怪絵巻海女房

    作者:佐伯都

     波が逆巻き風吹き荒れる海を、犬に似た獣が波打ち際で見つめている。
     やや長い白毛の首へ翡翠の勾玉を飾った狼。吹きすさぶ烈風へわずかに目を細め、踊る白波のむこう、遠く遠く沖を見はるかすように首をもたげた。
     びょうびょうと咆哮をあげる風すらものともせず、漆黒の狼は鋭く身を翻し背後の松原へ姿を消す。
     やがて互いに互いを打ち消しあうような荒波の中から、ずるずると青黒い影が姿を現した。
     鎖を引きずり、ぶあつい雲が群れる空を仰いだ青黒い影は血を吐くような叫びをあげる。乱れ髪にずぶ濡れの着物、屍肉を抱えて慟哭するそれは女のように見えた。
     
    ●怪絵巻海女房
    「島根県の海岸に、スサノオによる古の畏れが生み出されたみたいでね」
     成宮・樹(高校生エクスブレイン・dn0159)は教卓の上に広げたルーズリーフを一枚捲り、そこに視線を落とした。
    「海女房(うみにょうぼう)。女性の水死者の化身とも、海坊主の妻とも言われてる。地方によっては魚とか布に生首を包んで抱いてるって場合もあるようで」
     この古の畏れが抱いているのは青白い屍肉の塊。ざんばらに長く伸びた黒髪に痩せ衰えた身体、苔や海藻がまとわりつく薄汚れた着物に爛々と赤く光る目、そのありさまは正しく『妖怪』かもしれない。
    「それこそ出雲地方の伝承通りなら赤ん坊を抱いてるはずだけど、この海女房が抱いているのは……ああ何て言えばいいかな、屍肉、としか表現のしようがない」
     大きさや全体的な形状、肉の厚みから魚や海獣のたぐいではなく『恐らく人体かもしれない』という屍肉だ。腕か脚かもしれない何か、胴のどこかかもしれない何か、をいくつかぼろ布にまとめ上げて抱いている。
    「夜になると海から波打ち際へ上がってきて、そこで一晩中狂ったように泣き叫ぶ。聞いているだけでも相当精神力削られそうな感じだけど、物理的にもソニックビート相当のダメージが伴うから、一般人が巻き込まれないうちに対処した方がいいね」
     海女房の足に絡みついた鎖は海の中へ続いており、波打ち際を多少歩ける程度であまり自由にはならないようだ。前述したソニックビート相当の泣き声の他にも、眠りを誘う歌声や命あるものを呪詛する叫び声、影を使役しての斬撃や触手のように使って拘束しようとするなど、多彩な攻撃を行ってくる。
     また、この古の畏れを呼び覚ましたスサノオの行方はブレイズゲート同様にエクスブレインの予知がきかない状況であり、現状では後手に回らざるを得ない。
    「もう何件か報告も上がってるけど、たとえ後手後手でも事件を地道に追いかけていけば、いずれスサノオ本体の尻尾は掴めると思うよ。今はまず、目の前の事件を一つ一つ解決していくしかないね」
     気をつけて、と樹は最後に短く言って灼滅者達を送り出した。


    参加者
    東当・悟(の身長はプラス十センチ・d00662)
    鏡・瑠璃(桜花巫覡・d02951)
    佐藤・志織(高校生魔法使い・d03621)
    深火神・六花(火防女・d04775)
    紺野・茉咲(コードレスナイト・d12002)
    鈴木・昭子(籠唄・d17176)
    ルナ・クロケット(自滅者・d23503)
    山田・霞(オッサン系マッチョファイター・d25173)

    ■リプレイ

    ●海より来たる
     昏い波間の向こうからは遠雷のような低い轟きが聞こえていた。沖から吹きつける風に目を細め、東当・悟(の身長はプラス十センチ・d00662)が軽く右手をひと振りする。
    「……せめてはよ、寝かしたろ。一人は染みるやろ」
    「そう、ですね。ただの、物語の住人であればよかったのに」
     悟の手にある影色の刃を見やり、鈴木・昭子(籠唄・d17176)はゆっくりと砂浜を松原へむけて歩きだす。墨色の波間、おぼろげに見え隠れするのは薄汚れた着物。
     それは青黒い深みより来たる災いの姿。
    「かたちを得て、害を成すのであれば捨て置けません、ね」
    「本来……人の死を悼む、心優しい所のある方です。応える為にも、すべて荼毘に付しましょう」
     海を見つめる深火神・六花(火防女・d04775)の視線の先、白く飛沫を散らす波に押し出されるようにして、淡色の着物が月光に浮かび上がった。
     苔や海藻がまとわりつき、往時は何か染め付けられていたはずの身頃にも薄ぼんやりとした図案めいたものが窺えるだけ。乱れた黒髪のすきまから赤く燃える目が、ぬらりとルナ・クロケット(自滅者・d23503)を眺めた。
    「思いのほか半魚人っぽくはないかな」
     ガトリングガン【衣通姫】の銃身を引き起こし、鏡・瑠璃(桜花巫覡・d02951)は狙いをつける。その耳には、布陣を急ぐ佐藤・志織(高校生魔法使い・d03621)の足音が聞こえていた。
     あおく輝く雲が、砂浜に月影を落としひどく急いで空を通り過ぎていく。海女房の腕には、古布に包まれた屍肉が見えた。なるほどこの大きさと肉の厚みなら魚でも海獣でもない、と悟は眉根を寄せる。
     マフラーで口元を隠した紺野・茉咲(コードレスナイト・d12002)を中心に不可視の盾が広がったのと、悟が居合いの要領で海女房に斬りかかったのはほぼ同時だった。
    「夜はお静かに、ね」
     しぃ、と口元に指を立てて茉咲は戦場を完全に遮音する。
     聞く者が何の力も持たぬなら、その慟哭は致死的な打撃と精神の崩壊を伴ったかもしれない。
     だが灼滅者ならば耳をかたむけてやれる。その嘆きにも。
     まずは布陣を万全にすべく昭子が自身の守りを固める、その刹那。金切り声に似た慟哭が灼滅者たちの耳朶を激しく震わせた。
     思うさま黒板を爪で掻くような、金属を執拗にこすり合わせるような。どうしようもなく生理的な嫌悪感を煽る声に山田・霞(オッサン系マッチョファイター・d25173)は喉の奥で呻く。
     物理的なダメージは癒やせるからいいとしても、この手の独特の嫌悪感はなかなかすぐに忘れられるものではない。耳を傾けているだけで精神が削られる、という話も頷けた。
     霞は海女房の声を真正面から浴びた瑠璃にソーサルガーダーを施して、ふとバベルブレイカーを握る手に力を込める。
     古の畏れという存在になりはてた今、その姿が生前の面影を残しているのか、そもそも実際彼女が『人間』であったかどうかなど誰にもわからない。しかし己の力の足らなさを痛切に感じる霞としては、海女房もまた『守られることのなかった者』のような気がしてならなかった。

    ●怪異の真
     ルナの掲げた右手へ急速に光が集まり、夜陰を切り裂いていく。悟や瑠璃が果敢に攻め込む傍ら、志織は海女房の背後をとるように波間へ立った。
    「古の畏れとやりあうのは初めてですが、スサノオも随分と酷な事をしますね」
     あまり広い範囲は動けない、その上で可能性が示唆されなかった以上心配するまでもなかった事だったのかもしれないが、万が一海に逃げられでもしたら悔しいどころの騒ぎではない。ゆえに志織が選んだ立ち位置は、海女房を海側から浜へと追い立てられる場所、だった。
     その手に握られた巨大なチェーンソー剣から、先のあの慟哭などものともしない凄まじいモーター音が上がる。
     背後から志織に袈裟懸けに斬りつけられた海女房が、数歩たたらを踏んだ。瑠璃がすかさず追撃に入るものの、屍肉を左腕に抱えたまま鋭く右手をひらめかせる。
     ……死ね、死んでしまえ、奪われた命はもう戻らない。
     命あるものへの恨み言か、はたまた腕の中の屍肉を思う苦悶の呻きか、生々しい声音がむきだしの殺意に変換された。どこか生き物じみた生々しさで放たれた殺気は昭子とルナを襲い、黒く呑みくだす。
     スサノオに起こされる事さえなければ、ただの物語、ただの伝承でいられたのだろうか。ここに在ることが良いか悪いか、ひとくくりにはできないだろうと昭子は考える。
    「……かなしくて、おそろしいおはなしです」
     小さく呟き、共に殺気へ飲まれたルナと自らへ清冽な風を吹かせてから昭子は切なげに眉をひそめた。
     ……死んでしまえ、死んでしまえ。どうせもう戻らない。
     ……いのちあるもの皆死んでしまえ。どこまでもこの水底深く、永遠に沈めばいい。
     そんな呪詛を吐き散らす怪異の姿は悲しく寂しく、そしてどこまでも哀れでしかなかった。
    「先に言っておくわ。私はドMよ」
     装飾的な拘束服の裾を翻し、ルナはダメージなど嘘だったかのように笑う。痛みや恐怖を笑顔でさらりと受け流すその真意は、果たして。
    「ただ今は、真っ向から戦わせてもらうさね」
    「子守唄、か。それは、その腕の中の子へ?」
     ふと思い出したように呟いた茉咲の後ろから、白柄の日本刀に炎をまとわせた六花が斬りかかった。
    「その悲しみ、灼き祓います……鎮まり賜え!!」

    ●涙くれても
    「誰かを守る為だ」
     この場にいる中で、一番力が足りない自覚ならある。せめて他人を庇うくらいはと考えた事もあるが、それすら十分ではない気がする自身に霞は怒りを押さえきれない。
     もっと力があれば。
     もっと強ければ。……もっと、もっと力が、力が。
     藻に汚れた着物へ凶悪なフォルムの杭を叩き下ろし、ここで潰れて果てろ、と大喝しかけた霞はなぜかその言葉を呑みこんだ。
     痩せこけた女が波打ち際で屍体を抱いたまま這いつくばり、赤い目で霞をぎらりと睨みあげる。六花のレーヴァテインによる炎が、その表情を克明に照らしていた。
    「失くしてしまった命は戻らないし、あげられない。ごめんね」 
     霞に向かいかけていた海女房の視線を引き戻すべく、茉咲は左手に展開させた不可視の盾で殴りつける。ただ、何よりも大事そうに抱えている屍肉を守る腕を狙うには忍びなく、背面を狙った。
     古の畏れとは言え女性の姿をした相手にその仕打ちは気が引けたが、上半身以外に狙えそうな箇所はそこしかなかったので仕方がない。
    「月の綺麗な夜だもの。もう静かに眠ろう」
     本当に、月が出ていて良かった、と茉咲は思う。夜の海は引き込まれそうと言うか、少しこの世ならぬ気配が漂っていて怖い。でも月が出ていれば、波間に揺れるその光に多少なりとも心安らぐ。
     だからせめて、安らかに。
     その腕に抱いて、そして抱かれたままで、もう離れることなく眠りにつけばいい。夜の海でも、月光が差し込んでいればきっと迷わず行くべき場所へたどりつけるだろう。
     いつのまにやら細かな傷が見える悟の腕を、六花が吹かせる風が癒やしていった。瑠璃の腕が一瞬で異形のそれへと変化し、今度は前衛をまとめて呪詛で呑み込んだ海女房をしたたかに打ちすえていく。
     枯れ木のように痩せた足を縛る鎖が、志織の視界をよぎった。
    「積年の恨みつらみ、全力をもって全てあの世へ還します」
    「逃がさへん!」
     大切な命が失われ奪われる、その痛みを『知っている』と言えば嘘になる。
     現に悟にとっての大切な相手は生きているし、帰りを待っているのだ。ただ、それが喪われた時の悲しみは想像できるし、それこそ気も狂わんばかりの痛みに違いないということだけは、間違いなく想像できる。その痛み悲しみが、過ごした日々が幸せであればあるほど辛いはずだということも。
     そしてこの海の底から目覚めさせられさえしなければ、痛み苦しみを思い出すこともなく穏やかに眠っていられたはずだったのに。
    「勝手に蘇らせるような奴を野放しにしてごめんな……」
     辛いだろう、悲しいだろう。理解できなくはない。
     だからこそ、その痛みが引き起こす負の連鎖を今ここで断ち切る。そのために悟は命をここでくれてやる事はできないし、斃れるつもりもない。

    ●沈む瀬もあれ、浮かぶ瀬もあれ
     志織の両手に青白い光が凝り、砂浜へ伸びるいくつもの影を激しく揺らす。その渾身の連打を浴びた古の畏れが、がくりと片膝をついた。
    「不退転の決意は完了済みですよ」
     ……なぜ奪う、なぜ死なぬ。お前達も死ねばいい。
     迫る灼滅者を振り払おうとでもしたのか、空気を掻いた土気色の腕から影色の刃が伸びる。宙を魚が泳ぐような、どこか無駄のない美しさを想起させる流線型のフォルムの斬影刃が瑠璃の着物の袖をあざやかに切り裂いた。
    「嘆きが現実を覆い尽くす前に、潰えろッ!」
     切り裂かれた袖から赤い血をひとすじ引いて、瑠璃の右腕が巨大化する。
     目の前へ迫る結末を否定するように、海女房の下に広がる影が今一度、柳の葉のかたちに似た刃を形成した。瑠璃の傷を癒やすのが先か、それとも海女房の消耗が明らかなここは畳みかけるべきか、昭子が迷ったのはほんの一瞬。
     ルナによる狙いすました解体ナイフの一撃が、痩せた右脇腹をえぐるのと瑠璃の鬼神変がクリーンヒットしたのはほぼ同時だった。ばらりと闇色の刃が砂浜へ散り、さらに昭子の影縛りが余力もすくない体を波打ち際へと縫いつける。
     六花の清めの風が瑠璃の血を止めて通り過ぎていった。
    「……ごめんね」
     今一度謝罪の呟きを落として、茉咲は指先で影業の先を捕らえる。
     ……死ねばいい。みんな海に沈んでしまえばいい。
     ……我が子を亡くしたこの身、どうしてこれ以上ながらえる事ができようか!
     丸くにぶい刃はそれだけ痛む。いっそ斬るなら何よりも鋭く激しく、一閃したほうが痛みは少ない。
     全身で屍肉を守ろうと体を丸めた海女房を、黒い刃が両断していった。断末魔の叫びはない。
     ほんの一瞬前まで痩せこけた女の姿形をしていたはずなのに、瞬きひとつする間に跡形もなく砂山となって崩れさる。
    「――」
     沖から吹きつけてくる風に、かつて古の畏れとして存在していたはずの砂山があっという間に浚われて消えていった。夢か幻かと錯覚してしまうには、霞が得た戦闘の名残は重すぎる。
     茉咲が手向けとばかりに青い花びらを一枚海へと放る横で、ルナと昭子はじっと手を合わせていた。
     どうか、あの親子が静かに眠れますように。
     祝詞を唱える六花の声、瑠璃が奏でる鎮魂歌と一緒にいくつかの塩引きが波間に吸い込まれていく。どこぞの怪異譚では塩漬けの魚を好むという記述があるようだが、果たして彼らが邂逅した海女房もそうであるかどうかは不明だ。
    「……一緒に、あんじょう寝ぇや」
    「食欲あるかは分かりませんが、おにぎりとお茶を持ってきたので一休みしませんか」
     春も浅い海辺の深夜だ、服にしっかりと使い捨てカイロを仕込んであったルナは別として、海風ですっかり体は冷えきっている。手際よく持参してきた荷物をほどいて、志織はいくつかの包みと魔法瓶を取り出した。口元を覆うマフラーをすこし押し下げ、茉咲は冷たい指先に息を吹きかける。
    「……そうだね。お腹空いた」
     乾いていそうな流木を選んで火をおこし、思い思いに塩引きの残りをたき火にかざした。
     夜通し、亡骸のすぐ側で飲食をすることも死者の供養の形のひとつ。それを灼滅者たちが意図していたかどうかは、天空高くから見下ろす月だけが知っている。

    作者:佐伯都 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年3月11日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 6/感動した 2/素敵だった 3/キャラが大事にされていた 1
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