女王蜂に恋をする

    作者:日暮ひかり

    ●scene
     気怠い長雨が降り続いている。雨は中庭を彩る紅葉を散らし、池に波紋を描いていく。月の映らない水面を覗きこむと、千寿はひとつ息をもらして空を仰いだ。
     昔はどうだったか知らないが、所詮今はあの男にとって只の愛人のひとり。こんな夜に扉が叩かれる筈がない。月の映らないこんな夜、情婦と交わしたつまらぬ口約束のために肩を濡らす男など、どこにもいない。
    「雨……やみませんね」
     ひとりの若い男が、庭から座敷へと戻った千寿の着物を濡らす雨粒を拭った。彼はよく働いている、と思う。その働きが評価され始めているとも聞いた。それは別れの予感だった。そうしてすべてが千寿を置いていく。
     ――ああ、せっかく温めた酒もそろそろ冷めてしまう。ならばいっそ。
    「ね、呑みましょう。いいでしょ」
    「でも……」
     若い男は一瞬悲しげに眉を寄せた。彼に千寿の勧める酒を断る権利はない。
     
     やがて、酔った千寿は男の肩に身を寄せた。ねえ寒いの、でもすこし暑いわねと、意味の通らぬ事をささめく。
     胸の上を横切る女王蜂と目が合う。
     ああ、こんな所に刺青があったのか――男がそう思ったとき、部屋の襖がそろりと空いた。
     濡れそぼった黒スーツ姿の男が、鬼の形相で二人を睨みつけている。
    「……おい……何やってンだぁ、スギ」
    「……! 古村の兄、貴」
    「あ、あんた、違うのこれは。私が勝手にしたことでスギ君は」
    「……言い訳は聞かねぇ。テメェの命で落とし前つけろや。な?」
     古村と呼ばれた男は二人に飛びかかろうとした。スギ、と呼ばれた若い衆が千寿を守ろうと立ち塞がる。スギが血飛沫をあげて倒れた向こうに千寿は見た。古村の額から黒い角が伸び、膨張した筋肉が服を裂いて異形化していくのを。
     いつか揃いで彫った蜂の刺青が見えた。
    「あんた……」
     乾いた銃声が轟く。弾丸が千寿の額を貫き、彼女は事切れた。
     
     異形の鬼と化した古村には既に人の面影はない。愛した女と、可愛がっていた舎弟の死を嘆くことも無い。ただ心を失った獣のように、古村は只管にその遺体を食い潰す。
     飢えていた。『力』が足りないと感じる。死体からもいだ指を口に放り込み、咀嚼する。味気ない。飢えではない。なにかが、足りない。力とは一体なんだ。
     わからない。だが。
    「……違え。こんなンじゃあ無ぇ。『力』が足りない。俺の『力』は何処だ……!!」
     
    ●warning
    「鈴山虎子の事件の報告はもう聞いたか?」
     あれ以降、刺青を持つ者が闇堕ちし、羅刹化する謎の事件が発生し始めている。
     この鷹神・豊(高校生エクスブレイン・dn0052)もその一端を捕えたらしい。
     早急に対処をせねばなるまいなと言い、彼はいつものように教壇に向かう。
     
     羅刹と化す男の名は古村という。
    「身体に刺青という所からお察しかと思うが、古村は……『や』のつく自由業というやつだな」
     古村はその日、愛人の一人である千寿という女と会う約束をしており、彼女の待つ屋敷に向かおうとしていた。ところが道中で一悶着あり、到着が遅れた。ようやく屋敷に来てみれば、待ちぼうけた千寿が他の男と――というわけだ。
    「このスギという奴は古村の舎弟らしいな。まだ組に入って日が浅く、千寿の世話役が主な仕事だった。多忙で帰らぬ古村を一途に待ち続ける千寿を見ているうち、彼は……おっと、これは関係のない事だったな」
    「……楽しそうだなお前」
    「いいや、全然?」
     とにかく、その修羅場が起きる前に手を打たねば、千寿とスギの命はない。
    「今回出現する羅刹は、闇堕ち前の一般人の姿のときに攻撃を加えてKOすると、羅刹として復活する特性がある。屋敷内で待ち伏せするか、屋敷に向かっている古村を路上で襲撃するか。大まかには、どちらかの選択だ」
     羅刹と化した古村は、神薙使いとガンナイフのサイキックを使用する。銃の扱いには長けていたらしく、攻撃はどれも高い命中精度を誇る。
     屋敷内で戦うならば目立たないが、一般人二人をどう扱うかの対策が必要だ。
     路上で戦うならば二人のことは気にしなくていいが、目立ってしまう可能性がある。
     戦闘に時間をかけすぎたり、派手に暴れ注目を集めれば、この刺青の羅刹をめぐり動いている一派が介入してくるかもしれない――エクスブレインからはそういった懸念が出ている。
    「まあ、逆に有力な敵を誘き寄せる餌になるという見方もあるが……とんでもなく分の悪い賭けになる。その辺りは君達でよく考えて行動してくれ。それと、」
     どうあっても古村の命は救えない。
     情けをかけられるべき生を送ってきた男でもないだろう、そこは了承してほしい。
    「そう思わないか? 思わないなら、好きにすればいい」
     そう言って彼は笑った。いつものように。


    参加者
    月見里・月夜(フォースブレイク恐怖症・d00271)
    九鬼・宿名(両面宿儺・d01406)
    蜂・敬厳(エンジェルフレア・d03965)
    村山・一途(硝子罪躯・d04649)
    皐月森・笙音(山神と相和する演者・d07266)
    関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)
    山田・菜々(鉄拳制裁・d12340)
    契葉・刹那(響震者・d15537)

    ■リプレイ

    ●1
     気怠い湿気を含んだ夜気が地を覆う。一行は屋敷の門をくぐり、入口の呼び鈴を押した。
    「……どちら様ですか」
     来たのは男だった。名乗らぬ訪問者の素性を訝しんでか、扉は開かない。
     スギの立場としても易々と背を向ける訳にいかないのか、しばし膠着状態が続いた。有効そうな言い訳やESPはなく、玄関を壊して押し入るわけにもいかず、一行はいったん門外に退却する。
     村山・一途(硝子罪躯・d04649)が無表情のままに口を開く。
    「どうやって中に入りましょうか」
     中で待ち伏せの形さえとれば、予知には触れないだろう。侵入するには建物の一部を壊すしかない。多少見た目に目立つ要素は作るが、いま急に戦場を変える方が危険だ。
    「目立たない窓を割って、そこから入るしかないかな。中の二人が気づく危険はあるが」
    「あ、は、はい、えと……私も……窓から、がいいと思います」
     そんな中、関島・峻(ヴリヒスモス・d08229)と契葉・刹那(響震者・d15537)が窓からの侵入を唱える。異論は出なかった。
    「じゃあ、僕が玄関を見張ってますよ。こっちに逃げてきたら眠らせます。で、宿名が峻先輩達と一緒に行く、って事でどうでしょう」
    「僕もそれでええよ」
     皐月森・笙音(山神と相和する演者・d07266)とその霊犬の阿吽、一途、刹那、蜂・敬厳(エンジェルフレア・d03965)が玄関側に残り、九鬼・宿名(両面宿儺・d01406)達4名は気配を潜めて敷地内に戻る。
     門から死角になる窓を見定め、念の為峻のESPで音を断つ。山田・菜々(鉄拳制裁・d12340)が事前に大まかな屋敷の間取りを把握していた事と、拘束用のガムテープが消音に使えるのはよかった。月見里・月夜(フォースブレイク恐怖症・d00271)がテープを貼った窓硝子を小さく割り、内鍵をあける。静かに窓を開け、屋敷に立ち入る。慎重に座敷へ忍び寄り、襖を少し開く。
    「! 誰だ……ッ」
     不意にそよいだ暖かい隙間風を浴び、スギの意識が沈む。千寿は一瞬それに驚いたものの、すぐに折り重なるように倒れる。
     りん、と鈴の音がした。襖を開けて入ってきたおかっぱの少年を見上げ、千寿は助けを呼ぼうと口を動かす。寝言めいた音しか出ない。
    「お兄さん、お姉さん。怖ないからちっと寝とってな」
     宿名は動じず、柔らかな微笑みで返す。千寿の肩からがくりと力が抜けた。

    「はー、一時はどうなる事かと思ったっすけど、何とかなったっすね」
     外で待機していた四人とも無事合流し、菜々が安堵の息をはく。拘束法でややもめたものの、一行は笙音が黙々とスギ達を縛り上げるのを興味深げに見ていた。右手と左足、左手と右足の親指同士をロープで縛り、動けないよう固定する。月夜が口にガムテープを貼る。流石に手荒過ぎ、一度は目を覚まされた。もっとも、再び眠らせるのも簡単だった。
    「なんか本格的に強盗犯っぽいね~僕達」
    「お二人とも、さすがです。素晴らしい手際ですねっ!」
    「だろ? じゃねェコラァ! 流石って何どういうこと!?」
    「戦闘中に目覚めても暴れたりしない様に、あくまで効率を考えたんです。趣味じゃないですよ? 大体うちのじ様が……」
     素直に褒めたつもりだった敬厳は首を傾げていた。月夜は当たらずしも遠からずで身に覚えがあるようだったが、笙音は急に恥ずかしくなり慌てて弁明しだす。皆を見回すと、刹那と目が合ってしまった。彼女は困ったような、恥じらうような笑みで頬を染め、俯く。そういえば男性が苦手と事前に聞いた。気まずい。
    「……って、んん? こらやめなさい阿吽」
     どうやら、退屈した霊犬が彼女にじゃれていたようだ。
    「すいません。図体ばっかでかいんですけど、お子様で」
    「! い、いえっ。その、珍しい仔ですね……」
    「チェコスロバキアンウルフドッグです!」
    「……えと、もう一度」
     そんな微笑ましい一幕もありつつ、急ぎ千寿たちを奥まった部屋へ隠す。
    「どろどろな関係っすよね。ドラマとかで見るぶんには好きっすけど」
     去り際、菜々は眠る二人に目をくれて呟く。敬厳は暫しふうむと考え込んだあと、
    「大人の男性と女性には、いろいろあるんですねっ」
     と言って片付けた。彼はまだ知らなくていいだろう。ともあれ、現実に死人が出るような筋書きは看過できない。菜々は大きな瞳に決意を宿すと、黄泉路への廊下を早足で歩いていった。

    ●2
     雨だれの向こうで玄関扉の開く音がした。徐々に近づく忙しなく乱暴な足音、男特有のものだ。約束の座敷で『男』の足取りはいったん止まる。
    「千寿」
     酒焼けした声が女の名を呼んだ、そのときだ。男は背中の皮膚に違和感を覚え、緩く身じろぐ。焼けるような激痛に膝を折り、崩れ落ちる。確かに刃物が刺さった時の感覚だが、どうしてか血は出ない。
     男――古村は漸く人の気配に気づく。紅い剣を握る痩身の青年と、紅いマントの小柄な少女が死神のような面をして立っていた。
    「こんばんは。見せてもらいましょう。愛よりも素晴らしい、力というものを」
    「随分な御挨拶じゃあねェか」
     禍々しい気が満ち、男が低く嗤った。同時に四方の襖が開け放たれ、裏に控えていた灼滅者達が飛び出す。円陣の中央に囲われた古村の肉体がぼごん、と脈打つ。
     ヒトの血で手を汚すのは避けた。
     或いは苦痛を与えたくない、とも峻は思ったかもしれない。
     ……修羅の道を生きてきた男だ。ここから先は、遠慮はしない。魂を禊ぐ剣に光を集め、再び音を断つ。
     風船人形のようにでたらめに膨らんでいく男の両脚を、一文字に素早く斬りつけ、一途はとんと後ろに飛び退いた。後方で回復の構えをとる宿名の目線は男の胸に注がれる。聞いた通り、雀蜂が彫られていた。
    (「僕の時にもこんな刺青あったら、簡単に羅刹になっちゃってたんかなぁ……」)
     己が闇に囚われた時の事をぼんやりと思う。恐怖はなかった。宿名の両目は、その奥の真実を見定めるために動く。
    「あんたが古村か。最近は物騒な事が起こりまくってンな」
     ポップキャンディーを口に放り入れ、月夜は腰を低くし古村の懐に潜る。右の拳に雷を纏わせ、男の顎めがけて突き上げた。額に角を生やし、変貌を遂げた古村は軽く仰け反ったのみだ。どんよりと金に輝く双眸が特攻服を捉え、続いて右手首の刺青に目をとめる。
    「兄ちゃん堅気じゃあ無ェのう……さっきの連中のダチか?」
     道中で揉めた暴走族を想起したようだ。特別深い意味はなさそうだったが、はなから興味を引けるとも思っていない。
    「いンや。だが、どうもアンタみてェな羅刹とは縁があるようだ」
    「あ?」
    「いや、こっちの話よ。刺青いれたのは誰だ? いついれた? いれた際……」
     月夜は質問を返す。
    「何かおかしな事でもあったか?」
     古村の注意をひきつけたい狙いもあった。死角から、敬厳が走り込んでくるのが見えたのだ。
     だが、古村は突如上体を大きくひねり、丸太のように太い腕で敬厳を横に薙ぎ、弾き飛ばした。敬厳は近くの襖に追突し、襖もろとも倒れ込む。明らかに打ち所が悪そうな敬厳から目をそらさせようと、刹那は腕を変形させ咄嗟に飛び出した。
     ――――。
    「先ずこっちの質問に答えてくれや。一、千寿とスギはどした」
     男は刹那の手首を片手で掴み、止めていた。
    「……二。『力』を寄越せ」
    「う……っ」
     本物の鬼の腕は、刹那と比較にならぬ程厚い。
     己と同様に闇に呑まれた者たちを幾度となく掬ってきた。今日は、ヒトを闇に叩き落とし、差しのべるはずの手で兵器を握る。
     殺す。
     ……認めるとただでさえ気が狂いそうだった。慣れねばならないが、慣れてもいけない。矛盾した恐怖がぐるぐると頭を巡る。こんな時に限って、閉ざされた戦場のどこからも優しい歌は聴こえないのだ。
    「目ェ見て聞けや。……答えろコラァ!!」
     ――恐い。このまま繰返したら、私、どうなっていってしまうの?
     心の中に浮かべた音階も、あまりに恐ろしい鬼の怒号が散らせてしまう。刹那は半狂乱で男を押し返した。宿名は展開した縛霊手の指先に、急ぎ鬼の霊力を集める。生まれた命の源を敬厳の傷めがけ撃ちこんだ。菜々が走り出す。狙い目はわかっていた。一途が最初に攻撃した――足元。
    「あまり時間もかけられないっす。よけいな人が来る前に、さっさと灼滅するっすよ!」
    「いろんな羅刹を見てみたいんやけど、今回はそもそも遭遇しちゃいけないんやものな」
     先程の機敏な回復動作とは打って変わり、宿名はほう、と緩慢に溜息を吐いた。古村の前まで真っ直ぐ走り込んだ菜々は急に腰を落とし、氣をまとわせた爪先で足払いをかける。傷を抉られ、バランスを崩した古村を更に拳の連打が襲った。刹那は漸く男を殴り飛ばし、逃れる。今度は彼女を守り返すべく、白練の袴姿が堂々立ち塞がる。
    「『蜂』の名を持つわしが来たのも何かの縁じゃ。お相手致そうかの」
     祖父、そして先祖代々の矜持を継ぐこの身、ただの一撃で折れはしない。敬厳はエンドピンにグリップを取り付け、改造したギターを大太刀のようにぐおんと振るった。胴への横薙ぎ、先程の礼だ。
     笙音は阿吽にちらと視線を送る。きりりと締まった顔の相棒は白い尻尾を振った。合図はそれだけ。たん、と同時に地を蹴った。
     漆黒の眸に神が宿った。笙音は洗練された無駄の無い動きで、古村に次々と拳を入れる。舞いとも見紛う軽やかさとは裏腹、その攻撃は正確で重い。なおも倒れぬ古村の腕を阿吽が斬りつけ、破壊の力を断った。
    「……テメェ」
     古村は、今となっては不釣り合いに小さい銃を構えた。飛び出したのは、月夜と峻。
    「アンタはすっこんでな。こちとら体力にゃ自信あンだよ」
    「お前こそ。俺は二か月に一度位死にかけるし問題ない」
    「へッ……上等だゴラァ!」
     弾幕を全て正面から受けながら、二人は怯まず突っこんでくる。古村がにやりと笑った気がした。
     月夜はチェーンソー剣を力一杯古村の足に叩きつける。傷が広がる、どころか骨の手応えがあった。呻く声があがり、古村の動きが目に見えて鈍る。峻の聖剣は再び穢れた魂を貫く。刹那の影が遠くから男を拘束する間に、宿名の呼ぶ風が二人の銃創を埋めていく。
    「どうですか、それが力みたいですけど。満足ですか」
    「足りねェなァ……」
     一途は緩く瞬く。そして淡々と指輪に魔力を集め始めた。

     灼滅者達は明確に短期決戦を狙っていた。背水の布陣だったが、全ての行動が目標に繋がり、古村の終わりを早めた。無駄はなかったと言っていい。
     清い風の尾をひく笙音の氣弾を胸に受け、古村は大きく後ろに反った。菜々が飛び膝蹴りで鬼の巨体を打ち倒し、腹の中央に重い一撃を入れる。めり込んだ拳は床まで達した。
    「ねえ、どうしてあなたは力が欲しかったんですか。そこに愛はありましたか。今は愛はありますか」
     一途は、文字通りの空虚となった男の腹に淡々と、愚直なまでに愛を問う。
    「しつけェ。愛ってェのは口にしただけ安くなンぞ」
    「過ごした月日が長くても、言わないと伝わらないこともありますっ!」
     敬厳は真っ直ぐ声を張り上げた。純粋な子供の言葉が少しだけ刺さったか、古村は息も絶え絶えに笑う。本当にこの男は何も解らないようだ、という情報だけは得た。
    「あの二人はお前を慕ってる。安心して眠れ」
     だが、峻の一言で目の色が変わる。
    「……頼む。あいつらは見逃してやっちゃあ、くれんか……」
     男の立場では、悪意としか取れぬ事を思い知る。言葉を失う峻の代わりに、一途が後を継いだ。
    「別にいいですよ。あなたを殺すのは変わりないのですけど」
     力、などという下らぬものに愛を売った男の存在を、彼女は許せなかったのかもしれない。刺す所には迷わなかった。もう死角もくそもなく、一途はただ古村の胸にナイフをぶっさした。身を守るもの、を斬り裂く刃は雀蜂をかき切る。
    「さようなら」
     言い捨てる一途を刹那は茫然と見るしかなかった。
     最後の一歩を踏み外す勇気はやはり出なかった。居なくなって悲しまれない人はいない、そう信じるゆえ、だった。
     月夜の吐いたキャンディの棒がどこまでも畳を転がっていく。人ひとりが消えた重みがそこにあった。

    ●3
     千寿とスギはやはり目覚めていた。魂鎮めの風がもたらす眠りは不可侵ではない。身動き一つ取れぬ程拘束すれば、安らかに寝てはいれない。
     縛られた二人は、不審と怒りで切迫した眼を見知らぬ若者達に向けた。
     殺す。
     でなきゃ死んでやる。その覚悟を終えた眼だ。
     死と隣り合わせの業界で生きる者へ、この仕打ちを弁明できる言葉は見当たらない。何か聞ける状態ではないし、いま拘束を解く事すら危険に思えた。
     特別に依頼があった場合を除き、調査は後日改めて、が学園の方針でもある。事後の調査に気を向けながら、綿密な作戦も練る事は非常に困難で、一歩間違えば取り返しのつかぬ失敗に繋がるからだ。
    「失礼します」
     幸いだったのはダンピールがいた事。二人の首に敬厳が牙をたて、前後の記憶と血を奪う。朦朧とする二人を再び眠りの風が襲う。そして笙音が拘束を解き、二人を座敷に寝かせた。これ以上長居する意味はない。
    「じゃ、鬼になっちゃったおっちゃんの分も二人でお幸せにな」
     宿名がそう言って踵を返そうとした時、古村の服の端切れを探っていた峻が千寿の傍にしゃがみ、何か握らせた。ひしゃげて使い物にならないライター。潰れた煙草の箱。
     なあ、奴はあんたの事想ってたぞ。決して約束を破る男じゃなかった。
    「もう、待つ必要無いが……」
     奪い去るしかないなら、小さな伝言位与えておきたい。好きにすればいい、そう言われたのだから。目覚めた時、女は古村に二度と逢えない事を薄々察するだろう。
    「関島さん、あなたは」
     一途が口を開いた。
    「千寿が、まだあの男を愛していたと。古村が、まだこの女を愛していたと。そう思うんですか」
    「かもな」
    「そうですか」
     峻は己の御し難い甘さと共生しつつあった。ひとつひとつの死を心に刻み、また明日から日常に沈んでいく。一途は、彼の生きざまを否定も肯定もしない。
     あなた達は、きっと間違っていない。寄り添って眠る二人にそれのみ言い残すと、今度こそ踵を返す。
     二人の人間が命をつないだ。他に代え難い、成功だ。

     気怠い雨は変わらず街を覆い、月は見えない。刹那の口遊む手向けの歌が、暗い空に吸われ、雨に紛れる。今はただ優しい雨の音に溺れたかった。白い頬をすうと伝いゆく雫は雨にも、別のものにも見えた。
     愛のゆく末を知るのは千寿の心ひとつ。答えを聞くことはないだろう。それでいい。
    「きっと誰だって許されますよ。愛することぐらいは」
     何よりも尊いのは愛だ。確かめるように、一途は呟く。誰だって。――私だって。その言葉がどれほど皆の救いになったか。
     ただ、古村を刺した時の感触はもう覚えていない。それはとてもありふれたものだったから。

    作者:日暮ひかり 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2013年11月21日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 10/感動した 0/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 1
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