キザミキザマレ

    作者:佐伯都

     彼はこれぞと思う相手と、テリトリーと定めた領域内で遊ぶのが大層お気に入りだ。自信に溢れた者、そして豊かな財力をもつ者などがいい。ついでにイイ女がいれば最高だ。
     遊びは多少他に迷惑をかける可能性があるので、テリトリーの中できっちりルールを決めたもの。
     これはハイソサエティで刺激的な大人の遊戯。
     ルール無用のバトルロワイヤルなんて、品がない。
     そう例えば、互いに降参するまで粘り強く競い合うとか。
     自分より明らかに力量が下と判断したなら、多少手加減してやるのもいい。
     もし相手が卑怯な手段に訴えてくるなら、そこはルールを破った相応の罰を受けるべき。
    「何で……何なの貴方、私に何の恨みがあるって言うの!」
    「恨み、ねぇ。知りたいか?」 
     ククク、と喉の奥で笑って赤い飾りをつけた滑らかな頬を撫で上げる。機械じみた冷たい指先に、散々いたぶられた身体が大きく震えた。
    「暇つぶし、だよ」
     そうこれはハイソサエティで刺激的な大人の遊戯。
     例えて言うなら命を賭けた鬼ごっこ。
     脆弱な人間ゆえ命に関わらぬ傷をつけ、逃げまどうのをさらに傷つけ、そうして弱っていくのをどこまでも追い回してじんわりじんわりなぶり殺す。
     もし気に入らぬやり口の抵抗などしようものなら、人格はもちろん尊厳など笑顔で地平の彼方へぶん投げるように散々いたぶり尽くしてやるとか、愉しすぎて絶頂すら覚える。
     仲間も敵もいやしない、存在するのは殺される獲物だけ。
     そしてオレと、相変わらず馬鹿で甘ちゃんで弱っちいお前の二人だけ。
    「オレが、霜月・小春に出会うまでのな!!」
     
    ●キザミキザマレ
     年の瀬の招集に応じてくれて本当に感謝する、と灼滅者たちへ頭を下げ、成宮・樹(高校生エクスブレイン・dn0159)が足早に教室へ入ってきた。
    「こんな時期に申し訳ないけど、たった今情報が入ったから急いで向かってほしい」
     未来予測に浮かびあがる名前は、桐咲・兆夢(鮮血急報イモータルクリムゾン・d12733)。
    「言うまでもないけど『当人』じゃない」
     今や彼の外見的特徴を残した、『別の何か』だ。先日、クリスマス市を舞台にした闇墜ちゲームのために六六六人衆となっている。
     テリトリーと称したある程度の面積の狩場を設定し、そこにお好みの獲物を引き込んでは散々に追いかけ回し、少しずついたぶり、なぶり尽くして殺す……そんな事件を起こそうとしている。今から向かえばなんとか未遂で防げそうなのが、不幸中の幸いといった所か。
    「便宜上、ダークネスの人格は桐咲と呼んでおく。桐咲は闇墜ち後この一帯を自分のテリトリーに選んだだけあって、土地勘もある。不利を悟れば逃走も考えるはずだ、振り切られたらまず追いつくことはできない」
     包囲し、逃走の機会を与えぬよう立ち回る必要があるだろう。
     桐咲が獲物として好むのは、高慢そうな女性、自信過剰そうな者、そして権力や財力に物を言わせ他者を従えることを喜びそうな者。
    「恐らく、現場に到着した時には獲物とされた女が今にも止めを刺されそうになっているはずだ。まずは彼女をどうにか保護し、それから事に当たってもらいたい」
     やはり不幸中の幸いか、なぶり殺しにするという桐咲の嗜好のおかげでまだ致命傷を受けていない。確保すれば桐咲は標的を灼滅者へ絞ってくるので、一般人への治療は後回しにしても命に別状ないだろう。
    「場所はある歓楽街の路地裏で、深夜という時間帯や時期的なものもあって人通りはない。桐咲もゲームは邪魔されたくないだろうから、おあつらえむき、って奴だな」
     桐咲は襟元に黒のリアルファーがついた白いコートを着込み、赤のシャツに黒い細身のパンツ姿。いつも一束に結っていた深紅の長髪もそのまま後ろへ流し、どこか呪いじみた文様が顔の右半面から首筋、胸元へ至っている。
     バックルを飾るドクロの意匠も不吉な、文字通りのダークネスだ。
    「可能ならもう少し多い人数で向かうことができれば良かったんだが、そうすると戦闘自体を避けて逃走される恐れがあったのでこの数になっている。恐らく苦戦は免れないだろう。その事も、本当にすまない……」
     もはやダークネスとなった彼は、灼滅者に容赦ない攻撃を加えてくるはずだ。しかし矛を交える事に迷っていては、こちらの隙を突かれる事にもなりかねない。
     どうにか救出したいと誰もが願っているはずだが、もしそれが無理ならば。
    「灼滅しかない」
     樹は低い声で、迷いなくその単語を口にした。どのみち、今回助けられなければ闇墜ちは完成し、『兆夢』という存在は消えうせ二度と戻らない。
    「つまり死体を積み上げたあとの灼滅か、積む前の灼滅か。その違いだけだ」
     救出か別の未来か、すべては灼滅者にかかっている。


    参加者
    周防・雛(少女グランギニョル・d00356)
    花藤・焔(魔斬刃姫・d01510)
    金井・修李(進化した無差別改造魔・d03041)
    佐津・仁貴(中学生殺刃鬼・d06044)
    イブ・コンスタンティーヌ(愛執エデン・d08460)
    悪野・英一(悪の戦闘員・d13660)
    グレイス・キドゥン(日常の探究者・d17312)
    月姫・舞(炊事場の主・d20689)

    ■リプレイ

    ●望み望まれ
     冷えきった夜空に今晩、月は見えない。
     キンと澄んだ空気を躍り越えるように、金井・修李(進化した無差別改造魔・d03041)は赤錆の浮いた梯子を蹴った。目指すポイントの手前で一行からひとり逸れ、ひたすら高い場所を目指し、床の抜けそうな非常階段やどこに繋がっているか不安になるような細いラッタルを駆けあがる。
    「……」
     手すりを懸垂の要領で登りきり、周囲を見回した修李はようやく満足できる角度と高さの屋上へ到達したことを知った。
     物音を立てないよう、静かに銃身を起こし狙いをつける。
     下から噴き上がってくる真冬の風に乗って、細く女の悲鳴が届いた。
    「……ひっ、ィイい……!!」
     高価そうなコートを血と何かで汚し、裏路地の片隅にうずくまっている。逃げられないようにという意図なのか、脚は血まみれ、靴も片方なかった。
     ひとり進路から逸れた修李が、この一角を見下ろす高みのどこかで銃を構えていることを周防・雛(少女グランギニョル・d00356)は現場を目指しつつ祈る。
    「い、いや、……こないで、おねがい、私なにもあなたのこと知らない……」
     襟元に黒いリアルファーを飾ったコートの足元。
     ぶわりと不自然に広がった影があざやかに揚羽蝶のシルエットを描いた。
    「何で……何なの貴方、私に何の恨みがあるって言うの!」
    「恨み、ねぇ。知りたいか?」 
     喉の奥で押し殺す笑い方をして、赤髪の男――桐咲、はどことなく虫じみた雰囲気の漂う得物を担ぎあげる。
    「暇つぶし、だよ」
     金属の光沢をのせた冷たい指先で女の頬を撫で、そして笑みを強めた。
    「オレが、霜月・小春に出会うまでのな!!」
     歓楽街の片隅、己が定めたテリトリーに無断で入るものを主たる桐咲は許さないだろう。だからこそあえて、花藤・焔(魔斬刃姫・d01510)は最初にその間合いへ踏み込んだ。
    「迷子の先輩、迎えに来ましたよ」
     焔の背後、桐咲の死角から佐津・仁貴(中学生殺刃鬼・d06044)が飛び出す。すべてはその一瞬に起こった。
    「ぶっ倒す!!」
     そのままライドキャリバーへ斬撃を見舞った瞬間、頭上から猛然と撃ち出されてきた銃弾。桐咲は咄嗟に両腕で頭を守りながら一歩跳躍し、銃撃を避ける。
    「御機嫌よう、兆夢先輩。あなたを助けに参りました」
    「早急に終わらせましょう」
     銃撃の残響もさめやらぬ中、次々に月姫・舞(炊事場の主・d20689)、そしてイブ・コンスタンティーヌ(愛執エデン・d08460)の声が投げ込まれた。その隙に焔は傷だらけの女を文字通りかっさらうように抱きとめ、空いた腕でアスファルトを叩き跳ね起きる。
     そのまま離脱する背中を舌打ちして睨み、桐咲は足元に広がる揚羽蝶の影を羽ばたかせた。
    「しかし、難儀な性格よなぁ。俺もジブンも」
     だが闇色の蝶が飛ぶ前にグレイス・キドゥン(日常の探究者・d17312)と悪野・英一(悪の戦闘員・d13660)が立ち塞がり、さらに頭上から続けて問答無用の連射が降ってきては、さしもの桐咲も追撃を諦めるしかない。
    「そこまでですよ、兆夢様。これ以上……その先の道は進ませません」
     射撃を浴びて傷ついたキャリバーを一度傍らへ戻し、桐咲は血濡れた指先を舐めあげた。

    ●刻み刻まれ
     キャリバーが下がったことで一度仕切り直しとなったものの、空気は張り詰めたまま。すぐに斬りこめる距離を保ち、灼滅者たちは桐咲の包囲を完成させる。
    「さしずめ兆夢を力ずくで連れ戻しに来た、あたりか」
    「あなたに拘う暇はないんです」
     舞は二重の意味をこめて実につまらなさそうに言い放ち、妖の槍をゆっくりと下段へ据える。
    「まぁ、余計なお節介やろけど……知り合いのためにも、絶対連れ戻す」
     一度目は自らを庇って、二度目はその瞬間を見ることさえ叶わず。曰く『知り合い』のその心情を思うと、グレイスは黙って看過できなかった。
     連れ戻すための腕があるなら伸ばし、機会があるなら掴む。理由なんてたったそれだけで充分。
    「ダークネスだろうとなかろうと、この世の悪は許されない。そうだろ、『弱者をいたぶり殺す者』」
    「……馬の耳に念仏、六六六人衆に説法、とか思わねーの?」
     へらりと軽薄に笑う桐咲に仁貴は眉も揺らさず答えた。
    「説法じみた、気の利いた言葉など持ち合わせていない。だが自分のことを言われていると思ったってことは図星か?」
    「でけェ独り言だな。それで挑発しているつもりなら、やれる点数は赤点だよ」
     しかし沈黙していたはずのキャリバーのタイヤが猛然とアスファルトを擦りはじめ、少なからずダークネスの闘争心に火を点けたことを知らせる。
    「オイデマセ、我ガ愛シキ眷属達!」
     雛がドールズと呼び習わす影業は死を紡ぐ殺戮人形。
     熊を模したオベロン、少女を模したティタニアが足元から躍り上がり、手袋をかけた指先に操り糸を握る仮面の少女ピエロが死闘の開幕を声高らかに宣言する。
    「サァ、『桐咲』……アソビマショ!!」
     突進してきたキャリバーをドールズで迎え撃たんとする雛の前、舞は不機嫌そうな表情も隠さず右腕を振りぬいた。往時は愛嬌すら感じさせるフォルムだったはずのキャリバーも、闇墜ちの影響なのかどことなく禍々しい。
     内部を蹂躙する魔力に悶え苦しむように、突進の勢いを保ったままキャリバーが横倒しになって建物の壁へ激突した。放置されたゴミ山に潰されてぎゅるぎゅると凄まじいタイヤ音が鳴り響くなか、英一は再開された上方からの斉射に紛れこむ。
    「Pardon、ここから先へは行かせないわ」
     極細のワイヤーから伝わる手応えに、雛は仮面の下でうすく笑った。
     わかりやすく桐咲本人に狙いを絞る者もいれば、桐咲を挑発しつつもなぜかキャリバーに標的を定める者もおり、何も知らぬ者が見るなら統率はまるで取れていない。しかしイブと雛の二人が中衛に配されキャリバーを狙う意味を、桐咲はこれから知ることになる。

    ●殺し殺され
     まるで影のように死角から現れたあげく、恐ろしいほどの的確さで足元を狙いにきた英一から桐咲は逃れられなかった。
    「クラブの皆さんに約束したんです、必ず、あなたを連れ帰ると」
     そして、狙いすました仁貴の黒脊柱・戦刃が白いコートを深々と切り裂く。桐咲自身の鮮血が汚れたアスファルトにばたばたと音を立てて落ちた。
    「沢山愛してあげますから、お覚悟を。自信家な女は嫌いでしょうか?」
    「はッ、嫌いじゃねェよ。散々泣き喚かせて殺したいくらいにはな!」
     苛立ちにまかせてイブに吐き捨てると影色の揚羽蝶が乱舞して、彼女のビハインドもろとも血嵐へと巻き込む。
    「それはつまり、お眼鏡に叶ったと? 嬉しいですね。私は私の愛情に、自信を持っておりますよ」
     昏く病みついた深紅の瞳を満足げな笑みに細め、イブは返礼とばかりに左手薬指を飾る寡婦指輪を掲げた。そこから放たれた一撃で機銃掃射に入ろうとしていたキャリバーの銃口が意味もなく沈黙し、桐咲が二度目の舌打ちをする。
    「桐咲、お前もまだ死にたくはないやろ?」
    「斬り潰します」
     聞き覚えがありすぎる台詞に赤い目を剥く。
     かなり無理な体勢から首をねじるように二つの声の主を見た。いったいどんな方法を使ったのか、スライディングの要領で足元へすべりこんできたグレイスが握る剣先がにぶく輝く。
    「お前を待ってる人は――沢山いるだろ?」
     そう、今となっては信じられないほど遠くへ残してきた、たくさんの人間。
     なぜか言い返せなかった桐咲を、ほぼ真下から、という低い位置からの斬りつけが襲った。そしていつの間に戻ってきたのか、担当した人員こそ違えどあの日のように怪力無双で安全な場所まで被害者を退避させてきた焔の、何の奇もてらわない戦艦斬り。
     灼滅者をぶん投げるか、一般人を運ぶかの違いこそあれその光景は桐咲の中の『なにか』をひどく逆撫でした。
    「兆夢君が帰ってこないと、悲しむ人達がたくさん居るんだよ……」
     巨大な銃身を起こし、修李は祈りを込めてネオン光に照らされた路地裏を見下ろす。
     横倒しになったまま、機銃掃射どころか身動きすらもはやままならないキャリバーを見つけた。積み上がったダメージもあるかもしれないが、むしろ行動の自由を奪う攻撃が重なったことによる部分が大きいとひと目でわかる。
    「ヤケドしたらゴメンね!」
     10分経てばリロードのきくサーヴァントとは言っても、兆夢が愛情を注いでいたはずの存在だということは想像に難くない。機械修理が得意な人間としてはどうしたって心が痛む。次に目覚めるときは、主の闇墜ちによる今の姿ではなく、元の姿での覚醒であることを願うだけだ。
     ライドキャリバーの消滅を知った桐咲が声かぎりに咆哮する。
    「闇堕ちしても『三下』か……いや、自覚が無い上に、弱者をいたぶって喜んでいるあたりもっと性質が悪いか……」
    「ンだと……」
    「俺達は立ち位置こそ違えど『殺す者』。『真に殺す者』ならば、いかなる者も殺す」
    「訳わかんねェこと言ってんじゃねーぞ糞ガキャァ!!」
     至近距離から叩き下ろされた、蜂の針のようにも見えるバベルブレイカーの一撃を仁貴はあえて受けた。巨大地震のような衝撃が一帯を呑み込むがどうにか堪える。
    「ダークネス、灼滅者を問わず殺せる技術と思考回路」
     アスファルトへバベルブレイカーを突き立てた姿勢のまま、桐咲は瞠目していた。
    「そして、その殺人衝動を押さえ込む為に己すら殺す。時には闇堕ちした仲間を倒すために己すら殺せる者、お前はそれには遙かに及ばないと、そう言っている」
     例え犠牲が己が身であろうとも『殺す』。
     かつて選んだ最小限の犠牲とは何だったか。
    「……やめろ」
    「なるほど一理ありますね。ハイソサエティで刺激的な大人の遊戯とか嘯いても、所詮こんな風に力ない者を嬲り殺そうとすることしかできない低俗さが、なにより貴方のレベルを示しているのでは?」
    「黙れ」
     あいつを起こすな。
    「だから早く帰ってきてください」
     いつまでそんな低俗な輩の尻に敷かれているつもりだ、と舞は眉根を寄せて言い放った。
    「貴方が戻ってこないとあの腹立たしい小春にリベンジできないし、何よりお礼が言えないじゃないですか」

    ●願い願われ
    「兆夢様、その道は貴方の望んだ正義でも悪の道でもありません。その道は外道の道。その道を歩ませるわけには……」
     油断なく武器を構えたまま英一は桐咲と相対する。
    「貴方と共に歩む方々の事を、彼女と約束した事を思い出して下さい!」
    「初めは随分と賑やかな人がやってきた、と思ったわ。『兆夢』……ヒナの事、覚えていらっしゃる?」
     肩で息をつき、雛は黒の仮面をずらして目元を明らかにした。足元のドールズが桐咲、いや今やその奥に押し込められた別の誰かに向かって遠慮がちに小さく手を振る。
    「それなのに、満足に交友を深められぬまま此処で堕ちてしまうなんて……お目覚めになった時には、仲良くして下さる?」
    「応じる義理はねぇな」
     力任せにバベルブレイカー【絡繰義手ベニバチ】を引き抜き、桐咲は自らの腕と一体化しているかのように見えるそれを軽々と一振りした。
    「大体、あの馬鹿な甘ちゃんをオレが護ってやったからこそ、ここまで生きてこられたようなもんだ。兆夢を護ったのはお前らでも兆夢自身でもない、このオレだ」
     ダークネスの一方的な言い分に耳を傾ける必要はない、と英一はわずかに低く構えをとる。ダメ押しとばかりにまたもや頭上から降り注いできた一斉射撃を、桐咲はなんとか回復で立て直した。
     よしんば桐咲の出現によって兆夢の命が救われたことがあったとしても、それは結果論でしかないのだ。
     その闇墜ちによって『兆夢』を護ってやったと主張するなど、業腹も甚だしい。
    「まあ……少なくともこんな事するより、元のみんなで駄弁ったり騒いだりする方がきっと楽しいと思うで?」
     やや諦めたような顔で、続けざまに斬り込んできたグレイスの剣を避ける足元がややおぼつかない。
    「人間にとっちゃそうかもしれねェな。だがオレは違う。結局お前らはオレごと兆夢を殺すと、そういうわけだ」
    「あなたがそこを退かなければ、そうなりますね」 
     当然焔にそんなつもりは毛頭ないのだが、あえて否定しなかった。ダークネス相手に人間の道理を問いてどうにかなっていれば、人類への圧政なんて最初から起こっていない。
     あらためてダークネスと人間の間の埋まらぬ距離を再認識し、グレイスは眉をしかめつつわずかに横へ立ち位置を変える。こちらが隙を見せるなり派手な失策でもしないかぎり、桐咲の体力が尽きるほうが恐らく早い。
     黒一色の装束ということもあるのか、巧みに死角へ回り込む英一が確実に桐咲を削りに行く。
    「ねえ兆夢。貴方にお料理の才能があると知った時、いたく感動したの。ヒナはお料理音痴だから、おいしいお料理、もっと教えて貰いたいわ」
    「……先輩の作るお料理、また食べたいです。作ってくれますでしょうか?」
     そしてキャリバーに向けられていたはずの雛とイブの行動阻害がそのまま降りかかってこられては、もう攻勢へ転じる余裕など桐咲には残されていなかった。
    「そうか」
     ついにアスファルトへ両膝をついた、満身創痍の桐咲が夜空を見上げて笑う。
     もはや勝負ありと悟った修李が、武器を背負ったまま屋上からするすると配管を伝って降りてきた。
     桐咲の中で何が起こっているのか、それは彼にしかわからない。
    「それがお前の答えか、兆夢!」
    「返してください、先輩を」
     ビハインドを従えたイブがひたりと喉元へ【Der Rosenkavalier】を突きつけ、赤く、どこか昏い双眸を瞬かせてダークネスは笑った。
     くつくつと喉元で押し殺す笑い方。右反面を多う呪いじみた文様がざわざわと揺らめきはじめる。
    「――Réveil-toi! 目を覚ましなさい!」
     ざらりと夜陰を切り裂く操り糸を引き寄せ、雛はドールズを奔らせた。
     禍々しい、オーラじみた赤黒い何かが桐咲の足元から噴出する。
    「妬けちゃうねェ?」
     何が、と問おうとした英一の言葉は結局、声にならなかった。

    「……兆夢様。兆夢様!」
     真っ先に駆け寄った英一が軽く頬を叩くと、すぐに兆夢は目を開けた。いつものサングラスがないせいかネオン光が眩しいらしく、無様にアスファルトへ転がった姿勢のまま顔をしかめている。
    「あー……申し訳ないっス。今日、何日?」
    「日付変わったかどうかは知りませんが、お正月は終わりましたよ」
     実に端的に表現した仁貴が携帯で時刻を確認しようとすると、兆夢が頭を抱えた。
    「超叱られるっス」
    「誰にですか」
    「初詣の約束すっぽかしちまったッスよ……!」
    「成程。たっぷり叱られるといいんです」
     辛辣な言葉の最後に、おかえりなさい、と付け加えた灼滅者たちが手を差し出す。
     しばらく逡巡した兆夢がそこへ右手を重ねるまで、あと五秒。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年1月10日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 15/感動した 0/素敵だった 1/キャラが大事にされていた 2
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