やさしいおかあさん

     昨日、僕はお母さんに怒られた。
     カラスに襲われそうになっていた子猫を連れ帰ってきたら怒られた。褒められると思っていたのに、お母さんは怒って子猫をどこかへと連れて行ってしまった。
     その前の日も、その前の日も僕は怒られた。お母さんは僕を怒ってばかりいる。お母さんは僕のことが嫌いなんだと思う。だから意地悪をする。
     お祭りには行かせてくれないし、海に行きたかったのに近所の市民プールに連れて行かれた。プールの水は嫌なにおいがするから好きじゃない。
     お父さんが居なくなってから、ずっとお母さんは怒っている。
     こんなのお母さんじゃない。
     クラスのみんなが絵に描くお母さんはどれもニコニコ笑ってる。
     僕のお母さんも、もっと……そう、もっと優しくなくちゃいけない。
     このお母さんは違う。こんなのは、僕のお母さんじゃない。
     
    「早速だけど今回の事件を説明するね」
     須藤・まりん(中学生エクスブレイン・dn0003)がファイルの束から1枚の写真を取り出す。
    「名前は亘理・正治。正治って書いてまさはる。まだ小学1年生だよ」
     ふう、と一息ついた後、まりんはきゅっと顔を引き締めた。
    「実はこの子、闇堕ちしかけているの。放っておけば……ダークネスになるのも時間の問題だよ」
     この少年が宿すダークネスは『シャドウ』。人の精神世界へ侵入し、そして蹂躙する強力なダークネスだ。
     しかし闇堕ちした時点で人間としての意識を失うのが普通なのだが、正治にはかろうじて元の人格が残っている。いわばダークネスになりかけなのだ、まだ人間へと引き戻す事が可能だとまりんは言う。
    「まだ時間はあるけど、このままだとこの子はダークネスの力を使って、お母さんが疲れきってお昼寝している間に精神世界……『ソウルボード』へと侵入して、自分の理想とする『優しいお母さん』に作り変えてしまおうとするの」
     人格を不自然に書き換えられた人間が無事で居られるはずはない。放置すれば母親は少しずつ精神が歪み、衰弱してゆき、やがては死に至るという。
    「みんなには正治くんを追う形でソウルアクセスして欲しいの」
     ソウルアクセスするまでの手順は心配ない、戦闘と説得に集中してくれ、と付け加える。
     ボード内には正治の他、母親とよく似た4体の配下が正治を守るように囲んでいる。この配下は特殊な能力もなく、さほど強力な相手ではないが、ただひたすらに正治をあらゆるものから庇おうとする。攻撃はもちろん言葉ですら遮ろうとするため決して避けては通れない。
    「このお母さんは正治くんのことが大好きだけど、色々なことが重なってうまく正治くんに伝わっていないだけ。子猫のことで叱ったのは正治くんの安全を心配したから。この日も、少し休んでから正治くんと一緒に猫を預けた病院へ行こうとしていたの。でも……ここで説得できないと正治くんは何も知らずに完全なシャドウになっちゃう。そうなってしまえばもう灼滅するしか……。お願い、そうなる前に正治くんを助け出してあげて!」


    参加者
    佐藤・千尋(ほんわかダウナー・d01090)
    由井・京夜(道化の笑顔・d01650)
    黒咬・翼(黒い牙・d02688)
    鳴神・稜平(レッドフェダーイン・d03236)
    マリア・スズキ(トリニティホワイト・d03944)
    伊東・晶(中学生シャドウハンター・d03982)
    マリア・リリアンヌ(光の女神・d04058)
    衣川・正海(ジャージ系うりぼっ子・d07393)

    ■リプレイ

    ●家族の場所
    「あれ、ここってさっきも来た、よな……?」
     ソウルボードへ降り立った鳴神・稜平(レッドフェダーイン・d03236)が首をかしげる。目の前にあるのは『亘理』の表札と、少しばかり古ぼけたアパートのドア。確かにここはソウルボードへと入る前に見た、正治の家に酷似している。
    「……入れば、わかる」
     そう言うなりマリア・スズキ(トリニティホワイト・d03944)はドアノブに手をかけた。 ドアの中にはどこか見覚えがある、というよりも確かに見た光景が広がっていた。灼滅者達は慎重に、再び家の中へと踏み込んでゆく。玄関に並ぶ2人の靴、高価には見えないが綺麗な玄関マット。ただ先ほどと違うのは古いアパートの玄関にサーヴァントを含めた全員が余裕を持って納まっている、という事だった。
    「うわあ、なんだかすごく広いね」
     マリア・リリアンヌ(光の女神・d04058)、マリーが驚いて高い天井を見上げる。
    「まあ、狭い室内で大乱闘、って事はなさそうだね」
     伊東・晶(中学生シャドウハンター・d03982)がほっと胸を撫で下ろす。とにかく奥に行かないことにははじまらないね、と居間へと続く大きなドアをゆっくり押し開けた。
    「えへへ……」
     男の子の嬉しそうな笑い声が聞こえる。
     まさはるはいいこだね、おかあさんはまさはるがだいすきだよ。まさはる。まさはる。
     笑い声を包み込むかのように異様な声が室内を満たし、反響している。
    「うん、僕もだよ、お母さん」
     広大なリビングの端、1人の女性に愛おしそうに抱きしめられた正治がそこに居た。
     佐藤・千尋(ほんわかダウナー・d01090)が周囲に向けて目配せをし、一歩前へと出た。
    「正治君だね? ちょっとお話があるんだけど……いいかな?」
     正治を撫でる女性の手がぴたりと止まる。正治がゆっくりと、こちらを振り返った。
    「……誰? ここは僕とお母さんの家だよ?」
     女性の手を離れ、正治が立ち上がる。
    「えーっと、僕達はその。ホラ――」
    「知らない人は家に入れちゃいけないんだ!」
     慌てて答えようとする由井・京夜(道化の笑顔・d01650)の声を遮って正治が叫んだ。
    「だから、今すぐに出て行け!」
     正治の後ろに佇んでいた女性が一瞬、身震いをした。1人だったはずのその女性、母親に似せて作られたそれはまるで始めからそうだったかのように4人立っていた。
     
    ●小さな亀裂
    「……ミッション開始」
     黒咬・翼(黒い牙・d02688)がサングラスを懐へとしまい込み、日本刀を抜き放つ。描かれた軌道が地を駆け、月光衝となって虚構の母親を打った。
     それを恐れる様子も無く母親達は灼滅者へと向けて獣のように駆け出す。咄嗟に母親達の前へと飛び出したマリーのビハインドに向けて大きく口を開き、肩口へと噛り付いた。
    「聞いてくれ、このままでいると君のお母さんは死んでしまう。君自身だってただでは済まない、闇に呑まれて……怪物になってしまうんだ」
     衣川・正海(ジャージ系うりぼっ子・d07393)が声を張り上げるが正治は母親達のはるか後ろ、耳を塞ぎ、目を閉じてその場にうずくまっていた。
    「チッ、これだからガキは……ったく、邪魔なこいつらを先に片付けるぞ!」
     稜平の手から放たれたオーラが一直線に、ビハインドの肩口を齧る母親の頬を打ち抜く。「お母さん達から、あなたを、守りたいって、気持ち。いっぱい……そう、いっぱい、伝わってくる、よ」
     マリアのガンナイフから放たれた弾丸が、体勢の揺らいだ母親の胸を貫いた。
    「……これが、あなたの、本当に望む、お母さん?」
     掻き消えてゆく母親の向こうで顔を上げた正治がこちらを見た。
     その視線を遮って、母親がマリアへとその矛先を向け駆け出そうとしたその時、その出鼻を挫くように足元へと千尋の投げた棒手裏剣が刺さった。
    「説得の邪魔はさせないよ、キミの相手はボク達がする!」
     マリアへの道を他の灼滅者達によって塞がれた母親は怯むことなく千尋へと目標を変え、細い腕を勢いよく振り上げる。
     ゴッ、と石でも叩き付けたかのような音が鈍く響いた。
    「――ッ! 痛いな、どこにこんな力があったんだよ……」
     攻撃の瞬間に千尋の前へと飛び出した晶が母親の攻撃を受け止め、そして押さえ込む。
     間髪置かずに晶のビハインドがその横から霊撃を叩き込んだ。ぎゃっ、と小さな悲鳴を上げて母親が地面に転がり、吸い込まれるように消えていった。
    「正治はこれでいいのか、こうしてお母さんに守られているだけで! 正治は男だろう。なら、これじゃあいけない、お母さんを守ってあげないと!」
     晶の叫びを正治が両耳を塞いで遮る。
    「これが僕のお母さんなんだ! これでいい、優しいお母さんがいいんだ! そうだ、すぐに怒るお母さんなんで僕にはいらないんだ!」
     正治の声に呼応するように空間が微かに揺れる。
     ピシッ。
     小さな音を立て、壁に1本の亀裂が走った。
     
    ●大事な行き違い
    「子猫を助けた事は凄いよ、普通じゃ怖くてできないもんね」
     おそらくは母親の精神と関係があるであろう室内に起こった変化を気にしつつ、京夜が努めて優しく声をかける。
    「だから、君は褒めてもらえると思ったんだよね? ……でも、怒られちゃった。……どうしてなんだろうね?」
    「……違う」
     俯いていた正治が声を絞り出す。
    「違うんだ、本当は褒めてほしかったわけじゃない……。お母さんなら、きっと僕を、子猫を助けてくれると思ったんだ……なのに!」
     顔を上げた正治の目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
     『ね……こ……?』
     母親達の声とよく似た、だが確実にそれとは違う声が空間にこだまする。突然、室内の照明が消えた。
     一瞬の静寂。何の前触れも無くパッ、と明るくなったそこには風が吹いていた。
    「あれ、ここ……どこ? 知らない、こんなところ……」
     正治が周囲を見渡し、怯える。
     ひどく簡略化された街、ボケた風景の中に1つ、明瞭な白い建物が見えた。
     『いぬねこクリニック』
     そう強調された大きな看板が目に付く。
     この病院が母親が子猫を預けた病院だと悟り、灼滅者達は正治へと向き直った。
    「おかあさん、後で正治くんと猫ちゃんの病院へお見舞いに行こうとしていたの」
    「野良猫は人に感染する病気を持っていることがあるのを知っているか? このお母さんはそれを知ったうえで病院に子猫を連れて行ったんだ。この意味が、わかるかな?」
     マリーと翼の言葉に対して正治が俯いたまま、ぶつぶつと呟く。
    「……でも、お母さんは僕の事を怒ったん――」
    「いい加減にしろ! めんどくせえ!」
     稜平の声に正治の全身がびくんと跳ねた。
    「てめェ1人が不幸の一等賞気取りか? その眼ン球見開いてちゃんと周りを見てみろ! お前のお袋さんがそんな薄情な人間だと本気で思ってんのか!?」
     母親、いや虚構の母親が正治を庇うように稜平へと掴み掛かり、もみ合う。
    「どけっ、邪魔だッ!」
    「まあまあ、落ち着いて、ね?」
     正海の放った神薙刃によって母親の肢体が粘土細工のような斬り口を晒す。歩く力を失ったそれは地面に馴染むように消えていった。
    「親子ってさ、うまくいかなくて、伝わらなくて。行き違ったりもするけど……その積み重ねの絆ってのがきみにとって一番必要なもの。そうじゃないか?」
     正海の言葉を聞きながら、正治が母親の消えていった地面をじっと見つめている。
    「キミはたった1人のお母さんを、こんな人形に作り変えようとしてるんだよ。何でも言う事を聞く人形に褒めてもらって、そんなので満足できるの?」
     千尋がそっと瞼を閉じ、息を吐く。
    「……それが、本当にキミの望みなの?」
     
    ●トビラ
    「僕は……」
     正治が最後に残った母親へと向き直る。
     まさはるはいいこだね、おかあさんはまさはるがだいすき。まさはる。まさはる。
     母親が正治をそっと抱きしめる。
    「違う……そうだ、これは僕のお母さんじゃない……」
     まさはる。まさはる。まさはる。
    「……ごめんなさい。でも、違うんだ。ありがとう、ごめんなさい、ごめんなさい……」
     母親の姿が風に乗って、砂のように掻き消えてゆく。
    「……ごめん、なさい……」
     時々鼻を鳴らしながら、正治の目から大粒の涙が流れ続ける。
     正治の頭に、マリアがそっと手を添えた。
    「……良い子」
     顔を上げた正治がマリアの目を見てうん、と小さく頷く。
    「嫌な事から逃げるのはいい、目ェ背けるのも仕方ねえ時もあるさ。……だけどな、自分で自分の大切なモンを穢すような真似は、絶対にすんじゃねェ!!」
     正治は稜平の力の入った言葉に対してひっ、と声を上げ、マリアの後ろへと身を隠した。「いじめちゃ、駄目」
    「べ、別にそんなつもりじゃ……チッ、わーったよ」
     稜平がばつが悪そうに大げさに顔を背ける。入れ替わる形で京夜が正治の前で、目線を合わせて少し屈んだ。
    「気持ちってものは伝えなきゃ意味が無いんだよ。『どうして怒るの?』って、君はお母さんに聞いたのかな?」
     正治が腕で涙をぬぐった。
    「……ううん、聞いてない」
    「お母さんはちゃんと声に出したよ。危ない事はしないで、って。まあ今みたいに怒鳴り声になっちゃって、うまく伝わらなかったみたいだけどね」
     後ろで翼が真顔のままプッ、と噴き出す。稜平の舌打ちが小さく聞こえた。
    「だが、それは君を本当に大事に思っていたからだ。お母さんも、そこの鳴神もな」
     サングラスを取り出しながら、翼が正治の目をまっすぐに見る。
    「うん、大丈夫。もう、僕にもちゃんとわかるよ」
    「もう、心配は無さそうだな正治。しっかりお母さんを守ってやれよ」
     晶に向けて正治がにっこりと笑みを浮かべた。
    「さあ、そろそろお母さんのところに帰ろうか」
     正海がぱん、と手を叩いた。正治がうん、と大きく頷く。
     いつの間にか、そこには先ほど通った居間への扉があった。
    「今度、マリーにも拾った猫ちゃん見せてね」
    「うん、約束する!」
    「それじゃ、開けるよ」
     千尋がドアのノブを捻った。

    作者:Nantetu 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2012年9月7日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 2/素敵だった 16/キャラが大事にされていた 0
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