乙女の誕生日 ~空へのさくら~

    作者:矢野梓

     春、東京の桜も一段落したころ。水戸・慎也(中学生エクスブレイン・dn0076)は憂えていた。
     ゆく桜を惜しんで――という訳ではもちろんない。憂いの元は目の前の少女、高村・乙女(天と地の藍・dn0100)その人にある。

    「たまごやぐな、そいでとりあげるな。せば、しゃっこいもんもけーな!」
     夢見るような呟きは無論悪意に満ちたものではない。むしろこれが慎也のとある提案に対する喜びの表現であることは彼にも理解できる。が、心情を慮ることと科白を理解することはこの場合全く似て非なるもの。
    「いいかげん慣れたけど、共通語しゃべってくれ……」
     慎也は『焼くな』と言われれば『卵焼き禁止』のような気がしてしまう東京人なのだ。
    「あはは~。すみません~。では……え~っと……」
     卵を焼いて鶏を揚げて、それから冷たい物も――これでも彼女の共通語はずいぶんな進歩をみせているのである。『け』の一言が『食べる』を意味するこの不思議に少年も確かに慣れてきてはいた。それでも慎也はこめかみをぐりぐりと押さずにはいられなかったのだけれども。
    「話をもとに戻すとだなー」
     慎也は1枚の航空写真に目を落す。乙女の視線もそこにあるのを確かめて彼は続けた。
    「今年の誕生日はここでいいよな?」
    「えっと~……はい~、もちろんです。行って、みたいです~」
     空からの眺望に映し出されているのは東京郊外のちょっとした山並み。その中腹の鮮やかなピンク。おそらくは枝垂れの桜なのだろう。街の桜には一足も二足も遅れた感はあるけれど。乙女17歳の誕生祝はこの地で、というのが今回の慎也の提案なのである。
    「ありがとうございます。のへさん~」
    「いいってこった。誕生日ってーんだからよ……って、のへじゃねぇっつの」
     ともあれ乙女も17歳。久々の遠出は桜の花を追いかけて――ということに相成ったのである。
    「んじゃ、登山道はここな」
     早速地図を広げて、慎也は詳しい説明に入る。登山とは言っても本格的なものとは程遠い。ハイキング気分で簡単に行けるところではある。ただ肝心の桜は道から少し外れたところにあるから注意は必要であるが、気をつけてさえいれば迷う心配はない。荷物を持って上がるのもそれほど苦にはならないはずだ。
    「知る人ぞ知る花なんて、いいですよねぇ」
     聞けばその桜は地元の人にもあまり知られてはいないのだという。下手に評判が広まっても決して木のためにはならない――地元の人たちはそういってこの樹を守ってきたのだそうだ。
    「今年は花見しそびれてたしな」
    「……私のとこの桜は、まだ先ですしね~」
     乙女はくすりと笑う。ひともとの巨大な木の下で開かれる花の宴。暖かな風に揺られる枝垂れは柳のごとくしなやかに。花は一重だろうかそれとも八重なのだろうか。慎也少年にはそれを教えてくれる気は露ほどもないらしいが。それならそれで道中の楽しみが1つ増えるだけの話。行くまでの道々にも花は溢れていることであろうし。
    「で、花見弁当のメニューは卵焼きとチキンの唐揚げだっけ?」
     会場のセッティングは例によって慎也の仕事。シートにミニテーブルにとリストアップを始めていた少年は問う。
    「ええ、腕によりをかけて作りますから~」
     豪華十段くらいのお花見弁当――本当に腕まくりしそうな勢いで乙女は頷き返す。主役が飯を作ってどーする――というツッコミはこの際無視しておくのが吉というもの。下手に口を出して方言マシンガンにスイッチを入れるのもなんだしな、と少年も成長著しい。もっとも乙女の花見弁当のほかに、いろいろ手配はしておくつもりではある。
    「あ、あと~、桜湯とか、飲んでみたいです~」
    「わかった。色々用意しとく」
     慎也は大きく頷いて、桜湯とメモに書き足した。
     
     春、爛漫。東京は春の中の春。乙女にとってはただ1度の17歳の春がやってきている――。


    ■リプレイ

    ●花は空へと咲きのぼり
     咲きのぼるその花波を桜前線と名付けたのは一体どこの誰なのだろう。桜は南から北へとのぼりゆき、そして山辺から頂へと登り詰める。武蔵野の街々を飾った桜はすでに葉桜となってしまったが、高村・乙女(天と地の藍・dn0100)が今立っているこの地は今まさに『前線』の通過中という風情であった。
    「十和田のは誕生日か、めでたいのう」
     伏姫は深呼吸して山を見上げる乙女の肩をぽんと叩いた。
    「アッという間の一年でしたねえ~」
     早すぎる時の流れには一応慣れたつもりの乙女だけれど、それでも東京の春の花見頃の長さには未だ溜息を禁じ得ない。まして花に溢れた誕生日を迎えるのはまだ2度目なのだ。
    「乙女さん一緒にのーぼろー!」
     改めて周囲の春を見渡せば向こうからはクラレットが駆け寄ってくる。ダンスのステップでも踏むような足取りはここが山道であることさえも忘れさせてしまうほど。つられるように乙女も下草を踏めばふわりと春の香りが広がったような気がした。
    「さあさあ、荷物は任せて行ってこい」
     円がその背をとんと押してくれる。少女達の笑みが花のように開いた。はいと元気の良い声を残して乙女達は賑やかに枝垂れの桜へと歩み始める。
    「まー、暢気なもんだよなあ」
     慎也は残された大荷物とはしゃぐ少女達の背中を交互に見やった。途方に暮れたとでもいいたげな風情である。くすりと笑って円は少年の頭髪をくしゃりとかき回した。
    「お前さんの企画力は買ってるが、労力も計算にいれような?」
     一番大きな風呂敷包みを軽々と持ち上げると、慎也は軽く頬を膨らませた。
    「こんくれぇの荷物なんざ……」
     自分だって――と両手に重箱の包みを持ち上げて見せようとした結果がどうであったのかは、言わぬが花というところ。
    「相変らず良いように振り回されてるな」
     苦笑半分、優志がひょいっと右手の荷物を取り上げる。まずは主役より遅れて到着するなんてことがないようにな――いちいちもっともな優志の科白に慎也は憮然として頷いた。
    「運ぶの手伝うからさ、こっちに弁当ちょい多めにくれねぇ」
     遵達【LittleTraveler】の面々も手伝いに加わって、こちらも中々賑やかな道中となりそうである。
     細い登山道を登っていけば一足ごとに新緑の匂いが増してゆく。灼滅者にとっては平地を行くが如く苦にはならない道行だけれども、慧樹は羽衣の手を優しく握ったまま離さない。羽衣もまた繋がりを確かめるかのように時折その手を振り回してみたり。この春は寒の戻りも花冷えも随分あった気がするが、今日は花見日和という他はない上天気。さりげなく羽衣のペースに合わせてくれる慧樹の心遣いがまた温かい。
    「アレきっと桜だぞ! 見えるか?」
     この山には目的地の枝垂れ桜以外にも野の桜があると聞く。どちらが沢山見つけられるか、目下2人は勝負中なのだ。
    「んーあれは……ツツジね、赤い」
     小首をかしげる羽衣にがくりと項垂れる慧樹。花の香に匂う風が彼らの髪をそっと梳いていった。その先にひっそりと咲く桜があることはまだ2人の知らぬこと――。

    「はあ……めごいなあ」
     岩肌に吸いつくように生えた小さな桜に乙女達は足を止めた。岩の割れ目から細い枝が伸びている桜は決して大きくはなれないであろうに、なんとも可愛らしい。伏姫も乙女も感心しきり。
    「乙女さんって桜に似てるわよね」
     こう、雰囲気というか。のんびりしたところとか――クラレットはそっと花びらに手を伸ばした。
    「そうですか~」
     乙女の頬に照れの色が浮かぶ。花にたとえられて嬉しくない女はいない。だが自分にこんな可憐な強さがあるのだろうか。考え込む風情を見せた乙女に伏姫はふっと笑みを向けた。

    ●野ゆき花ゆき
     芽吹きの森はさしこむ光までが翠玉の輝きを秘めているかのようだ。そんな光を浴びた桜はたとえ一本のそれであっても堂々と己の存在を主張していた。
    「おい、月売り。どうして人は桜に心惹かれるのだろうな」
     天龍の問いかけに優京もゆっくりと花の枝を仰ぐ。わずかな風にも耐えぬ風情で花びらが枝を離れた。
    「散り際すら見事で在り、儚さを惜しく感じるから……だろうか」
     呟くような響きに、なるほどと天龍の声が重なる。だが優京にしてみれば散り際の花よりも尚心惹かれるものはやはり咲き初める桜だった。再びの風が今度は大きな桜吹雪を生み出して、その姿を包み込む。その一瞬、天龍の手はカメラを取り出していた。男に使う言葉ではあるまいと知っていても絵になると密かに思う。
    「おや写真か?」
     優京がゆっくりと手を伸ばす。この友がカメラに慣れていないことは承知のこと。言われるままに花を撮り、山を撮り――そして花道を踏む天龍の立ち姿を。
    「おい、俺様を写すのはやめたまえ!」
     焦燥の友を見るのもまた一興。中々よい絵が撮れたぞ――優京は悪戯な笑みを浮かべて言った。時にはこんな風に友と過ごす時も悪くない。
     山道を更に登って行けばやがて街を見下ろせる岩場に出る。ほら早くと朔之助は幼馴染の史明の手を引っ張り上げた。吹き上げてくる風もここに立てばさすがに強い。
    「ほっといたら風に飛ばされそうな程細いし……」
     本音をうっかり零してしまったことに気づくや、朔之助はそっと史明を振り向いた。
    「もしかして朔は凄く重かったりするんだ?」
     史明はの反撃は当然のごとく、さらりさらさら。馬鹿な子ほど可愛いとその顔に書いてあるのが一目瞭然で、朔之助は唇を噛む。せめてもの意趣返しに握った手に力をこめれば、今度は史明がその手をぐいと引き。
    「わっ……」
     不意打ちに岩を踏みしめていた足が乱れた。こける――と目を瞑ったのは一瞬。来るはずの衝撃がなかったことへの不信が次の瞬間。
    「成程、確かに重いね」
     そして下敷きにしてしまった彼からの声が続いた。
    「あ、ごめーん! 足が滑ったー」
     謝るつもりの言葉が一瞬にして朔之助の蹴りとなる。もしも『僕よりは軽そうだけど』史明の心の言葉が聞こえていたら、彼女の行動はまた違ったものになっただろうか。
    「覚えていなよ?」
     その後の宣戦布告もなかったことになっただろうか。春の風は人の世の機微など知らぬげに次なる花を散らしに走る。

    「おお!」
     突然の風に落葉の視界が桜色に染まる。足の向くまま気の向くままに歩いてきて、不意に出逢った桜の若木。花をつけ始めたばかりだろうその木は今、彼女の前で儚げに揺れている。
    「はぐれ桜というのも趣があって良いものだの」
     ふいの人声に落葉が振り返ればそこには伏姫と乙女の姿。どうやら2人とも岩場を駆け上ってきたばかりらしく、軽く息を弾ませている。
    「あら~、お仲間さんですか~」
     同じく薄く汗の浮いた落葉に乙女は冷たい飲物を差し出して。この地の桜は生え出たばかりと聞くと、乙女の表情がそっとゆるんだ。桜がどうやって増えるのか、彼女は全く知らないがそれでも生きようとする心意気は十分に伝わってくる。そのうちにこの山は花の山にもなるのだろうか。
    「おい、そこにいるの、乙女達か」
     不意に下の方から声が聞こえた。よく見れば若木の後ろは小さな崖になっており、その下で慎也がこちらを見上げている。
    「登っては来ぬか、神田の」
     伏姫の呼びかけに、少年はあからさまに憮然とした表情を見せた。何なら抱っこして登ってやろうか――追い討ちに慎也がますます仏頂面になったのは言うまでもない。
    「そっちが降りてこい。準備できてんだぜ」
     どうやら目的地はすぐそこまで迫っていたらしい。

    ●花のもとにて
     乙女達がそれぞれに枝垂れの桜を目指して山を彷徨っている間にもお茶会の準備は着々と進められていた。
    「凄いな、これ」
     圧倒されるばかりの花の枝に優志は息をするのも忘れるほどに桜樹を見上げた。空を衝かんとする幹は無数の枝を地へと垂らし、ほとんど白く見えるその花を重たげに咲かせている。
    「これは確かに守りたくもなるな」
    「ああ、そう思う」
     すぐ傍で慎也がしとど流れ落ちる汗を拭いていた。
    「水戸くん大丈夫?」
     あすかが冷たいタオルを用意してくれ、結衣奈が水を差しだしてくれる。準備はここからが本番なのだ。水分補給も忘れてはならない。早速花の下にはシートが敷かれ、一行は抱えて来た大荷物を次々に下ろしていく。
    「そういえば、すっかり『のへさん』になってるみたいだけど、わたしもそう呼んだ方がいいのかな?」
    「ぜってー、呼・ぶ・な!」
     予想通りの反応にあすかが小さく笑えば、お茶用のポットを用意していた騰蛇もそっと肩をすくめて。
    「高村さんは相変わらずですが、方言が可愛らしいじゃないですか。のへさん?」
    「高村さんの方言、可愛らしいですよね」
     さなえも罪なき笑みで同調する。勿論それに対する反応もいわずもがなのことで、準備の面々の間に朗らかな笑いが沸き起こる。枝垂れの枝々までが呼応するかの如く揺れたものだから、皆の作業は自然軽やかに。
    「今日は本当にいい花日和で……」
     さなえは穏かな笑みで話題を変え、お惣菜の器を並べていく。筍に季節のものにとつまめるように工夫された料理の数々に、慎也もようやく笑みを見せた。
    「今年は調度満開の時期に雨風の強い日が多かったですからね」
     騰蛇も再び花を仰いだ。道々、眺めて来た桜も風情あるものであったけれど、この桜の存在感には到底及ばない。今年はなんと贅沢な花見に恵まれたことだろう――。

    「「誕生日、おめでと~」」
     パーティーは結衣奈の音頭による乾杯から始まった。乾杯は彼女の故郷特産のリンゴジュースで。重箱の蓋が次々と開けられ、感嘆の声がさざ波のように広がってゆく。旅館の娘は料理の方もきちんと教え込まれてきているらしい。
    「美味しい~、乙女先輩のお母さんの味かな?」
    「代々伝わってる味付けですよ~」
     結衣奈が早速卵焼きに手を付ければ、乙女も狐色の唐揚げを取り分けて。
    「「料理上手~」」
     クラレットとあすかは殆ど同時に呟いた。これはぜひ習っておくべきではあるまいか。乙女の腕前は一流シェフ並みという訳ではないにしろ、それに近いことは確かだった、ましてこうして花のかぜを感じながらの食事であれば尚更に。
    「誕生日おめでとさん、毎年の事ではあるが無事迎えられるとやはり嬉しいものだな」
     皆の食事の合間に、円もカチリと杯を合わせる。まずは主役の手料理を存分に味わい――どっか趣旨間違ってるという慎也のツッコミは当然のことながら全員からスルーされている――更には自身手作りのお握りもお披露目し。
    「あ、私も作ってきましたので」
     よかったら一緒に食べてくださいね――翡翠もサンドイッチのずらりと並べ、食卓はどんどん賑やかに。ゆらゆらと花の枝が揺れるその下で、団らんの時はゆるゆると過ぎていく。道々で見つけた花のこと、様々な色をみせてくれた桜のこと、もうすぐ咲くだろう故郷の花のこと。話は無論尽きることを知らない。

    ●桜は空へ、時は未来へ
     賑やかにも和やかに食事は進み、やがて慎也はポットの湯の準備にかかる。桜湯用のこれだけは下からぎりぎりの時間に届くよう手配をつけておいたのだ。
    「俺にやらせてもらえるか?」
     本格的な準備は優志の申し出を快く受け、慎也はケーキの準備に取り掛かる。八重桜の塩漬けは上手い具合に漬けあがっているし、頭上には本物の花の枝。花湯を楽しむのならば今を措いて他にない。
    「17歳の誕生日おめでとう、高村」
     静かに注がれた湯の中で、花はみるみる生気を取り戻していく。
    「お湯の中に咲く桜……温泉みたいです♪」
     夢見るような翡翠の呟きに、一同はそれぞれの杯を覗きこんだ。大輪の花が音もなく開ききった所で、第2の乾杯の声が上がった。打ち鳴らされる杯の音は響かなくとも、澄んだ音色は皆の心に鳴り渡ったに違いない。続いて乙女によってケーキが切り分けられ――これには慎也も主役云々は口を出さなかった――今度はハッピーバースデーの歌が始まった。
    「じゃあ、これも桜の木ね」
     クラレットがミニバウムクーヘンに桜のジャムをとろりとかけてくれる。
    「こっちは桜の花」
     結衣奈の方は桜餅や団子といった和菓子を差し入れ、宴はまだまだ果てがない。
     勿論それは【Littletraveler】の面々にとっても同じこと。皆で食卓を囲むだけでも楽しいのに、今日の食事は本日の主役が腕によりをかけてくれたもの。しかも今年は諦めかけていた花見がこうして現実のものとなっていれば、興趣を覚えるなと言っても無理なこと。花だろうと団子だろうととにかく楽しんだ者勝ちなのだ。
    「これは乙女ちゃんに感謝しなきゃねぇ」
     惚れ惚れと枝垂れ桜を見上げる夕眞のもとに唯空が皿だのフォークだのを回してくれば、その唯空の杯に遵が並々とジュースを注いでいる。
    「サービス精神旺盛すぎ!」
     悲鳴にも似た唯空の声になおも隼世も声を立てて笑った。唐揚げに卵焼きに労働の代償たるメニューは次々と運ばれてくる。
    「お菓子のおいしさも桜のきれいさも、お友達と一緒だからよりいっそう増している気がしますぅ♪」
     皆での談笑に舌鼓、そこへ桜湯の風情まで加われば、なおには勿論他の誰にとっても最高の贅沢である。
    「桜湯のお代わり、いかがですか~」
     今度はお茶で――乙女がやってくると、遵がすっとんでいって席を空ける。お酌なら任せてくださいと乙女から茶道具一式を取り上げて。薄緑の中で開く花を一同は声も立てずに見守った。ひらりと1枚大輪の花びらが舞い落ちると、隼世は簡単の溜息をついて、硝子の杯を目の高さに掲げ持つ。綺麗……となおも続いて杯をあげれば枝々を通して零れてくる光が淡く揺らいだ。
    (「絵になるなーっ」)
     遵がこっそりとカメラを構えたことを夕眞も唯空も勿論気づいていたけれど、誰も何も言わなかった。こんな風に穏やかに過ぎる時は彼らにとっては宝石よりも貴重なもの。願わくはこれからもこんな時が来るように――。そんな想いと共に一同は静かに杯を干した。

    「ほら……」
     慧樹が差し出す杯に羽衣ははっと我に返った。
    「桜餅?」
     ほけっと問い返す彼女に桜湯だよと慧樹は笑う。だが羽衣の心ここにあらずといった状態は彼にもよく理解できた。本当に何度見上げてもこの桜の木には飽きというものがこない。古来人々が桜に寄せる想いは多種多様に及ぶだろう。喜びも悲しみも花はただ黙って受け入れてくれるのだろうか。
    「綺麗じゃの……」
     ここで誕生日を祝えたことが何よりなのだと落葉が笑えば、翡翠はそっと乙女の髪に贈り物のバレッタを飾る。それはこの季節に相応しい葉を模した物。
    「よう似合うとるぞ」
     ドヤ顔とはこういうものかという顔で、落葉が頷けば結衣奈は写メで乙女にそれをみせてやる。
    「花……ではないんですね~」
    「乙女さんがお花ですから」
     くすりと囁く翡翠に、乙女がどんな表情を返したのか、見ていた者はごく一部だけ。なんだなんだと周囲が気づき始めたところで、結衣奈は高くカメラを掲げた。
    「満開の桜と花吹雪の中、17歳の誕生日の思い出の一枚を!」
     人界の春に遅れて人知れず咲く枝垂れの桜。その下で皆々は乙女を囲む。ひらひらと花の舞う中で乙女の17歳の一瞬が切り取られれていく。
     今日という日に集う面々に同じ明日が待っている保証はない。ならばせめてこの瞬間だけは――。
     一陣の風が枝垂れの枝を大きく揺らした。枝を離れた淡きに過ぎる桜色は無数の小鳥の如く舞い上がる。目指す先には空の青。あたかも花が空へ散るが如く。

    作者:矢野梓 重傷:なし
    死亡:なし
    闇堕ち:なし
    種類:
    公開:2014年4月28日
    難度:簡単
    参加:21人
    結果:成功!
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