦々しげに糸瀬が呟く。
     介抱されると同時に空が弁天の横合いに回り込むと、糸瀬もシールドを構えて突っ込んだ。突撃は、弁天に阻止される。
     それでも更に突っ込んだ糸瀬の表情には、怒りを感じた。
     同じ羅刹の力だから?
     さて、それは空には分からない。守りの体勢を解かずに、それでもシールドで突っ込む糸瀬は弁天の力を凌駕する。
    「てめぇは……っ!」
    『ウルセェェ!!』
     突っ込む糸瀬に、弁天も組み掛かっていった。
     自分の思い通りにならない道筋に嘆き、諦め、そして妥協する。その結果が弁天という男であるのだが、それはあまりに人間らしいと蔵乃祐は思った。
     そう、人間だ。
     その人間を好き勝手むさぼり、ポイと捨てていくモノがこの事件の影に居るのだ。
    「明日は我が身かもしれないぜ」
    「暴虐を糧にする世界で力を求めたなら、逆に振るわれて奪われる覚悟はするべきです」
     凛とした声で、依子は言った。
     ピクリと動かした腕には、非物質化した剣がある。突っ込む事しか頭にない弁天の脇から滑り込むように接近し、依子は刀を振り上げた。
     風のように切り上げ、そして身を離してまた斬り付ける。
     彼女の視界には、弁天の背中が見えた。
     掴もうと伸ばした蔵乃祐の指が触れるが、その『弁天』は何の反応も見せず、ただ優雅に躍るように背中に咲いているだけだった。

     空が弁天の足を切り裂くと、弁天はずしりと前のめりに膝を付いた。
     前しか見えない。
     前しか見ずに、攻撃を続けた。その足下をすくった形である。
    「今です」
     空の声で、匡がクルセイドソードを構えた。
     飛び上がるようにして、一気に切り下ろす。その刃の切れ味を確かめるように、ひたすらクルセイドソードを振るう。
     ぬう、と伸ばした弁天の腕が、碧の腕をがっしりと掴む。その腕を匡が切り裂き、落とした。捕まれたままの腕を振り落とし、碧は弁天の背に回り込む。
     ずるりと貫いた刀は、鎺まで深々と飲み込む。
    「ごめんなさい、私達早く帰らなきゃ」
     いけないから、と付け加えながら刀を引き抜く。
     死んだ時のように、背後に真心が立っていた。あの時と同じように、笑顔を浮かべて刀を構えていた。
    「間に合って良かったよ」
     誰も殺さないうちに、倒す事が出来て。
     真心はそう言うと、一刀で首を落とした。

     雨は本降りになっている。
     ざあざあと降り続く雨の中、誰も弁天の事など気に掛けてはいなかった。ただ、繁華街の片隅でまた若者が喧嘩をした、として考えていない。
     誰も、警察を呼ぶ事もない。
    「……」
     真心は自分の手をじっと見つめていたが、無言で歩き出す。
     ふっと一つ溜息のように息をもらして、匡は振り返った。傘を差した蔵乃祐に入れてもらおうと、ひょいと身を寄せる。
     だがするりとそれを避け、蔵乃祐は地面を見下ろした。
     弁天の体があった場所を、じっと見つめていたが……そこは既に雨に濡れ、何も残ってはいない。何の痕跡もなかった。
    「人の業……でも集うのかしらね」
     ぽつりと言った依子の言葉で顔を上げ、蔵乃祐は雨に濡れる依子を傘に入れた。軽く会釈をし、依子は笑顔を浮かべる。
     匡が振り返ると、もう小次郎が傘を広げていた。
    「チョー冷たい」
    「いつまでやるんだ、それ」
    「そうね」
     碧はいつものような口調に戻ると、堂々と小次郎に傘に入れてもらった。糸瀬は雨に濡れるのもまたよしと、ざんざん歩いて行く。
     一刻も早くこの場を離れなければ、この近くで見ている者があるのである。
    「ほら行くぞ」
    「そうですね」
     空も歩き出した。
     ふ、と碧が振り返る。
     そこには誰もいなかった。
     気付いて空も振り返るが、誰かが居る様子はなかった。誰かが見ている様子もない。それは安堵するべき事だけれど。
     それでも、『誰か』が居るのは確かなのだ。
     居るのは分かるが、姿は見えない。
     空は振り切るように、足早に歩き出した。

    作者:立川司郎 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年11月21日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
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