夢見のアウランティウム

    作者:西宮チヒロ

    ●still
     優しく音を刻む、教室の時計の針。空を染めはじめたオレンジ色が、ゆっくりと、静かに世界を包み込んでゆく時間。
     いちばんの友達と過ごすこのひとときが、わたしは何よりも好きだった。
    『ね。週末、またうちに新作お菓子食べに来ない?』
    「いくいくー! ユウのはそこいらのカフェより美味しいからなー。今度は何?」
    『フレンチトースト。バゲットから手作りしてみたらこれがまたすっごく美味しくてさ。って、何か予定入ってたりしない?』
    「ないない! わたしのこと誘うのなんてユウくらいだもん」
    『じゃあ、明日12時に鎌倉駅の裏口まで迎えに行くよ。天気も良さそうだし、ぶらぶら散歩しても良いかもねー』
    「あ、いいねー! 桜とか咲いてるかなぁ? めちゃくちゃ楽しみーっ」
     小さい頃から引越し続きで、友達も碌にできなかったわたしにとって初めての──そして唯一無二の大親友、ユウ。
     貧乏だって構わない。服も、アクセサリーも、豪華な食事も、なんにもいらない。
     ユウがいてくれればそれだけで、わたしの胸はこのオレンジ色みたいにあったかくなるんだ。
     
    ●schmachtent
     そっと触れるように始まる旋律。彼の詩人が生み出した天上の音色。ゆっくりとしたカンタービレで紡がれるそれは美しいけれど、その曲につけられた愛称を思えば、どこか物悲しくもあった。
     夕暮れの音楽室にとけて消えていった、最後の一音。
     それと同時に響いてきた複数の足音に気づくと、小桜・エマ(中学生エクスブレイン・dn0080)は波打つミルクティ色の髪を梳きながら、細く白い指先にイヤフォンの紐を絡めて外した。腰掛けていたピアノの椅子から離れ、お忙しい中ありがとうございます、と集った面々へ頭を垂れる。
    「今回皆さんには、ある女性の夢に現れたシャドウを撃退してきて欲しいんです」
     夢に巣食われているのは、一之瀬・菜摘(いちのせ・なつみ)、23歳。ここしばらくの間、毎夜おなじ夢を見させられているらしい。
    「見させられている、というのは語弊があるかもです。……彼女は、望んでその夢を見ている節もありますから」
    「んー……、つまりその夢は、その菜摘って子にとっては必ずしも悪夢じゃねーってことか?」
    「いつもながらご明察です、カナくん」
     そう首を傾げる多智花・叶(小学生神薙使い・dn0150)へと引き締めていた表情をほんの少し緩めると、エマは手元の音楽ファイルに収めた資料を繰った。

     両親を早くに失くし、頼れる者もいない彼女。定職もなく、蓄えもなく、身体は痩せ細り、そうして生活の危機に瀕している。
    「菜摘さんは、心身共に限界に達しています。ここ数日は食事も取れてないみたいで……そこをシャドウに魅入られたようです」
     シャドウが見せているのは、彼女が求めてやまず、そして終ぞ得られなかったもの。
     ──親友と過ごす、穏やかで優しい放課後の時間。
    「菜摘さんは、この夢の終わりを望まないと思います。寧ろ、終わると知れば全力で阻止するでしょう。……それでも」
    「止めなきゃなんねーんだよな?」
    「……はい」
     でなければ、彼女の命すら弊えてしまうのだから。
     
    「皆さんはまず、菜摘さんの悪夢の中へソウルアクセスして下さい」
     菜摘の部屋は古びたアパートの1階。周囲に人気はなく、窓に鍵もかかっていない。出入りは容易だろう。
     悪夢の中は、放課後の教室。学生時代の姿の菜摘と──彼女の親友を演じるシャドウが楽しげに語らっている。
    「恐らく『ユウ』という名前も偽名でしょう。本当の名前までは解りませんが……でも、以前にも視たシャドウでした」
     白いざんばら髪に、金の瞳。褐色の肌に纏う白いワンピースと、蝶を思わせるハートのスート。
     以前、イタリア人男性の夢に忍び込み海外脱出を企てた、あの少女シャドウだ。
    「シャドウは、皆さんがやってきてもすぐには攻撃してきません。ただし、菜摘さんを目覚めさせようとするなら話は別です」
     シャドウの目的は知れないが、この夢を覚まさせたくないことだけは確かだ。
     故に、菜摘を目覚めさせる行為──つまり菜摘を説得したり、シャドウに攻撃をしかけたりすれば、黙ってはいないだろう。
     更には菜摘自身も、己を目覚めさせようとすると知った途端、灼滅者たちに敵意を向ける可能性が高い。
    「ですから、菜摘さんに声をかけるかどうかは皆さんにお任せします。もし悩むようなら……、カナくん」
    「おう。おれが眠らせてやるよ」
     眠らせて、そうして夢のまま。
     そういう終わらせ方もあるだろうと添えるエクスブレインの真摯な双眸に、少年は確りと頷く。

     ひとたび戦闘となれば、敵はシャドウハンターと同様の攻撃手段を用いてくる。一撃は重く、そして体力も相応。
     ただ、皆でかかれば勝機はある。ひとたび劣勢と見て取ればすぐに撤退する。故に、そこまで追い詰めれば良いのだ。
     
     それでも、想わずにはいられない。
     彼女にとっての幸せが、何なのか。
    「……どうか、お願いします」
     そう眸を伏せた娘の囁きが、音のない音楽室に毀れた。


    参加者
    犬神・沙夜(ラビリンスドール【妖殺鬼録】・d01889)
    比良坂・八津葉(死魂の炉心・d02642)
    字宮・望(穿つ黒の血潮・d02787)
    硲・響斗(地獄バッタ・d03343)
    望月・小鳥(せんこうはなび・d06205)
    新沢・冬舞(夢綴・d12822)
    天地・玲仁(哀歌奏でし・d13424)

    ■リプレイ

    ●約束
     少女たちの会話を邪魔せぬようにと控えめに開けた教室の扉は、けれど軋みながら相応の音を立てた。硲・響斗(地獄バッタ・d03343)等が手早く見渡した先、教室の奥の席に座るふたりの少女と視線が合う。
    「こんばんは。楽しそうですね」
    「誰……?」
     恐らく若かりし頃の菜摘だろう。声を掛けたエクスティーヌ・エスポワール(銀将・d20053)へと、ショートカットの少女が怪訝な瞳を向けた。
     無理もない。幾らプラチナチケットを併用しても、関係性までは指定できない。誰しも顔や雰囲気、服装から、当人の納得できる関係者と思い込むものだ。逆を反せば、それらを工夫することで特定の関係者だと認識する可能性を高めることはできよう。
     とはいえ、今回はそれだけでは不十分だ。エクスティーヌや望月・小鳥(せんこうはなび・d06205)、多智花・叶(小学生神薙使い・dn0150)は小学生。エイティーンを使うのならまだしも、低身長の彼等までも同級生と思わせるのは難がある。
     それでも、ここはすべてが朧な夢の中。
    「うちのクラス? 隣のクラス? そっちのちっちゃなキミたちは弟妹? ユウ、知ってる?」
     最後の問いかけを、菜摘は対面に座るセミロングの少女へと投げかけた。黒髪で制服姿だが、彼女がシャドウなのだろう。
    「忘れられてしまうと、少し淋しいですね。ほら、犬神・沙夜ですよ」
     そう自然な足取りで近づくと、犬神・沙夜(ラビリンスドール【妖殺鬼録】・d01889)は、菜摘の対面の席に腰を下ろした。あたかも、そこが己の席であるかのように。
    「あー……ごめんごめん。クラスメイト忘れるなんてボケすぎだよねぇ、わたし」
     夢の中であったことが幸いし、曖昧な記憶のまま納得した様子の菜摘に、比良坂・八津葉(死魂の炉心・d02642)は心中で息を吐いた。もし現実世界であったのなら、さほど交流がなくとも同級の仲間の顔や名前くらいは覚えているであろうし、故に見知らぬ者を同級と思うことは難しかっただろう。
     ともあれ、あとはふたりを引き離し、ダークネスとの対話に入るだけ。その意を解した新沢・冬舞(夢綴・d12822)が、一歩前へ出る。
    「ユウ。話がある、少し良いか」
    「一之瀬、ちょっと離れていていてくれないか。込み入った話なんだ」
     答えを返さぬままのシャドウを一瞥すると、天地・玲仁(哀歌奏でし・d13424)は菜摘へと言葉を添える。
     日常会話とは言えぬ対話。菜摘にとって決して良い情報ではないからこそ、聞かれてはならない。
     そして、この中にいる唯一の『人間』である彼女に『こちら側』に来て欲しくはない。八津葉はそう強く想う。
     だが、僅かな静寂を破ったのは、他でもない菜摘であった。
    「……親友のわたしが聞いちゃいけない話って、何?」
     どこか敵意すら感じられる語気に、灼滅者たちは思わず言葉を失い、気づく。──事はそう簡単ではないのだと。
    「ねぇ、ユウ。嫌なら嫌って言いなよ? 何かただならぬ雰囲気だし」
    「あぁ、菜摘にはまた別の話があるんだ。あっちで聞いてくれるか?」
    「……嫌。ここで聞く。ユウには隠し事したくないし」
     字宮・望(穿つ黒の血潮・d02787)へ向けられた瞳に浮かぶのは、怒りというよりも畏れ。ユウと引き離されてしまう。その恐怖が在り在りと見て取れる。
     菜摘にとってユウはただの友人ではない。
     彼女にとって唯一の幸いであり、安らぎであり、拠り所だ。そんな彼女に対し、良好な関係を築かぬままその唯一を引き離そうと試みれば拒絶も生まれよう。
    「あっ、いたいた菜摘ちゃん!」
     生まれかけた不穏な空気を、柔らかな声が断ち切った。扉から顔を覗かせた栞がふわりと微笑むと、菜摘は不安の残る瞳でユウを一瞬見遣ってから席を立つ。
    「これ、この間貸してもらった空の写真集」
    「え? あ、あぁ」
     ──この子もまた『関係者』。年も近しいし、物を貸すほどには仲の良い──そう、同級生の。
    「ありがと! どの写真もすごく綺麗だよね。わたし、特に夕焼け空の──」
    「あ、わたしもそれ好きー!」
     声を弾ませたふたりが窓際の席で写真集を広げたところに、さり気なく沙夜が居場所を移して加わり、小鳥と望がその後を追う。
     和やかに笑う菜摘。その横顔にはもう、先程までの憂慮の影はない。
    「お一つどうですか?」
     小鳥の差し出したスティック菓子をひとつまみしながら紡がれるのは、好きな菓子の話、空の話。美しい夕景の写真はまるで今日の空のようだと言う栞に賛同しながら、沙夜が尋ねる。
    「菜摘は、夜は好きですか?」
     ここが失うことを畏れる菜摘が見る夢ならば、恐らく別離を思わせる夜が訪れることはないのだろう。
     それでも、どれほど暗くても目を凝らせば星の瞬きは見つけられる。夜空にも光が溢れていること。それを、知っていて欲しいから。
    「また、明日も逢えますか?」
     良ければ共に、星見に。春の星座の物語を語り終えた沙夜の誘いに、菜摘は二つ返事で快諾した。
    「ね、ユウも一緒で良いかなぁ?」
     昼間逢う約束をしているのだと零れる笑顔。
     それが決して叶わぬ約束だと知っているからこそ、沙夜も、望も、小鳥も。ただ、微笑みだけを反した。

    ●幸せの意味
    「ふー……どうにかこっちも話ができそうだねー」
    「ああ」
     響斗は胸を撫で下ろすと、その視線をシャドウへ向けた。玲仁が短く頷き、冬舞が問う。
    「ユウ。少し、話を良いか?」
    「誤解はしないで。菜摘さんと引き離したのは、話をスムーズに進めるためよ」
     礼節を欠かぬよう慎重に言葉を選ぶ八津葉。冬舞もまた、傍らでシャドウの機微を注意深く探る。
    「あの……私たちは、灼滅者なんです」
     身を偽っていたままでは不義理というもの。エクスティーヌが身分を明かすと、知ってる、と返る答え。
    『そこと、そこと、そこと、そこ。見た顔』
     これが本来の声なのだろう。ユウとして振る舞っていた時とは異なる抑揚のない声が示したのは、後ろに控えていた少女たち。
    「またね、が本当になりました……」
     呟くサフィに寄り添う、仁奈と都璃。その傍ら、周が前へと出る。
    「結局日本から出られなかったんだな!」
    『出られなくても、わたしは構わない』
    「国外脱出は何が目的だったの?」
     直接明かしてくれなくてもいい。何か少しでも糸口があればと、八津葉は全神経をシャドウへと傾ける。
    『知らない。わたしは、試してみただけ』
    「コルネリウスの考えは、以前と変わっていないか?」
    『あいつのことは、あいつに聞けばいい』
     にべもない答えに、玲仁は短く息を吐いた。口元に指をあて、思考を切り替える。
    「であれば、質問を変えよう。お前は、夢の中で幸せであれば当人が死んでも構わないのか?」
    「そうです。どういうつもりなのですか?」
     エクスティーヌにとって、シャドウのやり方は、生きながらにして幸福を得る権利を奪っているように思えてならなかった。
     だからこそ、希う。救うつもりであるならば、菜摘が現実を生きられるように応援して欲しいと。
    「狙いは何だ。どうして、こんなことをするんだ……!」
     感情のまま、徹太の語気が荒ぐ。
     絶望させることでサイキックエナジーを得られる。
     ならば、その反対は何になる?
    『……なら。あんたたちは、ナツミを幸せにできるの?』
     感情の籠もらぬまま。
     けれどその声はまるで、鋭利な刃。
    『ナツミは、わたし。だから、来た』
     いつだって、『わたし』を救えるのは『わたし』だけ。
     だから『わたし』は、『わたし』の望むままに。
    「こんなことして楽しい? 本当のところ、何をしようとしているの?」
     漠然とした響斗の質問に、けれどシャドウはひとつ瞬き、微睡みを帯びたその月色の瞳を僅かに細める。
    『面白いことを訊くね、あんた』
    「そう言って貰えるなら光栄だなー」
     いつもと変わらぬ様子で硝子の奥の双眸を細めるも、ソウルボードに居ること自体が、既に響斗の精神を圧迫していた。
     学園に来てから、いや『あの事件』から、一度たりとも訪れることのなかったこの場所。
     敵の狙いは未だ知れないが、絶対に助けねばならない。
     この手で。この『手』で。この──、
    「響斗」
     名を呼ぶ声に意識が呼び戻された。掌に触れた熱に気づいて視線を落とせば、手を握りながら響斗を窺う叶と目が合う。大丈夫。そう短く反して、少年は再び顔を上げた。
    『『わたし』は『わたし』のために動く。したいことはそれだけ。楽しいかどうか、関係ない』
    「なら、何処に行くの? 行きたいの?」
    『何処にも行くつもりは、ない。ここが、わたしの求めていた場所だから』
    「『ここ』って、菜摘のソウルボードってことか? それとも……」
    「──ッ、いい加減にして!!!!」
     突如教室に響き渡った、気狂うほどに悲痛な叫び。
     問うた叶の声を掻き消したそれは、他の誰でもない、菜摘の声であった。

    ●名も無き夢
    「菜摘、落ち着け……!」
     咄嗟に玲仁たちが抑えるも、激高した菜摘の勢いは治まらない。
    「昔の夢を諦めるな!? まだスタート地点にも立ててない!? わたしのこと知りもしないくせにッ……!!」
    「ごめんなさい、菜摘さん……」
     夢は明日に向かうための心の支え。
     だからこそ目覚めて欲しい。現実の中にある夢を追って欲しい。
     そう願った小鳥は、看護師になるという夢を語り、菜摘が夢を追えるよう励ました。それは誰しもが思ってしかるべき対処法であり、両親も友人もいない悲しさを識る小鳥の、心からの言葉であった。
     だが、今の菜摘にとって、それは最大の禁じ手に他ならない。
     現実における『夢』は、死を畏れる必要のない、最低限の暮らしが確約された上ではじめて抱けるもの。明日すら生きられる保証のない彼女が、夢など持てるはずようもない。
     夢に求めなくて良い、と。
     掛けようと思っていた言葉を、望は飲み込んだ。
     世界中に溢れる、恵まれぬ人々。
     その一欠片だとしても見つけられた。だからこそ現実での幸せを知って欲しい。そう願う望だったが、現実を絶望で塗り潰された彼女には、その優しさすら伝わらぬだろう。
    「多智花……!」
    「──おうっ」
     冬舞に呼応した叶の風が、菜摘を包み込みその意識を浚った。足許から崩れ落ちた娘を柚羽が抱き留め、怪力無双で抱え上げる。宗悟やティルメア、砌に護られながらその場を後にする様を見届けると、玲仁たちへと視線を戻したシャドウがゆらりと立ち上がった。
    『邪魔しないで』
    「いいえ、させて貰うわ」
     神社に住まう巫女たる八津葉だからこそ知る、数多の薄幸な人生。
     それでも人は生きている。誰しも、己が己であるべく今を生きている。
    「だから連れ戻す。それが彼女の求める物でなかったとしても……力づく覚悟で行かせて貰うわよ」
     地を蹴ると同時、八津葉の腕が鬼神のそれへと変化した。瞬時に肉薄し、巨椀を躊躇うことなくシャドウへと振り下ろす。
    「幸せかどうかはその人自身が決めることだ。それは死んではできない。──だから」
     俺たちは、彼女が死ぬことを邪魔しに来た。
     揺らがぬ意思を刃に託し、死角に回り込んだ冬舞はシャドウへと一閃を描いた。本当は幾つも残されている未来。幸せな悪夢は、それをただひとつに絞り込み、強要しているだけに過ぎない。
     覚悟なぞ、とうにできていた。
     故に、沙夜は謝罪の言葉を持ちはしない。たとえ彼女に絶望を送ることになろうとも、恨まれようとも、ただ黙って受け止める。
     それが、友人ではなく、灼滅者としての己の業だろう。
     一手、一手。
     四肢を穿つ重い一撃に耐えながらも積み重ねてゆく、確かな傷。
    「応援、して貰えないなら……私たちがやります」
     現実世界でも、菜摘を癒してくれたらどれほどに良かっただろう。
     けれどそれは叶わぬこと。
     意を決したエクスティーヌが白銀の煌光を解き放てば、その残光のように駆け抜けた望が、幾重もの螺旋を紡ぐ槍で娘の左腕を壁に繋ぎ留めた。
    「夢はどこまで行っても夢でしか無い。人は現実に生きるしかないんだよ」
     ここには生きる尊さがないと続くのは、魔砲少女・真剣狩る土星たる璃理。
     貫かれた箇所から溢れ出た血が、腕を伝い、襤褸布のようなワンピースの白を浸食してゆく。シャドウはそれを無感情のまま一瞥すると、躊躇うことなく一気に腕を振り抜いた。
    「……ッ!」
     肉骨もろとも割けた腕に、望は一瞬言葉を失った。力を失った振り子のように垂れ下がった腕は、どうやらすぐには使い物にならぬらしい。滴り落ちる血が緋花を描ききる直前、娘は獣めいた跳躍力で後ろへと飛ぶ。
    「……ユウ。いや、シャドウ。私の半身の名は、反して貰う」
     双子の姉の名でもあるそれを騙らせまいと沙夜が獲物を振り上げるも、半拍早く動いたシャドウが指で作った銃の引き金を弾いた。
    『──バン』
     瞬間、闇深く一層鮮やかに燦めく胸の蝶。そのハートのスートに想いを巡らせるアリスとミルフィの視界を、漆黒の弾丸が駆け抜けた。狙うは、心臓。けれどそれは叶わない。
     代わりに飛び出したのは、小鳥であった。蹌踉めく身体を支えたのは、共に護りとして並ぶ玲仁の腕。手短に礼と笑みを交わした双璧は、互いのサーヴァントを伴って仁王立つ。
    「ささは……まだ、諦めません。ロビンさん、お手伝いお願いします!」
     大切なものを失ったからこそ、前を向く強さを識っている。手を添えていた柄を握りしめ小鳥が一気に抜刀すれば、騎士姫然とした相棒もそれに追随する。
    『……夢なら、幸せでいられるのに』
     接敵した玲仁の銃刃、そして後方から放たれたビハインド・響華の一打を受け、シャドウのざんばら髪が大きく揺れる。
    「夢で幸福であっても、現実が辛ければ絶望はより深まるだけだ。であれば夢の中の幸福など、人の心を傷つけるまやかしに過ぎん」
     とはいえ、それに縋りたい気持ちは玲仁も十分に解していた。己もまた、菜摘と同じく縋った者。だからこそ、響華が此処に居る。
    「誰のソウルボードでも、絶対に壊しちゃいけないんだ……!」
     響斗が傷をも厭わず地を蹴った。狩り人であるからこそ、標的の手の内なぞ知れたもの。
     緋を纏った漆黒槍が繰り出す一打に、娘の身体が大きく揺らいだ。これ以上は不利と見たのだろう、それでも負傷を思わせぬほどの跳躍を見せて立ち去ろうとするその背に、冬舞が叫んだ。
    「本当の名を教えてくれるか?」
    「そうだ。せめて名乗ったらどうだ、白いシャドウ」
    『……何故』
     都璃も続けば、足を止めた娘が肩越しに問う。
    『あんたたちはスレイヤー、わたしはシャドウ。それで十分』
    「私たち知りたいの。あなたのこと、ひとつひとつ、識っていきたい」
     仁奈たちの言葉に頷き、冬舞も眸を細める。
    「また出会う時に、分かるように」
    『…………エト・ケテラ』
     et cetera──誰でもない、誰か。
     呼び名が欲しいなら、そう呼べばいい。
     娘の言い残した声が、残響のように夢に溶けた。

    ●夢の名残
     不意に浮かび上がった意識。ぼやける視界。薄暗い室内の輪郭がはっきりとしてくる頃合いで、菜摘は漸く気づく。
     ──生きている。
     次に気づいたのは、変化。
     風呂にも入れず、全身にまとわりついていた不快感が嘘のように消えていた。肌触りの良い服。視線を移せば、山積みになった着替えと、真新しいワンピース。
     辿々しくも床を這った指先が何かに触れた。形を探らんと手繰り寄せれば、聞き覚えのある金属音。──硬貨の音に、菜摘は反射的に飛び起きた。
     大きな袋に詰め込まれた、大量の硬貨。どのくらいあるのか解らない。1万、10万、いやそれ以上。
     じきに届くであろう、送り主の欄にハートと蝶の意匠が添えられたお菓子と缶詰の贈り物に、鎌倉行きの切符が同封された星見の約束が綴られた手紙。壁に揺れる彩鮮やかな千羽鶴は、【お節介屋】と称する13人からのもの。彼等の水垢離もまた、形には見えずとも菜摘の快復の支えとなるはずだ。
     夢のような出来事に、思わず息を飲んで目を見張る。
     あれほど荒れていた部屋が、小綺麗に片付けられていた。そういえば、乾ききっていた唇も、喉も、潤いを取り戻している。途端に鳴った腹に、蹌踉めきながらも立ち上がって台所へ行くと、忘れかけていた食べ物の匂い。スープに、粥、あんぱん──そして、フレンチトースト。
     瞬間、菜摘はそれを手で掴み掻き込んだ。唾液がまだうまく出ず、詰まりかけた欠片を一度吐き出すもまた口へと運ぶ。気づけば溢れていた涙は止まることを知らず、頬を伝ったそれは口の中で砂糖と混ざり合い溶けてゆく。

     いろんなこと、できることだけやけど、置いときました。
     目覚めても、この夢を忘れないで。そして生きてください。
     諦めるのはいつでもできますが、生きるの諦めたら、それも選べない。
     あなたがあなたらしく前向きに歩む未来を、見てみたい。
     貴女の手で掴み取って欲しいの。この夢の続きを。
     貴女の幸せを祈るよ。
     ──また、明日。

     仄かに熱を残す食事。
     掌に残るぬくもり。
     目覚めるまで名を呼び続けてくれた、寄り添っていてくれた誰か。
     朧に残る、たくさんの声。
     記憶から零れ落ちた大切なものたち。何を知らなくて、何を忘れてしまったのか。それすら知ることはできないのかもしれないけれど。
     それでも、これだけは解る。

     わたしは今、ここにいて。
     そして、あの子はもう、どこにもいない。

    作者:西宮チヒロ 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年3月31日
    難度:普通
    参加:8人
    結果:成功!
    得票:格好よかった 0/感動した 6/素敵だった 17/キャラが大事にされていた 2
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